marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(145回目)"敷衍訳について"

2016-09-25 19:25:12 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今回、小難しくなっちゃったな・・・
僕が敬愛する日本の神学者 八木誠一先生のお若しかりしころの”ヨハネによる福音書”を掲載し始めました。敷衍訳というもの。それはどういうことかというとその本(これは講談社"聖書の世界第5巻目<新約Ⅰ>)<余談これも古本屋にて>の"はしがき"を読むとこうある。簡潔に・・・
◆「聖書は二千年の時の隔たりにも関わらず現代に対して直接に語り掛ける。しかし、当時と現在(1969年)では文化的、社会的な状況も違い、通念も異なっている。第一新約聖書の原文は当時の地中海文化圏でのギリシャ語だ。古典を読むなら原文に限ると行っても一般には現代語訳によるしかないし、しかも解説が必要である。新約聖書については翻訳はあるし、概説や注釈や研究書もある。しかし解説をテクストの中に織り込み、通読して解る敷衍訳があったら、聖書に関心のある一般の読者には多くの点で有益なのではないか。そこで・・・
 本書の訳(他にマタイ、マルコ、ルカ、トマスの訳あり、訳者は異なる 他 田川健三、荒井 献)について共通して言えることは、敷衍訳と言っても、用いたテクストは学問的に検討された原文であること、敷衍は原著者の意図に即するように努めたこと、さらに現代聖書学の成果を踏まえていることである。」
◇通読して、解るように意を用いてあるので、福音記者が意図してつなげたような個所で時間的に前後するなどのところは原文の意図を壊さないように心がけ読み通せるようにしたとのことである。ですから書店で入手される聖書個所といちいちの対応として訳されているわけではありませんが本筋は原文に即いているとのことでまずは、小難しく書かれているようなところは訳者の学びの上の解釈もあろうかと思われるとして読まれてください。
◆聖書のイエスの言葉は、現代も生きて語り掛ける命の言葉であると。ただ、機械的に読むだけではこれほど殺風景に感ずる読み物もないしそれなりに注意も必要です!!と僕は思う。
僕がブログの初めから宣べてきたことは変わらず底辺に流れているのです。書かれた当時の時代背景、福音記者の境遇、おかれた立場など、その時の立場に臨んで読みこまねばなません。今のこの私にそう語るのが”真理の霊”という前に、真に自分の言葉で読みこまねば自分を見失うことにもなります。当時、福音記者はそれぞれイエスの言葉で訴えたいことがあったのです。従って特に注意は、今の人という生き物としての”良心的、心情面”を落としどころとして納得してしまうことだけはやめた方がいい。その道の方はその辺の方へもっていきそこで止まっている方が多いようなので、ノン・クリスチャンの方が教会に行かないのはその辺のところを感じているのではないのだろうか。もし、教会に行かれていて大きな慰めを得らている方は、その辺の課題もあることを心してほしい。
◆ヨハネ伝を読んできました。「善きサマリヤ人」(ルカ:10:29~)はありませんね。なぜ? ルカだけにあります。それはイエスの語録集がまちまちに分散していたというような理由もありましょう。しかし、マタイ(10:5)には、サマリヤ人の町に入るなとある。イエスは「善きサマリア人」のたとえで、真に誰に何を言いたかったのかよく考えて見ることです。・・・Ω 


ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第1章46節~弟子の召命)

2016-09-25 19:22:08 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆弟子の召命(第1章46節~51節)八木誠一訳(1970年)
46:するとナタナエルが彼に言った。
  「ナザレのような村から何の善いものが出るものか」。
ピリポは彼に言った。
  「来て見てごらんよ」。
47:イエスは彼のもとにピリポが来るのを見て、ピリポのことをこう言った。
  「ごらん、ほんとうのイスラエル人だ。彼の中には悪だくみがない」。
48:これを聞いたナタナエルが言った。
  「どうして私のことをご存じなのです」。
イエスは答えて言った。
  「ピリポが君に声をかける前、君が無花果(イチジク)の樹の下にいたこともわかっている」。
49:ナタナエルは答えて言った。
  「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。
50:イエスは答えて言った。
  「私が君に、『君が無花果の樹の下にいたことも分かっている』と言ったから私を信ずるのか。
51:いや、君はこれよりももっと大きなことを見るだろう。私は君達に真実を告げる。君達はわたしのことを『神の子羊』とか『救世主(キリスト)』とか『神の子』とか『王』とか言っている。それは間違いではない。しかし私が何によってこれらのものであるか、君達は知っているか。
 私を信ずる者にはそれがわかるだろう。すなわち、君達は天が開けて『人の子』である私の上に天使が上り下りするのを見ることになる。父なる神と私との関係を知ることになるのだ」。

