朝鮮時代の食べ物の思い出 小林正恵 (『くるくるしんぶん』 101号 昭和57年9月24日)
(小林正恵さんは夫の母で、「思い出すこと」の小林昇の妻、つまり私の義母です。明るくていい方でした。北朝鮮、徳源の神学校の教師となった夫について北朝鮮で暮らし、夫が出征中だった終戦時には、ひとりで3人の男の子を連れ、苦労して日本に帰国しました。苦労した話より食べ物の思い出を書き残してくれたのはいかにもお義母さんらしいです。まいぱん)
昭和十六、七年徳源の神学校の舎宅にいた頃でした。或日学校から帰った主人が出してくれたソーセージを少し厚めに切ってスープにいれましたら、すっかり溶けてしまいまいした。後でそれは血を固めて作ったサラミと教わったことでした。
昭和二十一年の終りに家を出て九日程歩いて、開城の一時収容所に着き、その翌日京城へ移された時、そこの収容所は本願寺派の寺院でした。そこで出たおにぎりはとうもろこしの実がそのまま炊き込んであったのが今でも忘れられません。その時炊き出しをしてくれた大釜はお骨を洗ったお釜だと、したり顔に教える人がいて、幾らかそれを信じる気持がその時自分の心の裡にありました。今考えると荒唐無稽な話を信じる気持になって余計引揚者のオドオドした心理に輪をかけたことでした。
朝鮮では毎年秋になるとキムチを漬け込みました。先ず白菜の買い出しにニーヤンといった支那の人の畑に出掛けます。朝鮮の農法とはちがって広い池のようなところに肥料をまき、すっかり風化させた黒い土状のものが良い白菜を作るとかいうことでした。
それから元山の「トンコリ」の市場にキムチ用の唐辛子粉や松の実、えびの塩漬け等求めに行きます。自家製の鰯の塩漬けもなくてはならないものでした。
白菜は、一度岩塩をタライに溶いてそれにどっぷり漬け、翌日水洗いしておきます。中に入れる具は鰯のすり身ににんにくや唐辛子をまぜておいて、それを白菜の間々に挟み、最後は丸くボールのようにしたり、二つ割りにして間に入れたのを二つに折ってまとめたのをかめに詰込みます。そこへ鰯を煮て覚ました煮汁を注ぎ込んだのち、貯えるのです。貯蔵庫のない我家では藁でかこった裏庭に半ば土の中に埋めて凍るのを防いでおきました。零下五、六度、ひどい時は十度にもなる北鮮のこと故かめの上の方はいつも凍っていました。熱いオンドル部屋の中、辛い唐辛子で体も温まり、魚の煮汁の臭味が消え、平気でおいしく食べられました。
引き上げ後内地で作ってみた時はにんにくが臭くてだんだんにやめてしまいました。朝鮮ではいかを入れたり、北の方では豚の脂身をいれたりして作るともききました。お金持程薬味に高価な松の実等ぜいたくに使って何十ものかめを仕込むと聞きました。たかが漬物としてでなく生野菜の乏しい冬におかずとしても大事なものだったのでしょう。
今日散歩で見かけた伝書鳩です。このお家ではもう長い間飼われていて、マイと散歩していたときは毎日空を飛ぶ鳩たちの姿を立ち止まって見上げていました。
子どものころから生き物が好きでした。今でも生き物の記憶は生き生きと私の中にあります。飼い始めるときのわくわくした気持ちだったり、手に負えなくてつらかったり、そばにいてくれる満たされた気持ちだったり・・・。そして別れのつらい思い出があります。これはそのどれともちがう、憧れの記憶です。
伝書鳩 くるくるしんぶんNo.612 (1991.3.4)
2月19日昼休みにいつもの構内散歩も終わりに近づいたころ、ほとんど骨になった鳥の死骸を見つけました。
「あら、足環をしているみたい。」
足環には電話番号が書いてあるようでした。
「連絡してあげた方がいいんじゃない? でも足環がとれない。」
からからの骨の足をつまんで足環をひっぱると、かんたんにはずれました。足環には電話番号と「鈴木」の文字がありました。
鈴木さん宅に電話すると、奥さんらしいひとが出ました。訳を話すと
「先週日曜日、レースに出した伝書鳩が戻らなかった。天候が悪かったので、事故にあったのでしょう。わざわざありがとう」とよくあることなのか、ごく冷静でした。
電話をかけたあと、同僚のSさんにその話をしたら、ご主人が子供のころ、50羽も伝書鳩を飼っていた話をしてくれました。
餌代をつくるために農家だったおうちの畑からミョウガなどを掘り出しては、立川の青果市場に運び、並べておくと、けっこう売れて自力で鳩たちを養うことができたのだそうです。
Sさんのご主人って、イギリスの児童文学に出てきそうな、自立した少年だったんだなとわたしは感心しながら、聞いてきました。
そういえば、子供のころ、わたしは伝書鳩を飼うのが夢でした。
中学1年の一時期、『伝書鳩の飼い方』という本を毎日毎日暗記するほど読んだものでした。
自分の夢を具体化する手がかりを与えてくれる実用書、これを読む秘かなる楽しみ、言うに言えないものがありますね。
わたしは『伝書鳩の飼い方』を読んでは、小屋から飛び立たせたわたしの鳩たちが大空を飛翔し、また整然と列をなして戻ってくる、そんな様子を思い描いて、張り裂けんばかりに胸を高鳴らせるのでした。
でも張り裂ける寸前でいつも高鳴りを押しとどめるものがありました。
それは、本には鳩の訓練は朝6時と書いてありますが、わたしは八王子から御茶の水まで電車通学していたので、6時にそんなことをしていたら遅刻してしまいます。
「いったいどうしたらいいだろう?」真剣に悩んだ末、私はその本の著者に往復はがきで質問することにしました。
「鳩の訓練は朝6時と書いてありますが、私はどうしても6時にはできません。5時ではだめでしょうか。」
著者から折り返し誠意のある返事がきて、そこには「5時でも大丈夫」とありました。
(子供のどうでもいい疑問に真面目に対してくれるのが、伝書鳩のような少年時代からの夢を大人になっても持ち続けているひとのすてきなところです。)
その手紙を何度も何度も読み返しながら、「お金を貯めて、絶対このひとから鳩のつがいを譲ってもらおう」とわたしは決めました。
でも、結局、鳩を飼うのは12歳の女の子ひとりの手には負えず、私の夢は実現しませんでした。
最近、土鳩が増えた代わりに伝書鳩は見かけなくなりましたね。わたしが見かけるのは日野駅の豊田よりのホームの南側にあるぼろの鳩小屋です。
もう訓練などしていないのかもしれませんが、けっこう、たくさんの鳩が出入りしています。
日野駅のホームに降りることがあると、これを眺めるのを楽しみにしています。
そしてごくたまに整然と列をなして空を飛ぶ伝書鳩の群を見ると、胸の奥をきゅっと締めつけるものがあるのは、伝書鳩への憧れがまだどこかに残っているからでしょうか。
ロシアの白樺 (「くるくるしんぶん」900号 1995年10月9日より)
