世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

バンコクのタクシー2題

2016-12-06 07:45:34 | バンコク

その1

去る9月27日、BTSモーチットからタクシーにてノーンタブリの投宿先に向かうことにた。時間は20-30分をようしたが、料金は80B・・・うそと思えるほど安い。
しかし、モーチットの駅を降りると、客待ちのタクシーが縦列をなして止まっている。一攫千金を狙う悪質運ちゃん連中である。早速、その運ちゃん連中から声が掛かる。何処まで行くのか?・・・ノーンタブリ・・・300Bでどうか?・・・マイ・アオ、ペーン・マーク・・・200Bでどうか?・・・無言・・・150でどうか?・・・マイ・アオと立ち去った。
たちまち言い値の半額まで、先方が下げてくる。この手の正規料金は言い値の2-3割と相場が決まっている。・・・とすれば、60B-90Bの範囲内に収まるはずである。
そこで、縦列駐車している客待ちタクシーの先頭に移動し、流しのタクシーを捕まえた。乗車する前に、メーターを使うかどうか確認しておくのが良いだろう。ドライバーがOKし、メータを倒せば初乗り料金35B(2016年9月27日現在)が表示される。・・・とこのようであれば、先ずまともな運ちゃんで、ボラレル心配はないであろう。
ボラレルのは、客待ち運ちゃんのタクシーである。個人的経験では、バンコクで流しのタクシーで、メーターOKの運ちゃんからボラレタ経験はない。
結局、ノンタブリーまでは80Bで、客待ち運ちゃんの宣った300Bの25%強であった。

その2

同じ9月27日の別のタクシーである。見るとフロントのバックミラーから、お守りのようなもの、稲わらで編んだような網籠がぶら下がっている。
運ちゃんに聞くと交通安全のお守りではなく、金運を授かるものだという。その金運に魚が出てくる。つまり魚を捕らえる網籠で、魚は無数の卵を抱か得ている。・・・曰く無数の金運を得られる。・・・こじつけのようだが面白いではないか。
中國では古来、魚は家門繁栄を現わす象徴であった。その卵を無数に孕むことから子沢山の意味もあろう。とすれば。上のお守りは中国移民の影響か?
そういえば浪速に、このようなタクシーにぶら下げる、金運招福の恵比寿さんのお守りがあるのか、ないのか知らないが、あっても当然だろうと思った次第である。



シリーズ⑲:サンカローク焼博物館42番窯

2016-12-05 09:51:04 | 窯址・タイ

<続き>

それはバン・コノーイ集落の一番奥まった処にあった。立派な建物内に保存されている。タイ芸術局はサンカンペーン古窯址もこのように保存すべきである。

この建屋に向かって右側、上の写真の右側の低いマウンドに窯址がある。それが下の写真である。

かなり大型の横焔式単室窯で、手前が燃焼室で奥が焼成室であるが、その焼成室を共用するような形で、右奥に燃焼室が繋がっている。北タイ特にカロンでもこのような複雑な重複を見ることができる。以下、建屋内の窯址を紹介する。

 

 

 

表層から1m下の層も煉瓦構築窯である。61番窯博物館でみた粘土構築窯を、目にすることは無かった。

 

右上の断面図は地下ないしは半地下式を表しているが、左下の絵は地上式を表している。どれが発掘結果の正しい姿を現しているのか、大きなる疑問であるが、マイペンライ(どーでもいいよ、気にしない)の世界では致し方ないであろう。

窯址から出土した陶片であろう。鉄絵釉下彩青磁の陶片である。従ってこの42番窯は鉄絵陶も焼成していたであろう。

 

巻貝文様は中国明代(15世紀中頃)の染付文様の時期と、当該42番窯の操業時期が重なると思われるので、中国のそれの影響かと思うが、西方例えば乳海撹拌場面の大マンダラ山の手前をよく見ると、何やら巻貝のオブジェに水が注がれている。これは日本伝来の仏教でいう法螺貝で、シャンク貝というベンガル湾やスリランカに棲息する巻貝らしい。聖貝とされ、更には聖水を注ぐ器とされており、多くの北タイ陶磁に巻貝は登場する。しかもクメール陶の巻貝肖形は著名である。
この鉄絵の巻貝は明代染付磁の影響であろうが、中国のみならず中世のタイでは、ポピュラーなモチーフであった背景は無視できない存在である。

 

絵付け陶磁のみならず、青磁も焼成されており、その陶片も展示されていた。また窯道具もパネルで説明されている。

 

特に注目したいのは、筒状の焼台ではなく5点トチンである。しかも窯印入りである。これはシーサッチャナーライのオリジナルか?、それとも何処かの影響であろうか?

今回でもって一連のシリーズを終了する。中世のタイの窯業地で未訪問は、シンブリーのメナム・ノイ窯と北タイのワンヌア窯となった。但しスパンブリーは訪問したが、窯址に辿り着けなかった苦い経験がある。これを含めれば3箇所ということになる。できるだけ早い段階で制覇したいと考えている。シンブリーは所在地が明らかで辿り着くのに問題はないが、ワンヌアとシンブリーは不確かでしかない。十分事前調査をして臨みたい。




                                   <了>


シリーズ⑱:コノーイ30番窯址

2016-12-03 08:38:56 | 窯址・タイ
<続き>

タイ芸術局の案内板には遺跡番号30番とある。そこでタイトルには30番窯址と表示した。
チャリエンからバン・コノーイに向かう道の右側、つまり道とヨム川の中間に在る。窯址は自然の傾斜を利用して築かれたようである。

