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フェルマーの最終決着”その3”〜オイラーからジェルマン嬢の華麗なる発見へ

2021年07月08日 06時20分02秒 | 数学のお話

 前回”その2”では、フェルマー(1601-1665)によるFLT(4)の証明と、オイラー(1707-1783)によるFLT(3)の証明を紹介しました。
 以下、フェルマーの最終定理(Fermat's Last Theorem)をFLTと略します。
 そこで、FLP(5)の場合は、以下で述べる女性数学者であるジェルマンの発見を経由し、ルジャンドル(1752-1833)とディリクレ(1805-1859)により、ほぼ同時期の1825年に証明されました。
 実際には、ディリクレが先に証明したが、彼の考察から漏れた部分をルジャンドルが補ったとされる。

 以下、足立恒雄氏の著書「フェルマーの大定理が解けた」「整数論の源流」(写真)を参考にしてます。
 前者は楕円関数論寄りで、後者は数論寄りですが、交互に読みながら進めると理解がスムーズです。これも5千字を超えますが、悪しからずです。


ディリクレによるFLP(5)の証明

 x⁵+y⁵=z⁵ー①に整数解x,y,z(≠0)が存在すると仮定する。FLP(3)と同様に、x,y,zは互いに素で、x,yが奇数zが偶数とできる。
 そこでオイラーがやった様に、x=p+q,y=p−qとおき①に代入すれば(厄介な計算ですが)、p−5q=5乗数ー②の形の式が整数解p,qを持つ事が解る。
 ここで、pが5で割れる時とそうでない時に分ける。①式のz(偶数)が5、つまり10で割り切れるか否かで決まる。
 当時若干20歳のディリクレは、zが”5で割り切れない”時を証明し、パリの学士院に提出した。
 この原稿を参考にした審査員のルジャンドルは、2週間ほどで”5で割り切れる”時の証明を完成させた。
 一方でディリクレも、後に残りを証明するが、ルジャンドルは自らの著作「数論」に証明を書き、ディリクレの事は一切触れなかった。故にFLP(5)の業績は、同時期の証明であってもディリクレの方に軍配が上がるとされる。

 ここでも、②式を見れば判る様に、Z[√5]での”素因数分解の一意性”が問題になる。しかし、オイラーのFLP(3)の時と同様に、”互いに素な2数の積が5乗数の時、各々が5乗数であるか”という難癖が存在するが、何とかこの本質的な壁は切り抜ける事が出来る。
 しかし、一般的な指数nに関しては、この壁は無視できなくなるのだ。

 フェルマーの最終定理(FLT)では、n=3,4,5のケースがフェルマー(1630年代)、オイラー(1770)、ディリクレ(1825)により証明されてきたが、200年近い年数が過ぎていた。
 残りはn>5のケースとなるが、実はnが素数だけを示せばいい。
 そこで全ての奇素数pに対し、FLP(p)が示せたと仮定する。n>4の自然数とすると、nがpで割り切れる時はn=pmで表わせ、xⁿ+yⁿ=zⁿが解を持つとすれば、(xᵐ)ᵖ+(yᵐ)ᵖ=(zᵐ)ᵖとみなせるので、X=xᵐ,Y=yᵐ,Z=zᵐは、Xᵖ+Yᵖ=Zᵖの解となり、FLP(p)が示せた事に矛盾する。
 一方で、nがpで割り切れない時は、(少し抽象的ですが)n>3より4で割り切れる筈である。そこで、n=4mとおけばFLT(4)は証明出来るから、FLT(4m)が正しいのは明らかですね(証明終)。

 故に上で示した様に、7以上の素数pに対し、FLT(p)だけを示すだけでいい事になる。
 つまり、オイラーのFLP(3)の証明がフェルマーの最終解決の”一刺し”になったというのはこういう事です。
 但し、自然数nは素数の積pq...rの様に一意的に分解できる事からも明白な様ですが、厳密に証明すると少しややこしいですね。


ジェルマン嬢の発見からFLP(7)の証明へ

 1832年にもディリクレはFLT(14)を証明したが、上で示した様に、nが素数である事の方が肝要であり、これはFLT(7)を証明する為の途中経過とも言える。
 FLP(7)の証明は、ラメによってなされた(1839年)とされるが、そのラメの証明に含まれる誤りを訂正し、簡潔化したのがヴィクトル・ルベーグ(1840年)であった。
 しかし、ラメの複雑で長々しい論文を眺めれば、初等的な手法で解くのは限界だという事が解る。故に、同様の手法でn=11や13の場合を研究しようと思う者はいなくなり、個別研究の時代は終ったとされる。 

