”不快に感じる人もいる、とも思った。ただ、表現としては認められるべきもので、僕自身は見て良かったと思う”
これは再開した「表現の不自由展•その後」を見たある男性の偽りない感想だ。
抗議や脅迫が相次ぎ、展示を中止していた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展•その後」が10月8日に再開した。
初回の観覧には、30人の抽選枠を求めて何と709人が並んだ。23.6倍の倍率をくぐり抜けた参加者の中に、三重県四日市市からやって来た50代の男性がいた。
以下、”HUFFPOST”からの紹介です。
怒りはなかったが、反日的な偏りを感じた
男性は、不自由展の中止を伝えるニュースを見た時、”もっとまがまがしい作品が展示されていて、見たら怒りが湧くんじゃないか?と思ってた”という。
慰安婦をモチーフにした少女像や、昭和天皇の肖像が燃える映像作品が展示されていた為だ。
実際に作品を鑑賞し、どんな感想を持ったのか?その男性は、”特に心が揺さぶられる事はなかった”と打ち明けた。
当初予想していた”怒りの感情は全く湧かなかった”と言い、”そんなに大きく騒ぐ程の事じゃない”とも感じたという。
”それは、自分の認識とは異なったとしても、作者が何を伝えようとしたのか?その意図を理解する事ができたからではないか”と話す。
一方で、”勿論、不快に感じる人もいる、とも思いました。ただ、表現としては認められるべきもので、僕自身は見て良かったと思う。いろんな意見があったとしても、まずは自分の目で見てから評価するべきだと思います”とも語った。
一方、展示作品のラインナップに”明らかに反日的な偏りを感じ、プロパガンダの様にも見えた”という。
”表現規制の対象にあった作品を展示するというテーマにも関わらず、エログロのアートなどが含まれていなかった事にも違和感があった”とも話す。
ああ、大人の意見ですな。多分インタビューする側も、知的レベルを重視して選んだんですかね。
そういう私も慰安婦像に関しては、”またかよ”ってウンザリな感じだったんですが、結局全体として見れば、地味な展示だったんでしょうか。
補助金は出すべきか?
「表現の不自由展•その後」は、電話での抗議や脅迫が相次いだ事から、安全面の理由で開幕から僅か3日で中止に至った。
それから約2カ月。「あいちトリエンナーレ2019」実行委員会の会長を務める大村秀章•愛知県知事は、条件付きでの展示再開を発表した。
男性は、”大村知事は愛知県のトップとして、(8月に)中止を決める前に警備を万全にするなど、もっとやるべき事があったのではないか”と指摘する。
また、文化庁が”愛知県側の手続きの不備”を理由に、採択を決めていた補助金(約7830万円)不交付を決定した事については、”再開されてこうして人が集まっているので、議論をして補助金は出すべきだと思う”と話した。
でも、何だかコメントが善良すぎて、もう少し色んな意見を聞きたかったですね。 以上、一部抜粋でした。
事件か芸術か表現か
同展の中止決定に至る経緯が”検閲”にあたると、国内外の参加アーティストの多くが、この決定に抗議する声明文に署名した。
過酷な検閲を経験してきた地域のアーティストを中心に、作品の引き上げや展示内容の変更といった動きも起きた。田中功起は自作の展示のフレームを”再設定”し、この流れに同調を表明していた。
つまり、国際的な現代美術展としては、既に極めて不完全な状態にあったが、むしろトリエンナーレの”傷ついた状態”こそ目撃しておきたかった。
以下、”あいちトリエンナーレのささやかな勝利”(Newsweek)からの紹介です。
今回の事件の”発火点”は明らかにネット上、特にSNSだった。
前回の「あいちトリエンナーレ」の芸術監督だった港千尋は、近著「インフラグラム〜映像文明の新世紀」で、”断片化された映像や画像が情報化社会のインフラとなり、ブラックボックス化している”と指摘する。
今回の「あいちトリエンナーレ2019」をめぐる騒動は”インフラグラム”が起こした事件だった。だからこそ、現実社会においてその”着地点”となるそれぞれの場所がどの様な雰囲気に包まれているのか?
