タレントの太田光が、今回の川崎殺傷事件について面白い事を言ってた。
”俺なんか(容疑者と)同じ50代だけど、何も感動できなくなった時があった。死にたくなるんだけど、そうなると他人の命も大切には思えなくなるよね。その時、ピカソの「泣く女」の絵を見て、感動が蘇った。あらゆる事に感動できるようになった。そういうキッカケって必要だと思うんだ”
気まぐれか?計画的犯行か?それとも?
今回の事件を時代のせいにするのか?自分を孤立させた世の中のせいにするのか?本人の致命的な欠陥のせいにするのか?生き様と環境のせいにするのか?単なる運不運として片付けるのか?
いやそれとも気まぐれか?計画的犯行か?
よく”過労自殺”について、”死ぬくらいなら辞めちゃえば”って、軽く反発を受けそうだが、それが出来ないから自殺するのか。
人間とは悲しいかな、ギリギリまで努力する生き物だ。自分を限界にまで追い詰め、そして自殺する人と開き直る人とに分かれる。
自殺がいいとか悪いとか言うつもりもない。そういう自分も多少は自殺願望が強いし、中学生の頃は自殺しようとした事もあった。大人になって営業をしてた頃も、自殺したくなった事が何度かあった。
ただ自殺と人の命を粗末にするという事は微妙に異なると思う。サムライの美学である”切腹”は、決して他人を巻き込まなかった。
しかし何時から人は、一人で死ねなくなったのだろうか。周りを巻き込まないと、自決できなくなったのだろうか。孤独や孤立に弱くなったのだろうか。
”死ぬには勇気がいる”
今回の事件も20人もの人間を切りつけ、最後には自ら自殺した。僅か10秒に及ぶ”奇襲”だったとされる。
無抵抗な幼児を狙った、不意を突く誹謗なやり方は、衝動的というより計画的と見られても仕方がない。
明らかに自分よりも弱い人間を獲物にし、最後には自分という弱者(敗者)を自害する。
もはや自殺は個人の問題ではなく、集団の社会のいや、時代の問題に拡大しつつある。
しかし、こういう弱いものイジメ的な拡大自殺という名の犯行が、私にはどうも許せないし、解せない。容疑者に立ち直るキッカケがあったとしても、再び同じ事を繰り返すのだろうか。いやそう思わせる惨劇でもあった。
専門家は、”犯行時51歳という年齢から、加害者は就職氷河期を経験したロストジェネレーションに属し、「8050問題」の典型例にも当てはまる”と解説する。
因みに、8050問題とは、80代の親と50代の息子が共に、社会の中で孤立する事をいう。
しかし、「孤立=自殺」という構図は単純すぎやしないか。もしこの構図が正しいとすれば、偉大な数学者たちは全て自殺してたろう。かのエヴァレスト•ガロアだって死ぬ間際には、”死ぬには勇気がいる”と呟いたほどだ。
殺傷の連鎖とピカソの「泣く女」
SNSなどでは、”死ぬなら一人で死ね”っていう意見も多いが、”自分を孤立させた社会を敵視する人を非難すれば、更に追い詰め「殺傷の連鎖」が起きる可能性がある”、との反発の声もある。
時代や社会の歪みが、こういった”殺傷の連鎖”を生み出すのか?簡単に答えが出そうで、見つからない難題でもある。
これから色んな角度から検証が行われる筈だが、私たちはその過程を見守るしかない。
ただ先述したように、太田光が紹介したピカソの「泣く女」は、こういった無情な惨劇に遭遇した、「泣き壊れる女」に見えた。まさに人が”壊れる”とは、こういう事を言うのか。
戦争が平気で捏造され、大量殺戮が当り前のように行われる時代。この時代や社会は、我ら大衆が作り上げ、支えてきた筈だ。
しかし今では、ごく一部の権力者が捏造する時代。そんな中、我ら大衆は生きる事に疲れ果て、やがては孤立する。
そして大衆が孤立した時、我らサピエンスは次々と周りを巻き込む様にして壊れていく。いや、我らサピエンスは既に”壊れた”生き物だったのか。
”虚構”により繁殖&繁栄してきた人類は、孤立の連鎖という”現実”により絶滅するのか。
サピエンスのもう一つの残酷さと脆さを見せつけられたような気がした。
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