marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(131回目)

2016-09-13 00:12:48 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 脱線します。今回は少し難しく・・・
わたしたちはキリストの霊などというとどうも、その人のみの思いこみだけのように思われるが、何故か当然のように実体が感じられないものだから、言い始めるととても軽薄なように思ってしまう。先のヨハネの熱弁も引照聖句もピンとこない、これだけ読めばね。
◆しかし、当時の彼の(群れの)イメージは、かなりドラスチックな実体現実(イエスの”わざ”)の方が先行したのであって、それに伴う周囲の異端思想に対する神の言葉の積極的肯定(なぜなら事実より強いもの無しだから)の手紙なのであったのだな。この辺に80年代後半か90年代初め頃に書かれた当時の状況、時代背景ということを思い、その辺を2016年後に(その後にも)読む僕らは考えて読まないと、更に今を生きていることを感じながら読まないといけないと思うのよ。
◆読んでいるのは2016年の今日、今を生きている僕であるし、あなたなのだという現実生身の実体を感じつつ、また同時に当時の状況に思いを馳せつつ、生身の己の魂に語っているのであると自覚しつつ読まないと足もとをすくわれてしまう。これが、僕が自分の言葉で読んでくれ!と言っていることなのね。積極的な自己肯定の今の言葉として、動かしがたい生身の自分の言葉としてだよ(大切!)。どこかしこから、ひらひらと語りかけている言葉ではないのだな。
◆なぜなら、ヨハネ伝はまさに、そのことを目指して読まれることを願い、書かれているのだ。ヨハネは、過ぎ去りし天に帰還したイエスが約束により送られた真理の霊(聖霊)により、教えられつき動かされ生き、かつ否定しようもない”わざ”の事実が触れる実体として目の前にある。それは、ヨハネが生きた時の”今”は、同時に永遠の霊が2016年後に読む人間にも語り掛けられるリアリティーとして、まさに彼(イエス)が再び迎えに来るまでに永遠に彼を信ずる者の生き、動き、働き続けるであろうその時の”今”であると思い(事実、僕らはそう読んでいる)書かれたのだ。
◆聖書全般にも言えることだが、いいかい! よく聞いてくれ 大切だから・・・
自分の中の”良心の判断”を先行させてはいけないということだ。人というのは、生まれつきのどうしても拭い切れない”善悪の基準”というものを持ちながら考えてしまっているものなのだな。いくら普遍的な事とはいえ、それで判断せよなどとは、聖書は優先して語ってはいないのだ。当時の価値判断、状況、伝統、しきたり、言われ・・・もろもろがあって”今”の自分の判断基準となっているものなのだ。もっと言えば、性格、遺伝的気質、その時の体調、さらには天気の善し悪し、もと言えば、食べたもの、喫煙したか?など。煎じ詰めれば、肉体に(聖書的に言えば、朽ちていく血と肉に)依存しているものが殆どなのだ。聖霊に教えられる者は、「きよくあれ」という聖句をそこまで僕は読み込んでいくものなのだろうと考えてしまうのだ・・・Ω