とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

劇評『マクガワン・トリロジー』(7/16 世田谷パブリックシアター)

2018-07-22 10:06:13 | 読書
作:シーマス・スキャンロン
翻訳:浦辺千鶴
演出:小川絵梨子 
出演:松坂桃李、浜中文一、趣里、小柳心、谷田歩、高橋惠子 

 ものすごい作品だった。
 IRAの凶悪な殺人鬼「ヴィクター・マクガワン」を主人公とした3部構成の演劇。3部はそれぞれ独立しており、マクガワン以外の登場人物は異なる。

 1部はマクガワンの凶悪な姿が描かれる。マクガワンはアイルランド独立運動の組織IRAの一員であり、その中でもの特に過激な人物である。「証明」ということばを頻繁に使い、真実を見つけることだけを生きる糧としている。そしてその真実が裏切りなどの罪にあたると証明されれば、マクガワンは情け容赦なく銃を撃つ。若いときは一途である。その一途さがある種の時代やある種の環境の中に放り込まれれば、マクガワンのようになってもおかしくはない。観客誰もがマクガワンに怒りを覚え席を立ちたくなるが、それでもどこかで理解してしまう部分を見つけてしまい、とりあえずは帰らずに席に戻り、2部を見る。

 2部では自分の好きだった女の子を処刑する。ここでマクガワンの心は揺れ始める。本当にこれは正しいことなのか。IRAの論理では女の子は裏切り者であるが、それを処刑する自身の正義が証明されないのだ。自身のこれまでの行いが重くのしかかってくる。正しいと思ってやってきたことが、本当にただしかったのか。

 3部ではマクガワンは病気で寝ている母のもとに訪れる。自分自身の証明が必要だったのだ。しかし母は認知症で、マクガワンを弟と勘違いしている。母はマクガワンの悪口を言い、それをマクガワンを聞きながら、様々な事実を思い知らされる。

 今は信じられないかもしれないが、20世紀の後半、ロックミュージックが本当に「ロック」だったころ、若者は破壊型の人生に憧れた。そしてそれは「破滅」といつも結びついていた。今日のムスリムの一部の過激な人たちの行動とも通じるものがある。

 実はマクガワンは単なる過激な殺人鬼ではない。我々そのものだ。人間が多かれ少なかれだれもが経験する「若気のいたり」なのだ。

 若いことの過ちは誰でもある。そしてその時はその過ちに気がつかない。それは後になって自分を苦しめる。だからと言って若いうちにただ言われたとおりに生きていればいいのか。それは違う。自分の生き方を模索しながら、大きな過ちをしないようにする。それは教え合い、学び合うしかない。私はそれは教育の力だ考える。

 役者はみないい演技をしていた。松阪桃李は3つの作品を一人で演じ分けているようなものであったが見事にこなしていた。もちろんそれを可能にした演出の力もすばらしい。
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