marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第1章1~ロゴスの受肉)

2016-09-22 21:54:56 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆ロゴスの受肉(第1章1節~)八木誠一訳(講談社)
1:1 はじめに、世にある一切の存在者に先行して、ロゴスがあった。ロゴスとは、存在者がどのようにあるべきかを定める定め、存在者の構造とあり方との定めであり、このロゴスが真理そのものなのである。
2: ロゴスは、宿命や運命のように、神と離れてそれ自身だけであるものではない。ロゴスは万有の創造者、すなわち存在が存在であることの究極の根源である神のもとにあった。神は存在者が「ある」ことの根源、その創造者であり、ロゴスは存在の「あり方」の定めなのである。
 ゆえにロゴスは存在者のあり方に対する神の意志、神の支配また神の恵みなのである。人は自分で自分を立てるのではなく、自らの所有や業績とは無関係に、ロゴスによって立てられるゆえに、ロゴスは恵みなのである。換言すれば、ロゴスは自由に自分自身を択び取るべく定められた人間に対する、神の語りかけであり、神の言葉なのである。
 ゆえに人は、ロゴスにおいて神御自身と出会うのであって、従ってロゴスは、一面神とは区別されながら、同時に神そのものなのである。
3: 万有はそのあり方をロゴスに負っている。といっても、世界に現存するもろもろの定めや法則がそれ自身ロゴスだというのではない。これらはロゴスによって成り立つものであり、ロゴスはこれらの超越的な根柢なのである。
 こういうわけで万有はロゴスを通じてなった。世にはひとつとして、ロゴスを通じないで成ったものはない。
4: そしてロゴスはこうして成ったものの生命なのである。人はロゴスに即することによって生きる。ロゴスは人本来のあり方の根柢であり、人を真に生かすものなのである。そして人は、正しいあり方においてあるとき、すなわち真に生きるとき、はじめて自分を正しく認識するのである。世にあるもろもろの事物や人間や目標や理想が人を生かすのではない。人はロゴスによって生かされ、そのとき自分を正しく知るのであって、ゆえにロゴスは人間存在を照明する光なのである。人は自覚的存在である。だから自らをロゴスに生かされるものとして認識することが、彼の生自身に含まれるのである。
5: しかし世はロゴスを知らず、真のあり方の定めに反して生きようとしている。ゆえに人は、生の問いを問いながら、自らを正しく認識することができず、世は闇なのである。
 それは、世がそもそもはじめから光をまったく欠いているとさえ見えるほどなのだ。にもかかわらず、実は一切の存在に先行し、もちろん闇にも先だって、ロゴスが照り輝いている。ただ人はそれに対して盲目なのである。  (第1章5節まで)まで・・・つづく