他人の人生を生きるって、どんな感じがするのだろう?他人の名前を名乗らなければ生きていけない人生って、どんなものなのだろう?
そんな思いを漠然と抱きながら、この作品を只々見つめていた。確かに、幕切れを除いては、とても良く出来た作品だった。
夫と別れ、故郷の宮崎に帰っていた里枝(安藤サクラ)は、口数の少ない若者・谷口大祐(窪田正孝)と再婚。心に深い傷を負った2人は、囁かな幸せを享受していたが、ある日、大祐が不慮の事故で命を失う。
それから1年後、大祐の兄が法要に訪れ、”この男は大祐じゃない”と衝撃の事実を告げる。つまり、里枝の夫だった男は“谷口大祐”ではなかったのだ。
本名も経歴も謎の男に戸惑う里枝は、弁護士の城戸(妻夫木聡)に、亡くなった夫の身元調査を依頼するが・・・(Amazon)
”他人の傷を生きる”という事
結論から言えば“戸籍交換”を描いたミステリーである。正体不明の“ある男”は計3度の戸籍交換を繰り返して生きてたのだ。
男の本名は”小林誠”。父親が家族を殺害し、この犯罪をきっかけに、母の旧姓である”原”を名乗り始める。が、姓を変えても”死刑囚の息子”の烙印は消えなかった。その時、戸籍ブローカーと知り合い、戸籍を交換し、”曾根崎義彦”として新たな人生を歩き始める。
2度名前を変えた誠は、家族から逃げていた男と3度目の戸籍を交換し、“谷口大祐”に成り代わる。その後、宮崎で里枝と知り合い、不慮の事故死の後は、弁護士の城戸により、”ある男”の過去が次々と暴かれていく。
調査の結果、“谷口”と“ある男”が別人である事が判明し、戸籍上の“谷口大祐”は何処かで生きてる事になる。但し、映画の終盤で谷口本人が元恋人を喫茶店に呼び出し、再会するシーンがあるが、私には非常に曖昧にも思えた。
以下、「”ある男”の最後のセリフの意味・・」に主観を交え、大まかに纏めます。
というのも、なぜ谷口大祐は戸籍交換に応じたのだろう?
原作では、その経緯がしっかりと描かれてはいるが、映画ではカットされている。つまり、”老舗旅館の次男”というだけでは、谷口の戸籍交換に応じた真意は見えてこない。
私が”幕切れを除いては”との注文をつけたのもそこにある。”戸籍交換”というテーマがとてもユニークに映ったから、実に残念ではあった。
因みに、映画ではほぼセリフなしの谷口(仲野太賀)だが、原作では、ヤクザの息子である曾根崎の名前と過去を利用し、周囲を脅していた。つまり、戸籍を交換し、谷口が嫌悪してた兄と同じ様な振る舞いをする、皮肉なオチで原作は幕を閉じる。
一方で、エリート弁護士の城戸も”在日韓国人”という、もう1つの顔を持っていた。
原作者の平野啓一郎は、実際に出会った”嘘の経歴を語る人物”を城戸のモデルにした。事実、映画のラストで、城戸はバーで出会った男に、谷口の経歴を語る。
因みに、映画冒頭とラストに登場する奇妙な絵だが、ルネ・マグリットの作の「複製禁止」(1937)である。
つまり、戸籍交換により他人の人生を“複製”するテーマの作品とも言えるが、この物語の主人公は”ある男”ではなく城戸である。
私は、”男”を追い続ける城戸に等身大の感情を注ぎ込んでいた。が、当の城戸は”男”の過去を知るにつれ、自分自身を見失ってしまう。
映画は、城戸が自分の複製が映り込んだ「複製禁止」を見る所で幕を閉じる。しかし、そこには、”複製禁止”の違和感が城戸の背中を支配していた。
つまり、城戸は”他人の傷を生きる事で自分自身を保つ”という際どい選択をしたのだろう。
これは、原作で城戸のモデルとなった人の言葉だが、映画の中の城戸も自分自身を保つ為に“他人の傷を生きる”しかなかった。もっと言えば、他人の傷を自分のものにする事で自身の致命的な問題から目を逸らそうとした。
確かに、よくあるケースではある。
最後に〜複製禁止と劣化コピー
コラムでは、”人は1つの印象だけで判断できる程単純ではないし、人には様々な人間が存在する。先入観を排除し、目の前にいる人を1人の人間として判断すべきなのだ”で締め括られているが、そういう私も(自分も含め)他人を先入観で判断する傾向にある。
つまり、自分を”なりたい自分”に複製(又は模写)して生きようとする。こうした”なりたい自分”を基準にして(自分だけでなく)他人をも判断する。
私は履歴書の職業経歴書の覧にウソを書いた事が何度かある。つまり、”なりたい”職業を書いたのだ。
勿論、そんなセコい事をしてもすぐにバレるし、バレなくても相手に及ぼす自分の印象が変わる訳でもない。いや、むしろ悪くなるだけだろう。
まさに、”複製禁止”とはこの事だが、”なりたい”人間になろうと思う程に、”なりたくない”人間に成り下がる。
