最近、急激に訪問者数が増えだした。勿論、順位もウナギ上りだ。
”その5”でも書いたが、5月辺りから軌道に乗り始め、6月がピークだと思ってたが、7月に入っても上昇を続け、8月の終戦記念日と重なり、”戦争”ブログのアクセスが高騰した事もあり、上昇が止まらない。
そして、9月に入ってからも、”牛の解体”と”滝クリ”ブログが牽引し、その傾向は変わらない。
勿論、”堅く重たく長い”という3K的記事が、多くの人に読まれるのは有り難いが、実を言うと、ここ数カ月の記事は、明らかに手を抜いてるフシがある。
但し、ここ数日は数学系のお堅い記事を書いたお陰か?流石にアクセ数は減ったが。やはり人間は正直に出来てる(笑)。
手を抜く程に、アクセ数が増える?
アクセ数を増やす為に、故意に手を抜いてる筈もないが。ブログを毎日欠かさず書くという事は、それだけ時と労力を犠牲にしてる訳で、当然、自分の時間は激変する。
特に、”リーマン”や数学系の記事を書く時は、準備に多くの労力と時間が取られるし、関数や数式の誤植を見つけるのにとても苦労する。故に、毎日の様には書けないし、書いたとしても頭がおかしくなるだけだ。
故に毎日書くとなると、どうしても芸能や政治やスポーツなどの三面記事的な、簡素で平坦なテーマがメインになる。
思い立った事を主観と直感で書くが故、何も考えずに脳にも負担をかけず、短時間で記事に出来る。勿論、見返す事も殆どない。
またそういった記事は多くのコラムで紹介されてる為に、不得手な分野でもすぐにブログに出来る。
故にこの手の記事は、長くても重くても読み易いのだろうか。何の苦もなくアクセ数が稼げる。
ヒトは、難より易いモノに群れたがる生き物だ。狩猟(難)から農耕(易)へシフトした事で、我らサピエンスが繁殖した事は、それを如実に物語ってる。
記事の質が落ちるとアクセ数が増える?
歴史と人間は正直だ。安直で軽いノリ系のTwitterやFacebookやインスタが、地球規模で増殖した様に、ブログの世界もまた、軽く短く浅く、そして見た目のいいものにアクセスが集中する。
私は言いたい事を伝えるんではなく、私のブログがSNSという淘汰の激しい、インスタントな平坦で雑多な世界の中で、どう化学反応するのか?という事に好奇心が騒ぐ。
厳密に言えば、ブログを書く事で、ネットという無限の錯綜した巨大な生態系に、どんな微妙な影響を及ぼすのか?ブログという時代遅れのSNSが、広大なネットの世界にどんな影響を与えるのか?
そんな中で、私めのブログは機銃レヴェルか?手榴弾か?地雷か?魚雷か?それとも、重く射程が長いだけのテポドンのレヴェルか(笑)
大鑑巨砲主義じゃないが、今の時代のSNSは重たいブログを遠くまで飛ばしても、読者の心に届かなければ、空砲と同じだ。機銃でもフォロワーを刺激し続ければ、世論を動かす有効打となる。
私の”戦争モノ”のブログ群は、精度は低いが重たい砲弾の類である。それでも多くのアクセスが集中したのは、意外だったが喜ばしい限りだ。大鑑巨砲系ブログも、まだまだ捨てたもんじゃない。
”牛の解体”ブログにはウンザリだ
5月に入り、”牛の解体”ブログが牽引役となり、アクセスが安定したのも大きいと思う。”リーマン”系がメインストリームだった頃は、アクセ数はそれ程極端には伸びなかった。やはり、血生臭い記事は人の心を惹きつけるのだろうか。
アクセ数が増えたといっても、所詮は”過疎ブログ”に過ぎない。しかし少しずつ、無作為に繰り出した重いパンチが、ガードの上からでも、当たり始めた感覚はある。
ブログはボクシングに似てる。どんなに破壊力あるパンチでも、当たらなければ記事の持ち腐れだ。逆に、どんなに軽いパンチでも的確にヒットすれば、有効打になり得る。
勿論、魚雷みたいに、ロングレンジで見えない所からガツンと重たい一発を見舞えば、一気にその場を支配できる。コンビネーションも多種多様である程に、その効果と破壊力は絶大になる。
つまりブログには、重さと長さと多様さも重要だという事か。
”滝クリ”のブログがヤバイ?
