marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(117回目)

2016-09-01 03:32:02 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ ヨハネ伝も”その時”の前後から、それ以降。
どの章まで進んだかぼやけて来たが十字架に掛かられる前の最後説教は、ヨハネ伝さんは第17章まで。それにしても他の共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)と違って、何と言ってもM.ルターさんが福音書読むのであればヨハネ伝と言われて、ヨハネさんも筆記当時、すでにだいぶ時間経過の中で、イエスの”わざ”が書ききれないほどだと(イエスがたった3年ほどの短い実働期間であったにもかかわらず)(21:25)。それが、ヨハネ伝さんの何と言っても強みなのでした。どうだ、架空の物語ではありませんぞ! なんと言っても、歴史により辛酸舐められ(自分たちの神から離れた為とのその都度の一応理屈であはあるが)、骨身にたたき込まれた神に選ばれし民のその目的は、このお方一人の為だったといわれても良いくらいの大変な事業の中で、いよいよ多くの弟子達によって、今や世界にイエスの十字架がたっている。(今や・・・の所までが、また人類が自分の言葉としてイエスから託されたというか「天の御心を地にもなさせ給え」という、指をくわえて黙って見ているということではなくて、聖霊を受けた? 真理の霊に教えられた? 啓示を受けた? それぞれの以降の(直截、弟子を名乗らなくても神がその人を通してそうさせるのであるから、他からはどうこう言えない次元の世界からの働きにつき動かされた)人々が人類に自分での言葉を獲得していき、あらゆる学問、芸術を通して、世界に貢献してきたと僕は考えるのだな。まだ、未達の所もあるし、だいぶ変質しているのもあるが)
◆で、話が飛躍し始めたが、つまりだ、人類の歴史を通して(それは今も進められているが)、定理、条件、方法、実験、検証、証明がなされた現実の歴史とそれ以降、託された人類の歴史が、いまも続いているという訳なのである。ダイナミックにね。これからの予測は、資料sampleとなる人類が(まぁ、なんというひどい例え)選択されてくるから、ひとりひとりはもっと自覚的にならないといけないと思う。イエスは、それらを聖別すると話されている。(ここで、カルヴァンさんの予定説やホーリネス、メソジストなどの教派が出てくるな、これはいずれ)
◆イエスを裏切ったと言われるユダさんのことも書きたいが、ヨハネさんも過ぎ去りし闇のことは(当時のグノーシスの影響も多分にあったのだろうけど、光、闇とか コントラストうまいですね)あまり書いていない。僕もミイラ取りがミイラにならにように、ユダさんのことは、詳しく書かないことにする。本だけ紹介(今は、いっぱいユダさんについての本が出てるね。またもや聖書は知識かいなと思われるが、やはり、対抗できるようにヨハネ伝のイエスの霊であり命である言葉にもどってそれを、自分の言葉で読むこと。いつもそこからスタートだ。常に祈れとは、僕はそういうことだと解釈してるんだ。)・・・   

世界のベストセラーを読む(116回目)

2016-09-01 02:37:08 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ いよいよ、”その時”が近づいてきたなぁ。
十字架にかかる”その時”の前のイエスの最後の説教。前の115回からこのヨハネ伝の言わんとすることが、要約できるではないかと思うな。良く読むと同じ事を何度もイエスは語られていますね。
◆例えば(ヨハネ伝17:5)「父よ、世が造られる前にわたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせてください。」と(同17:24b<アルファベットbはその節の中の2文書目>)「天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜った栄光を彼らに見せてください」。これは、ともかくもイエスは天の父なる神のひとり子であられるから天地創造来のパラダイスに父とともに居られ、最愛で栄光の極みの中に居たということをご自分で話されている訳だ。そこから地上に誕生し十字架に掛かり、人類の神から離れてしまって天には復帰できない人類の(信じた者の)罪を背負って、再び、父なる神の元へ帰って行かれる。(しかし、正直のところ、十字架に掛かることが栄光を表すというところで考えがとまっていると何か奥歯に物が挟まった感じがしてたのね。だけどそうでは無くて、それ以降の”復活させられるそのわざ”により、その意味は父の創造の最高傑作である人間の”死”が無くなる。死も滅ぼされるというそのすべての父とともなるパラダイスの復元がなるという意味までをも含んで、また、そのスタートとなる初穂としてイエスの復活が表されるということを”栄光”を彼らに見せてくださいと言われているのですね、ここは、ふ~っ) 神学的には「人類の終わりの始まりというそうだぞ!」 とりあえず、
◆その他にも何度も同じような、イエスは自分はこういうものであるという自己特定の話され方を何度もされてますね(ヨハネさんが書いているといったらいいか)。で、先の内容は、旧約信仰の父と言われた(日記の初めから何度も書いている聖書を読むには兎に角、先理解の知識がいっぱい、歴史の底辺を流れているということを理解するのが大前提となるのですが)アブラハムが生まれる前から、わたしは居るのだとイエスが、話されているくらいですから、その伝統を少なくとも聖書(今の旧約聖書に当たる)でたたき込まれ、体験させられて骨身にしみて理解させられてきた先祖伝来の長い長い歴史を持つ人々にとっては(つまり、こういう神の先理解自己を体験もせず、理解をする歴史を持たない人々を異邦人という訳だが)、その中にそのイエスのことが、聖書の初めから書かれていたじゃないかと、あとあと調べて(真理の霊に教えられて)、イエスのこの短い公の”神のわざ”(話していることが分からなければわたしの”わざ”により悟れと、時間経過の中で(ヨハネさんが書いた時は半世紀以上は経かしていたから”わざ”の証し(証拠)は動かしがたい事実として沢山あった。書ききれないと言ってるくらいですから)んで、やはりあの方は、キリスト(油注がれし者)救い主、そのもののお方だとなるのだ。イエス御自身も全世界に宣教せよと言われたし、弟子達はこうしては居れんとなった訳です。・・・