marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第2章1節~カナの婚礼)

2016-09-26 19:34:51 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆カナの婚礼(第2章1~12節)八木誠一訳(1970年)
2:1-3: それから三日後にガリラヤのカナで結婚式があり、イエスの母も出席していた。イエスとその弟子たちも結婚式に招かれていた。宴会の最中にぶどう酒が足りなくなったので、イエスの母はイエスに「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
4: するとイエスは母に答えた。
 「御婦人、それがどうしたというのです。まだ私が栄光をあらわす時ではありません」。
5:イエスは他者の言葉に直接拘束されない、自由な存在なのである。他方イエスの母は召使達に「この人の言うとおりにしなさい」と言いつけた。
6: さてその家には、ユダヤ人が食事の前後に手を洗い潔める儀式に使う水を入れた石のかめが六つおいてあった。それぞれ百リットルほど入るものであった。
7: イエスは召使い達に言った。「水がめに水を満たしなさい」。
8: 彼らは水をいっぱいに入れた。するとイエスは言った。
 「今すぐ汲んで宴会の世話人のところへ持っていきなさい」。
9: さて世話人がそのぶどう酒を味わったとき ― つまり水はぶどう酒になっていたのである。
10: 世話人はもとよりその事情を知らなかったが、水を汲んだ召使たちは知っていた。―
 彼は新郎に声を掛けて言った。
 「たいていは初めに良い酒をだして、酔いがまわると悪いものを出すものだが、あなたが良い酒を今までとっておいたのは御立派です」。
11: イエスはガリラヤのカナでこの最初の徴を行って彼の栄光をあらわした。徴(しるし)とは、地上の事件でありながら、自分自身を超えて真理そのものを指し示す出来事である。ユダヤ教の潔めの水がぶどう酒になったとは、イエス・キリストが此の世にそれまで欠けていた全く新しいもの、すなわち真理そのものをもたらしたことの徴なのである。
 弟子達は徴に接してイエスを信じた。しかし問題は、信ずる者の眼が地上の異常な事件そのものに釘づけにされてしまうか、それを通して地を超えた真理そのものを仰ぐかということなのである。
12: このあとイエスはカペナウムに下った。イエスの母、兄弟、弟子も一緒だった。彼等は数日そこにとどまった。

 <「カナの婚礼」の章 終わり> ・・・