仕事も同じで、”やりたい”仕事をやろうと思う程に、”やりたくない”仕事を延々とやらされる。
結局、自分は自分以外のものにはなりえない。そう思うと、自分を見る目も他人を見る目も変わってくる。
そういう事が判っていながら、人には様々な人間が混在&内在し、自分をより良く見える様に自分をある種の人間に複製(模写)しようとする。当然、複製する度に劣化が起きる。
大衆はそうやって落ちぶれ、人生という劣化コピーが廃棄物処理場の残骸の山の如く積み上げられる。
この映画も、人生を複製する程に劣化コピーに陥るという教訓とジレンマを教えてくれる。
結果的に、”結局は何も知らない方が幸せだったかも・・”という里枝の言葉が非常に印象的だったが、確かに何も知らなければ、複製も劣化コピーも存在しない。
自分にしか通用しない自分だけのオリジナルな人生というのが、最高の人生である筈なのだが、そういう事に気付く前に殆どの人は人生を終えてしまう。
そう思うと、見てて色んな事を考えさせてくれる映画ではある。
他人の傷をナメて生きるっていうんでしょうね。
そうやって村社会の住人は劣化し自滅していくのでしょう。
安藤サクラさんは気になる女優サンですし
早速Amazonで見ることにします。
そう言えば妻夫木聡さんは柳川の出身でしたね。
大衆は人の傷をナメて生きるんでしょうか。
日本には”情けをかける”って言葉がありますが、結局は自分にも情けをかけてほしいという欲望の表れでもあります。
一方で、同調と同情の違いもよく指摘されますが、どちらも”相手に合わせる”という意味では同じ事ですよね。
この映画のテーマは”他人を生きる”事ですが、”複製禁止”というタブーにも暗に仄めかしてます。
結局は、他人を生きても劣化するだけですし、かと言って”自分を生きる”というのは難しすぎる。
色んな事を考えさせてくれる映画だと思いました。
妻夫木さんは柳川市(旧三橋町)の出身ですが、小さい頃だけで、すぐに上京したらしいです。
でもいつも若くてハンサムで、好きな男優さんの1人です。
では・・・
これが一番難しい。
指摘された通り同情と同調ですが
共感となると
相手に対する理解はあるが相手に飲まれることはない。つまり同情はするけど私はアナタじゃないとなる。
つまり個々が自立した上での情けなんでしょうね。
他方で同調圧力という言葉が村社会の日本には多く見かけられますが
全員が心の中では反対なのに集団心理的な圧力に押され不本意なまま同意してしまう。
個人の意見が社会に反映されないというケースはよくありますが
他人を生きるというのがイカサマだと解ってても集団の中で生きるとの観点で言えば悪いことでもないのですが
こちらこそ色々と勉強になります。
言われる通り
”他人を生きる”と”集団の中で生きる”とは共通するものがあります。
結局は自分を無視して生きる事に他ならないんですが、集団社会とはそうやってすぐに劣化し、死滅するんでしょうか。
かと言って、人は社会的生き物ですから、他人や集団を無視しては生きていけない。
そういう意味で言えば、多数決型民主主義も集団や他人を生きる事の典型でしょうか。
”複製禁止”とは言い換えれば、安易な形での同情や同調を禁止する事で、他人を生きる事の脆さと危うさをこの映画は暗に指摘してます。
一方で、共感には自主性が、協調には譲歩が存在します。
つまり、自分を生きつつも協調が必要な時があるし、自分を大切にしつつも他人を思いやる。
そういうのが本当の”社会的生き方”なんでしょうか。
相変わらずの知的ブログ健在ですね。
私もネトフリで「ある男」見ましたよ。
主人公は果たして誰なんでしょうか。
窪田の生き方を最後に妻夫木がパクった。
我々の遺伝子も祖先から
子々孫々とパクリ受け継ぎ受け継がれ
正しくパクリ人生が営まれて行く。
日本自体が中国・朝鮮・欧米等の諸文明を
パクリながら生き永らえて来れた。
私も転象さんのブログをパクってた時期が
あったかな。
数学の噺には付いて行けなかったけど…。
今後とも宜しくです。
全く同感です。
人は人をパクりながら生き延びてきました。
つまり、伝承や継承という名のパクリですよね。
一方で、そうした継承を創造に変えるのも人の叡智だと思います。天才リーマンも”継承は創造なり”と言ってますから・・
いま、”江戸時代の数学”というテーマで記事を書いてんですが、日本独自と思ってた和算が中国を起点としていた事に驚いてます。
ただ日本人の凄い所はその和算を進化させ、世界トップクラスの数学に押し上げた事です。
おやおや、また理屈っぽくなりそうですね。
いつか、政治をテーマにした肱雲さんのブログを読みたいです。
では・・・身体にお気をつけてです。