「表現の不自由展•その後」をはじめ、多くの作品展示が中止•変更となった愛知芸術文化センターは、トリエンナーレのメイン会場であり、今回の事件の”現場”の一つだ。
しかし、参加作家が展示形態を変更した例は、名古屋市美術館や豊田市美術館にもあり、トリエンナーレ会場全域が”現場”ともいえる。
このコラムを書いた仲俣氏は、野次馬根性も手伝い、先ずはこの”現場”の周りを歩いた。
もう一つのトリエンナーレ
”傷ついた芸術展”の姿を目撃するという目的からすると、レニエール•レイバ•ノボの「革命は抽象である」を見ておきたかったが、長蛇の列が出来ており、仕方なく断念した。
途中で遭遇した、高嶺格の巨大な立体作品もホー•ツーニェンの作品「喜楽亭」も、明確にポリティカル(政治的)な含意のある作品である。
特に後者は、日本がアジア•太平洋地域全域で行った無体な戦争の傷跡が刻み込まれている点で、「表現の不自由展•その後」で焦点となった少女像や天皇をモチーフとした作品と同様である。
両作とも警備体制が整った美術館内ではなく、少人数のボランティアが切り盛りするサテライト会場に展示されている。
だがいずれの作品が置かれた場も、「表現の不自由展•その後」への執拗な抗議からは想像もつかないほど、平穏そのものに映った。
つまり、この”平穏さ”も今回のトリエンナーレのもう1つの”現実”なのだ。
モニカ•メイヤーの残骸
今回のトリエンナーレの目玉作品の1つであり、「表現の不自由展•その後」の展示中止に抗議し展示形態を一変させた、モニカ•メイヤーの”The ClothesLine”の「残骸」を見た。
ネットで知ってはいたが実際目にすると、その無残な状態はあまりにも痛ましかった。
大勢の来場者が記入し、展示に加えていった小さな紙片はすべて撤去され、未記入の用紙が引き裂かれ、フロアに撒き散らされていた。
どんな言葉による批判よりも強い調子の”検閲”への抗議を、モニカ•メイヤーの”残骸”から感じざるを得なかった。
今回の事件を受け、全てのアーティストが足並みを揃え、作品の撤去または展示変更を行った訳ではない。抗議の声明には名を連ねながら、展示をそのまま続行した作家もいる。
青木美紅の大がかりなインスタレーション作品「1996」はその典型だ。
この数字(タイトル)は、作家自身が配偶者間人工授精によって生を受けた年であり、”ドリー”(世界で初のクローン羊)が生まれた年でもある。
生殖や生命をめぐる、複雑な作者自身の感情や思想を表現すると同時に、”死せる”作品つまり、展示中止や形態をネガティヴに変更した作品よりも、”生き続けている”作品の方が肯定的な力をもつという、端的な事実をも教えてくれた。
トリエンナーレを救ったもの
「表現の不自由展•その後」がかつて展示されてた、本丸の愛知芸術文化センターでは展示中止作品がもっとも多いが故に、このネガティブなインパクトさに思わず身構えてしまう。
とにかく、ここではあまりにも多くの作品が”死んで”いた。
この鬱屈した雰囲気を救ったのは、一度は展示を撤去する姿勢を示していたウーゴ•ロンディノーネの「孤独のボキャブラリー」がそのまま残ってた事だ。
広いワンフロアに45体のピエロが、思い思いのポーズで座ったり身を横たえたりしているこの作品こそが、今回の「あいちトリエンナーレ2019」における、最大の”救い”だったと、仲俣氏は考える。
豊田市のサテライト会場と同様、四間道•円頓寺に分散してる小さな展示会場も、極めてリラックスした雰囲気に感じられた。
入場料をとるでもなく、パスの提示も不要だ。この地域に溶け込んだパブリックスペースは、攻撃に対する脆弱さにはなっておらず、むしろ市民社会によってアート作品が守られている印象を受けた。