 それでもラメは、p次円文体(有理数と1の原始p乗根を含む四則ができる数の集合)を用いて、全ての奇素数pに対しFLT(p)が成立すると主張します。そして同時期に、コーシーも同じ事を主張した。
 これが有名なラメ=コーシー論争(1847年)ですが、この論争の詳細は次回に述べるとして、先に進みます。

 ディリクレとルジャンドルによるFLT(5)の証明の僅か前に、個々の数nではなく、ある条件を満たす奇素数pに対し、FLT(p)が成立する事を初めて示したのが、フランスの女性数学者ソフィー・ジェルマン(1776-1831)である。
 彼女は自分が女だと蔑視されるのを恐れ、ルブランを名乗り、ガウスと文通しますが、その手紙の中で書いた定理(1823年)が凄かった。 
 今では「ソフィー・ジェルマンの定理」と呼ばれるが、これは2p+1が素数である様な奇素数p(ジェルマン素数)に対し、xyzがpで割り切れない時においてのみ、FLT(p)が成立するというものです。
 つまり、xᵖ+yᵖ=zᵖ、(x,y)=1においてxyz≢0(mod p)なる自然数解が存在しない。
 因みに、2つ目はxyzがpで割り切れる(xyz≡0(mod p))場合は証明するのが非常に難しいので、1つ目のケースを「フェルマーの大定理の第1の場合」と呼ぶ。


ソフィー・ジェルマンの定理

 この定理の証明は省略しようかと思いましたが、ジェルマン嬢の貢献を讃え、大まかに紹介します。
 まず、n:奇数、a,b:互いに素な整数((a,b)=1)とし、a+b≠0の時、Qₙ(a,b)=(aⁿ+bⁿ)/(a+b)とおくと(但し(a,b)は最大公約数)、Qₙ(a,b)は自然数で、(Qₙ(a,b),a+b)=(n,a+b)ー[補題1]が成立。
 次に、x,y,zがxᵖ+yᵖ+zᵖ=0を満たす整数とすると、x+y,y+z,z+y及びQₚ(x,y),Qₚ(y,z),Qₚ(z,x)は全てp乗数となる。つまり、(−z)ᵖ=xᵖ+yᵖ=(x+y)Qₚ(x,y)が成立ー[補題2]
 これは、補題1とフェルマーの小定理(xᵖ≡x(mod p))を使い、xᵖ+yᵖ≡x+y(mod p)⇒(p,x+y)=1より(Qₚ(x,y),x+y)=1となり、(−z)ᵖ=xᵖ+yᵖ=(x+y)Qₚ(x,y)からx+yとQₚ(x,y)がp乗数であるを導ける。y+z,z+yも同様です。

 ここで、ソフィー・ジェルマンの定理を示す為の2つの条件を提示(仮定)します。
 p,qを以下の2つの条件を満たす奇素数とすると、(1)pは法qに関しどの整数のq乗とも合同ではない。(2)x,y,z:整数、xᵖ+yᵖ+zᵖ≡0(mod q)を取るならば、xyz≡0(mod q)。
 この時、「FLT(p)の1stケース」は指数pに対して正しい。
 もしxᵖ+yᵖ+zᵖ=0、(x,y)=1と仮定すると、条件(2)より、qはx,y,zのどれか1つを割り切る。
 補題2よりx+y=tᵖ,y+z=rᵖ,z+x=sᵖと表せ、x=(−rᵖ+sᵖ+tᵖ)/2,y=(rᵖ−sᵖ+tᵖ)/2,z=(rᵖ+sᵖ−tᵖ)/2と書ける。故に、−rᵖ+sᵖ+tᵖ=2x≡0(mod q)から、以下、法は全てqとする。
 (2)により、xyz≡rst≡0(mod q)を得る。補題2より、tᵖQₚ(x,y)=−zᵖ,z≢0、よってy≡−z。
 ここで、t₁ᵖ=(xᵖ+yᵖ)/(x+y)=Qₚ(x,y)とすると、(x+y)t₁ᵖ≡(xᵖ+yᵖ),x≡0よりt₁ᵖ≡yᵖ⁻¹。また、r₁ᵖ=(yᵖ+zᵖ)/(y+z)=Qₚ(y,z)とすると、r₁ᵖ≡pyᵖ⁻¹≡pt₁ᵖ。z≡0⇒t₁≢0。
 そこで、t₁t'≡1なるt'を取ればp≡(r₁t')ᵖとなり、(1)の条件に反する。最初に仮定したxᵖ+yᵖ+zᵖ=0、(x,y)=1なる整数解は存在しないから、FLTは成立する。
 つまり、上の2つの条件が正しい事が証明できた。

