上の写真は、ベーブ•ルース憧れのジョー•ジャクソン(右)です。ホント嬉しそうですね。
ルースは彼に憧れて、野球を始めたと言われてます。しかし、メジャー入りして僅か数年後に、憧れのジャクソンを追い抜くとは、誰が想像し得たでしょうか?
さて、ルースのボストンでの最初の輝かしい時代が始まります。この時代なくして彼を語る事は出来ませんね。
1916年、第一次世界大戦の影響でメジャーのライバル、フェデラルリーグが消滅し、選手の年俸が大幅にカットされ、ボストンも主力数名を失います。
チームの看板選手に
入団僅か2年目で才能を開花させたルースは、往年の名投手ウォルター•ジョンソンを凌ぐ、23勝12敗1.75と、防御率と完封数はリーグ1の活躍で、チームを牽引し、2年連続世界一に導きます。メジャー入団3年目での快挙です。
ワールドシリーズでもブルックリン•ロビンス(現ドジャース)を相手に、14イニング無失点の快投。打つ方は3本塁打(67試合136打数37安打)のみで、まだ二刀流の面影は目だたないのですが。ルースのメジャーでの基盤を築き上げたシーズンと言えます。
因みに、ルースの二刀流は一昨年のメジャー入団の年(1914)に、その外殻が出来上がってはいた。登板機会が少な過ぎて、”投げる方でダメなら打つ方で”と、密かに打撃練習をした。しかし、バットをへし折られる等のチームメイトの嫌がらせを受け、仕方なく古いバットで練習を重ねた。
この年のオフ、資金に苦しむレッドソックスは、劇場経営者のハリー•フレイジーに球団を売却。殆どの選手が減給の中、ルースだけは別格で、30%増の五千ドルに。しかしこの売却劇が後のボストンの悲劇を生むんですが。
翌1917年も、ルースは投手として最高の数字を残す(24勝13敗、2.01)。打っても、打率.325(52試合123打数40安打)で本塁打は2本だけだが、投げる方で大きく貢献した。
しかし、ジョー•ジャクソンを拝するWソックスが強過ぎた。100勝を上げ、2位のBOSに9ゲームもの大差をつけ、ペナントをぶっちぎった。因みにこのチームは、1927年の"殺人打線"のヤンキースを凌ぐ、”MLB史上最強”と称されています。
しかし、この頃になると、第一次世界大戦が激化し、若いプレーヤーが次々と戦場に送られ、MLBはパニックをきたします。油の乗り切った選手が戦場だけでなく、農場や工場にまで流出します。
”戦争中なのに野球やってる場合か、国の為に仕事しろ”っての御上の支持ですね。
お陰で、21歳までと31歳以上の一握りの選手だけが残され、観客は遠ざかり、多くの球団は破綻寸前に。
一方、22歳のルースは既に結婚してた(1914)から、運良く徴兵を免れた。その上、念願の1万ドルで契約します。戦争が長引き、アメリカも不景気のどん底だった時でさえも、別格の待遇だったんです。
ルースの躍動と苦悩の日々
1918年はまさに激動の年となる。監督がエド•バローに変わり、彼はルーズを魔術のように扱った。”二刀流”ルースが誕生します。
登板しない時はレフトを守り、登板する時も9番を打たせた。彼は後、ヤンキースのGMになり、ルースとは長い長い付き合いとなりますが。このバローこそが、ルースの生みの親なんです。名前だけは覚えときましょうね。大谷はどうも無理っぽみたいですが。
しかし、彼の身体は悲鳴を上げる。監督とは二度衝突した。一度は疲労でダウンしたが、休養後ルースは狂ったように快投し、打ち捲った。
僅か95試合で11本塁打は、当時では驚異的な数字であり、この年の本塁打王に輝く。投げても13勝(7敗、防御率2.22)を上げ、チームをリーグ優勝に導いた。戦時下により、この年のペナントが1ヶ月も短縮されたのにです。
その上、現在メジャー唯一となる、”同一シーズン、10勝&10本塁打”でもあった。今のメジャーのレベルからすれば、20勝&40HRみたいなもんでしょうね。
しかしいい事ばかりでもない。不幸にもこの年は、最愛の父が酒場の喧嘩に巻き込まれ、他界する。母親のケイトも、彼が15歳の時に既に亡くなっていた。因みに、ケイトはルースを含め生涯に9人の子供を産んだが、成人期を迎える事ができたのは、ルースと5歳年下の妹マミーの2人だけであった。
この年以降、ルースがボルチモアへ帰郷する事はなかった。彼がまだ23歳の時です。グランド外での奔放で破廉恥な彼も、人知れず悲しい一面があったんですね。ルースはよく少年時代を思い出した。
”ホントあの頃が一番辛かった”
王者の街ボストンと戦争の終結
カブスとのワールドシリーズでは、ルースの活躍は凄まじく、29イニング無失点のメジャー記録を打ち立て(以降42年間破られる事はなかった)、ボストンを世界一に導きます。
彼がボストンに入団し、僅か4年で3度の世界一です。
因みに、この頃のボストンは"王者の街"と称され、世界一幸せな民だったんです。この時の街の歓声は、”独立戦争のコンコードとレキシントンで英国軍を撃破した時よりも大きかった”と言われてます。まるで、当時のボストンの大歓声が、ここまで聞こえてきそうな勢いですね。
しかし世界一の報奨金は、戦争の影響で僅かに1200ドル。前年の1/3でMLB史上最低だった。それでもボストンだけは戦争の事を全く忘れ、沸き返った。
まさに、ルースの存在は戦争をも凌駕したのだ。そして、ルースの大活躍にひれ伏す様に、その2ヶ月後、第一次世界大戦は終結します。
でも独立戦争の時よりも熱く盛り上がったボストンの街。タイムマシンがあったら行ってみたい。
本来、ヤンキースは、仲のいいルースとジョーを10万ドルで引っこ抜く予定だったんですね。ま、それがオジャンになったんですが。その代り、ゲーリックが入るから、ヤンキースはツキにも恵まれてます。
今、"野球とニューヨーク"で、ブログ立てたんですが。タップリと大リーグの腐敗と不正の歴史を、語っていこうと思います。