marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(143回目)

2016-09-21 21:22:41 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 
M.ルターさんご推奨のヨハネ伝を読んできてイエスの受難、十字架の場面でえらく脱線し始めた。沢山イエスの言葉の解説本はあるが、最初に聖書の配置から、多くの人は真っ先に読むであろうマタイ、マルコ伝のイエスの十字架上の最後の言葉を読んでどう思うだろうと老婆心ながら思ってしまうのだ。多くの人にイエスの言葉を読んでもらうには、そのような(先に書いたような神学者さんの一方的見解なる)障害を取り除かないといけないとなぜか僕は勘違いしているかもであるが、そう思ってしまう。
◇他をさしおいてもヨハネ伝ですぞ! あとは二の次、飛ばしてヨハネの第一の手紙、次はパウロの手紙とくにローマ人への手紙・・・とルターさんが言われたことを真摯に受け止めねばならないのではないかと思っている。現在は情報過多ですから。何しろ一番長生きした12弟子の自称イエスに最も愛された弟子の書いたものなのですからその"わざ”の真実が語ること多くありと。  ここらで、気を取り直し先回の回答
◆僕の結論はイエスの最後の十字架上の言葉は第22のすべて、最後までを含んだ意味での十字架上の言葉に間違いないということなのである(特に最後を読みたまえ)。何もこれは心情的にではない、その論拠は・・・
1)歴史の中で信者の中でも殉教者が喜んで死についた者が多くいたということ、ましてイエスが絶望の言葉を吐くとは考えられないこと
2)第一にこの言葉を載せたマタイ、マルコが十字架刑の様子に詩編22辺に書かれていることが実際にそのとき起こった様子として引用して書かれていること。それは当然にこの記者たちは先理解されていた詩編22を頭に思い描いていたと思われること。つまり、全部最後まで知って。
 詩編22:7 → マタイ27:29、詩編22:8 → マタイ27:43 詩編22:18 → マタイ27:35 などなど・・・。
3)ヨハネ伝の中にもイエスの言動に、これは聖書に書かれていることが成就したと書かれている部分が多くあり、引用する聖書(旧約)の言葉であるなら、その一節だけを載せて、だからイエスは人間の絶望を受け入れたというのは困難であること。つまり、当然、最後まで知ってるものが引用するのであるから一節だけでそう解釈されるのは無理があること。
4)そして、最後に当時のと言わず、現在のユダヤ人たちは詩編と言わず、その他、僕らの知らないが聞いたことのあるタルムードとか他の教えなどは、最初の一節あたりをいうと、その全部を指していることなどのいわれがあることなである。
◆したがって結論から言えば、イエスは十字架上で原始キリスト教の世界宗教に発展する永遠志向の普遍性をもった言葉を言って地上でその完成をなしたということになるのである。

◇「わたしの魂は必ず命を得 子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え
    成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げしらせるでしょう」。
                           (詩編22:31-32)・・・                 

世界のベストセラーを読む(142回目)

2016-09-21 04:50:25 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今回、少し偉そうに書いてみました。
 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(口語訳)イエスの最後の言葉とされている<マタイ伝(27:46)、マルコ(15:34)伝>。長々2回にわたって詩編22の全文を載せた理由は、初めて聖書を読まれた方は、このイエスの最後の言葉が旧約詩編の22章の初めの言葉であることがそのままでは分からないのではないかと思われたからです。先に述べましたがルカ伝、ヨハネ伝にはありません。少し、記者の自己理解の言葉が入っております。読んできましたヨハネさん(とその群れの人々)は、イエスの昇天後における地上での残された”わざ”の確認が十分できた方ですから、また聖書を十分確認もしたでしょうから、イエスの言動を思い出すにその言葉は「全てが終わった(イエスの地上での使命が完了したという意味)」(19:30)となっていました。
◇自分の言葉で初めて機械的にでも読もうとしたとき僕にとってこのイエスの言葉はミステリーでした。というのは、僕の地方にも江戸時代の禁教下でキリシタンの殉教の地がありその状況の歴史を読む機会がありましたが、イエスの名によって地上の最後を遂げた人々は、むしろそのことを喜びとして迎えたように書かれていたからです。お城から港(日本海)の方にくる途中にその処刑場があったとされている。途中に草水川(原油が出たので臭いがしてクソウズ川と呼ばれた)という川があって、面影橋(おもかげばし)が架かっている。処刑される人々が地上での最後の自分の姿を水面に映して面影をしのんだからそうつけられたそうだ。キリシタン家族が捕縛されて処刑される時、お城から白装束を着せられた一家が十字架の旗を掲げた長男を先頭に堂々とその橋を渡ったそうです。(だいぶ前に読んだので僕の脚色あるかも。城のお堀のそばのカトリック教会の入口にその時の記念碑?があります)。さて脱線からもどり
◆初めての方が福音書を読まれる時、そしてプロテスタントの開祖ルターさんが福音書を読むのであれば何を差し置いてもヨハネ伝と言われたこと(「新約聖書への序言」で)も知りえない方が、読まれる時、新約聖書の前から読んでいくだろうから特にこのイエスの言葉に疑問を持つのではないかと思うからである。
◆そして、これは聖書に先理解のない僕らは、やはり自分の言葉では限界があって人の言葉(解説)に頼らないといけないとなるのです。ところがここでも素直に受け入れられないのでした。僕の見解は先の◇であってそれらの解説は、違うなぁでした。曰く、イエスは地上の人間の苦しみを十分体現したのだ、この時点でまったく地上の人間そのものに戻って苦しみを担ったのだ、その瞬間の人間の言葉でもあるのだというような解釈でした。
◇そこで、詩編22の全文を読んでみようとなります。そういう理由から詩編22を2回にわたり掲載しました。神学者の方はとかく聖書のどの箇所でもそうでしょうが、まだ、不明で何か格式ばった語調に終わらせないといけないように書いているのだね。曰く、人間の自己納得の言葉に落としどころを持ってはいけないように書くわけだが、僕はこの個所については譲れなかった。(偉い学者さん、怒らないで赦してね)・・・つづく