8月初めに、”滝川クリステル”にケチをつけたら、途端に彼女の結婚を皮肉るニュースが、ネット上を賑わした。
勿論、単なる偶然であろうが。軽い気持で、非難を覚悟で書いた記事が、こうしたSNS系化学反応を呼び込むのも、SNSの不思議と魅力の1つだ。
お陰で9月に入ると、”滝クリ”が”牛の解体”を抜き去った。4ヶ月続いた独占の牙城を崩してくれた。
どんな記事でも書いてはみるもんだ。
ただ、”選挙に行こう”は、殆ど有効打にはなり得なかった。”れいわ”が騒いだお陰で、自民党は楽勝だった。同様に、重度の障害者の心の叫びも、国会には届かないだろうか。
事実、今となっては話題にすらならない。寝たきりは寝たきりで終わるのか?それが自然の摂理なら従う他ない。
そんなに嫌いではない”小田和正”に関しても、タモリを擁護する為に軽い気持で書いたんだが、皮肉にも安定したアクセ数を維持してる。むしろ、”さだまさし”をもっと毛嫌いして欲しいんだが、アクセスは閑古鳥だ。全てが思い通りに行く筈もない。
ヘイト系ブログの限界と昭和天皇と
勿論、好き放題に書いてるので、反発もあるだろう。特に、芸能や政治モノは、”ヘイト系”に成り下がるので注意は必要だが、やはり嫌いなものは嫌いで、好きなものは好きなのだ。
しかし、安倍首相は例外で、極端なヘイトな記事を悪戯に重ねても、ビクともしない。
Twitterで総口撃しても、支持率は全く動じない。多分、安倍の頭上に広島型を100発落としても、平気で持ち堪えるだろう。
そういう意味では、安倍晋三は政治屋の鏡だ。岸信介の”妖怪のDNA”を引き継いでるだけの事はある。図太い派閥と金脈の遺伝子は、晋三の生命線でもある。
同じ様に、滝クリもアグネスもさだまさしも、”れいわ”の時代をしぶとく生き続けるだろう。それに比べたら、昭和天皇はイケメンで善良過ぎて、その上ナィーブ過ぎた。
これから、昭和天皇の本音が次々とメディアで暴露されるだろうが。天皇を開放できるのは”ヒロヒト”の本音しかないのか。
その本音を私達がどう捉えるかだが。単なる文字の羅列とみなすのか?葛藤と苦悩の間で揺れ動いた、咆哮と嗚咽とみなすのか?
ブログと同じで、読んで理解してもらって初めて、話題になり議題になり、人の心に突き刺さる。
ヒロヒトに比べればシンゾーなんて✗以下だが、それでも国会の日本の今の象徴には変りはない。
戦争は天皇を滅ぼし、腐敗した政治だけを遺した。A級戦犯は処刑を巧く逃れ、日中戦争を画策し、東條と共に太平洋戦争を策謀した、A級戦犯の最大の首領である岸信介を匿い、自民党最大の英雄に仕立て上げた。
最後に
結局、嘘偽りない本音こそが、人の心を惹き付けるし、同時に反発も食らう。
しかし日本はタテマエの国だ。誤解や反発を招かない様に、用意周到にオモテナシをし、お世辞と建前を並べ、相手の機嫌を取る。忖度と挨拶と包み物(賄賂)は、礼儀作法の必須条件でもである。
この怪しげなオモテナシこそが日本の礼儀の象徴ではあるが、日本を滅ぼす絶対悪なのかもしれない。
アクセス目当でSNSを始めるとバカを見るんでしょうか。でもペットと食事と旅行は人を惹き付ける不思議な何かがあるのかな。
”今夜の女”とだけ書いて、アクセ王を狙いましょうか(笑)。コメントどうもです。