世界の街角

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謎が続くタイ北部諸窯のルーツ・2

2016-01-09 15:59:53 | 北タイ陶磁
<続き>

タイ北部諸窯のルーツに辿りつけないでいる。以下の話も噺で信憑性に欠けるが、以下のように感じなければルーツ探しそのものが、お蔵入りになるであろう。
下の写真はパヤオのワット・シーコムカム付属パヤオ文化センターで入手した、タイ語書籍「陶磁器・パヤオ」である。表紙のタイ語を直訳すれば工業品・パヤオということになるが、つまりは陶磁器のことであるので、今後当該ブログで図書名を記述する際は「クルアンパンディンパオ・パヤオ(陶磁器・パヤオ)」と表記する。
その「陶磁器・パヤオ」に蛇の目釉剥ぎの皿の写真が掲載されている。著者はグリヤンサック・チャイダルン氏と表記されている。その皿を氏はどこから探し出したか分からないが、パヤオと記載するのみで、具体的な窯名称の記載はない。
上の写真を御覧になって、各位どのように感じられたのであろうか? あまり考えたくないが、安南陶磁に似ているではないか。
タイ北部諸窯と安南陶磁の関係を、早い段階から指摘していたのは関千里氏である。氏には失礼ながら荒唐無稽とは云わないものの、従来はその類と考えていた。多少なりとも修正が必要かもしれない。
氏は、その著書「ベトナムの皇帝陶磁」にて概要以下のように記述されている。やや長文であるが、お許し願いたい。

”スコータイ陶磁は鉄を含み素地が粗く、化粧土を掛けて鉄で描いている。筆による鉄絵の表現法は磁州窯系で金(1115-1234年)に始まったとされるが、その流れを汲んでいると言える。 ー略ー ベトナムの陳朝にいた磁州窯系の流れを汲む陶工たちを伴って帰国したと考えると、うなづける点が出てくる。これが陳朝の陶磁文化が東南アジアに影響を与えた大きな波だったとすれば、次の大きな波は永楽帝(在位1403-1424年)のベトナム侵攻、直接支配、そして圧政に耐えきれなくなって押し出されたかたちの陶工たちによって伝播したと考えられる。そしてシーサッチャナーライやスコータイの鉄絵の花文や魚文、ベトナムの鉄絵花文や青花魚文とに共通性を見出すこともできる。また元青花のように細密で余白を残さず、びっしりと描きつめる独特な描写は、カロンに鉄絵の伝統となって根付いた。”・・・と記述されている。
安南(大越)では、14世紀を前後して重ね焼きの技法に変化が見られる。目跡から所謂蛇の目に移行するのである。蛇の目は金代の耀州窯青磁の鉢や定窯の白磁の碗にも見られ、安南のそれは、それらの影響と考えられる。
・・・と、云うようなことで、パヤオの蛇の目は安南の重ね焼き焼成技法のパヤオへの伝播と考えられなくもない。
そこで改めて下の地図を御覧願いたい。黄色い線、つまり北タイから西双版納を経由して雲南府に繋がらないでいると前回紹介した。緑の線はチェンマイからランサーン王国の王都ルアンプラバーンを経由して大越に繋がりそうである。
ルアンプラバーンの郊外バン・サンハーイには横焔式単室窯址が存在している。安南諸窯も中世北タイ諸窯に遡る時代に横焔式単室窯が存在した。先年ベトナム・バク二ン省ドゥオンサー古窯址を訪れたが、煙道は二つであるが、確実に横焔式単室窯であった。
大越→ランサーン→ランナーのルートについても検討すべき課題は多いが、当該ブロガーにとっては、従来歯牙にもかけていなかったルートの再検討を迫るこの頃である。




                                  <了>


チェンマイで見た旭日旗

2016-01-09 09:17:50 | チェンマイ

過日、旭日旗をボディーデザインしたツクツクを見た。ツクツクといってもTaxi代わりの営業車ではなく、運転席のルーフに「牛乳愛」と記した物販車のようで、路上で色々取り付けしていた。近日中に営業を始めるのであろう。

チェンマイのようなタイ北部人をコン・ムアンというが、彼らは日本大好きである。この車を見て我々日本人は勇ましさを感じるが、最近多い中国人観光客はどのように感じるのか?
ここチェンマイでも中国人や韓国人観光客の傍若無人振りが話題に上らない日はなく、その当てつけとも思われる。いずれにしても五星紅旗や太極旗をボディーデザインしたツクツクは見ないので、「遣ってくれるではないかコン・ムアン」・・・と、久しぶりに溜飲が下がった次第である。