 <「弟子の召命」の章 終わり> ・・・

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第1章35節~弟子の召命)

2016-09-25 14:58:55 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆弟子の召命(第1節35節~51節)八木誠一訳(1970年)
31-36:翌日再びヨハネと、彼の弟子の中の二人とが立っていた。ヨハネはイエスが歩いているのを見つめて言った。
  「見よ、神の子羊」。
37-38:するとヨハネがそう言うのを二人の弟子が聞いて、ヨハネのもとを去り、イエスについて行った。イエスは振り返って二人がついて来るのを見、彼等に言った。
  「君たちは何を求めているのだ」。
彼等は言った・
  「先生、あなたの居られる場所がどこなのか、知りたいのです」。
39:イエスは彼等に言った。
  「私について来なさい。そうすればわかるだろう」。
彼らはイエスに従って行き、イエスが居られる場所を見た。イエスは神のふところに居ますのであるが、イエスがどこにおられるかを知るということが、人のあり方にとって決定的に重要なことなのだ。彼等はその日はイエスのもとにとどまった。その場所についたのは、十の時がみちた頃(午後4時)であった。
40:さてヨハネの言葉を聞いてイエスについていった二人のうち、一人はシモン・ペテロの兄弟アンデレであった。アンデレはまず自分の兄弟シモンに出会って彼に言った。
  「我々は、救世主(キリスト)をみつけたのだ」。
42:そして、ペテロをイエスのもとに連れていった。イエスは彼を見つめて言った。
  「君の名は、シモン、ヨハネの子だ。君はケパ(岩)と呼ばれるようになろう」。
43:翌日、イエスはがリラヤに行こうと思い、途中でピリポに会った。イエスは彼に言った。
  「わたしについて来なさい」。
44-45:ピリポはアンデレとペテロの町ベツサイダの人であった。さてピリポはナタナエルに出会い、彼に言った。
  「我々は、モーセと予言者が聖書(すなわち旧約聖書。以下同様)に、到来すると記した人を見つけた。ヨセフの子、ナザレのイエスがその人だ」。・・・つづく   

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第1章19節~洗礼者ヨハネの証言)

2016-09-25 08:11:15 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆洗礼者ヨハネの証言(第1章19節~34節)八木誠一訳(1970年)
19: さてユダヤ人がエルサレムから祭司とレビを派遣して、ヨハネが何者であるかを尋ねさせたときのヨハネの証言は以下のとおりである。
 そのときヨハネははっきりと
20:「わたしは救世主(キリスト)ではない」と断言した。そこで彼等は
21:「それでは一体あなたは何ですか。予言者エリアの再来ですか」と尋ねた。ヨハネは言った。
  「ちがいます」。
  「では世の終わりに現れるあの予言者ですか」。
  「そうでもありません」。
25: そこで彼等はさらに尋ねて言った。
  「あなたがキリストでも再来のエリアでも終末の予言者でもないなら、一体何故洗礼を授け
   るです」。
26: ヨハネは彼らに答えて言った。
  「あなた方の真中にあなた方の知らない人が立っています。私はその人について証言するの
   が役目なのです」。
28: 以上は、ヨルダン川の東岸、ベタニヤで起こったことである。ヨハネはそこで洗礼を授けていた。
29: 翌日ヨハネはイエスが彼の方に来るのを見て言った。
30:「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。この人こそかつて私が『私のあとに私をはるかに超
   えた人が来る。
31: 私より前からいたからだ』と言った当の人である。私自身前には彼のことを知らなかっ 
   た。しかし私は彼をイスラエルに知らせるためにこそ、洗礼者としてつかわされたのだ。
33: すなわち、私を洗礼者として派遣した方が私に告げたのだ。『聖霊が下ってその人の
34: 上にとどまる人、その人こそが救世主(キリスト)である』。そして私はそれを見た。だか 
  『この人こそ神の子だ』と証言したのである」。

 <「洗礼者ヨハネの証言」の章 終わり> ・・・