象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

”判っていたのに止められない”〜二・二六事件の真相と昭和天皇の憂鬱

2022年03月02日 03時43分56秒 | 戦争・歴史ドキュメント

 これだけネット上で様々な情報が溢れる中、様々な書物がゴマンと存在する中、我々は物事の真相を知らないまま生かされ、そして知らされないまま死んでいく。
 勿論、過去から真実を探ろうとしない我々も問題だが、その真実を隠し通そうとする輩はもっと問題である。
 機密はいつかはバレる。しかし、その機密から何を学ぶかは人の勝手である。

 海軍は、二・二六事件(1936)の計画を事前に知っていた。が、その事実は闇に葬られていた。なぜ事件は止められなかったのか?
 その真相は分からない。ただ、その後起きてしまった事件を海軍は記録し続けた。そこには事件の詳細な経緯だけでなく、陸軍と海軍の闇も記録されていた。
 昭和維新の断行を約束しながら青年将校らに責任を押し付けて生き残った陸軍。事件の裏側を知り、決起部隊とも繋がりながら、事件との関わりを表にする事はなかった海軍。
 83年ぶりに発見された極秘文書から浮かび上がったのは、二・二六事件の全貌。そして、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿だった。
 事実とは何か? 
 私たちは事実を知らないまま、再び誤った道へと歩んではいないか?・・・向き合うべき事実から目をそむけ、戦争への道を歩んでいった日本の姿を今、私たちに伝えている。

 「NHKスペシャル 全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る」(2019)は、最後にこう締め括った。
 二・二六事件と言えば、陸軍の過激派が仕掛けた(戦時の)クーデターという事くらいにしか思ってなかった。
 そこで番組を元に、二・二六事件の真実を掘り起こしてみる。


機密にされ続けた4日間

 1936年2月26日、陸軍の青年将校らが天皇中心の軍事政権をめざし、重要閣僚ら9人を殺害。日本の中枢を4日間にわたり占拠した二・二六事件。
 ”昭和維新”とまで呼ばれた空前絶後のクーデター。二・二六事件に関する機密文書を持ってたのは、(終戦時)海軍令部第1部長だった富岡定俊少将だ。富岡は海軍の最高機密だった文書を密かに保管し、これまで公になる事はなかった。
 26日の夜明け前、陸軍青年将校が約1500人の部隊を率いて決起し、重要閣僚らを次々と襲い、殺害した。
 この事件の概要(計画)を、海軍は発生当初の時点でかなり正確につかんでいた。岡田啓介首相は間違って義理の弟が殺害され、天皇の側近の齋藤實内大臣や高橋是清大蔵大臣らは銃や刀で殺された。警備中の警察官も含め、9人を殺害、負傷者は8人にのぼる。
 決起部隊を率いたのは、陸軍の中の派閥”皇道派”を支持していた20代や30代の青年将校たち。彼らは政治不信などを理由に国家改造の必要性を主張。”天皇を中心とした軍事政権を樹立する”として閣僚たちを殺害し、国会議事堂や首相官邸など国の中枢を武装占拠する。

 しかし天皇は、(勝手に軍隊を動かし、側近たちを殺害した)決起部隊に厳しい姿勢で臨もうとしていた。
 一方で陸軍上層部は、急遽設置された戒厳司令部に全ての情報を集め、厳しく統制する。
 (機密文書によれば)海軍は情報を取る為に戒厳司令部に要員を派遣し、陸軍上層部に集まる情報を入手した。更に決起部隊の動きを監視し、分単位で記録&報告していた。

 実は、事態の収拾にあたった川島義之陸軍大臣は、決起部隊から”軟弱だ”と詰め寄られ、彼らの目的を支持すると約束していた。
 つまり、“昭和維新の断行を約す”とのお墨付きをもらい、決起部隊を後押しする。川島ら陸軍上層部には、クーデターに乗じて軍事政権樹立を画策する動きもあった。
 一方で昭和天皇は、事件発生当初から断固鎮圧を貫いてたが、胸中は揺れ動いていた。
 当時若干34歳の天皇は、海軍の若手将校らが決起部隊に参加する事を恐れていたのだ。事件の対処次第では、天皇としての立場が揺らぎかねない危機的な局面でもあった。
 陸軍の中にも模様眺めの者は多くいたし、もう一つの武力の柱である海軍に期待するのは当然である。