特に印象深かったのが、ある小さな会場で行われてた、タブラ奏者ユザーンによる音楽プログラムを多くのお客さんが楽しんでいた事だ。これは唯一の音楽プログラムだが、”論争的な現代美術展”のイメージの対極にある。
トリエンナーレが辿り着くべき場所とは
こうした町に溶け込んだ雰囲気の中で、もしもあの少女像が、或いは天皇の肖像をモチーフにした映像作品が、分散的に展示されていたら。
あのような激しい反発は起きただろうか?勿論、セキュリティの見地からすれば、ホワイトキューブの奥まった所で、厳重に警備をした上で展示を行うのがよいのかもしれない。
しかし、「情の時代」というテーマを掲げたこのトリエンナーレが最終的にたどり着くべき場所は、もしかしたらそんな地点だったのではないか。
「あいちトリエンナーレ」は単なる現代美術展ではない。
国際的水準をもつ現代美術展を中心としつつ、音楽やパフォーミングアーツ、映像やラーニングといった多様な表現形態でもあり、広義の”アート”を提供する芸術祭である。
今回のトリエンナーレは、「表現の不自由展•その後」をめぐる議論が象徴する様に、極めて大胆な論点を掲げた現代美術展だった。
その反面、歌舞音曲も交えた楽しさや教育的効果をもつ、地域芸術祭としての役割も期待されていた。
駆け足でたった一日だけで、しかも現代美術展のみを見てまわった私に語る資格はない。いくつものプログラムに繰り返し足を運んだ観客だけがトリエンナーレの真価を知ってるのだから。
「あいちトリエンナーレ」は、芸術監督やキュレーターや作家だけがつくりあげる場ではない。
多くの障害と困難に見舞われた今回のトリエンナーレにて、名古屋市と豊田市にまたがるいくつもの会場を支え続けた人たち。
そして、これらの会場に何度も足を運んで芸術祭を支持した観客たちは、たとえ彼らが何一つ声を発しないとしても、このトリエンナーレにおける”ささやかな勝者”といっていいのではないか。
仲俣氏がここまで書いた所で、「表現の不自由展•その後」の展示が再開されるとの報が入った。
同展の中止によって、”死んだ”状態だった他の展示も再開された時、この勝利はこのトリエンナーレに関わった全ての人のものになる。
以上、仲俣暁生氏のコラムからでした。
トリエンナーレの真実
でも結局は、こういった騒ぎもすぐに忘れ去られるんだよな。
最近の芸術は、その作品の質や主張に重きをおくではなく、単に”目立てばいい”ってものが比較的多いから、その時は騒ぎやブームになっても、すぐに忘れ去られる。
韓国の反日や慰安婦問題や徴用工問題にしても、今になって大騒ぎになってるだけで、昔は話題にすらならなかった。我々はそういう単語すら知らなかった。
それに韓国に興味を持つ日本人なんて殆どいなかった。皆が皆、欧米に血眼だったのだ。
今更”反日”が芸術になる事自体、奇妙な話でもあるが、それだけを話題に大騒ぎするのも大人げない。仲俣氏のコラムが模範解答である様に、実際に見た人でないと”トリエンナーレの真実”は理解できる筈もない。
”何も知らない”我ら外野が、ネット上で反日だとか天皇侮辱とか大騒ぎした所で、何の説得力もない。
まさに”インフラグラムの限界”は、「あいちトリエンナーレ」の現場にあったのだ。
今回の「表現の不自由展•その後」は、現場で実際に見た人にしか記憶には残らないだろう。それ以外の人には、SNS上のバカ騒ぎすらすぐに忘れ去られる様な気がする。
仮に、”反日”という話題だけで集客を目的とする芸術展だとしたら、これほど悲しい事もない。つまり、その反日とは芸術のごく一部にしか過ぎないのだから。
最後に〜芸術と政治の密な関係と
”「表現の自由」が何らかの権力を背景とした圧力に屈する「表現の不自由」さを風刺する目的の「愛知トリエンナーレ」なのだろうが。
