marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(52回目)

2016-07-09 20:01:56 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
聖書は、カトリックでのフランシスコ版というのもありますが、この日記であちこち読み回しているのは、日本聖書協会の新共同訳聖書、それから、その前の口語訳聖書、いのちのことば社の新改訳聖書です。兎に角、手に取り易いもの、安いもの、汚してもいいものを手に入れてください。僕は良く読むのは、10回目でも紹介した新約聖書(book offで100円だった)これは会社の机の中、ギデオン版は自宅、いずれも英語対訳となってるが、それぞれ英語異なる(つまり、アメリカでは教会により違う訳を読んでいることになるななどと考えながら・・・)、英国ではこれも紹介したから、おそらくこれは、某著名な大学版だから一つに決定かな、ドイツではM.ルターさん訳に決定だろうな。日本語訳でも比較してみると面白く読めますので、どうぞ自分を見失わず(ここ大切、どうも我が国では、訳も分からず、神棚にまつってしまうような気持ちになる人が多いので)自分の言葉で、読まれますよう共に学んでいきましょう。プロテスタントの開祖ルターさんの願いは万人祭司でした。イエスの前に一人一人が立つでした。
◆さて、続きヨハネ伝第4章43節から最後54節まで
ガリラヤに来てなされた第二の奇跡(しるし)であるとのこと。第一は同じガリラヤのカナで行われた水を葡萄酒に変えた話でした。ここの第二のしるしは実にいい話だ。その前にイエスが言われた44節の自分の故郷では敬われないものだ」の故郷とは、ガリラヤではなくエルサレムのことであろうと、いのちのことば社の説明。僕もそうだと思う。45節ガリラヤの人はみんなイエスを歓迎したのだから。それに僕の好きな場面(マルコだが)、復活したイエスにはガリラヤで会えると天使が言ったのだから。
◆第二のしるしのメインは、50節と53節であろう。50節:イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたの息子は助かるのだ」。彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰った。53節:それは(息子が助かったのは)イエスが「あなたの息子は助かるのだ」と言われたのと同じ時刻であったことを、この父は知って、彼自身もその家族一同も信じた。 
◆第4章を終えるが、みなさんは肝心のサマリアの女はイエスを信じたと思われますか?・・・Ω

世界のベストセラーを読む(51回目)

2016-07-09 18:43:41 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
先の50回目で、サマリアの女の話は終わりなのだが、文章としてよく分からないところがある。実際の話としてそういう流れだったのかは致し方ないとしても34節から38節はどうしてここに割り込んだのか、そしてそのイエスの話されたことの意味。以下、僕なりの解釈・・・
◆34節:地上の人は(生物として)食べて生きる。イエスは、天の父の御心を行うこと(それは最終、十字架まで含む)が自分の食べ物であるとイエスは弟子たちに言う。つまり、生きることは自分の使命を果たすことなのだとの意。
35節:「目を上げてみなさい。・・・」とは、サマリアの女が町で告げたことにより、ぞくぞくとイエスのもとに来た大衆のことの情景として例えているように読める。
36節:それは、異邦人ともなったサマリアの大衆がひるがえってイエスのもとに来て、永遠の命に導かれる実となっているから。いのちのことば社の聖書によると36節から38節での解説は、「イエスは十字架と復活の出来事において、神の愛と力の種を蒔かれた。その結果、弟子たちが異邦人から回心者を刈り入れることが可能となった。その初穂がサマリアの回心者たちである」とある。 今回は、いのちのことば社の聖書から。
◆不明だったところは38節「わたしは、あなたがたに自分で苦労しなかったものを刈りとらせるために、あなたがたを使わしました。他の人が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」というイエスのことば。ここはどういう意味か。
◆「刈り取る」とは、イエスは父なる神の御心を行う方であると信じる者を起こすこと、自らの言葉で納得し、理解し、自覚する者となすこと(42節)であり、弟子はその使命を受けているものであるが、しかし、蒔いたイエスと(この時、弟子たちが種を蒔いたのではない、食事を買いに町へいっていたのだから。最終的に弟子たちはこのとき福音の種を蒔かなかったが)共に刈り取ったものに預かる喜びが今、出来ているということ。また、他の人が労苦しての「他の人」とは(このとき12弟子の以外のそれ以降の弟子たちのこと?、或いは、長命だったこの福音記者ヨハネの先理解?いや)ここでは、「サマリアの女」のことをイエスはさしていたのであろうと僕は思う。このとき、女は、自分の恥をさらしてもそれ以上の大変な救い主メシアとの出会いがあったこと(26節「わたしがそれです」)を町の大衆に伝え(種を蒔いた)そのことにより多くの異邦人がイエスを自ら信ずると告白する者となったということであろう。・・・そのように直截の弟子でなくとも、イエスの言葉が蒔かれることによりイエスを信ずる者が起こされるということの重要な意味をこの割り込み(34節~38節)は示しているものと思われるである・・・。みなさんはどう読まれるでしょう・・・Ω。