前回「国語力がない人たちが国語改革をすすめるからおかしなことになる」と書いたが、実はそもそもの問題は「国語力」って何なのかが、誰もわかっていないことにある。
「国語力」とは何か。それぞれの人がそれぞれの意見を持ってはいるかもしれない。しかし、それは一つにまとまることはない。それぞれの思い込みでしかないのだ。だから議論は成立しないし、議論が成立しないことがわかっているから誰も議論をしないのだ。
ある人は「読解力」が「国語力」だと思っている。ある人は「表現力」だと思っている。「読解力」が「国語力」だと思っている人も、「論理力」に重点を置く人もいるし、「行間を読む」力に重点を置く人もいる。こんな変な教科があるのだろうか。
学生のころ誰もが「国語って何を勉強していいいのかわからない」と思う。古典ならばまだ文法や単語を勉強することもできるが、現代文なんて何を勉強すべきかわからない。教師からは「教科書をよく読め」と言われるが、教科書に載っている文章の内容を理解することは読解力とは関係ないのはあきらかだ。教科書に載っている文章の理解が「国語力」ではないはずである。
「国語力」は定義することができない。しかしそれは「国語力」が不要だという意味ではない。「国語力」にはさまざまな要素が含まれているのである。それを分析して、ひとつひとつを明確にしていくことが大切なのだ。「国語」関係者はその根本をおろそかにしてきた。原点に立ち戻り、「国語力」について議論することから始める必要がある。
人間は、言語で思考しているからです。
だから、学校の勉強の中では「国語」が一番大切だと思います。
勿論、多の教科がどうでも良いという訳ではありません。