◆世界のベストセラー聖書を読む◆
さて、ヨハネ伝第4章 場面が変わり今日は27節から42節まで
今まで人には言えない過去のいきさつから人目をはばかって人が出てこないまっぴる間に井戸に水をくみに来た女が、翻って町に出かけていって、わたしが会って話をした人は昔から言われてきた救い主かも知れないとおおぴらに言い始めたものだから、人々は興味もあり、ほんとかいなという思惑もあり、大勢の人がイエスに会いにきた。
その間、イエスは弟子たちに自分が何の為に現れたのかを暗示的に語る場面がでてくる。34節「多くの人のたましいを天に迎える為にわたしは来たのであると、その為に使わされた方(天の父ということになるが)の思いを遂げに来たのである」ということを話す訳だ。
◆37節この「ことわざが本当のこととなる」とは、ここも聖書(旧約)の民でしか分からない先理解の内容で、引照索引を見ると旧約聖書のヨブ記第31章8節、ミカ章第6章15節にあると出ているので見てみる。確かにそれらしきことが書いてあるな・・・。それにしても「ことわざが本当になる」とイエスが話すのは本当に旧約聖書のあちらこちらを読まれて覚えておられるのね・・・神の子だから当たり前かもですが脱帽です。
◆町の人々は思う、神の子であれば、人の心を見通し、透視もでき過去のいきさつもすべてご存じであると。女が自分のことをすべて言い当てた人だということで、みんなはイエスを信じたとある。まさに当時の人々は、神に対するイメージはやはり、神はすべてお見通しという共通認識があったことがわかるな。今のわれわれもそうだろ、と言われると、ああどうしよう、穴があったら入りたいと思うが、隠れても無駄よということだ・・・。だから、イエスは、十字架に掛かられたということになる。信じる人のすべての恥を負われた訳だ・・・という解釈になる。
◆さて、最後にとても重要な箇所42節 「自分の言葉で聖書を読む」とすすめてきたこの日記の意図でもある。
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話をしてくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救い主であることが、わかったからである」(42節) つまり、ここ
「人から聞いたからではなく、自分自身で(自分の認識で、自分の言葉で)イエスが世の救い主であると確信したからである」というところなのである。・・・Ω
さて、ヨハネ伝第4章 場面が変わり今日は27節から42節まで
今まで人には言えない過去のいきさつから人目をはばかって人が出てこないまっぴる間に井戸に水をくみに来た女が、翻って町に出かけていって、わたしが会って話をした人は昔から言われてきた救い主かも知れないとおおぴらに言い始めたものだから、人々は興味もあり、ほんとかいなという思惑もあり、大勢の人がイエスに会いにきた。
その間、イエスは弟子たちに自分が何の為に現れたのかを暗示的に語る場面がでてくる。34節「多くの人のたましいを天に迎える為にわたしは来たのであると、その為に使わされた方(天の父ということになるが)の思いを遂げに来たのである」ということを話す訳だ。
◆37節この「ことわざが本当のこととなる」とは、ここも聖書(旧約)の民でしか分からない先理解の内容で、引照索引を見ると旧約聖書のヨブ記第31章8節、ミカ章第6章15節にあると出ているので見てみる。確かにそれらしきことが書いてあるな・・・。それにしても「ことわざが本当になる」とイエスが話すのは本当に旧約聖書のあちらこちらを読まれて覚えておられるのね・・・神の子だから当たり前かもですが脱帽です。
◆町の人々は思う、神の子であれば、人の心を見通し、透視もでき過去のいきさつもすべてご存じであると。女が自分のことをすべて言い当てた人だということで、みんなはイエスを信じたとある。まさに当時の人々は、神に対するイメージはやはり、神はすべてお見通しという共通認識があったことがわかるな。今のわれわれもそうだろ、と言われると、ああどうしよう、穴があったら入りたいと思うが、隠れても無駄よということだ・・・。だから、イエスは、十字架に掛かられたということになる。信じる人のすべての恥を負われた訳だ・・・という解釈になる。
◆さて、最後にとても重要な箇所42節 「自分の言葉で聖書を読む」とすすめてきたこの日記の意図でもある。
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話をしてくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救い主であることが、わかったからである」(42節) つまり、ここ
「人から聞いたからではなく、自分自身で(自分の認識で、自分の言葉で)イエスが世の救い主であると確信したからである」というところなのである。・・・Ω