 決起部隊を支持すると約束した陸軍上層部。天皇に”決起部隊に加わらない”と約束した海軍。
 事件の裏で相反する密約が交わされる中、天皇は鎮圧に大きな一歩踏み出していく。そして、海軍に鎮圧を準備するよう命じる3本の大海令を発令。天皇が立て続けに大海令を出すのは極めて異例の事態だ。
 陸軍の事件として語られてきた二・二六事件。実は、海軍が全面的に関わる市街戦まで想定され、海軍は陸軍との全面対決をも警戒していたのだ。
 一方で海軍の内部にも、決起部隊の考えに同調する人物がいた。お陰で、決死部隊は海軍にまで接触を試みてきたが、海軍から唯一派遣された岡田中佐は、”もう十分だろう”と相手を宥めつつ、その出方を見極めようとする。
 つまり、天皇の鎮圧方針に従う裏で、海軍は決起部隊とも繋がり、極秘で情報を集めていく。


天皇に銃口を向ける事は出来ない

 クーデターから2日目、天皇は事態の収束が進まない事に苛立ち、陸軍に鎮圧を急ぐよう求めた。
 そこで、陸軍トップは極秘工作に乗り出し、決死部隊の説得を計画する。万一説得に従わない場合は、容赦なく切り捨てる事をも決めていた。
 3日目、天皇は決起部隊の行動を”天皇の意思に背いている”と断定し、直ちに元の部隊に戻らせるよう命じる奉勅命令を出す。
 不安や諸々の鬱憤を吹っ切る為の、自らの意思を強く示した命令だった。
 自分たちが反乱軍である事を知った決起部隊は、天皇が自分たちの行動を認めていない事、陸軍上層部はもはや味方ではない事を確信する。

 彼らは天皇や陸軍上層部からも見放され、唯一期待を寄せてた海軍とも交渉が決裂し、絶望的な状況へと追い込まれていく。鎮圧に傾く陸軍と海軍、そして決起部隊との戦いが現実のものとなる。
 攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から最後の申し出が寄せられた。
 ”天皇に銃口を向ける事は出来ないが、鎮圧するのなら反撃する”
 ”撤退命令には従えないのか?”
 ”十年来熟考してきたものだ。何と言われようとも昭和維新を確立するまでは、断じて撤退しない”

 結局、最後の説得交渉も決裂する。

 4日目の2月29日早朝。決起部隊は(天皇を直接補佐する陸軍参謀総長で皇族の)閑院宮を待ち続けていた。閑院宮を通じ、天皇に決起の思いを伝える事に一縷の望みを託していたのだ。しかし、閑院宮は現れる筈もない。
 陸軍上層部は鎮圧の動きを本格化させ、鎮圧部隊と決起部隊との一触即発となった。まさに東京が戦場になろうとしていた。
 海軍(陸戦隊)は攻撃準備を完了し、第一艦隊は東京芝浦沖に集結。もし戦闘が始まれば、海軍司令部は最悪”艦隊から国会議事堂を砲撃”をも想定していた。
 午前8時10分。ついに陸軍・鎮圧部隊による攻撃開始時刻が8時30分と決定。

 最後まで抵抗を続けていた安藤輝三大尉は部下に対し、”君たちはどうか部隊に復帰してほしい”と叫び、頭をピストルで撃ち抜いた。
 午後1時、事件は平定した。
 陸軍上層部は、天皇と決起部隊の間で迷走を続けた。にも関わらず、事件の責任は決起部隊の青年将校や、それに繋がるる思想家らにあると断定。弁護人なし・非公開・一審のみの”暗黒裁判”とも呼ばれる軍法会議にかけた。
 事件の実態を明らかにしないまま、首謀者とされた19人を処刑。一方で陸軍は、事件への恐怖心を利用し、以降政治への関与を強めていく。