昨年の夏奥ヴォルガの旅で実感したのは、ロシアが森の国、木の国であるということでした。十九世紀の作家メーリニコフ-ペチェルスキーの小説『森の中で』には、奥ヴォルガに住む人々が皿、茶碗、匙、桶、ひしゃく、紡ぎ台、錘など、さまざまな日用品を木から作って暮らし、「森は奥ヴォルガの人々を養った」と書かれています。今でも村の道沿いに並ぶ木柵で囲まれた木造の農家は木彫りをほどこした窓かまちで愛らしく飾られ、村の教会も木造でした。積み上げられたぺーチで使う薪、高く木の竿を伸ばしたつるべ井戸、今でもロシアの村は木に多くを負っていることがうかがえました。
ロシアの人々にもっとも親しまれ、愛されてきたのは白樺です。民謡でも数多くうたわれ、
野原に白樺が立っている
野原に巻き毛の白樺が立っている
ああ らら らら 立っている・・・・
ロシアの人なら誰でもしっている、この民謡のメロディはチャイコフスキーの交響曲第四番にも取り入れられています。またよくうたわれるのは詩人エセーニンの『白樺』です。
しろき白樺
わたしの窓のしたで
雪をかぶり
まるで白銀(しろがね)のよう
ふんわりと枝に
雪の縁どり
房がほどけ
しろきフリンジ
白樺が立つ
眠れる静寂のなか
雪の結晶がかがやく
金色の灯りに
朝焼け、もの憂げに
円を描き
枝に散りばめる
あらたな白銀
初夏の巻き毛の白樺から雪をかぶる冬へと一足跳びでいってしまいましたが、十九世紀の画家レヴィタンの『黄金の秋』に描かれる秋の白樺の美しさもロシアの人々は愛しつづけてきました。この九月半ば十日間ほどペテルブルグに行かれたSさんご夫妻のお話では、もう朝晩はけっこう寒く、子供たちはしっかりオーバーを着込み、大人たちは男も女も流行の黒の皮ジャンに身をつつむ姿が目立ったとのことです。そろそろロシアの森は黄金の秋を迎えることでしょう。
現代の詩人A・プロコフィエフは旅先のスイスで黄金色に葉を染めた白樺を見て、このようにうたいました。
白樺
どの木より森辺の草原を彩り、
立っていた、金色にかがやき 明るく
道に迷いはしなかったか、ロシアの女よ?
なんにせよお前はスイスまで辿り来た!
どのように異国でざわめき、
他人(ひと)の地で緑なすのか?
いとしき妹よ、ぼくは伝える、
お前の女友だちからのあいさつを。
白樺はロシアにだけあるわけではないのですが、ロシアの人々にとって白樺はロシアの自然と一体化しているので、異国で出会うと故郷の地を思い出させる木なのです。プロコフィエフの詩は、ロシアの娘が婚礼前の泣き歌で自分を白樺にたとえて 父母や女友だちのいる生まれ育った白樺林から伐り出され、見知らぬ地へ行ったら、きっと迷子になってしまう、だからお嫁にやらないでと嘆く民謡をふまえて作られています。彼はスイスで出会った白樺に故郷のロシアから異国に嫁入りし、美しく周囲を彩り、健気にいきている妹を見たのです。
勤め先の庭に植えられた白樺は次々と枯れ、残った二本のうちの一本は今にも倒れそうです。やはり白樺は北国の木なのです。プロコフィエフだったら、ロシアを離れて嫁入りし、故郷に恋い焦がれながら異国で夭逝する娘をこの白樺に見ることでしょう。
ある日の昼休みに木挽町から通っていた二、三人が同じ町内の炭屋の子で落第生だった子のお弁当箱に午飯が半分しか入っていないとからかって、先生から叱られたと放課後になって聞きました。わたしはからかった子が憎らしく、何とかやっつけてやろうと思いましたが、その機会はないまま過ぎてしまいました。その頃昼休みには、わたしは家まで二、三分で戻れるので家で食事をするのが常でしたから、炭屋の子がからかわれているのを見なかったのでした。家が貧しくてお弁当を充分にもたせられなかったという話は聞いたこともなかったので、今でも半信半疑です。
昼の休み時間には鬼ごっこなどして元気に駆けずり廻ったのでしょうが、よく相撲や馬跳びもしました。ある時、砂場に設けられていた竹のぼりで頂上まで上ると竹の棒をはずされたので飛び降りて、皆をびっくりさせました。わたしの家の並びにある柏原洋紙店の倉庫がわたし達の遊び場になっていて、そこに馬車で洋紙を運ぶ時に用(つか)った藁を何枚も重ねてしいた處があって、そこへ飛び降りてあそんでいたので、高い處からとびおりるのは慣れていて平気でした。
アメリカの連続映画「名金」(西部劇)をまねた、隠したものを探すのが、校内で流行ったことがあったと思いますが、これは暫くの間でした。なかには投げ縄を校庭で練習する生徒が出て来ましたが、ほとんど興味を持たれませんでした。
六年生の頃には組の中に詰襟(つめえり)の洋服を着て来る生徒が数名いたようでしたが、わたしは洋服に特別惹かれることもありませんでした。蓮ちゃんが小学校時代の思い出話をした時に、わたしの羽織の裏に物入れ(ポケット)が附いていたのがうらやましかったといわれ、その物入れは姉が附けてくれたのを思い出しました。羽織にポケットを附けるのはその頃から起こったのかもしれません。蓮ちゃんは初めて洋服を着て学校に来た時の気持を話してくれましたが、中川尚君と洋服屋の鈴木君とがきていたのを覚えていました。洋服屋の子どもはともあれ、洋服は良家の坊ちゃんの着るもののようでした。蓮ちゃんは箪笥屋さんの息子でその家は京橋に近い金六町にあって、箪笥などの陳列場がある立派な三階建でした。蓮ちゃんの家の女中さんがわたしを金太郎さんのようだといっていました。
(第45号1980年9月29日)
中川君の家に組の二、三人と呼ばれて行ったことがありました。銀座裏の静かな町並みにある洋風の建物で、表札に東京弁護士会会長中川儀大夫(?)とあったと思います。中川君の部屋に通され、その玩具にびっくりしました。部屋一杯に円く敷かれたレールの上で機関車を走らせたのでした。この機関車がゼンマイ仕掛であったかどうか覚えていませんが、その玩具に圧倒されたことは確かでした。しかしわたしにはこうした玩具より、この家で自分の周辺にない世界を感じたようでした。わたしの友達は商家が多かったので、そうした家では感じられない違ったものがあったのでした。中川君は震災後には銀座裏には戻らないまま消息が分からずに過ぎました。
いつも組の中を明るくする人気者に、そば屋の貞(さだ)ちゃんがいました。体操の時間に紅白に分かれた帽子取りの競技で、負けたのに勝った組をやじってやめないので、わたしは負けたのだからおとなしくしたらといいかえすと、ハイ勝ちました、ハイ負けましたでは面白くないよ、いわれてなるほどと感心して何もいえなくなりました。わたしは後になってもこのことを思い出して、遊び―競技を含めて―の面白さがわからないことのないように気をつけました。
