marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(59回)

2016-07-16 22:29:12 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
ヨハネ伝第6章に入る前で立ち往生してしまった。ところで、書き留めておかねばならないことが出てきましたので書いておきます。54回目に書きました(出来れば読んで下さいね)38年病の男をイエスが癒し、①「もう、罪を犯さないように」と②「もっと悪いことがあなたの身に起こる」と言った言葉の意味について、その道の方でネットで聖書の言葉と解説を短く配信されている方がおられるので問い合わせておりまいたところ次のような返事が来ました。
◆「(いのちのことば社)から出ている「実用聖書注解」が参考になると思います。①イエスは個々人の特定の病気や障害と特定の罪とを結びつけて考える考え方に対して必ずしも賛成ではなかった。(参照9:3)しかし、病気の癒しと共に罪の赦しの宣言がなされる場合がある(マコ2:5)。もっともマコ2:5の場合も本書のここでの場合も、特定の病気と罪とを関連づけることが目的ではない。②罪を犯し続けるならもっと病気がひどくなるという意味ではなく、罪に留まる者は結局罪の奴隷であり、罪の内に死ぬ他はないという意味である(8:24、34)」とのことです。38年病で動けない男、その場でイエスを誰であるかも分からなかった男が、上のような解釈であったとしても理解したかどうか・・・皆さんの解釈は如何に。
◆さて、第6章 聖書の中で何回か読む内に線を引いたり書き込みしているが、第6章は一番多い。結論からいえば人が生きていくための食べ物のこと。この部分は教会では聖餐式のパンとブドウ液をいただくことになる重要な箇所なのだが、それなりに秘儀であるのかさっぱり肉なる僕には(誰でもだろうけど)分からない(=だから秘儀なのだ)、否、こういう書き方はまずい。一方的にそうでございます(アーメン)と受け取る以外にありません。「イエスを殺して、肉を食い、血を飲まなければ永遠に生きない」などと解釈したら、誰でもぎょっとするわね。ユダヤ人たちは議論し、それまでいた弟子の12人以外の何人かは離れていったとある(60,66節)。
◆ヨハネ伝のここには他の3つの福音書(共観福音書と言われます)にある最後の晩餐の場面設定がありませんね。いのちのことば社の聖書の解説をそれなりにまとめると「(26)給食の奇跡に続いてそのしるしの意味を明らかにするイエスの説話が紹介されるのは本福音書だけの特徴である。(53-58)この箇所のイエスの説話には(1)五千人の給食 (2)イエスの贖いの死 (3)聖礼典としての聖餐式に関する教えの三者が混合している。」となるそうです・・・少し難しくなってきました。まあ、人の言葉で整理するとそのようになりますねという程度で・・・Ω

世界のベストセラーを読む(58回目)

2016-07-16 09:30:51 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
今日は、いのちのことば社の聖書を用います。今回も少し横道にそれます。
◆ヨハネ伝第5章31節以降、56回目の後半に神の教えの聖書(今の旧約)に、歴史的にも言われきており、イエス自身でも話し、いろいろなワザ(僕らの言葉で奇跡)からも見ることが出来、今、大衆から慕われる洗礼者(ヨハネ)からも「神の子である」と宣言もなされて、それらは架空ではなく実際、調べても、見える事実からもイエスが父なる神のもとから来ている証明がなされているということを書きました。それは、架空の物語ではないということ。検証されて、確認され、確かですと認められますねということで第5章は終わります。25節には東進予備校の林修先生のブレークした言葉がありますね。「今がその時です。」経過する時間(クロノス)ではなく、質的時間(カイロス)<( )内はギリシャ語、経過する時間クロックはクロノスから由来>ということが、イエスが話されている今(イエスの言葉を読む者はその時)、そのままでは霊的に死んでいたが(25節の「死人」とは「霊的に死んでいる」という意)イエスの声を聞く者は生きるということ。生きている時の中に「私はある。それは今でしょう!」ということになります。
◆さて、当時の人々、ユダヤ人パリサイ派の人々は旧約(当時では「聖書」)のモーセには絶大な権威を与えてその律法を守ってましたが「われわれはモーセの弟子である」とイエスに食ってかかった場面もあったが、ところがイエス自身がモーセが書いていたのは自分の事であると宣言した訳です。
◆それでは、そこを少し調べます。ヨハネ伝の(1:17)を見ると「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。と書かれています。それでは、具体的に旧約へ、モーセが書いたと言われる出エジプト記(29:45)「私はイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。」それから幕屋を建て神は其処に住まわれ出エジプト記(40:34)「その時、雲は会見の天幕を被い主の栄光が幕屋に満ちた」、これらのことがイエス・キリストの受肉により、人の間に住まわれ、神の栄光を現されたという事になります。
◆いずれ、長い歴史の中で、神が御自身を伝える者としてイスラエルという民族を選び、そのことの歴史を通して命ある地上の被創造物を永遠の命に導こうとされているその集約が、キリスト・イエスに現れたということになります。そして又、それは観念的な事ではなく、実際、聞くことが出来(読むことが出来)、目で見て分かり、手で触れてわかり、実態として我々は分かるのだと語っているように思われるのです。・・・このことからマケドニア(これはパウロの手紙の時に詳細)を通っての西欧哲学は人間の言葉での神の追求が始まるのでした。・・・Ω