marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(68回目)

2016-07-24 21:23:54 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
新約聖書でヨハネ伝第9章は僕の一番好きな話。一人の生まれつき罪の中に生まれて来たとされてきた盲目の男(青年)、であるから職業などにつけず物乞いをしていた。当時は、このように生まれてくるとどのような決定をされていたか少し調べると分かる(旧約にも書かれいわば生きる価値無しの人間)。かたや、当時の尊敬されるべく知識人でばりばりの律法を守るパリサイ人。しかも、イエスが第5章に38年間も病で苦しんでいた男を癒したようにその日は、安息日であった(14節)とある。まるで、人を生かすのが神のみこころであるとの状況かまわず実行ありきの行動をイエスはこの時も行った訳だ。
◆現代医学から言えば、先回に述べたような盲目となった事情はある程度推察できそうだ。しかし、イエスはこう言う。(3節)「本人が罪を犯したのでもなく、また、両親が犯したのでもない。ただ、神のみわざが、彼の上に現れるためである。・・・」このイエスの言葉、僕は感動しますね。そして、盲目の青年の目を開ける(光を感じさせる)・・・(5節)「わたしは、この世にいる間は、世の光である」と宣言する。この言葉は、第8章の姦淫の女の解放後にも語られている。(8:12)「わたしは世の光である。わたしに従ってくる者はやみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
◆どうか、想像しながらこの章は何度も読んで欲しいと思う。表にでもまとめるとわかりやすいだろうが、この時の状況と当時の背景、罪人、律法学者などのコントラスト。そして、今まで盲目であったが故の怖さを知らないこの癒された青年の会話。そこにあるのは、癒されたという動かしがたい事実であった。おそらく、もともと目が開いていれば怖くてパリサイ人とは対等には会話など到底できない状況だっただろうが、感情を込めて書かせてもらえば、どんなにか嬉しかったことだろうな。人として見られてないような有様だったのだから。しかし、今や彼は、目が見える、この事実は見たら分かるように動かしがたい。周囲の人々から人違いではないかとも言われだす。しかし、・・・
◆どうです。生まれつき盲目で人とも見られず乞食をしていたが、癒された青年は言うわけです「わたしがそれだ」(9節)・・・”I am the one ” 実に重い返答だ。これこそは僕が言っている自分の言葉だ。そして、人々はパリサイ人につれて行くのだった。22節の会堂から追い出すとは村八分にされるということ。個人と組織、宗教的組織に胡散臭さを感じるのはこういうところからきているんだ先の回に書いたけど。(歴史では、組織に背くと火刑にあって殺されるまでしたからね)。先理解(旧約聖書、先祖以来の律法主義者)のスペシャリストであるユダヤ・パリサイ人らは、頑強に先祖伝来の言われ、書かれた文字に固執するのだった。
◆自分が体験した事実ほど確かなことはない。青年は言う(25節)「・・・ただ一つだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです。」(アメージング・グレースというとても有名な讃美歌がありますがこの箇所が英語歌詞でそのまま歌われている)これ淡々と読んでいるけれど当時の時代背景からは、実に驚くような境遇差の会話をしている訳だ。対等に人とも見られないような罪の中に生まれてきたと思われた青年が、おそらく生涯では声も掛け合わせないであろうばりばりの雲の上の人々、パリサイ人に対して、対等に会話をしているのだから。しかも、しかも・・・この青年はその人々に説教までし始める!
◆(31節)「わたしたちはこのことを知っています。神は罪人(つみびと)のことはお聞き入れなりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞き入れてくださいます。(32節)生まれつき盲人であった者の目を開けた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。(33節)「もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。
◇この罪人の青年はどこで仕入れたんだこのこと。罪人呼ばわりで乞食をしていたんだよこの青年。どこでいつ?・・・それは両親が出てくるでしょ(19節~)。どんな思いでこの青年を育ててきたのだろうね。生まれてから全く罪人のレッテルを貼られていたわけだから、よほどの信仰心というか神様に不可能はないのだよ待っていなさいと31節から33節で青年がいったことを教えられてきたんだと思うね。
・・・これはスゴイ逆転劇だった。しかし、青年は外へ追い出されてしまった。つまり村八分。
◆しかし、この話の第9章の話の山場は終わらず、次ぎにあるのです。村八分になってしまった青年をイエスはそのままほったらかしにしなかったのだ。イエスは、外に追い出されたことを聞いて、捜して発見し言う(・・・having found him、said・・・)(35節)「あなたは人の子を信じるか」シロアムの池に行きイエスと離れたので青年にはイエスはどのような顔形かわからなかったのだ。(36節)
◆イエスは青年にいう。(37節)「今、あなたと話しているのが、その人である」。青年は答える「主よ信じます」と言ってイエスを拝した。<結論>3節の「神のみわざが彼の上に現れるためである」の「彼の上に現れる」とは、彼のこの信仰告白にあると僕は思うのである。イエスの救い、神のみわざとは奇跡を起こしてShowを露わにすることではなく、ひとりの命、永遠の命を与えることにあるのだから。どうですこれを読まれたあなた・・・Ω











