![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/76/ba436beec47ac59c34c6fc4bcdd2cd96.png)
私は基本的にはだが、何をやっても続かない生き物である。
勿論、続けてるのもあるが、"続けてる"というより”(そこそこ)続いてる"といった方が正解である。
ブログも3年を超えたが、単なる惰性の産物で、これと言って目的や目標がある訳でもない。単なる暇潰しと鬱憤解消の為に書いてる様なもんである。
スケパブやおっパブもよくも飽きずに通い続けた方だが、数学ほどには長続きしなかった。若い女の肉体が数学の魅惑に勝る筈もなく、"無意味な継続は無駄である"事を教えてくれる。つまり、継続する為には慢性的で病的な程の魔力が必要なのかもしれない。
そういう意味では、ブログもスケベも結局は長続きしないであろう無意味な<惰性(だせい)>とも言えそうだ。
一方で、”外部から作用する力がない限り、同じ運動状態を保ち続ける”と言う意味では無意味な継続は<慣性(かんせい)>とも言える。故に、ブログは習慣的慣性でスケベは生理的慣性と言えるかもしれない。勿論、慣性はモノに対して使う言葉ではあるが・・・
継続は無駄である?
ある東大生は"目的の解像度を高めれば継続が可能になる"らしき事を言ってたが、プーチンの侵略戦争みたいに、野心や目的そのものが腐ってれば解像度も糞もない。
事実、"東大生になる"というのは目標になり得るが、東大を出て"何をしたい"かは目的である。つまり、目標とは目的を達成するための指標に過ぎない。
例えば、"資格を取り、電気技師になる"という目的があり、その資格を取る為に"毎日1時間勉強する"という継続の目標が出来る。
しかし、目的というのは時代と同様に流動的で、時代が変われば目的も変わるし、目的が変われば目標も変わる。
故に、目的の解像度を変えた所で、時代が変われば目的の多くは意味を成さないとも言える。即ち、臨機応変に目的を方向変換する事が必要になる。逆を言えば、目的や目標に振り回される人生はリスクやロスが多すぎるとも言える。
つまり、無意味でなくとも”継続は無駄である”というのは、案外外れてはいないのかもしれない。
時代の波に左右される目的も解像度だけじゃなく、方向性や鮮度や賞味期限があり、それらを失すると、目的に注ぎ込んだ全ての努力が無駄になる。
安易に目的を持つ事は非常に危険な事と言えるし、目的を持たない、目標を掲げない、目標達成の為の努力の継続はしないといった”継続は力なり”の裏をかく開き直りも、これからは必要かもしれない。
つまり、新しい未来を構築する為には”継続は無力なり”なのかもしれないのだ。
コロナ渦の影響で多くの起業家や経営者らは閉店や撤退を決意せざる負えなくなった。が、そんな状況下でも富裕層は早々とケリをつけ、新規店や新事業をオープンさせた。
事実、2020年の早いタイミングで、SNS上では"閉店"とか"撤退"とか"損切り"という投稿が飛び交っていた。
人は窮地に陥った特、継続よりも諦めが重要なケースが多々ある。つまり、不況な時ほど、継続は力ではなく自分のクビを締めるだけで、諦めが自分を救う時もある。事実、太平洋戦争なんかその典型ではなかったろうか。
金持ちが金持ちである理由の1つに、今掲げてる目標やその方向を常に疑い、目標を素早く切り替える能力がある。
以下、「継続は力なりのウソ・・・」を参考にまとめます。
”継続は力なり”の大ウソ
一般的に”諦める”には、無念・みじめさ・挫折・撤退、といった苦渋と恥に満ちた敗北のイメージが付き纏う。
また”諦めた人”には、無能とか意志が弱いとか、根性なし、無責任、などの”ダメ人間”のイメージがある。
更に、”継続は力なり”や”諦めたらそこで終わり”、更に”石の上にも3年”や”初志貫徹”などの言葉が私たちを縛りつける。まるで、努力という名の呪いが社会的な圧力をかけてるようでもある。