小学校を卒業するときに、担任の先生が組の二十名ほどを特別に指導してくださったので、圀ちゃんの家で感謝の会が開かれました。父兄の代表の医師が「孝経」の首章を書き、それを表装したのを持ってこられ、その條幅にわたし達がそれぞれ筆で姓名を書き入れて先生に差し上げました。自分の名を上手に書けなかったので覚えているのですが、あの頃の父兄がたてまえとして抱いた教育思想がこのことによって分かると思います。(第47号1980年10月8日)
わたしが八丁堀の貸本屋を利用するようになったのも健ちゃんにいわれたからに違いありません。馬琴の「八犬伝」を借りて、発端の部分を読んだのをぼんやり覚えていますが、その文章について行けず途中で止めてしまいました。立川文庫などもかなり読んだはずです。小学校を卒業してからは、家にわたしを惹きつける書物がなかったので、京橋図書館を利用して読書に励む方向に進みました。京橋図書館は小学校の雨天体操場を用って、学校の授業が終わってから開かれましたが、やがて小学校の正面に独立した建物ができ、震災で焼失して現在の場所に建てられました。
健ちゃんが子ども向けの、ガリ版刷で半紙四分の一の形の雑誌を発行したのは、いつのことか忘れましたが、読者がふえて百部以上刷ったと思います。ところがそれを止(や)めることになり、わたしは健ちゃんに勧められて、中学一年の終り頃に「青い塔」という題名で雑誌を発行することになりました。神田駅近くの堀井という店から謄写版の道具一式を買ってきて、一回に三十~四十部ぐらい刷ったと思います。一冊の頁数は忘れましたが、徳ちゃんが表紙の絵を画いてくれ、わたしはディッケンズの「クリスマス・カロル」を翻訳して載せた思い出が残っています。しかし三号雑誌の名のとおり、じきに止めました。わたしの手におえないしごとであったのでした。大正七年の「赤い鳥」に始まり、つづいて「金の船」(改題して「金の星」)「童話」と新しい児童文学の運動が進展してきた頃にあたり、この運動の余波がわたし達にも及んだものと思います。
(第29号1980年7月29日)
健ちゃんにつながる糸をもう一つ辿ると、京橋図書館のホールで秋岡梧郎館長の求めに応じて小学校時代の仲間の協力で子供会を開きましたが、それは大学時代のことでした。しかしこの子供会は永く続きませんでした。
今から考えると、健ちゃんの周辺に子どもが大勢集まったのは、健ちゃんが子どもを大人に成るものとして教えこむというより、子どもには子どもの世界があるとみとめていたので、そこにわたし達は惹かれたのでしょう。忘れてしまっていることが多いなかで、そのいくらかが記憶に残っているわけです。
人間の気質について多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質の四つがあると説明されたことがありました。この話は十分にわからなかったのですが、わたしが胆汁質だといわれたことは、いつまでも頭にこびりつきました。もっともこの気質説は現在の心理学では誤りとされていますが、子どもにとって指導的な人からいわれたことは強い影響力を持つものと思わずにいられません。
戦後に健ちゃんが玩具(おもちゃ)屋さんになったと徳ちゃんから聞いた時は、ほんとうに嬉しく感じました。(第30号1980年8月5日)
わたしが小学校に入学した頃は第一次世界大戦が始まっており、パリで講和条約が締結されたのは四年生の時でした。大戦については先生方から絶えず話を聞いたでしょうが、わたし達の間では特別に関心はなかったと思います。ただドイツが潜水艇で各国の商戦を無差別に撃ち沈めたので、アメリカが連合国側について参戦したということが図画の平岡先生の熱のこもった話で印象に残り、大戦後のアメリかを視察旅行した笹野校長先生の報告を聞いたりして、大統領ウィルソンの名をはっきり覚えました。戦争の惨(むご)さについては、直接に感ずることが少なく、戦争は勇ましいものと思っていたでしょう。しかし尼港事件は暗澹とした衝撃を受けました。
わたしには戦争の嫌な思い出に「成金」という言葉があります。あの頃には小学校に剣道の道具がかなりあって、それを用(つか)って放課後に稽古していましたが、六年生になった時、同じ組の圀(くに)ちゃんが剣道の道具を買い揃えたと聞いて、わたしは先生のいる処で、圀ちゃんの家は成金だからといったのでした。すると先生が笑ったので、わたしはハッとしました。家でも成金という言葉は聞いていたので、それが口に出たのでしょうが、圀ちゃんのお父さんは銀座の老舗の番頭さんで、戦争中に急に金持ちになったわけではないのです。先生から日本でつくられてセンチに送られた食料品の罐詰に石がつまっていて、それでもうけた者がいる、というような話を聞かされましたが、こんな事は実際にはなかったにしても、成金というのは戦争でにわかにお金持ちになったという嫌な語感を持った言葉でした。その言葉を不用意に口にしたので先生に笑われたと思うと、自分が軽はずみに感じられ、ひどく恥ずかしくなりました。わたし達は大人ぶったわけではないのですが、同盟とか談判とかいう言葉も無暗に用(つか)ったようでしたが、これも戦争中の世相を語るものかもしれません。(第42号1980年9月16日)
ところで先生方が倹約ということをいうのに敗れたドイツの現状の苦しさをよく引合に出しました。一本の鉛筆でも短くなったのも用(つか)うように奨めたのでしたが、その鉛筆についてわたし達の間ではドイツ製が一番良いと信じられていました。手近な鉛筆一本にも何となく舶来品が良いと思っていたようでした。
今と違って小学生の英語塾があるわけでなく、英語を勉強しなさいと奨められることなど聞きもしませんでしたが、組の半数近くはローマ字綴りを知っていて、それで文章も書きました。学校で教わらなくても、どこの町内にも餓鬼大将に当たるのがいて、新知識を得るとそれを弘めるのに勤めたので、新知識はすぐに広がったと思います。健ちゃんだって餓鬼大将といえないことはありません。暫くまえ久しぶりに健ちゃんのお誕生祝いとお見舞いを兼ねて、徳ちゃんと一緒にお目にかかりました。「くるくる新聞」のことを話しているうちに、エスペラント語はどうしたといわれて、この言語を健ちゃんに教えられたのを思い出しましたが、一瞬、先生に不勉強を指摘された生徒の気持ちに似たものを感じました。この造作(つく)られた国際補助語の意味などの議論はともあれ、その文法は規則的で例外がなく、品詞を示す語尾のつけかえが一定していることなど、思い出しました。わが国にもエスペラント運動が起こって来た頃に健ちゃんのような運動家がいたのかと改めて思い出しました。このエスペラント運動が国家思想に反する危険な思想として扱われるようになったのは、昭和に入ってからでしょうか。