 目の前で何人も銃で殺され、斬り殺されたりする。政財界も陸軍の言う事に対し、骨抜きになっていく。これこそが二・二六事件の本質である。
 若干34歳で前代未聞のクーデターに直面した天皇だが、軍部に軽視される事もあった中、陸海軍を動かし、自らの立場を守り通した。
 鎮圧の成功は結果的に、天皇の権威を高める事には繋がった。が、天皇の神格化が、この二・二六事件で大きく飛躍したのは間違いない。
 事件後、日本は戦争への道を突き進んでいく。高まった天皇の権威を、軍部は最大限利用し、天皇を頂点とする軍国主義を推し進めた。そして軍部は、国民に対して命を捧げるよう求めていく。
 (無謀にも)日本は太平洋戦争に突入し、天皇の名の下、日本人だけで310万人の命が奪われ、壊滅に至った。クーデターから僅か9年後の事である。


最後に〜判ってても止められない

 ”判っていたのに止められない”は、今回のロシア(いやプーチン)によるキエフ侵攻だけではなかった。
 今から86年前に、若き陸軍青年将校が起こしたクーデターも、”判っていたのに”止められなかった。
 若い彼らは天皇を心底信じていた。天皇の本心を知りたかったし、天皇に自分たちの本心を知ってほしかった。

 (昭和天皇が)もしこの事件に後悔があるとすれば、自らが起こした強い行動が戦争に進んでしまった要因の一つではないかと、戦後様々な思いが巡った事だろう。
 晩年、天皇は2月26日を”慎みの日”とし、静かに過ごしたという。
 一方で、二・二六事件を記録し続けた海軍はその事実を公にする事はなかった。
 なぜか?
 事実、事件発生の7日前、東京憲兵隊長が海軍大臣直属の次官に、ある機密情報をもたらしていた。
 ”陸軍・皇道派将校らは重臣の暗殺を決行し、この機に乗じて国家改造を断行せんと計画”
 更に、襲撃される重臣の名前と首謀者の名前が書かれていた。事件の一週間も前に、犯人の実名までも海軍は把握していたのだ。

 (冒頭で言った様に)海軍は、二・二六事件の計画を事前に知っていて、それでも止める事は出来なかった。
 真相を明らかにするのはもの凄く難しいし、真実を知る事も難しい。故に、私達は何も知らないまま生きている。
 真実を知らないまま、いや向き合うべき真実から目をそむけたまま、日本は戦争へと歩んでいった。
 86年前の悲劇から、我々は何を学んだのだろうか?



5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ビコさん (象が転んだ)
2022-03-02 09:19:36
謎の全てが解った訳でもないんですが、
こうした機密文書はどんどん公開すべきですよね。
逆に解れば解るほど難しい。その辺りは数学と同じですね。

ビコさんも色々と大変でしょうが、くれぐれもお身体には気をつけてです。
返信する
りくすけさんへ (象が転んだ)
2022-03-02 09:11:24
いえいえ
単に、書かれてある事を纏めただけです(悲) 。
でも逆を言えば、陸と海で戦争に発展してれば、太平洋戦争どころでははなかったかも?です。
止めたくても止めれなかったというのが、海軍の本音でしょうね。それに陸軍の責任の範疇だし、天皇も海軍は関わるなと助言してますから。

でも、最初のクーデターは何としても止めるべきでしたし、止める事が出来た筈です。が、海軍からすれば(敢えて隠匿する事で)陸軍を出し抜きたかったという事もあったと思います。

堅苦しいクソ真面目な記事にコメント有り難うです。
返信する
Unknown (びこ)
2022-03-02 09:09:59
二・二六事件のわかっているようでわかっていなかったところが少しだけわかったような気がします。ありがとうございました。
返信する
Unknown (びこ)
2022-03-02 09:07:43
二・二六事件のわかっているようでわかっていなかったところが少しわかりました。
返信する
象が転んだ様へ。 (りくすけ)
2022-03-02 08:50:44
お邪魔します。

読み応えのある記事でした。
青年将校らによる昭和維新は、
失敗に終わり、実被害が小規模。
だからこそ重要な転換点としての認識が
甘くなっているのだと思います。
もし、陸海の直接交戦があったら。
もっと凄惨な事態になっていたら。
歴史上の注目度は違うでしょうね。

そしてそうならなかった事にこそ、
226の怖ろしさを感じます。

では、また。
返信する

コメントを投稿