果たして芸術と言える程のものであったのか甚だ疑念を抱かずにはおれない。騒ぎが大きくなりアナウンス効果でそれなりに世間の注目を浴び、私も含め芸術に疎い者達を論争に迄巻き込んだ点では、主催者側の思惑は達成出来たのではないか。
津田もネトウヨ等の猛攻撃を受け、軽く主催を引き受けた自分の浅薄さを痛感したのかも知れぬ。それにしても、河村名古屋市長の政治的パフォーマンスが軽薄な表現として際立った。座り込みをして大見得切った彼自身こそが、少女像よりオモロイ出品であった様に見受けられた。
会場にリングを設け、その中に大村知事と河村市長を立たせ、パントマイムを特設すれば、私も見に行ったのに。
芸術に政治的メッセージが込められるのは致し方あるまい。ヒロシマ原爆ドームは、ある意味、日本トリエンナーレの最高傑作かもしれない”
不快や怒りも表現の一部だから
従軍慰安婦像だけを取り上げて
反日と大騒ぎするのもなんだかな〜(*_*)
45体のピエロなんて最高だったのに
それに比べたら 慰安婦像は単なる置き物よ
今回はインスタグラムが悪いわ
バンバン写真メール送って
反日煽って もう最低(#・∀・)
多分騒ぐだけ騒いで、ハイ終わりっていう展開かな。
勿論、大騒ぎするだけが目的だとしたら、これ程の安上がりな宣伝もないでしょう、芸術といっても所詮は興行ですから。
でも芸術を取り巻く環境というのが、SNSにより一変してしまったのは確かですね。良くも悪くも。
慰安婦像がお目当てのトリエンナーレというのも、空洞化した原爆ドームを見てる様で。
ただ、話題オンリーの不自由展に芸術的な興味をもって脚を運ぶ人はどれだけいるんですかね。
表現の不自由展については肯定的に考える方です。反日だからという単純な理由で芸術そのものを蔑視や敵視すべきではないと思うからです。こんな騒ぎを見る度に日本はまだまだ子供の国だという思いが強くなります。
勿論、慰安婦像には少し辟易ですが。天皇陛下の奴は騒ぎ過ぎかなと。傷ついた芸術展というよりは、傷つけられたといったほうがいいでしょうか。
でも正直もっと過激なものが展示されてるとも思いましたが、知人に聞いたんですが再開した展示会は実際に少しおとなし目だったらしいですね。
そういう意味では、転んださんと同じ感性の範疇にあるんですか。でもこちらこそいろいろと勉強になります。
即興で書いた割には、自分でも良く出来たブログだとは思いますが。色んな意見があるのは当然ですね。それに慰安婦像や天皇の映像は全く芸がなさすぎですが。
”陸の三馬鹿展”とか”岸信介展”とかも、表現の不自由になるんでしょうか(笑)。応援有難うです。
出所したマンデラを待ってたのは、称賛ではなく戸惑いと怒りでした。なんとあれだけマンデラを黒人を痛い目に遭わせた白人に赦しを与えたのです。一時期は黒人は暴動を起こしますが、すぐにマンデラの意図を理解します。
結局マンデラは白人と対立しても無駄な犠牲を生むだけだという事を伝えたかったんです。事実マンデラの予想通りにはなりましたがね。
トリエンナーレ展も騒いだ所で何がどう変わるものでもない。せっかくの芸術展をキズモノにしてもいい事は何もない。慰安婦像も天皇の映像もやり過ぎだとは思うが。
でもマンデラが生きてたらこの不自由展を見てどう思うのか。怒りか?不快か?それとも寛容か。
あいちトリエンナーレは、地域全体の芸術祭でもあったんです。それを傷モノにするのはどう見てもいい気はしないですね。
ただ単に騒ぎたいのであれば、どこか他の所で騒いでほしいかな。
たかが慰安婦像されど慰安婦像ですかね。
騒ぎ立てる人は最初から芸術を理解しようという気がないのかな とても悲しい事だけど。
45体のピエロ展なんか素晴らしい出来ですもの。写真の大きなスマホの像もイケてます。
コメントどうもです。