つまり、”諦めずに成し遂げた”という美談ばかりが強調され、”諦めて大成した”という話はあまり出てこない。特に日本では、”諦めない”や”頑張れば必ず報われる”という古い(旧陸軍的な)価値観が支配する。
お陰で雁字搦めになり、行き詰まり、先を見失い、人生を台無しにする事はよくある事だろう。
しかし(成功した)富裕層が持つ”諦め”は少し異なる。
彼らが抱く”諦め”とは”効率の悪さへの自覚”であり、無駄な努力に終止符を打つ事でもある。一方で、その為には見栄やプライドや固定観念を排し、機動的かつ柔軟に認識する必要がある。
つまり、頑張る事や継続する事は手段に過ぎず、目的ではない。彼らは、その目的が先を見据えたものであるか?を常に疑う能力に長けている。故に、彼らが事業を投げ出す時は、(諦めて)”方向転換した”とも言える。
一般に、投げ出す事は単に自暴自棄、思考停止による責任放棄だが、(生存戦略で見れば)諦める事は物事の優先順位をつけ、見切りを下す事となる。
一方で”諦める”というのは、元は仏教用語で”明らかにする”が語源とされる。つまり、挫折や敗北、軽蔑の対象ではない。
つまり、諦めるとは、”執着からの解放”であり、気持ちの切り替えでもある。不必要なものを捨て、最も重要なものを選択する決断と覚悟でもある。
(日本人に多いが)諦めずに粘るのは、合理性よりも単に本人の意地の問題であり、意固地になり過ぎて思考停止してるケースが多い。どう頑張っても改善する見通しがないのに継続する事に執着し、それ以外の選択肢が見えなくなる。
継続する事にしがみついてる間に資金も体力も尽き、その焦りで冷静さを失い、終いには身動きがとれなくなる。事態は悪化の一途を辿り、もはや選べる手段がなく、最終的には”投げ出し”てしまう。つまり、”継続や辛抱が倒産や夜逃げを生む”というと言う負のスパイラル。
これは、太平洋戦争末期の日本と全く同じである。
継続という思考停止と現実逃避
つまり、諦めれば客観的になれるが、諦めないと冷静さを失う。しかし悲しいかな、日本人は諦めきれない人種でもある。
一方で、意思決定にてサンクコスト(埋没費用)を無視できるのも、富裕層が持つ”諦める力”の一つと言える。
例えば、(コロナの影響で)ある飲食店経営者は都心の家賃が高額な大型の高級店舗を閉じたが、内装造作には数千万円の初期投資が掛かっている。
普通なら”折角こんなお金かけたんだから”と、諦め難い所だが、費やしたお金が戻ってくる事はないし、今後垂れ流すだけであろう赤字を食い止める為にも、バッサリと切り捨てる勇気と覚悟が必要である。
これは難関国家資格の受験勉強を続ける人も同じで、”折角ここまで勉強したんだから”とそれまでの努力を諦めきれず、以降何年もダラダラと勉強に費やし、気づいたら社会に出るきっかけを失っていた、という事はよくある話だ。
勿論、そんな変化に柔軟に対応できず、自分が信じてた事を変えるのは受け入れ難いという人も多いだろう。また、自分の考えを曲げるのは屈辱的だと感じる人もいる。
だが、継続だけを信じ、変わらないのは、現実逃避や思考停止と同義とも言える。
一方で、自身が直面する現実に対し、今までやってきた事や自分の考えを否定しなければならない時が必ずある。
プライドを捨て、自分を適応させる意欲を持ち、大きな流れに逆らわず、別の波に乗る勇気や別の波が来るまで待つ度量も必要だろう。
(日本人が最も苦手とする)自己否定とは、自分の誤りに自覚的になる事であり、それまでの自分に決別し、違う自分を取り入れる。つまり、変化を受け入れる事である。
それこそが”種の存続”における知恵であり、が故に、富裕層が富裕層であり続けれるのだろうか。
例えば、計画や交渉などで、状況が悪くなったり行き詰まったりした時、”白紙に戻す”事が行われる。これも、問題がこじれる原因となった前提条件や、それまで考え話し合ってきた事などを一旦諦め、(リセットして)ゼロベースで考え直そうとする事だ。
つまり、身動きができなくなる前に”白紙に戻す”事は、未来志向の発想とも言える。
