◆世界のベストセラー聖書を読む◆
プロテスタント(新教)において、聖書の福音書を学ぼうとしたときに”ヨハネによる福音書”から学ぶのは、Ⅿ.ルターさんの第一の推奨であるからで、そう考えその学びを行う”その道の方”がおられれば正当に福音の歴史を学んでおられる方だと言ってよろしいかと思います。私たちは、文字情報にあまりに恵まれ何もかにも分かったような錯覚をしてしまい易いものですが、こと”いのちのことば”となれば、我々は心しすぎることなく、よくよく黙想も併せて読むことです。ああ、新約聖書はこんな物語だったのねなどと分かったようになってしまうのは至極残念なことですねぇ。一度、その真髄に触れると、そう考えてしまうときに薄っぺらになったなと感じてこれではいけないと、もう一度、読むのを休んでみるのも聖霊が教えてくださることかと思われる。それは、脳みそから発する自分の言葉が霊の極みからなのか、疲れゆく肉体に引きずられているのかの分離状態をさまよっているのかが分かってくるのだね。そういう自分を日々、点検することからも”霊は人を生かす、肉は何の力もない”というような聖書の言葉を浮かべてしまうのだった・・・。おお、なんか今回はPOEMっぽい!(詩的)
◆注意しないといけないのは、僕らは二千年昔のイエスの時代には生きてはいないということ。そして、イエス御自信の言葉は真理と言っても、それを語る福音記者たちは、その時代に生きていたのだから、その時代背景そしておのれの置かれた立場などに必然的に制約を受けていたのだな。だから、福音書は多少言い回しが異なっていたのだね。もう大変な伝統を受け継ぐ先理解があって、しかも歴史的に辛酸をなめてきた歴史をもって証をしてきたわけだユダヤ人は。だから、当時のユダヤ人のある程度の考え方の変遷とか伝統(常識など)を勉強させてもらいながら読むと、イエスの言葉は当時の人々にはよく理解できたということが分かってくるわけだ。イエスの言葉の集められた語録集があって、それを元に物語としてそれそれの福音記者はつづってきたわけだ。70年ころにマルコ伝、それからマタイ伝(ユダヤ人向けに書いたから旧約のことには先理解のあるユダヤ人向けにいろいろ旧約に出てくる家系図のようなのがだらだらと)、ルカはお医者さんだったそうだから、とにかく、スマートに書かれている使徒行伝までも、考えるとこれはすごいな、しかし、エルサレムのハイソ向けのエリート向けだなやっぱ。でも、ルカさん好きな方は、その道の方は一番多いのではないかと思う。僕は、つたないギリシャ語で一番初めに書いたマルコが人としてとても興味があるのだ。これはいずれ。
◆そんで、毛色の異なったヨハネさんはどうしてそうなったか(共観福音書から外れた内容)といえば、一番長生きして言葉よりもむしろ、”イエスのわざ(それは神のわざ)”としての事実に触れた実態を何よりも伝えたいと願ったからなのだった。だから、死んで四日も経って臭くなったラザロ(のちに復活し生活を共にした)や、疑い深い弟子のトマスがイエスの手の十字架の釘の穴に指を入れないと信じないとまで、妙にいろいろグロテスクに細かにかく訳が分かると思う。そして、周囲が異教の教え、グノーシスや他の異教が入り込んでく状況においてそれに対抗すべく、またよりイエスの存在に普遍性を持たすべくより観念的な言葉になっていったと考えられるわけです。・・・ふ~っ
プロテスタント(新教)において、聖書の福音書を学ぼうとしたときに”ヨハネによる福音書”から学ぶのは、Ⅿ.ルターさんの第一の推奨であるからで、そう考えその学びを行う”その道の方”がおられれば正当に福音の歴史を学んでおられる方だと言ってよろしいかと思います。私たちは、文字情報にあまりに恵まれ何もかにも分かったような錯覚をしてしまい易いものですが、こと”いのちのことば”となれば、我々は心しすぎることなく、よくよく黙想も併せて読むことです。ああ、新約聖書はこんな物語だったのねなどと分かったようになってしまうのは至極残念なことですねぇ。一度、その真髄に触れると、そう考えてしまうときに薄っぺらになったなと感じてこれではいけないと、もう一度、読むのを休んでみるのも聖霊が教えてくださることかと思われる。それは、脳みそから発する自分の言葉が霊の極みからなのか、疲れゆく肉体に引きずられているのかの分離状態をさまよっているのかが分かってくるのだね。そういう自分を日々、点検することからも”霊は人を生かす、肉は何の力もない”というような聖書の言葉を浮かべてしまうのだった・・・。おお、なんか今回はPOEMっぽい!(詩的)
◆注意しないといけないのは、僕らは二千年昔のイエスの時代には生きてはいないということ。そして、イエス御自信の言葉は真理と言っても、それを語る福音記者たちは、その時代に生きていたのだから、その時代背景そしておのれの置かれた立場などに必然的に制約を受けていたのだな。だから、福音書は多少言い回しが異なっていたのだね。もう大変な伝統を受け継ぐ先理解があって、しかも歴史的に辛酸をなめてきた歴史をもって証をしてきたわけだユダヤ人は。だから、当時のユダヤ人のある程度の考え方の変遷とか伝統(常識など)を勉強させてもらいながら読むと、イエスの言葉は当時の人々にはよく理解できたということが分かってくるわけだ。イエスの言葉の集められた語録集があって、それを元に物語としてそれそれの福音記者はつづってきたわけだ。70年ころにマルコ伝、それからマタイ伝(ユダヤ人向けに書いたから旧約のことには先理解のあるユダヤ人向けにいろいろ旧約に出てくる家系図のようなのがだらだらと)、ルカはお医者さんだったそうだから、とにかく、スマートに書かれている使徒行伝までも、考えるとこれはすごいな、しかし、エルサレムのハイソ向けのエリート向けだなやっぱ。でも、ルカさん好きな方は、その道の方は一番多いのではないかと思う。僕は、つたないギリシャ語で一番初めに書いたマルコが人としてとても興味があるのだ。これはいずれ。
◆そんで、毛色の異なったヨハネさんはどうしてそうなったか(共観福音書から外れた内容)といえば、一番長生きして言葉よりもむしろ、”イエスのわざ(それは神のわざ)”としての事実に触れた実態を何よりも伝えたいと願ったからなのだった。だから、死んで四日も経って臭くなったラザロ(のちに復活し生活を共にした)や、疑い深い弟子のトマスがイエスの手の十字架の釘の穴に指を入れないと信じないとまで、妙にいろいろグロテスクに細かにかく訳が分かると思う。そして、周囲が異教の教え、グノーシスや他の異教が入り込んでく状況においてそれに対抗すべく、またよりイエスの存在に普遍性を持たすべくより観念的な言葉になっていったと考えられるわけです。・・・ふ~っ