学校では子供会がよく開かれ、わたし達の唱歌や劇がすむと、お伽話の口演がありました。有名な巌谷小波、久留島武彦、岸辺福雄の諸先生のも開かれました。しかしこの諸先生より、わたしは図画の平岡先生の絵話が好きでした。それは今の紙芝居の前身と思います。絵話は模造紙に絵が画かれ、その一枚一枚をめくっていき、人や動物を画面に嵌(は)めたり外したりして、話を進めることもあって、終わりになるのが惜しいくらいでした。イソップの物語なども絵話のおかげで知ったのがありました。
どの先生でしたか、僂(せむし)の子が皆の笑いものになる話をしたことがありましたが、二、三日後に相木先生という女の先生が、生徒の中に瘻の子がひとりいたので、その子がかわいそうだったと話されたのにわたしはつよい感動をうけました。
子供会といえば四年生の頃と思いますが、わたしの組がきゅうり、なす、かぼちゃ、人参などの野菜の一つ一つを実物を持って説明する番組を出すことになり、わたしは白瓜をすることになりました。家に帰ってから母に話して、白瓜を一個(ひとつ)子供会の日に準備してほしいと頼みました。すると母に牛蒡(ごぼう)にすればよいのにといわれました。このことがあった少しまえに先生が授業中にわたしが学校中で一番黒いが、しかし白い部分がある、どこだかわかるかと皆にきかれましたが、誰も応える者はなかったので、先生は足の裏の土踏まずだといって組中の笑いをまき起こしたことがありました。しかしこのことがわたしには白瓜と別に結ばれなかったのでしたが、母からいわれたことでは、うけた感じがあまりに違うので変に思ったことがありました。今でも自分のうけた気持ちの違いをうまく説明つきかねています。
(第43号1980年9月22日)
子どもの頃を思い出そうとすると、小学校の何年生の頃というのが手がかりになりますけれど、はっきりしないことが多いのです。
京橋小学校の一年生の終りに、六年生の兄が修学旅行、その当時のきまりになっていた江の島・鎌倉に行くのに、すぐ上の姉(時田)と附添(つきそい)に加わったのを覚えています。姉はわたしを何かというと連れだしたようです。長兄、次兄は家のしごとをして、わたしと年も離れており、長姉は川口の出張所(大地震のあと過ごしたところ)をきりまわしていたので、子どもの頃のわたしは余り関心を持たず、すぐ上の兄は中学校に入ると、わたしを相手にしなくなりました。家族は大ぜいでしたので、女中のおしもが下働きをしたものの、わたしは姉に面倒を見てもらうことが多かったようです。
家の裏通りに小さな駄菓子屋(だがしや)があって、そこに連れていかれもしました。その店屋の入口にすどおしの硝子(がらす)戸(ど)がはめてあって、外から中が見えました。土間に大きな台がおかれ、その上に駄菓子を入れた硝子のふたのついた浅い箱が並んで、その上のほうにあてものくじなどがぶらさがり、ラムネなどもあったようでした。今でも町はずれで見られる子ども相手の店屋のようでしたが、今のと違うのは、その土間の隣りに狭い部屋があり、どんどん焼ができるようになっていたことです。このことだけはっきり覚えています。どんどん焼の火鉢や鉄板などの道具が片付いていた時は、おはじきやお手だま、あやとりをする遊び場にもなりました。しかしわたしが小学校に入った頃には、この店屋は改築されて、駄菓子だけを売るようになってしまいました。あのどんどん焼の部屋でどんな子と遊んだのか思い出せません。
いまでもあやとりは少しできますが、七段梯子(ばしご)や月にむら雲などは名前だけしか覚えていません。あやとりは姉や三人の妹が遊んでいたのを見て、自然に覚えたのでしょう。お手だまで「旅順開城 約なりて」「さいりょう山は霧深し」の歌、手毬(てまり)歌で「向う横町のお稲荷さんへ」が心に残っています。
わたしの家は大川(おおかわ)(隅田川)に流れこむ川筋に沿って、上流に銀座通りに架かる京橋があり、下流に稲荷橋があって、橋のそばに鉄砲洲稲荷(湊(みなと)神社)がありました。「江戸名所図会」にも湊神社のことや、その地に諸国の船が出入りした様子が記されています。家の前が道路で、後ろが川なのでしたが、船は稲荷橋近くに泊めてあって、修理する船だけ家の裏につながれていました。母屋のわきの通用口から入ると、裏の家の階下の土間に行くことができて、そこから船に歩板(あゆみいた)(あゆび といってました)が架けてあったのでした。
わたしは船の上を駆けずり廻り、船から落ちて溺れそうになったそうですが、いつのことか覚えていません。震災後の区劃整理で、地名が新富町に変わったのですが、それまでは南八丁堀とよばれていました。
(第15号1980年5月1日)
父は夕食後に船を泊めてあった本八丁堀の川岸へ行くことがありました。八丁堀の夜店をよくぶらぶらしたらしく、わたしも父につれられてというか、ついていったというか、夜店を見て歩きました。ある時に八丁堀で寄席(よせ)に立ち寄り、なんだか場内がうす暗いので気味わるく、それっきり寄席にはいったことはありません。ちょうど寄席がさびれた頃のことと後で知ったのですが、有名な京橋ぎわの金沢亭も震災後は復興しなかったのです。
近くの清正公様の縁(えん)日に父について行き、足をのばして高島屋横のすし屋の伯父(おじ)さんの家へ寄ったことがありました。夕食後なのに並べられた寿司を残さずに食べたら、おせいおばさんにほめられたので、恥ずかしくなりました。子どもの時に父と二人きりで歩いたのをはっきり覚えているのは、この時だけです。
父に連れられて活動写真を見たことがありましたが、見終わって明るくなると、見物人が拍手していたので、わたしも拍手したら、姉から真似して拍手などするのはおかしいといわれたことを覚えています。父と一緒に出かけたことはいくらか思い出してきますが、母に連れられて出かけた記憶はひとつもないです。
父におなおさんという妹がおりました。この叔母の安孫子(あびこ)の家に泊まったのは夏の頃でしたが、叔母には子どもがなく、早く逝(な)くなりました。時田の姉が十年ほど前に安孫子に引越したので訪ねましたが、叔母の家はどこにあったのかもわからず、ただ周りに沼があった安孫子という土地を懐かしむだけでした。
