marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(144回目)

2016-09-23 19:40:15 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
プロテスタント(新教)において、聖書の福音書を学ぼうとしたときに”ヨハネによる福音書”から学ぶのは、Ⅿ.ルターさんの第一の推奨であるからで、そう考えその学びを行う”その道の方”がおられれば正当に福音の歴史を学んでおられる方だと言ってよろしいかと思います。私たちは、文字情報にあまりに恵まれ何もかにも分かったような錯覚をしてしまい易いものですが、こと”いのちのことば”となれば、我々は心しすぎることなく、よくよく黙想も併せて読むことです。ああ、新約聖書はこんな物語だったのねなどと分かったようになってしまうのは至極残念なことですねぇ。一度、その真髄に触れると、そう考えてしまうときに薄っぺらになったなと感じてこれではいけないと、もう一度、読むのを休んでみるのも聖霊が教えてくださることかと思われる。それは、脳みそから発する自分の言葉が霊の極みからなのか、疲れゆく肉体に引きずられているのかの分離状態をさまよっているのかが分かってくるのだね。そういう自分を日々、点検することからも”霊は人を生かす、肉は何の力もない”というような聖書の言葉を浮かべてしまうのだった・・・。おお、なんか今回はPOEMっぽい!(詩的)
◆注意しないといけないのは、僕らは二千年昔のイエスの時代には生きてはいないということ。そして、イエス御自信の言葉は真理と言っても、それを語る福音記者たちは、その時代に生きていたのだから、その時代背景そしておのれの置かれた立場などに必然的に制約を受けていたのだな。だから、福音書は多少言い回しが異なっていたのだね。もう大変な伝統を受け継ぐ先理解があって、しかも歴史的に辛酸をなめてきた歴史をもって証をしてきたわけだユダヤ人は。だから、当時のユダヤ人のある程度の考え方の変遷とか伝統(常識など)を勉強させてもらいながら読むと、イエスの言葉は当時の人々にはよく理解できたということが分かってくるわけだ。イエスの言葉の集められた語録集があって、それを元に物語としてそれそれの福音記者はつづってきたわけだ。70年ころにマルコ伝、それからマタイ伝(ユダヤ人向けに書いたから旧約のことには先理解のあるユダヤ人向けにいろいろ旧約に出てくる家系図のようなのがだらだらと)、ルカはお医者さんだったそうだから、とにかく、スマートに書かれている使徒行伝までも、考えるとこれはすごいな、しかし、エルサレムのハイソ向けのエリート向けだなやっぱ。でも、ルカさん好きな方は、その道の方は一番多いのではないかと思う。僕は、つたないギリシャ語で一番初めに書いたマルコが人としてとても興味があるのだ。これはいずれ。
◆そんで、毛色の異なったヨハネさんはどうしてそうなったか(共観福音書から外れた内容)といえば、一番長生きして言葉よりもむしろ、”イエスのわざ(それは神のわざ)”としての事実に触れた実態を何よりも伝えたいと願ったからなのだった。だから、死んで四日も経って臭くなったラザロ(のちに復活し生活を共にした)や、疑い深い弟子のトマスがイエスの手の十字架の釘の穴に指を入れないと信じないとまで、妙にいろいろグロテスクに細かにかく訳が分かると思う。そして、周囲が異教の教え、グノーシスや他の異教が入り込んでく状況においてそれに対抗すべく、またよりイエスの存在に普遍性を持たすべくより観念的な言葉になっていったと考えられるわけです。・・・ふ~っ 

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第1章14節~ロゴスの受肉)

2016-09-23 19:37:37 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆ロゴスの受肉(第1章14節~)八木誠一訳(1970年)
1:14 ロゴスは肉となって我々の中に住んだ。以下に物語るように、ロゴスはまずイエスという人間として世に現れ、イエスの死後聖霊において我々の中に宿った。我々は彼の栄光をを見た。それは単にロゴス自身として輝く光ではなく、神をさながらにあらわす栄光であった。すなわち神の独り子にふさわしい栄光であり、恵みと真理に充満していた。
15: ヨハネはこの人イエスについて証言し、聖霊に感じて叫んだ。
 「この人こそ、かつて私が『私のあとに来る人は私をはるかに超えたひとである。私より前からいたからだ』と言った当の人である」。
16: 我々はみな、肉となったロゴスの、真理と恩恵の充満を受けた。実際、恩恵に加えるに恩恵を受けたのだ。
17: 何故といって、旧約聖書に記されている律法も、たしかに人を人たらしめる制約を記したものとして、その存在は真理でもあり恵みでもあるのだが、しかし律法は実はそれを超えたロゴスの反映でもあり、律法を律法たらしめているものはロゴスに他ならない。だからロゴスに盲目である限り、人はいかに聖書に通じていると言っても、実は神から離れて生きようとしているのである。律法の言葉はモーセを通じて与えられたが、恩恵と真理そのものは、イエス・キリストを通じてはじめて世に来ったのである。
1:18 神を見たものはいままで誰もいない。人がどれほど見たと主張しようと、イエス・キリストを通じないで神を見たなどということはありえようがないのだ。何故なら、父のふところにいます、父の独り子(なる神)が、父を我々にあらわしたのだから。
 <「ロゴスの受肉」の章 終わり>・・・Ω 

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第1章6節~ロゴスの受肉)

2016-09-23 01:43:06 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆ロゴスの受肉(第1章6節~)八木誠一訳(講談社)
6-8:さてこのような状況の中で、一人の人が神によって立てられた。彼の名を洗礼者ヨハネという。ヨハネの使命は、光について証言することであった。それはすべての人が彼の証言によってロゴスを信ずるようになるためであった。ヨハネ自身を光と信ずる人があるとしても、彼は光なのではない。彼は光について証言することを使命とするのである。
9:というのは、ロゴス、すなわち真の光があって、世にあるすべての人の上に照っている。どんな人でも、すでに人である以上、この光に無関係だということはありえない。無関係だという人はもう、自分の存在の真実の根柢に抗い、これを基礎としてあることを拒んでいるのである。
10:ひとつの事実を告げよう。この光はまさにこの世の中に現れたのである。そして世は、この光を通じて成った。それなのに世は光を認識しなかった。
11:光は、もともと光の中に自覚的にあるべく定められた人間、すなわち光に属するはずの人間のところに来たのである。それなのに人間は光を受け容れなかった。
12:しかし、他方、光を受け容れた人もあった。そして光は、彼を受け容れたすべての人に、神の子となる権能を与えた。人は神の子とあるべく定められているが、その定め自身によってすでに生来神の子なのではない。真理なるロゴスに基づいてきよめられ、自覚的にロゴスに即して生きるようになったとき、はじめて神の子となることができる。そしてロゴスを受け容れるとは、ロゴスを神の啓示者として信じかつ知ることにほかならない。
13:こういう人が出来るのは、人の生まれつきや、神とかかわりなしに猛威を振るう肉の欲望や、また男の欲情によるのではない。信ずる人は神から生まれたのである。信仰は一面たしかに人の自由な決断に他ならない。しかし、その決断自身、人のあり方に対する神の定めによって成り立つのであって、だから信ずる人は神を究極の根源として成り立つのである。・・・つづく