 最後に、ジェルマンの定理の証明ですが、”オイラーの規準”{(a/q)≡a^((q-1)/2)(mod q)}を使います。因みに、(a/q)は平方剰余の記号です。
 p:素数、q=2q+1:素数、p≡aᵖ(mod q)とすると、±1=(a/q)=a^((q-1)/2)=aᵖ≡p。故に、p≡±1(mod q)となりq=2q+1に矛盾。よって、上の条件(1)が成立。
 次に、xᵖ+yᵖ+zᵖ≡0(mod q)、xyz≢0(mod q)とする。上のオイラーの規準より得たxᵖ=x^((q-1)/2)で、x^(q-1)≢0(mod q)よりxᵖ≡±1(mod q)、同様にyᵖ≡±1、zᵖ≡±1から、0≡xᵖ+yᵖ+zᵖ≡±1±1±1となり、明らかに矛盾する。よって、条件(2)が成立し、「ソフィー・ジェルマンの定理(1stケース)」が成立する(証明終)。


ジェルマン嬢の栄光と悲劇

 ルジャンドルは、このジェルマン嬢の定理を使い、以下の拡張を得た。
 奇素数pに対し、2p+1,4p+1,8p+1,10p+1,14p+1,16p+1のうち、1つでも素数であれば、pに対し「FLT(p)の1stケース」が成立する。
 このルジャンドルの判定法で証明できるのは197よりも小さい素数とされる。

 しかし、彼女の伝記を書いたデル・センチナによると、実際にジェルマンが自身の結果を用い、100より小さい全ての奇素数pについて「1stケース」の証明を行い、197よりも小さい素数までをも既に証明していたと。
 その上、FLT(5)に対する反例は全て"その大きさが想像力を脅かす"数であるべきで、”それは約40桁である”事も、未発表の原稿で示していた。
 この華麗なるジェルマンの定理ですが、ルジャンドルの「数論」の脚注によってのみ知られ、そこでは彼がFLT(5)の証明(後半部)するのに使われた。
 上述のデル・センチナは、”200年もの間、彼女の発想はフェルマーの大定理の研究の中心にあった”とも述べている。しかし結局は、彼女の方法はうまくは働かなかった。
 だが、彼女の華麗な定理はFLT(5)の完全証明に結びつき、後のクンマーに繋がる(全ての奇素数における)フェルマーの大定理の決着へ向け、大きく前進します。

 元々裕福の出だった彼女ですが、不運は更に続きます。
 ジェルマン嬢は敬愛するガウスの命を救った事でも有名ですが、ガウスと文通するうちに女性である事がバレてしまいます。
 その後、得意な数論研究での手紙でのやり取りが続きます。しかし、当時のガウスは数論から離れ、殆ど興味を示しませんが、彼女の事は高く評価してました。
 ガウスの”証明も反証も出来ない命題(定理)は幾つでも書き出せる”と友人に送った言葉にも、フェルマーの大定理に対する無関心さが伺えますね。
 

最後に〜偉大なる女性数学者

 ジェルマン嬢はこうした数論の研究だけでなく、弾性理論の先駆者の1人でもありました。
 敬愛するガウスとの文通が一旦終わり、1809年頃からルジャンドルの援助もあり、弾性理論の研究に没頭します。そして、1816年には弾性体の研究論文で、パリ科学アカデミーから女性初の大賞を受賞する。
 その後、アカデミーがフェルマーの大定理(FLT)に関する賞を提案した。これにより数論に対する興味が再び呼び起こされ、ガウスに10年ぶりに手紙を書く。
 彼女は、FLTの一般的な証明に向けた戦略の概要をガウスに説明したが、ガウスは返答しなかった。
 晩年は、乳がんを患ってるにもにも関わらず、彼女は1人で研究を続け、1831年に”弾性体表面の曲率”についての論文を発表したが、その年に亡くなった(享年55歳)。

 この様に、フェルマーの大定理の証明の基礎を築いたとも言える数論の研究者であり、弾性理論の先駆者の1人でもあった彼女だが、当時は性別に対する厳しい偏見があった。
 故に、数学のキャリアを歩む事はできなかった為、一生を通し1人で研究を行った。
 彼女の生前に、ガウスは彼女に対し、”ジェルマンは女性であっても、自然科学の世界で価値あるものを達成出来る事を世界に証明した。よって名誉学位を与えるに値する人物であるのは間違いない”と、名誉学位を授与する事を勧めていたが、実現には至らなかった。

 以上、ジェルマン嬢の物語はウィキを参考にしました。
 本来ならクンマーの研究(イデアル=理想数)にまで一気に行きたかったんですが。長くなりすぎたので今日はここまでです。



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