わたしの家は廻漕(かいそう)店で屋号を阿波(あわ)家といいました。よく阿波家ののぶちゃんとよばれました。今の徳島県つまり昔の阿波の国から江戸に出てきたので阿波を屋号にしたわけで、お墓に阿波久の名と百八十年ほど前の享和(きょうわ)の年号が刻(きざ)まれているのを、ずっと後に知りました。祖父は滝五郎といって、明治の半ばに逝(な)くなるまで、丁髷(ちょんまげ)を結(ゆ)っていたそうです。江戸時代の気風は明治二十年頃を境としてなくなっていったといわれますが、祖父は江戸人の気風をくずさずにいたのかもしれません。祖父が若かった頃の阿波家は船宿でなかったかと思いますが、わたしの子どもの頃は家に三十屯(とん)以下の艀(船)とぽんぽん蒸気船があって、艀で荷物を運ぶのが商売でした。主に東京湾に入って来る大きな貨物船(本船(ほんせん)とよびました)から銑鉄(せんてつ)(ずくとよんでいました)を芝浦の埠頭(ふとう)で艀に移し、蒸気船で引っ張って隅田川を遡って、荒川の支流の芝川沿いにある川口の出張所に運ぶのでした。コークスも江東区の東京瓦斯(がす)会社から艀に積んで運んだのでした。出張所は長姉夫婦が管理していて、川岸に広い地所があり、そこが艀の積荷の銑鉄やコークスを荷揚げして置く場所になり、そこから鋳物工場に馬力やトラックで運ぶのでした。震災後には商売の様子は変わり、今は一層変わって、川口市の鋳物工場の数は盛んな時の三分の一より少なくなっているそうです。
(第16号1980年5月8日)
いつの頃か、わたしには商売のことなどよくわからない時でしたが、家の船で荒川堤の花見や両国の川開きに行ったことがありました。幕を張って飾りをつけた船にわたしも近所のたくさんの人と乗り込みました。船が隅田川に出ると、蒸気船で網をかけて引っ張っていくのでしたが、大人たちが船の中で酒を飲んで騒ぐのを見たり、荒川堤で酔っ払いを見たりして、すっかり嫌になって、二度と花見の船に乗らなくなりました。川開きの時は船が隅田川にぎっしりつまって、船頭がお互いにわめき、帰りはひどく遅くなってこりごりして、花火見物も二度と行きませんでした。潮干狩りに船が出たかどうか覚えていません。
小学校の三年生になった頃、わたしの生活に変化がおこりました。家から少し離れたところにある習字の塾へ姉に連れられて通うようになり、裏通りの珠算塾にもかよいはじめたのでした。下町の教養ですが、この珠算塾がわたしの子ども時代の懐かしい思い出の泉です。
習字の塾は五年生になってやめましたが、姉はつづけていました。この塾には思い出もあまりありませんが、手習いの効果があったのは確かなようです。今の天皇陛下のご婚約成立の記念であったと思いますが、小学校の習字や絵や手工などの作品展があって、わたしの習字が出品されました。その褒美に菊の紋を型どった菓子をいただいたのですが、その時も姉が附添って小学校に来て、先生にいわれた通り、わたしを写真屋につれてゆき、記念の写真をとるようにしました。家では皇室をありがたいとか、おそれおおいとかいうことを教え込む雰囲気はなかったのですが、先生の言葉を忠実に守ったようでした。新年や紀元節、天長節などの祝祭日(はたび)には国旗を掲げることが行われていましたが、お巡査(まわり)さんに叱られるから国旗を出しなさい、と家でいわれていました。
珠算塾の先生は老年に近い人でしたが、ある日、漢文を教えていたのを見ました。漢文というのをはじめて知り、その教え方を不思議に感じましたが、ここではそのことを除(はぶ)きます。大正の頃に珠算と漢文を教える先生が町の塾にいたわけで、今はこんな塾はないでしょう。この先生の印象は少ししか残っていませんが、わたしの珠算はここで暗算と一緒に磨かれました。実はこの塾の家主の親戚が鮎沢健ちゃんという立教大学の学生でした。塾がはじまる前に行くと、健ちゃんがわたし達にいろいろなことを教えてくれたのでした。トランプ遊び、催眠術、手相を見ることなど、わたしたちの知らないものばかりでした。そしてまたわたしたち数人をひきつれて浅草の繁華街(さかりば)へ行く冒険を味わわせてくれたりしました。
健ちゃんはわたしの手相を見てくれたことがあります。わたしの生命線は途中で切れているから二十才(はたち)ぐらいで死ぬかもしれない、切れないでつづいていれば長(なが)生(い)きするし、それに手相は変わるから、切れているところが自然につながることがあるというのでした。わたしはびっくりしてしまって、二十才ぐらいで死にたくないと真剣に思い、家に帰ると生命線の切れているところを縫針でささったとげをとり出すやり方で皮膚を刺して細い線をつくって、生命線がつながるようにしました。一センチほどでしたが、血が滲んで痛かったものでした。このことは健ちゃんには内緒にしておきました。健ちゃんのいったように二十才ぐらいで死なずに、いまも元気にいきているのはあの時痛さを我慢して溝のような線をつくったからかもしれません。(第21号1980年6月7日)
健ちゃんが催眠術をかけるのを見たことがありました。健ちゃんの弟の鋭(とし)ちゃん(同級生)が簡単にかかってしまって、健ちゃんがハンケチを丸めたものを鼠といったり、いまボートに乗っているといったりすると
、そのとおりに思ったようでした。どうしてだかわたしがかけられることになりました。健ちゃんは人差指を上向きに立て、これをよく見なさいといって、その指をわたしの顔に近づけたり遠ざけたり繰返して、やがて眼をつぶらせ、123の数を低い声でいいつづけたようでした。健ちゃんはわたしが催眠にかかったと思って、さっきとおなじようにハンケチを鼠と思わせようとしましたが、わたしは実はかかっていないのでした。健ちゃんはおかしいといって、わたしの両手を横に挙(あ)げさせました。わたしはだんだん手がくたびれて来ましたが、じっと我慢していました。そのうちに健ちゃんは催眠を戻そうといって、わたしの両手を下げさせ、眼を開けるようにいいました。わたしは催眠にかからないと悪いと思って、かかったふりをしたのですが、ハンケチを鼠といわれては、どうしてもそう思えな
かったのでした。健ちゃんはそれに気がついて、催眠を解くことにしたのでしょう。このことも健ちゃんには黙ったままにしてしまいました。
健ちゃんがわたし達を連れて浅草に行った時は、まず永代橋まで歩き、橋際でポンポン蒸気船に乗り、隅田川を遡(さかのぼ)って吾妻(あずま)橋際で降りました。観音様にお詣りしたが、花屋敷か活動写真館に入ったか、何も覚えてなく、ただ蒸気船に乗って往復したことだけが記憶に残っています。
健ちゃんに連れられた浅草行は往復歩くこともありました。茅場町に出て鎧橋を渡り、人形町、久松町を通り、浅草橋に出ました。浅草橋までは人形町、小伝馬町を通って行ったこともありました。浅草橋を渡るともうすぐなので元気になり、厩(うまや)橋の停留所を過ぎて駒形に来ると、道路が広くなって雷門が望めたようでした。帰りには小伝馬町から本石町(ほんごくちょう)、日本橋、京橋と遠廻りをしたこともあったと思います。とにかく途中で店屋の前を通ると、きまってその店屋の奥に掛かっている柱時計をのぞきこんだものでした。あの頃は柱時計が大抵の店屋に掛かっていましたが、それも震災後には少なくなりました。わたしにとって浅草行はその往復のことばかり覚えているので、活動写真の方はまだ興味がわくほどではなかったのかもしれません。そして一緒に行ったのはだれかもはっきり覚えていないのです。
