marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第2章13節~宮清め)

2016-09-28 21:50:17 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆宮清め(第2章13節~22節)八木誠一訳(1970年)
13: 春になってユダヤ人のエジプト脱出を記念する過越の祭りが近づいたので、イエスもエルサレムにのぼった。祝祭の折には敬虔なユダヤ人はエルサレムに集まるのである。
14: イエスは神殿に赴いた。神殿の前庭には、犠牲として献げるための牛や羊やハトを売る人や、神殿税納入のための金を両替する人が営業していた。
15: イエスはそれを見ると、なわでむちを作って、この人達を羊や牛と一緒に神殿から追い出し、両替え屋の小銭をまき散らし、机をひっくり返して言った。
16:「みんなここから持って出ろ。私の父の家で金儲けをするな」。
17: イエスの、神の家を思う熱心を見た弟子達は、詩編(69:9)の言葉を思い出した。ここには「あなたの家を思う熱心が私を喰いつくす」と記されているのである。
18: ユダヤ人はイエスに言った。
  「こんなことをやってのけるとは、一体君はどんな徴で君の権威を証明するのだ」。ユダヤ人の言う徴とは、地上の異常な出来事(奇蹟)それ自信のことである。彼等は、それが神から権威を授かっていることを証明すると考えている。
19: イエスは彼らに答える。
  「この神殿をこわしてみたまえ。そうしたら私は三日で再建して見せる」。
20: そこでユダヤ人はイエスに言った。
  「この神殿を建てるにはもう四十六年かかっている。それなのに君は三日で再建するというのか」。こうしてユダヤ人はイエスに躓いた。
21: 実はイエスは自分のからだのことを神殿といったのである。これはユダヤ教の神殿祭儀の克服にほかならない。神殿はのちに破壊されたが、イエスは死んで三日で甦った。イエスの言葉は、ユダヤ人の徴の要求を否定しながら、実は高い意味においてその要求をみたすものである。真理は世の要求に対してはいつもこのように振る舞うのである。
22: イエスが死人の中から甦ったとき、弟子たちはイエスが先に言ったことを思い出して、聖書とイエスの言を信じた。イエス・キリストは神殿に象徴されるユダヤ教を克服して、彼自身つまり真理そのものを世にもたらすのである。

 <「宮清め」の章 終わり> ・・・ 

世界のベストセラーを読む(146回目)

2016-09-28 00:10:25 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今回も少しラジカルなことを・・・
先回145回目の後半に述べたことは需要なことだと僕は思っている。そしてどうだろう、あなたが2016年の今、その道を伝える人だとして、イエスのことを信じてもらおうとした場合なのですがその力は湧いてくるでしょうか。その意気込みは湧いてくるでしょうか。僕らは、異邦人でユダヤ人のようにパラダイスにおられる天の父なる創造主のような、歴史を支配している神がおられて生身の人間がその神の”証(あかし)”をなしてきた歴史を持っているわけではありませんし、それでなくても今という時を刹那的に生きているこの国の我々なのですからどうしたものだろうと考えてしまうわけです。今は、言葉も豊富になり、お金があれば何とかしのげる社会になってきて、一人でもお話し相手がいれば、穏やかに人生を過ごせると考えてしまうのではないでしょうかね。確かにイエスの言葉に癒されることが多くあります。しかし、これもその言葉に耳を傾けようとする人がいる一方でまったく気にも留めない方もおりますね。
◆さて、何度か書かせていたいただいた佐藤優さんは  神学はまず生きている神学でないとダメであると言い、今後、日本でクリスチャンは増えることがありますか?の問には「考えられません。基本は斜陽産業です。」(p112)と答えています。
◆そこで、読んできたヨハネ伝を考えて見たいと思うのです。福音記者ヨハネは何を最も伝えたかったのか”イエスを信じて永遠の命を得ることだ”とは何度も書かれていることです。ユダヤ人のように先祖伝来の長い伝統のあるその先理解(旧約における歴史など)のない我々には、その何度か書かれているヨハネの言葉も聞こえない人には聞こえないのです。しかしそれでも聖書は、イエス・キリストを信じなければ永遠の命には入れないと語っているのです。
◆さて、記者ヨハネの伝えたかったことは、イエスの言葉と共にその動かしがたい”わざ”の事実だったのです。それがヨハネの第一の手紙の第1章1節にしっかりと書かれていますね。その事実はいかんともしがたく神のわざ(しるし)であったと述べ伝えざるを得なかったのです。ようやく最近のYou tube には震災の場所に現れる亡くなった方の霊のことが流れています。それは僕が 前に紹介した本の中にもありました。この霊が可視化するという事実はどうしたものでしょう。イエスは、ニコデモに地上のことを話して分からなければ天上のことはなおさら分かるまいと言われました。この地上の事実は確かならイエスの復活も又、我らが信する永遠の命も当然、アーメン(その通りです)と言わざるを得なくなるのではないかと思うのです。・・・Ω