メジャーを持参し測長した訳ではなく、目分量であるので正確ではないが、長さは7-8mで幅は2.5m程度であろうか。煉瓦構築の地上式の横焔式単室窯である。観て感じた特徴は燃焼室長さが、焼成室の長さに比較し、短いように思われる。また煙道の直径が大きいように見える。素人判断であるが、相当な高温つまり青磁釉が十分に溶け、且つ還元焼成が可能な完成度の高い窯であったろうことが想定される。
焼成室には、焼台が散乱しており、中には黒釉が掛かった焼台も見ることができる。この窯の中の陶片を戴くほどの度胸は、持ち合わせていないので、周辺を探してみた。表層で採取できる陶片は、いかにも少ない印象で、僅かながらでも掘り下げる道具が必要であろう。そのような道具は持ち合わせておらず、従って下写真の小さな破片しか入手できなかった。

まさにシーサッチャナーライの代名詞とも云える陶片を拾うことができた。鍔付きの盤片で、櫛歯文と外壁に鎬状の掻取りをみる。高台が残る青磁碗片も入手できた。下の3点の破片は、青磁釉の下に鉄絵文様がほどこされていたが、あまりにも小片なので、何の絵付けか判読できない。
驚くべきは、左上の最大陶片である盤の青磁釉薬の厚さである。厚さ1mmはゆうに超えて、まさにガラス破片の断面をみるようである。これは相当の高温でないと無理であろう。この1点をみても窯業技術の高さが伺われる。
このコノーイ30番窯の操業年代についての考察であるが、表層採取の陶片や窯の状態から判断するに、完成度が高くなった時点、つまり操業の最盛時の1470-1480年代以降と思われる。この時代は輸出陶の最盛時と重なる。日本に伝世するサンカローク陶はこの時期のものであろう。




                                   <続く>


シリーズ⑰:サンカローク焼博物館61番窯#2

2016-12-02 09:36:18 | 窯址・タイ
<続き>

所謂、多嘴壺の類である。多嘴壺と云えば薬師寺の奈良三彩多嘴壺と越州窯や龍泉窯のそれを思い出す。中世のシーサッチャナーライのオリジナルとは思えず、器形はやはり中国の影響かと思われる。

焼台の表面が黒褐釉に覆われている。とすれば、パヤン窯址で採集した陶片は、やはり焼台の破片であったろう。

建築用材や多くの寺院装飾物も焼成されていたことが伺える。
発掘調査時に出土した青磁の陶片が多数展示されている。当然のことながら破片が多かったので、次の写真で青磁片の写真掲載は終わりとする。
1mもあろうかと思われる大きな壺が焼成されていた。用途は貯蔵壺であろうが、かのマルタバン壺に比較し口縁はラッパ状に開き、口径も小さいように見える。

焼締めの大壺で、ラーイ・ウーと呼ぶ貼花文で装飾されている。この文様は何であろうか、火焔にも見えるが、仏教関連文様であろう・・・すでに多くの研究者が論文発表していると思われるが、詳細を知らない。
そしてスパンブリーのバン・バンプーン窯でも、似たような焼締壺が焼成されている。バン・バンプーンの陶業開始は11世紀頃と思われることから、それとの関連が気になる。噺は飛ぶが3年前バン・バンプーンの窯址を現認したく、スパンブリーを訪れたが、結果として窯址に辿り着けなかった思い出がある。上の所感はスパンブリー国博を見学して感じた比較論である。
最後にモン陶の盤片が、展示されていたので紹介しておく。カベットにポピュラーな鎬(鎬ではなく、掻き落とし文だが)をみせる盤片で、大きな焼成割れがある。




                                    <続く>


シリーズ⑰:サンカローク焼博物館61番窯#1

2016-12-01 08:49:36 | 窯址・タイ
<続き>

バン・コノーイには2箇所の窯址博物館があるが、進行方向手前の博物館が61番窯である。
博物館を入ると、発掘調査時の出土品や周辺窯群のジオラマ展示がされている。出土品は次回に紹介するとして、ジオラマを眺めてみたい。
左手前の白い建物が61番窯博物館で、前の道を道なりに進んだ末端付近が42番窯博物館で、ジオラマでは右奥の白い建物がそれである。ここはバン・コノーイと呼ばれているが、ジオラマを見ると多くの窯場が表現されている。係員に尋ねると、61番窯博物館周辺の窯址は、現在みることができないとのことだが、奥の42番窯博物館周辺の窯址は見学可能とのことであった。
61番窯博物館周辺のジオラマ。道を挟んだ斜向かいに地下?ないしは半地下の横焔式単室窯が見える。
上のジオラマ拡大写真は、手前の61番窯博物館から奥の42番窯博物館の間を写したもので、道の進行方向左側に多くの窯が存在していたことがわかる。ここはヨム川が川下に向かう右岸にあたり、いわば土手として一段高くなっている。上のジオラマでヨム川の反対方向は、窯址群を挟んで一段低い田圃となっている。
周囲は低い山が連なっており、燃料と水の確保は容易であったことが伺われる。胎土は何処から持ち込んだのか・・・については勉強不足で不詳。
以下、窯址の写真であるが、近年の水害で水没したのであろうか?苔や水垢のような痕跡が無いほど綺麗になっている。致し方ないといえば何だが、修復して保存する熱意は感じる。



これらは、地下式の単室窯で、焼締陶を並べて発掘時の様子を再現されているが、この61番窯はシーサッチャナーライの最古段階の窯であろう?。そして、モン陶も似たような窯で焼成されたであろう。
次回は出土展示品を中心に紹介する。




                                  <続く>