(第24号1980年6月22日)
健ちゃんは招魂社(靖国神社)にもつれていってくれました。馬場先門に出て、堀端に沿って行くのでしたから、わかり易く、それほど遠くありませんでした。招魂社のお祭りの時は賑やかで、ここだけでしか見たことがないおおきな小屋掛の見世物がありましたが、今は見世物がたちません。鉄砲洲神社などと違う気持で参拝したと思っていますが、境内の銅像は大村益次郎で陸軍の基礎を置いた人と教えられても私の知らなかった人なので、どうしてここに銅像が建てられたのか、わからないままでした。今の宝物遺品館の前身の遊就館を見学しましたが、その時の感銘が浮かび上がりません。
健ちゃんはわたし達に下瀬(しもせ)火薬といって、硝石、硫黄、木炭を材料として火薬を作ることも教えてくれました。わたし達はそれを用(つか)って遊ぶというより、この火薬が上手く作れるかどうかに興味があったようでした。確かカ―バイトを硝子瓶に入れて水を加え、それによって生じたアセチレン瓦斯を操作して、走る船を作ることも教えてくれましたが、これは徳ちゃん(同級生)が作ってくれました。
火薬や船とは別に飛行機作りが流行しました。染物屋の倉ちゃんが複葉の飛行機を作ってくれることになったので、玩具屋(おもちゃや)で飛行機の材料の籤(ひご)や翼に張る薄紙、二つのプロペラや何メートルかのゴムなどを買って来ました。機体と翼ができ、プロペラがついた時に少兄が部屋の中で飛ばしてプロペラを折ってしまい、倉ちゃんはせっかく作ったものを大事にしないといい出して、飛行機作りを止めてしまいました。わたしはこわれた部品を取り替えたりしてみたのですが、結局上手く出来ず、代々木の原で催された子どもの飛行機大会で失敗し、飛行機作りから遠のきました。
あの頃は大人達も飛行機の爆音がすると、家から外へ飛び出して、空を見上げたものでした。アメリカ人のナイルス・スミスが来たり、東京の空で宙返りが見られたりして、わたし達も宙返りという言葉に馴染(なじ)んだようでした。
健ちゃんがわたし達を浅草の繁華街(さかりば)へ連れていった気持はわかりませんが、浅草行はわたしにいろいろのものを残しました。東京の地理にいくらか明るくなりましたし、繁華街(さかりば)はよくない場所とは思わず、ひとりでも行ける處となりました。しかし映画に興味を持ったのは健ちゃんに直接関係はなかったでしょう。あの頃は映画館によっては十五才未満の子どもの入場お断りという禁止令がありましたが、小学校時代の少兄の同級生であった中学生(岡村さん)がその禁止にかまわず、わたしを外国物専門の金春館(新橋よりの銀座裏)に連れて行ってくれました。それまでに見た活劇(アクション映画)とは違う、アメリカ映画に心の惹かれるものを感じました。次兄が帝劇で上映された「イントランス」を見て来て、よかった、よかったとうのを聞いたような気がします。そしてこれまでわたしも活動(活動写真館の略)といっていたのに映画という新語を用(つか)うようになったかと思います。
(第26号1980年7月10日)
思い出すこと 三鷹のおじい(小林昇)
『くるくるしんぶん』(第9号~第30号1980年3月~8月)より転載
ーー 「 くるくるしんぶん」は、以前私(まいぱんまま)が出していた手作り新聞です。
小林昇さんは、夫の父親です。子供たちにおじいちゃんの子供時代のことを知ってほしくて、お願いして、書いてもらいました。書き始めたら、思い出すことがどんどん湧き出てきて、分厚い封筒になって、次々と送られてきました。それからそう月日がたたないうちに亡くなってしまったのですが、今でもお義父さんのことを思い出すとなつかしくて、胸があつくなります。
今から六十年ほどまえ、大きな地震が関東地方にあって、東京ではたくさんの家がこわれ、火事がおこって、何万という人が死にました。その時、わたしの生まれた京橋の家も焼けましたが、みんな宮城前の広場へ逃げたのでした。
東京の北の川口という町にいて、やけあとにバラックが建てられるのをまち、東京にもどってきましたが、となりの家も、なかのよかった友達の家もよそへうつったりして、やけあとにはだんだん知らないひとが住むようになり、店屋のつくりも違ったように感じました。東京は変わっていったのです。
東京が変わっていったことで、身近によく覚えているのは、お彼岸の時などおはぎや五目(ごもく)ごはんをつくって、いつも往来(ゆきき)する家へ配って歩かなくなったことです。近所づきあいというものが知らないうちにとりやめになっていったのです。そればかりでなく親戚のひとが来るのが少なくなったことです。
お正月や春休みに子どもたちを集めて、子供会をひらくお医者さん、お料理屋さんの家があって、わたしも呼ばれて行ったものでした。ところが大地震のあとには、そうしたことも聞かなくなりました。
大地震は怖かったばかりでなく、わたしたちの世界を変えていったのでした。
(第9号1980年3月10日)
大地震のとき
子どもの頃を書くつもりで始めたのですが、地震のことを素通りできなくなりました。九月一日の大地震のとき、ちょうど母と末の妹と三人で食事をしていました。突然に下から持ちあげられた感じがすると、台所の棚や茶箪笥(ちゃだんす)のものがばらばら落ちてきて、母が妹を抱きかかえるように玄関の方へ行きました。わたしは食卓の前に座ったままで、母たちが戸口でうずくまっていたのを見ました。はげしい揺れがおさまって外へ出ると、大騒ぎであったのはいうまでもありません。
わたしはあの地震のときに食卓の前をどうして動かなかったかというと、安政大地震に藤田東湖は母を抱いて庭に出ようとして、倒れた家の下敷きになって死んだのをとっさに思い出したからでした。夏休みに読んだ東湖の伝記の印象が強く残っていたからと思っています。あとあとも母は妹を抱きかかえ揺れるので歩けなかった、と皆にいうばかりで、わたしがじっとしていたのに気がつかなかったらしく、それが私にはひどく不満でした。わたしは座ったままだった、と兄や姉にいっても、腰が抜けたからといわれたりしたものでした。父は三浦三崎に、長兄は関西に出かけた留守中のことでした。
中学二年生十五歳のわたしはあのはげしい揺れのなかで、座ったまま動かなかったことにいくぶん得意でもありました。しかし考えてみると、家から外へ逃げ出して無事なこともあり、動かぬことで助かるとはかぎりません。東湖のことをおぼえていたばかりにじっとしていただけなので、もし動かずにいて、かえって圧しつぶされたらばどうでしょう。
