marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(137回目)

2016-09-18 21:07:34 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ また脱線。
”時は縮まっている”観念的に神学的議論が空を舞って、実際的な力にならないとすれば、最も現実的にそれによって生き延びてきて証をなしてきたのがユダヤ人といえるのだろうか。聖書を読めば理解できるように、使徒ヨハネさんの書き方は、一世紀にも近い年代に書かれているために周辺の事情もあり非常に格式の高い観念的な言葉から始まっている。それまでは本来、そういう書き方はしないで物事の歴史性を踏まえ(神が主人公として)事後予言的にでも、その出来事を履修して自分史を書き綴ってきたのであったのですが。
◆ところが、イエスの出来事が普遍性を持つに至って、非常に観念的に、そして”従順と情緒的良心”を落としどころとして、結局、神に許されし人間だとしてのいいとこどりで話されるようになってきた歴史があるわけだ。だから今では、キリスト教といえば、多々ありすぎでまずその組織の拘束力を気にしなければいけないということが多くの人は先に立つ。歌手の桜○純子さんや体操女子の山○浩子さんは統○原理(これは正当なキリスト教かどうかでしょうが)だったのよとか。あのヨン様は韓国の怪しげな(本当は違うのだろうけど)キリスト教信者なのよとか・・・。組織における拘束が頭に先にくる。おまけに曲がりなりにも恐れ多くも品行方正なキリスト教でありますから・・という心理的先理解の大きな障害がある。さらには尊いお仕事ではありましょうが、日本の伝統やしきたりなどを無視して(これも僕はいいとは思わない「ウェバーの”伝統主義の克服”の概念」は目からうろこであった。まずは彼の古典を真に克服しないと日本国は危ないぞ!)キリスト教の海外の和訳などを一生懸命になされてもそれは信者内のドメスチックな自己満足にしかならんのではないかと思っているんだ。ここでも課題は自分の言葉で読む・・・なのです。 

世界のベストセラーを読む(136回目)

2016-09-18 20:05:46 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ ちょと脱線、神学的に少し。
”時は縮まっている”。この危機感をあおる書き方は、聖書の得意とするところである。この2016年を生きている僕らが、いずれこの地上を去って土に帰りそのままか、あるいはイエスを信じその霊が永遠の命の元に帰還するかのいずれかである。これを”さばき”というのであれば、それは神が決定するのではなくてやはり”自分”の選択枝によるということになるな。それでもそれは、他人から強要されるもんでもなんでもないのだ。しかし、僕などは、作家の佐藤優さんではないが”神学は武器になる”と仕事の面でも本当に(自分なりに)役に立っていると思う。それは、自分のことから世界の今動きつつある中での生きている”真理の霊”からくみ取るといえば大げさな表現になるだろうか。
◆95回目に書いた”アカウタビリティー”が聖書からきている言葉が今、僕がかかわっている品質外部監査要求事項の筆頭に挙げられているのだね。これからは、豊洲市場の建屋の汚染のみんなで会議うやむやの日本式和合や、富山市議の政務活動費の不正会計などは、こういう仕組みを日本の政治システムに組み込んでいかないとだめになるね。というかこの辺の弱点が日本にあるので膨大な僕らの税金が海外に無駄に流れているわけよ。日本の弱点を見透かされてね。神学は武器になるが、その土台の形成ができてないのよね。
◆以下 深井智明先生の「神学の起源」(新教出版社:2013年6月7日初版)から
「神学とは何か」その問の意味を神学という学問が社会の中で果たしてきた役割についての問いであると理解して、神学の社会的機能を説明するということで答えることも可能なのではないかと思う。いやそういう視点から「神学」について考えて見る必要があるのではないだろうか。なぜなら今日のキリスト教という宗教の外では「神学」は無視され、内部では「神学」があまりにも狭く、硬直した仕方で理解されているからである。(p29)
◇僕は光栄なことに深井先生と何度かお食事をしお話しをしたことがある。東洋英和に移られて益々のご活躍を期待する者です。・・・Ω

世界のベストセラーを読む(135回目)

2016-09-18 20:02:40 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
120回目あたりからイエスのその時、passion(十字架)から外れて記者ヨハネさんの謎について書いてきた。すべてのしがらみから解放されて命の言葉を一人ひとりのものにと進めてきた(つもり)。その中でヨハネ伝のヨハネさんは謎がありながらも最もイエスを伝えねばならないとその復活の(目で見て、手で触り確認できるその神の”わざ”)の事実の証言を将来の人々に伝えねばならないと全霊をもって願った人(群れ)としての記録を残したのだと僕は読んだ。それは、世界の人々が命を(霊)を与える父なる神のもとへの帰還を知らしめるものとなったのだとおそらくM.Lさんの考えも行きついたのであろうと確信したのでした。だから、まず記者ヨハネの書いたものを読めと・・・。
◆神学的に信者の復活は、今この肉として生きて意識しているそのままが眠りから覚めるということに説明されています。日常の目覚のように。しかし、実際この肉体の疲れやら、日々の仕事や人付き合いやらで、とても絶好調の状態で復活などできないし、そのバラ色の状態のイメージができないという時が殆ど。そこで、生きている間にイエスの十字架(受け入れること)が必要なのであると僕は考えている。生きていて私(イエス)を信ずる者は永遠に死なないと彼は言われた。つまりは、手っ取りばやく言えば、自分の天国への帰還には、欠陥だらけの部分はイエスの十字架のパスポートで関所を通過できるのだと考えているんだ。で、今のしんどいところは、イエスが「汝の十字架を負って我に従え」と言っているように思うんだな。(ちょと都合のいいように聞こえるだろうけど)。
◆これは真摯に自分とは何かを考えてドンと行きついた結果が僕にとってはイエスの十字架の根元だったということだ。甦ったラザロは結局死んだのだ、しかし、希望をもって死んだのだ。・・・つづく