頭の中に映像の順番がビシッと決まっていて、流れに敏感。
「うまく書こうと思うなよ。正確に書くんだ」
とよく言われた。
(脚本家・中島丈博)
………………………………………
常に、リズミカルな文章を創るよう心がけている。
「てにをは」的に間違っていようが、リズムを最優先させる。
難しいことばを使いたくもなるけれど、それでリズムが壊れるときだってある、ならば平易なことばを並べたほうがいい。
リズム、とにもかくにもリズムなんだ。
映像表現も、同じだと思う。
映画のリズムを決めるのは、脚本と編集。
だから自分は映画監督ではなく、脚本家か編集マンになろうと高校生のときに決めた。
荒井晴彦、新藤兼人、野島伸司、桂千穂。
自分が、脚本について教わったことのあるプロ。
自作を読んでもらい、たくさんのアドバイスをいただいた。
荒井晴彦には「けちょんけちょん」にされ、野島伸司には鼻で笑われた。
それを知らないはずの新藤兼人には「なぜか」励まされたりしたが、いちばんに読んでほしかったのは橋本忍だった。
会う機会が、なかったわけではない。
ないが、勇気が出なかった。
「この程度の脚本を読んでもらうわけにはいかないよな、じゃあ次の作品で…」みたいなことを繰り返し、やがて会う機会を失っていった。
会ってみたいが、会うのが怖い。
ほとんど神、、、のような存在だったから。
デビュー作が黒澤の『羅生門』(50)なんだもの、映画のことを「分かったふりをしているだけ、のガキ」であることなんて一瞬で見透かされてしまうにちがいない。
52年、『生きる』の脚本を担当。
3人による共同作品だが、驚きの展開が用意されている後半のアイデアは(たぶん)橋本によるものだろう。
『七人の侍』(54)や『張り込み』(58)もそうだが、ストーリーテラーとしてとにかく我慢強い。
ためてためてためて、さんざん焦らしたあとに、ようやく真実が明かされる―すぐにオチをいいたくなってしまう自分なんかは、このあたりでもう脚本家失格っぽい。
その個性が最も発揮されたのは、おそらく『砂の器』(74)だと思う。
松本清張の原作は60年に発表され、橋本はその直後に映画化を決意。
山田洋次と何度も脚本を練り直し、原作ではわずか数行に過ぎぬ遍路の描写を数十分に及ぶクライマックスに配置する。
すぐにオチをいいたくなってしまう浅はかな人間では、この構成には辿り着かなかったと思う。
しかし脚本は完成したものの、ハンセン氏病をテーマとする暗い内容に大手スタジオは尻込みをし、なかなか映画化を実現出来ないでいた。
映画が完成したころには、10年が経過していたのである。
執念、執念だなぁ。
正直、物語的にどうなんだ? と思うところだってある。
新聞コラム『紙吹雪の女』(=島田陽子)のくだりとか、あまりにも創り込み過ぎているし。
けれども映画的迫力を前に、そんなことはどうだってよくなるのだった。
『悪い奴ほどよく眠る』(60)や『切腹』(62)、

『白い巨塔』(66)、『日本のいちばん長い日』(67)など、ノンクレジットで観たとしても「橋本忍が関わってそう」と思わせるものばかり。
『サンデーモーニング』(TBS)で訃報が流れたとき、ある識者が「大学のとき、映画制作のサークルに入っていた。脚本の参考にと橋本さんのホンを読み込んだが、あまりの緻密さに感嘆し、結果、自分の才能の限界を思い知らされることになった」と発していて、あぁ同じように絶望した映画小僧は日本中に居るにちがいない、、、と思った。
本来であれば、大往生であるし、天才に対し悪口のひとつでもいってやりたい。
そうすることで他者の追悼文との差別化を図ってきたのだが、このひとに対する悪いところが思い浮かばない。
我慢強さと執念、表現するものにとって大事なふたつのものを宿した橋本忍は、自分にとって、いろんな意味で、遠い遠い存在であったなぁ、、、と感じるだけなのであった―。
脚本家・橋本忍、7月19日死去。
享年100歳、合掌。
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明日のコラムは・・・
『20年引きずっているんだから、マザコンなんだと思うよ。』