いまは地震が起こったら、教えられているように机の下に潜るつもりです。しかしこの頃は小さな地震にも恐がるようになったので、果たして何がおこっても驚かないと心に決めているとおりに、大地震の折にも落ち着いていられるか、怪しいものです。
(第11号1980年3月31日)
オトギリソウは乾燥してからからになってきました。お酒に漬けるのですが、ずーっと以前『自然の贈り物』(1984)という本で見つけた”浸酒アクアリウム”で私はやっています。34年前のまずい訳(今が上手ということではありませんが)をUPしておきます。
セルゲイ・オシャニーン ロシアの浸酒(ナストイカ)と果実酒(ナリーフカ)
気前のよさと客好きはずっとロシア民衆の際立つ特徴でした。今も私たちの食卓では塩漬けキャベツ、歯ごたえのよいキュウリ、キノコの塩漬け、スメタナとおろし大根の和え物・・・などが栄えある座を占めています。ところが飲み物となると変わってしまいました。より正確に言うなら、それに対する流行が変わったのです。今ではフランスのコニャックやイタリアのベルモット、ハンガリーのトカイワインやポルトガルのポートワイン、ウィスキーやジン、さまざまなカクテル、さもなければ「ファンタ」や「ペプシコーラ」といった清涼飲料水が食卓を飾っていれば、もてなし役はごきげんです。よく考えてみましょう!なぜって私たちはわが国の祖先の文化、生活習慣の歴史の一部をなくし、かつて外国人を驚嘆させた飲み物――蜜湯やクワス、蜜酒やウォッカ、浸酒(ナストイカ)や果実酒(ナリーフカ)――を忘れてしまったのですから。ロシアの宴席の大通人であった有名な作家アレクサンドル・イヴァノヴィチ・クプリーンの小説『士官候補生』の中の描写を思い出してみましょう。
「ところで腹への通りをよくするためにブリン一枚ごとに多種多様な四〇種類のウォッカと四〇の浸酒がふり注がれる。そこには古式ゆかしい庭で馨しき香りを放っているフサスグリの芽の酒が、ヒメウイキョウ[1]酒が、ヨモギ酒が、アニス酒が、フェンネル入りウォッカが、万病に効くオトギリソウ酒が、ズブロッカ[2]酒が白樺の芽とハコヤナギの浸酒が、レモン酒が、コショウ酒が、それから……みんなは数えあげられない。」
このリストにはもっとたくさんの植物の浸酒と果実酒をつけ加えることができます。しかし若干の、それも最もよいものは希少種になってしまってレッドデーターブックの中のページでしか見ることができなかったり、限定された地域でまれにお目にかかれる植物になってしまいました。ですからコウリョウキョウの根茎、オグルマの根、アニス、クルミの実の甘皮、あるいはビルベリー、サンザシ、ハスカップの乾燥させた実くらいをつけ足しておきましょう。
浸酒は次のようなやり方でつくるのが一番。
はじめに浸出液をつくります。それには刻んだ根または草を大きな(〇、七五リットル以上)細口びんや広口びんにおよそ半分くらい入れたら、七〇パーセントのアルコールかウォッカを注ぎます。数日すると浸出液が出来上がりますので、それを濾して好みでウォッカに加えます。ウォッカの入ったびんで直接浸酒をつくると濁ることがあります。
『浸酒アクアリウム』もつくれます。これに一番適しているのはオトギリソウです。花のついた草の茎をびんの太い所の高さよりちょっと低く切り、傷んだ葉を摘みとって洗ったら、ていねいにびんの中に落とします。そこへ薄切りしたコウリョウキョウ[3]の根を一、二片加えるとすてきです。もちろんびんのラベルは剥がさなければなりません。その方が食卓で見栄えがよくなります。
つぎにもう一種類。根パセリ(ペトルーシカ)を採ってきて、葉を洗い、ナイフで根の皮をきれいにとって、根を四片に切り、びんに入れます。そこへちいさなビリッと効く赤コショウとニンニク一、二片を加えます。この浸酒は一昼夜以上保存できません。つまり、三、四時間たったら飲まないといけません。
古い製法もいくつか引用しておきましょう。「モスコーフスカヤ・ウォッカ」をつくるには、一二ゾロトニク[4]のショウガ、セージ、ミントとコウリョウキョウを手に入れます。純度の高いアルコールを一シュトフ[5](シュトフはウォッカ二びんに等しく、さかずき一〇杯、つまり一、二三リットルにあたる)に浸けて、数日暖かい所に置きます。毎日かき混ぜなければなりません。そのあと、濾して、水四分の一シュトフを加えます。
さて今度は有名なエロフェーイチ・ウォッカ(薬草入りウォッカ)一ヴェドロー[6]〔一二リットル〕にミント一フント[7]、アニス一フント、すりつぶしたビターオレンジの実二分の一フントを入れ、暖かい場所で二週間浸けて、毎日かき混ぜ、それから濾過します。
イブキゼリの葉からつくる「ゾールナヤウォッカ」、ヨモギ、ミント、その他のウォッカはつぎのようにつくられました。それには外皮の大き目な粉五〇グラムを七〇パーセントのアルコール一リットルに二週間浸け、それから濾過しました。
さてつぎはボダイジュの甘いウォッカの製法――「ボダイジュの花をびんいっぱいに入れ、九〇度のアルコールを口まで注ぎいれ、ゴムの袋をしっかり巻きつけ、(針で)穴を開け、二カ月暖かい所に置く。それから花を軽くしぼって、液を濾し、一シュトフにつき二分の一フントの砂糖を溶いたものを加える。このウォッカはとてもよい香りがして美味。」
もう浸酒については十分ですね。果実酒についても少しばかり言っておかなければなりません。果実酒は強いものと弱いものに分けられます。前者はアルコールで、後者はウォッカでつくります。製法はかんたん。実際、任意のベリー(ビルベリー、クロマメノキ、ハスカップ、スグリ、ホロムイイチゴ、リンボク、ブラックベリー、サンザシ……)を広口びんに入れ、ウォッカかアルコールを注いで、暖かい所に置きます。ベリーを長く浸けこむほど、果実酒はおいしく香しくなります。でも一、二日後でも飲めます。お望みなら果実酒は甘くすることもできます。
もっとかんたんな製法もあります。ベリーのしぼり汁かシロップをウォッカかアルコールで割って、好みで砂糖を入れます。
さて今度は古い製法をふたつ。
エゾノウワミズザクラの果実酒をつくるには、熟れた実を天日干しにしたら、大びんいっぱいに入れ、ウォッカを注ぎ、暖かい所で二カ月熟成させます。好みで砂糖を加えます。
ナナカマドの果実酒もつくることができます。それには熟れきったナナカマドの実を採ってきて、ペーチの天板上で焼いて、干からびさせたものを、びんの三分の二入れ、浸し液が暗い琥珀色になるまでウォッカにひたしておき、甘味を加えます。
あなたの食卓にロシアのザクスカ(つまみ)とロシアの飲み物をどうぞ!