また、”水に流す”事もトラブルやミスなどによって生まれた感情的なわだかまりやしこりをクリアし、新しい信頼関係を築こうとする未来志向である。
諦めないのは現状への執着だが、諦めるのはそれを変え、そして未来への再出発といえる。
一方で、”ブレない”とか”一貫性がある”というのは、従来の日本では好ましく思われてきたが、現代の様な多様的で環境変化の激しい時代には、むしろ仇やリスクになる。
最後に
以上、PRESIDENTOnlineから長々とでしたが、”だからこそ富裕層は簡単に諦める事ができ、変わり身も速い”と纏めてはいるが、成功とは金持ちとはそんなに単純であろうか。
勿論、埋没費用を無視できるのは金持ちならではの特権だ。が一方で、金持ちほどしぶとく、執着深いのも事実である。
この様に富裕層を例に挙げ、”継続は力なり”のウソを暴いたのはユニークには映ったが、真の金持ちは何をやっても金持ちであり、失敗をしないし、無駄なリスクを取らない。
ここで紹介されてる富裕層は成金型の人種で、偶々打った手が表に出たに過ぎない。少なくとも、諦めと変り身は余り関係ない気もする。
むしろ、我ら貧乏人の方が諦めも変り身も早い気がする。一方で、非常に辛抱強く、継続や努力に拘るのも貧乏人の弱点でもある。
つまり、短気は損気だが根気は損気でもある。
私が”継続は力なり”を否定したがるのは、継続に固執し過ぎる日本人が多い気がするからで、努力や継続という名の呪いに囚われ過ぎる点にある。
”長く続けてればそれだけでいい”や”頑張ってればいつかは報われる”という妄想に囚われ、頑張るだけで人生を終えてしまう。そこに、アイデアや独創性は一欠片もない。そんな継続なだけの単調な人生がイヤなだけである。
”19世紀最高の知性の1人”であるリーマンは”継承は創造なり”と言った。つまり、継承は形態を変える事で創造を生む。言い換えれば、単調な継続からは何も生み出さない。一方で、ベーブルースは二刀流を”諦めた”事でメジャー史上最強の打撃王に君臨した。
単調な仕事が好きならアリみたいに死ぬまで働き続ければいい。スケベが好きならば、インポになるまでヤリ続けたらいい。
ウォーキングが最高の健康法だと思うのなら、(毎日早起きして)犬や狼みたいに延々と歩き続ければいい。成功を自慢したければ、死ぬ間際まで過去の成功に酔いしれてればいい。
人はいつかは死ぬ。
だが、アイデアや独創性のない人生は、捕食者が先導する泥舟に乗ってるのと同じである。成功の為だけの単調な継続と無機質な努力は、私には少なくとも害にしかなり得ない。
つまり、私にとっては継続とは無力で有害なツールに過ぎない。
それでも殆どの日本人は”継続は力なり”を信じ、何の変哲もない平坦な人生を終えてしまう。
ただ、平坦とか平凡という意味では、継続とは満更悪い事ではないのかもしれない。
今の大谷に捧げる言葉でしょうか。
大谷残留が決まった8月ですが、チームは3勝11敗と大きく負け越し、プレーオフ進出も絶望的となりました。
転んださんの予想通り
大谷特急はピタリと止まりましたね。
右腕の疲労がそのまま打撃に影響してるようで三振や内野ゴロが目立ってきました。
6月と7月が良すぎたと言えばそれまでですが、プレーオフを見据えるのであれば夏場は休養を入れながらの起用もありえたはずです。
少なくとも先発の時は打席に入るべきではなかった。
監督の起用法も最悪ですが、大谷本人も意固地になり過ぎて突進した結果がチームの大失速を生みました。
これから大谷がどう復調するかは不透明ですが、今の状態だと心配になりますね。
特に、右手の指や脇腹を痛めた時はこれが限界かなと・・・でもその7月は23試合で10本塁打と驚異の活躍でした。
つまり、私から見れば何もかもが規格外な選手なので、これからどうなるのかは予測もつきません。
言われる通り、監督の起用にも問題ありですが、私が監督でも大谷の無尽蔵な体力を目の辺りにすれば、使い続けたでしょうね。