世界のベストセラーを読む(67回目)

2016-07-24 08:55:23 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
今日はとても良い天気です。「死生学」を伝授しておられるアルフォンス・デーケン先生(上智大)が「雨の日でも(晴)ハレルヤ、晴れても(雨)アーメン」とのお言葉、それから亡くなられた妹さんの秋田聖霊短期大学にお勤めだったアンネリーゼ・デーケン先生は「いつも喜べ、絶えず祈れ、すべての事感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙一16,17,18節)をいつも心していたとのこと、いつも変わらずイエスが側におられて語りかけられていることを思わされるものです。(友人に司祭がいるが僕は、カトリックという組織(人ではなく、宗教組織というものの人に与える心理というのが)はあまり好きではない。デリケートな問題でいつか書きたいと思うがこれからの第9章に関係があるかもしれない。)
◆ここまで、読まれていた方がおられれば、時々でも・・・この地上が終わったとき、それらの方々と話ができるであろうとを僕は心から喜ぶ者です。(ちょっと護教的になってくると面白くなくなるが)。どうぞ、スタート時点から述べてきた「自分の言葉(自分ということを知るにも何冊も本が書けそうな気がするがまあ常識範囲での普段着の自分と言うことで)で聖書を読んで見ましょう」と言うことで始めてきましたが現代は人の頭数ほど、イエスとの対話の言葉が出てきます。そうであるからこそ自分の言葉でイエスの言葉を捕らえていきたいと思うのです。第8章37節「わたしの言葉が、あなたがたのうちに根を下ろしていない」と言われないように。「わたしの言葉を守るなら、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」(51節)と言われている訳であるから。
◆さて、ヨハネ伝第9章。僕が、新約聖書の中での一番気に入っている物語である。今を生きている者にとって、親を選んで生まれてきた者はひとりもいない。理由や判別など優位をつけることの一般化などはされてはいけないが、我々が生き物である限り自らを選べない制約はその本人の選択の余地がなく遺伝的気質を持って生まれて来ているということだ。(これも何冊も本が書けるだろう。)あの親の遺伝的欠陥はこの子に来てますね、DNAの位置NOでは○□○番です。ですからこの機能の方面は生物学的には望めません、と言うような事は今では調べようと思えば簡単なことではある(お金は掛かりますけど)。人もその制限があるだろうが、神の似姿に創造されたが故にというか、特に生物学的領域を人に当てはめるのは御法度のようなのである。過去には有能な人間だけを残せばいいのではないか(過去には赤子の内に処分とか本当にとんでもない歴史もあったのである。むろんこれはどこにでもということではない。理屈から言えば、一般の人間にとって幸せになるとは、まずはその選択から始めて見るのが道理のようにも思うが、ところがどのような欠陥人間でも神の似姿に創造された神の最高傑作なのであると・・・ここに「人権」とういう概念が歴史の中で生まれてくるのだ・・・Ω