(くるくるしんぶん 1985.10)
参考(『ロシアナウ』)http://jp.rbth.com/arts/2013/01/03/40543.html
ナストイカとナリフカ
高級ロシア料理レストランでは、ウォッカ以外にメニューに必ずナストイカ(浸酒)やナリフカ(甘い果実酒)がのっている。ナストイカはウォッカをベースにして、さまざまな香りの良い食材を加えたもので、砂糖は入らない。
一番簡単なレシピとしては、500mlのウォッカにレモン1個分のピールを加え、3週間ほど温かい場所に置き、その後濾(こ)して冷やすものだ。ナリフカはウォッカをベースにして、新鮮な果物やベリーに砂糖または蜂蜜を加えてつくる。果実は容器の3分の2ほど入れて(ロシアで一番人気はツルコケモモやコケモモ)2ヶ月半温かい場所に置き、その後濾(こ)す。これはウォッカやウォッカのナストイカほどキンキンに冷やす必要はない。
レシピ
フレノヴハ(西洋わさび浸酒)は、ロシアのレストランなどで特に人気の高い、ウォッカのナストイカで、家でも簡単につくることができる。ウォッカ1瓶用に、西洋わさびの根を2本、レモン半分、さらに味にやわらかさを加えるために、テーブルスプーン1杯分の無加糖白蜂蜜を用意する。西洋わさびは細くせん切りにし、蜂蜜とレモン汁と一緒にウォッカの中に入れ、冷暗所に数日置く。その後は濾(こ)して、冷やして、後はここに書かれている通りに飲むだけだ。
[1] 別名 キャラウェイ
[2] 別名 バイソングラス、セイヨウコウボウ
[3] ショウガ科ハナミョウガ属の植物。
根を乾燥させたものを良姜リョウキョウといい、生薬とする。
[4] ゾロトニクはロシアの古い重量単位 一ゾロトニクは約四、二六グラム
[5] シュトフはロシアの酒の古い容量単位
[6] ヴェドローはロシアの古い容量単位 一ヴェドローは一二、三リットル
[7] フントはロシアの古い重量単位 一フントは四〇九、五グラム
くるくる新聞第43号(1980年9月22日)父の従妹の川畑秀子さんの寄稿です。
「ある晩祖母が「こんな晩には鯉でも食べたいものだ」と云いましたら、
その晩寝てからミケが起こすので起きてみると、隣の家の池から鯉を
とってきて枕元に置き、祖母に食べろ(猫語でしょう)というのだそうです。
「いいからお前が食べろ」と云っても食べないので、料理して食べさせたという話、
子どものころよく聞きました。
その猫は十七年も生きて、死ぬまで子どもを産み、終わりには一匹ずつだったという事です。
母は小さい時、この猫によく頭を叩かれたそうです。」
今から38年前、37歳のときに子どもと集めたものを書きました。
今日、見つけて、ひとりで笑っちゃいました。
そのごも私は「上からよんでも下からよんでも同じ」にすごーくこって、なんでもひっくりかえして
読まないと気が済まなくなった時期もありました。
いろいろ発見しましたが、この時期のほうがひねくりまわしてなくていいです。
それにしても下手くそな字で、どれがこどもか私か分かりませんね
柚子
酢、砂糖、塩
大根をできるだけ薄く輪切りにする。
それをザルに並べて1~2日干して乾かす。
乾いた大根の薄切りに細切りした柚子が芯になるように入れて、くるくる巻く。
巻き上がったら、糸を通した針でつないで、干す。(楊枝で刺して、ザルに並べて干してもよい。)
糸につけたまま水洗いし、甘酢につけて出来上がり。
(甘酢は酢に砂糖、塩を好みの量入れて、味つけする。)
今日収穫したオニユズです。
オニユズにしては小さいですね。

柚子巻の芯につかえるでしょうか。
オリョールのヤーヒナさんからたくさんの絵葉書が送られてきた。
「今何をやってますか。お手伝いできることがあれば、言ってください。」
いつもながら元気で親切なヤーヒナさん。連日テレビで伝えられるソ連の
危機を思わせることは何も書いていない。カードには赤い実をつけた
ツルコケモモとナナカマドの枝を活けた花瓶が描かれている。
ナナカマドは昔ロシアで魔除けの木として村では家を新築すると必ず庭や窓辺に植えられ、人びとに愛されてきました。ナナカマドの実は厳寒の凍てにあうまで苦いそうだ。
わたしは今も
真っ赤に燃えるナナカマドの
苦い房を噛みたい。
ナナカマドは夜明けに
伐り倒された。
ナナカマドは
わたしの苦い運命なのだ。
ソ連の女流詩人ツヴェターエヴァにとって、ナナカマドの苦い実は自分の運命と重なり
合うものだった。
氷で川は覆われた、
雪がちらつく。
・・・凍てのあと
ナナカマドはどんなに甘くなるだろう!(N.グラチョフ)
さて、今年ロシアの人びとはどのような思いでナナカマドの真っ赤な実を眺めているのでしょうか。
ナナカマド
おいしげったナナカマドよ
おまえが芽を出したのはいつ?
おおきくきくなったのはいつ?
わたしは春に芽を出して
夏におおきくなりました
夜明けがきたら花咲かせ
おひさまのおかげで実がうれた
(ロシアのわらべうた)
ロシアでリャビーナとよばれるナナカマドは初夏枝先に小さな白い花の花序をつけ、
秋が近づくと緑だった実を赤く染めます。ロシアの田舎ではもちろん、街中の庭、
街路にごくふつうに見られます。
ロシアで一年間ご家族で暮らしたTさんがロシア人宅を訪問されたとき、団地の
すぐそばでナナカマドが実をつけていて、訪問先の女の方は「これでジャムをつくる」
といっていたそうです。種や皮の入った、口当たりのよいとはいえないジャムだそうです。
ロシアの人びとは自分で摘んできて、自分でつくったジャムが「最高!」らしいのです。
私たち日本人にくらべてまだまだ自然近くに暮らしているということでしょうか。
ジャムの作り方にはそれぞれの家のやり方があるのでしょうが、ここではロシア家事
百科にあったナナカマドのジャムの作り方を紹介します。
ナナカマドの実のジャムの作り方
苦味のなくなる最初のマロースのあと実を採る。
実はオーブンに入れ、低温で1~2時間加熱。
そのあと煮えたぎる湯に5分間入れる。
シロップをつくる。(1キロのナナカマドに対して)粉砂糖1.5キロ、水3カップを
合わせて、煮る。
ナナカマドの実をそのシロップに6~8時間浸してから、また煮る。
煮えたら火から下して、冷ます。
これを4~5回繰り返す。こうするとナナカマドの実に砂糖が浸み込む。
その後1、2時間おいておく。
別のなべにシロップを注ぎ出し、実を入れずに少し煮つめる。
実をびんに入れ、上から煮つめたシロップを流し込む。
これで出来上がりです。
ナナカマドの実はふつう苦いそうです。それで不幸な女のイメージで詩をよまれることも
あります。でもなかには甘いというか苦味の少ない実をつける木もあるのだそうです。
実の甘いナナカマドとしてもっとも有名なのが「ネヴェージノのナナカマド」です。
この実からつくられたリキュール「ネージンのナナカマド酒」は有名でしたが、
今でもあるかしら?
そういえば、ナナカマドはカレリアの叙事詩『カレヴァラ』でこううたわれています。
庭のナナカマドを心して大事に
守り育てるがいい
その木は神聖である
その枝も神聖
枝の葉も神聖
その実はさらに神聖である
札幌の同級生Sくんにこれを教えてあげたら、庭でじゃまになったから伐ろうと思っていたけれど
止めたとのこと。