絵を描くことは子供の頃から始まる。人
間には描かずにはいられない、なにかがあるのだろう。チンパンジーや象も絵の具を塗りたくるが、描いているのではなさそうだ。有史以前の壁画にもそれは描かれている。光のない洞窟の壁面に描かれた動物の絵や手形を見るとき、ほとばしる何か(語彙が少なく表現できない)を感じる。描かれたもののイメージに内包されたメッセージを発見したときの感動は永遠のものだ。イメージを転写できるのは人間だけ。我々は言葉を持つのでイメージを共有できると錯覚しがちだが、言葉を尽くしても伝えきれないものは多い。しかし多くの人にとって絵を描くことは、忘れ去られた表現手段となる。
描く行為は緊張を強いるから楽しい作業ではない。描くには、見ることが必要になる。よく見ないと、ものの関係は分からない。描き進むに従って、見ることに慣れるから、それまで見えなかったものの関係が見えるようになる。訓練によって描く動作が習得されるから、だんだんと破綻無く整然としたものが描けるようになる。だが、それはよく描けているに過ぎないのだ。
表現とは見たものを描き表すことではない。新たな感性や技術を付加することだ。従って絵が描ける人はあまたいるが、表現できる人はまれだ。絵描きが世の中に多数存在する。俺は今日から画家だと思えばいい。国家資格はいらないし、世間などに通用する必要はないし、これまで存在したほとんどの画家は無名だ。理解されることさえ、恥ずべきことなのだ。画家とは描かずにいられない、ほとばしるものが噴出し、噴出し続ける人間に他ならない。描かずにはいられない希有な人だ。たいていの人は画家を目指しても、描くべきもの(表現するもの、技術)が見つからない。表現には技術がほとんど必要ないものも多い。従って描けないのに表現できる人もいるから、一筋縄ではいかない。個性と呼ばれるものの多くは、性癖に過ぎない。語られる精神性を人々は求めるが、理解できる精神性など陳腐だし、意図された精神性など噴飯ものだ。普遍性などそもそもない。
若い頃、30年以上前、京都でスーパーリアリスムの展覧会があった。美術手帳ではそれまでも登場していたが、写真で見る小さなそれは今までに見たことのない、信じられない精緻さだった。どうしても観たいと思い、出かけた。ほとんど入場者はなく、最先端の絵画よりセザンヌの方に行列を作っていた。驚くほどの大画面で、どの様にして描いたかさえわからなかった。精神性を拒否し、写真のような、意図した構図やシャッターチャンスもない。大画面に正面から描いた顔があるだけだ。チャック・クロースという名前を忘れられない。精緻ではあるが巧いと言っていいのかどうか。乾いた表現と形容するしかない。これまで絵画が培ってきた、精神性や個性は無い。全てが打ち消される。あっぱれだ。描いたかどうかさえ分からないのだ。が、リアルなものを人間は求める。同時にワイエス展も開かれていたが、こちらも閑散としていた。時代を共有できないことは不幸だ。
それまでも現代絵画はダダイズム以降、さまざまな運動として絵画史を彩ってきた。あらゆるものに価値を与え、便器でさえ表現の手段として用いられた。ますます難解な理論で武装し、理論だけを展示することさえあった。グッゲンハイム美術館に展示された氷の作品「この作品が長期に渡って展示できないという抗議を発するならば、氷を買った領収書をデッサンとして提示できる」しびれました。今でもこのフレーズを暗唱できる。これまでの価値が転換するうねるような時代だった。ほとんどは商業美術(広告)に吸収され今日に至る。以降新しいパワーも散見されるが、驚きはない。描くことの意味は何か? 何を描くか? 描いてから考えるか、描かずに死ぬか。
写真は左からチャック・クロース、リチャード・エステス、アンドリュー・ワイエス、野田弘志。