<続き>
<ウィアン・ブア陶磁>
●ウィアン・ブア窯群の操業年代
Kriengsak Chaidarung氏は以下のように述べている。”これについては、未だはっきりと特定できていない。ウィアン・ブアの陶磁の操業年代を示す証拠が、まだ見つかっていないからである。
C-14年代測定法なる科学的手法が用いられるが、これは、窯の中の有機物を測定するもので、多くは窯の中の炭素を調べることになる。しかし、この方法では、数値の偏り(Deviation)が比較的大きく、検査物質のサンプルや採取量が検査に必要な量を確保できない問題。更には採取箇所の偏りがあった場合、年代の数値を間違う可能性が高い。
過去に研究者により、C-14年代測定法を用いた、ウィアン・ブアの測定を行った。検査物質は燃え残りの炭で、窯に薪を入れる焚口付近に掃き出されていたものである。分析の結果それは、仏暦1830-1833年(西暦1287-1290年)頃であった。”
別の研究者であるサーヤン・プライチャンチット氏とタマサート大学社会遺産学部の学生達によって、2005年3-4月、Tao Po-Ui Taeng とTao Gao Ma-Fuangの塚が発掘された。燃焼室から採取した炭化物をC14年代測定したところ、1280-1300年の年代を示した。
しかし、ウィアン・カロン窯の年代は、この時代より更に古いとの推測もあるとのことで、未だ議論すべき点が多々ある。
様々な面から分析研究をしなければならないであろう。例えば、地層の順序とその状態の研究は、用いられるべき重要な方法のひとつである。この他に、並べて比較する方法がある。これは歴史的、考古学的、美術的観点からウィアン・ブアの陶磁に関連する、並列した証拠を研究するものである。
Kriengsak Chaidarung氏によると、更に注目すべき点として、ウィアン・ブア窯群の古窯址から石碑が出土したという、内容については未だ未解明のようだが、操業年代特定の助けになると考えられる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/2d/9b38f97ec2ae43708c70ebcd47319601.png)
(薄い緑掛かった黄色に発色した青磁の盤片。見込みにピクン(北タイの花の名称)ないしは印花日輪文を見る。盤の外側には刻文がある。直径24cmでウィアン・ブア窯群にて出土)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/0f/323e1e202be15819df4d739e00f48fc0.png)
(2枚目の盤片の刻文(表裏の写真)で、緑の青磁釉が掛かる。見込み中央にピクンないしは印花日輪文を見る。ファクカーム文字の刻文がある。パヤオ県メーガー地区ウィアン・ブア窯群にて出土。ファクカーム文字とは14世紀頃ランナー地域で用いられたタイ文字の一系統であると云う)
ここで述べた操業年代を示すC-14年代測定に於ける、13世紀末から14世紀初頭は、パヤオ・ガムムアン王(1277-1317)、チェンマイのメンライ王(1296-1311)そしてスコータイのラームカムヘーン王(1279-1319)の時代に重なっている。伝承によると3王同盟を結んだと云われており、これが北部諸窯開始とどのように繋がるか?・・・単なる偶然の一致と思われないないのだが・・・。
<続く>
<ウィアン・ブア陶磁>
●ウィアン・ブア窯群の操業年代
Kriengsak Chaidarung氏は以下のように述べている。”これについては、未だはっきりと特定できていない。ウィアン・ブアの陶磁の操業年代を示す証拠が、まだ見つかっていないからである。
C-14年代測定法なる科学的手法が用いられるが、これは、窯の中の有機物を測定するもので、多くは窯の中の炭素を調べることになる。しかし、この方法では、数値の偏り(Deviation)が比較的大きく、検査物質のサンプルや採取量が検査に必要な量を確保できない問題。更には採取箇所の偏りがあった場合、年代の数値を間違う可能性が高い。
過去に研究者により、C-14年代測定法を用いた、ウィアン・ブアの測定を行った。検査物質は燃え残りの炭で、窯に薪を入れる焚口付近に掃き出されていたものである。分析の結果それは、仏暦1830-1833年(西暦1287-1290年)頃であった。”
別の研究者であるサーヤン・プライチャンチット氏とタマサート大学社会遺産学部の学生達によって、2005年3-4月、Tao Po-Ui Taeng とTao Gao Ma-Fuangの塚が発掘された。燃焼室から採取した炭化物をC14年代測定したところ、1280-1300年の年代を示した。
しかし、ウィアン・カロン窯の年代は、この時代より更に古いとの推測もあるとのことで、未だ議論すべき点が多々ある。
様々な面から分析研究をしなければならないであろう。例えば、地層の順序とその状態の研究は、用いられるべき重要な方法のひとつである。この他に、並べて比較する方法がある。これは歴史的、考古学的、美術的観点からウィアン・ブアの陶磁に関連する、並列した証拠を研究するものである。
Kriengsak Chaidarung氏によると、更に注目すべき点として、ウィアン・ブア窯群の古窯址から石碑が出土したという、内容については未だ未解明のようだが、操業年代特定の助けになると考えられる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/2d/9b38f97ec2ae43708c70ebcd47319601.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/47/80fd7b967e2ed1f6b705c37b1a93e191.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/0f/323e1e202be15819df4d739e00f48fc0.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/89/7d589a630f4608a028b8523a716eb07d.png)
ここで述べた操業年代を示すC-14年代測定に於ける、13世紀末から14世紀初頭は、パヤオ・ガムムアン王(1277-1317)、チェンマイのメンライ王(1296-1311)そしてスコータイのラームカムヘーン王(1279-1319)の時代に重なっている。伝承によると3王同盟を結んだと云われており、これが北部諸窯開始とどのように繋がるか?・・・単なる偶然の一致と思われないないのだが・・・。
<続く>