ただ気になると言えば、7月は0で8月は.143という得点圏券打率の低さで、トータルでも.297と(四球が多いにしても)彼にしては低いですよね。
こうした微妙な所がチームにも悪影響を及ぼしてると思います。
まさに、これですよね。
僕は仏教が一番合理的な宗教だと思うのですが、仏教では、もっともっとと求める、欲望が肥大するような努力はするな、と教えます。
一方、やって楽しい、精神的に満足する努力はどんどんやれ、と教えます。
数学者なんかは後者ですかね。
大谷選手なんかも野球が楽しくて仕方がないから努力をしているのでしょう。
一方、数学者が「これでノーベル賞を獲ってやる」、大谷選手が「これで大金を稼いでやる」「国民栄誉賞を獲ってやる」と考え始めたら、努力は苦痛になってしまうんでしょうね。
意外にも成功してる人や社会的地位のある人はとても短気な人が多いらしいです。
内面では怒り狂っても表面上では穏やかで気長な面を演じます。
二流の短気者は露骨に相手に怒りをぶつけるが、一流の短気者はにこやかに黙って相手を切るとされます。
つまり短気じゃないと本当の意味での”気遣い”はできない。
というのも短気な人の方が不満や不安や怒りに敏感なので、それを解決する能力に長けるんですかね。
だから私達が怒ったり不満やいらだちを感じる時にこそビジネスチャンスが転がっている。
故にデキる人やお金を稼げる人は超の付く短気者が多い。
でも短気も度がすぎると逆に丸くなる。
中途に短気な人はトゲが目立つし、超短気な人はトゲが多すぎて目立たない。
うーんでも
短気なだけで全てが上手く行くとも思えないし
どーなんでしょ
が故に、どうしても俗っぽくギスギスになるんですね。
しぶとく努力を継続するのがいいか?あっさりと諦めるのがいいか?
状況や条件によっても変わると思うんですが、どう見ても、諦めの早い人の方が効率よく成功してるようにも思えます。
数学の世界も頑張った人は頭が狂った人が多いです。
特に数学者は知的バランスやセンスやアイデアがとても重要になりますが、多くの数学者は数学バカや計算バカで人生を終える人が多いです。それに焼身自殺など、壮絶な結末を迎える人も少なくないですね。
またそういう人を知ってるから余計に努力や継続と言う言葉を聞くと、寒気がします。
一方で、仏教は数学により親和性の高い宗教だと思います。その仏教が楽しむ事を奨励してるんですから、(言われる通り)素直に楽しんだ者が勝ちですかね。
大谷も二刀流なんかに拘らず、人気のないメジャーに見切りをつけ、政治家にでもなってアメリカをギャフンと言わせて欲しいですよね。
コメントいつもありがとうございます。
これも「短気も度が過ぎると成功する」というテーマにして記事にしたいです。
つまり、超短気な人は短気の本質を見抜くのに長けてるので、どんな状況においても人を不愉快にさせる事が少ない。
故に、余計な努力をしないでも成功する。
勿論、”短期は損気”というのが前提で、それを逆に利用する。
数学で言う”逆もまた真なり”ってやつで、短気も上手く振る舞えば成功に導くとなるんですかね。
そう言われてみれば、私などは無駄なことばかりしています。
ブログも、これだけ嫌な思いをしながら続けることはないのに続けていますし、短歌もそうです。
止めてしまえば、すっきりするのにやめられないところが私の愚かなところです。
まあ、今日の記事は要約すれば断捨離しなさいということですね。
しかし究極の断捨離は死ぬことかもしれません。
私など生きていても無駄ですもの。生を継続する必要などどこにも見つかりません。
注意深く程々に努力しなさいという事でしょうか。
ただ、続ける事には余り意味がないと思うんです。嫌になったら休めばいいし、やりたくなったら復帰すればいい。
長い目で見れば、その繰り返しも継続だと言えますね。
結局、そうやって人類は生き延びてきた。
”無理は禁物”とお医者さんも言いますから、自分が好きなようにマイペースでやってれば、それこそが”究極の断捨離”ではないでしょうか。
いつもコメント有り難うです。