◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今回、小難しくなっちゃったな・・・
僕が敬愛する日本の神学者 八木誠一先生のお若しかりしころの”ヨハネによる福音書”を掲載し始めました。敷衍訳というもの。それはどういうことかというとその本(これは講談社"聖書の世界第5巻目<新約Ⅰ>)<余談これも古本屋にて>の"はしがき"を読むとこうある。簡潔に・・・
◆「聖書は二千年の時の隔たりにも関わらず現代に対して直接に語り掛ける。しかし、当時と現在(1969年)では文化的、社会的な状況も違い、通念も異なっている。第一新約聖書の原文は当時の地中海文化圏でのギリシャ語だ。古典を読むなら原文に限ると行っても一般には現代語訳によるしかないし、しかも解説が必要である。新約聖書については翻訳はあるし、概説や注釈や研究書もある。しかし解説をテクストの中に織り込み、通読して解る敷衍訳があったら、聖書に関心のある一般の読者には多くの点で有益なのではないか。そこで・・・
本書の訳(他にマタイ、マルコ、ルカ、トマスの訳あり、訳者は異なる 他 田川健三、荒井 献)について共通して言えることは、敷衍訳と言っても、用いたテクストは学問的に検討された原文であること、敷衍は原著者の意図に即するように努めたこと、さらに現代聖書学の成果を踏まえていることである。」
◇通読して、解るように意を用いてあるので、福音記者が意図してつなげたような個所で時間的に前後するなどのところは原文の意図を壊さないように心がけ読み通せるようにしたとのことである。ですから書店で入手される聖書個所といちいちの対応として訳されているわけではありませんが本筋は原文に即いているとのことでまずは、小難しく書かれているようなところは訳者の学びの上の解釈もあろうかと思われるとして読まれてください。
◆聖書のイエスの言葉は、現代も生きて語り掛ける命の言葉であると。ただ、機械的に読むだけではこれほど殺風景に感ずる読み物もないしそれなりに注意も必要です!!と僕は思う。
僕がブログの初めから宣べてきたことは変わらず底辺に流れているのです。書かれた当時の時代背景、福音記者の境遇、おかれた立場など、その時の立場に臨んで読みこまねばなません。今のこの私にそう語るのが”真理の霊”という前に、真に自分の言葉で読みこまねば自分を見失うことにもなります。当時、福音記者はそれぞれイエスの言葉で訴えたいことがあったのです。従って特に注意は、今の人という生き物としての”良心的、心情面”を落としどころとして納得してしまうことだけはやめた方がいい。その道の方はその辺の方へもっていきそこで止まっている方が多いようなので、ノン・クリスチャンの方が教会に行かないのはその辺のところを感じているのではないのだろうか。もし、教会に行かれていて大きな慰めを得らている方は、その辺の課題もあることを心してほしい。
◆ヨハネ伝を読んできました。「善きサマリヤ人」(ルカ:10:29~)はありませんね。なぜ? ルカだけにあります。それはイエスの語録集がまちまちに分散していたというような理由もありましょう。しかし、マタイ(10:5)には、サマリヤ人の町に入るなとある。イエスは「善きサマリア人」のたとえで、真に誰に何を言いたかったのかよく考えて見ることです。・・・Ω
僕が敬愛する日本の神学者 八木誠一先生のお若しかりしころの”ヨハネによる福音書”を掲載し始めました。敷衍訳というもの。それはどういうことかというとその本(これは講談社"聖書の世界第5巻目<新約Ⅰ>)<余談これも古本屋にて>の"はしがき"を読むとこうある。簡潔に・・・
◆「聖書は二千年の時の隔たりにも関わらず現代に対して直接に語り掛ける。しかし、当時と現在(1969年)では文化的、社会的な状況も違い、通念も異なっている。第一新約聖書の原文は当時の地中海文化圏でのギリシャ語だ。古典を読むなら原文に限ると行っても一般には現代語訳によるしかないし、しかも解説が必要である。新約聖書については翻訳はあるし、概説や注釈や研究書もある。しかし解説をテクストの中に織り込み、通読して解る敷衍訳があったら、聖書に関心のある一般の読者には多くの点で有益なのではないか。そこで・・・
本書の訳(他にマタイ、マルコ、ルカ、トマスの訳あり、訳者は異なる 他 田川健三、荒井 献)について共通して言えることは、敷衍訳と言っても、用いたテクストは学問的に検討された原文であること、敷衍は原著者の意図に即するように努めたこと、さらに現代聖書学の成果を踏まえていることである。」
◇通読して、解るように意を用いてあるので、福音記者が意図してつなげたような個所で時間的に前後するなどのところは原文の意図を壊さないように心がけ読み通せるようにしたとのことである。ですから書店で入手される聖書個所といちいちの対応として訳されているわけではありませんが本筋は原文に即いているとのことでまずは、小難しく書かれているようなところは訳者の学びの上の解釈もあろうかと思われるとして読まれてください。
◆聖書のイエスの言葉は、現代も生きて語り掛ける命の言葉であると。ただ、機械的に読むだけではこれほど殺風景に感ずる読み物もないしそれなりに注意も必要です!!と僕は思う。
僕がブログの初めから宣べてきたことは変わらず底辺に流れているのです。書かれた当時の時代背景、福音記者の境遇、おかれた立場など、その時の立場に臨んで読みこまねばなません。今のこの私にそう語るのが”真理の霊”という前に、真に自分の言葉で読みこまねば自分を見失うことにもなります。当時、福音記者はそれぞれイエスの言葉で訴えたいことがあったのです。従って特に注意は、今の人という生き物としての”良心的、心情面”を落としどころとして納得してしまうことだけはやめた方がいい。その道の方はその辺の方へもっていきそこで止まっている方が多いようなので、ノン・クリスチャンの方が教会に行かないのはその辺のところを感じているのではないのだろうか。もし、教会に行かれていて大きな慰めを得らている方は、その辺の課題もあることを心してほしい。
◆ヨハネ伝を読んできました。「善きサマリヤ人」(ルカ:10:29~)はありませんね。なぜ? ルカだけにあります。それはイエスの語録集がまちまちに分散していたというような理由もありましょう。しかし、マタイ(10:5)には、サマリヤ人の町に入るなとある。イエスは「善きサマリア人」のたとえで、真に誰に何を言いたかったのかよく考えて見ることです。・・・Ω