「うまく書こうと思うなよ。正確に書くんだ」
とよく言われた。
(脚本家・中島丈博)
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常に、リズミカルな文章を創るよう心がけている。
「てにをは」的に間違っていようが、リズムを最優先させる。
難しいことばを使いたくもなるけれど、それでリズムが壊れるときだってある、ならば平易なことばを並べたほうがいい。
リズム、とにもかくにもリズムなんだ。
映像表現も、同じだと思う。
映画のリズムを決めるのは、脚本と編集。
だから自分は映画監督ではなく、脚本家か編集マンになろうと高校生のときに決めた。
荒井晴彦、新藤兼人、野島伸司、桂千穂。
自分が、脚本について教わったことのあるプロ。
自作を読んでもらい、たくさんのアドバイスをいただいた。
荒井晴彦には「けちょんけちょん」にされ、野島伸司には鼻で笑われた。
それを知らないはずの新藤兼人には「なぜか」励まされたりしたが、いちばんに読んでほしかったのは橋本忍だった。
会う機会が、なかったわけではない。
ないが、勇気が出なかった。
「この程度の脚本を読んでもらうわけにはいかないよな、じゃあ次の作品で…」みたいなことを繰り返し、やがて会う機会を失っていった。
会ってみたいが、会うのが怖い。
ほとんど神、、、のような存在だったから。
デビュー作が黒澤の『羅生門』(50)なんだもの、映画のことを「分かったふりをしているだけ、のガキ」であることなんて一瞬で見透かされてしまうにちがいない。
52年、『生きる』の脚本を担当。
3人による共同作品だが、驚きの展開が用意されている後半のアイデアは(たぶん)橋本によるものだろう。
『七人の侍』(54)や『張り込み』(58)もそうだが、ストーリーテラーとしてとにかく我慢強い。
ためてためてためて、さんざん焦らしたあとに、ようやく真実が明かされる―すぐにオチをいいたくなってしまう自分なんかは、このあたりでもう脚本家失格っぽい。
その個性が最も発揮されたのは、おそらく『砂の器』(74)だと思う。
松本清張の原作は60年に発表され、橋本はその直後に映画化を決意。
山田洋次と何度も脚本を練り直し、原作ではわずか数行に過ぎぬ遍路の描写を数十分に及ぶクライマックスに配置する。
すぐにオチをいいたくなってしまう浅はかな人間では、この構成には辿り着かなかったと思う。
しかし脚本は完成したものの、ハンセン氏病をテーマとする暗い内容に大手スタジオは尻込みをし、なかなか映画化を実現出来ないでいた。
映画が完成したころには、10年が経過していたのである。
執念、執念だなぁ。
正直、物語的にどうなんだ? と思うところだってある。
新聞コラム『紙吹雪の女』(=島田陽子)のくだりとか、あまりにも創り込み過ぎているし。
けれども映画的迫力を前に、そんなことはどうだってよくなるのだった。
『悪い奴ほどよく眠る』(60)や『切腹』(62)、

『白い巨塔』(66)、『日本のいちばん長い日』(67)など、ノンクレジットで観たとしても「橋本忍が関わってそう」と思わせるものばかり。
『サンデーモーニング』(TBS)で訃報が流れたとき、ある識者が「大学のとき、映画制作のサークルに入っていた。脚本の参考にと橋本さんのホンを読み込んだが、あまりの緻密さに感嘆し、結果、自分の才能の限界を思い知らされることになった」と発していて、あぁ同じように絶望した映画小僧は日本中に居るにちがいない、、、と思った。
本来であれば、大往生であるし、天才に対し悪口のひとつでもいってやりたい。
そうすることで他者の追悼文との差別化を図ってきたのだが、このひとに対する悪いところが思い浮かばない。
我慢強さと執念、表現するものにとって大事なふたつのものを宿した橋本忍は、自分にとって、いろんな意味で、遠い遠い存在であったなぁ、、、と感じるだけなのであった―。
脚本家・橋本忍、7月19日死去。
享年100歳、合掌。
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明日のコラムは・・・
『20年引きずっているんだから、マザコンなんだと思うよ。』