多摩川の河川敷には、よく行った。
実家が近いので、実家に顔を出したとき、子どもたちを連れて散歩をしたのだ。
穏やかに流れる川の音、そして、のどかな景色。
空には、たまにカイトが浮かぶときがあった。
よちよち歩きの子どもを、愛情あふれる顔で見守る若い夫婦の姿もあった。
だが、そんな平和な光景も、数人の残虐者に簡単に蹂躙される。
その所業は「鬼畜」以外の何ものでもない。
しかし、少年犯罪ということになると、世の中は突然ヒステリックになることが、私には理解できない現象だ。
「少年法を改訂せよ」という主張は、まだいい。
その種の議論は、密室協議ではなく、ガラス張りのものなら、何の異議もない。
しかし、それを詳細な議論にかけることなく、一方的に容疑者側の素性を晒したりするのは、感情論の度合いが強すぎて、ネットを悪用した「魔女狩り」にしか私には思えない。
それは、正義ではない。
正義感を隠れ蓑にした「鬱憤ばらし」でしかない。
青少年による凶悪犯罪が、近年増えている、という誤った情報を信じている人が、いまだにいる。
しかし、1975年から90年頃に比べると、明らかに少年の凶悪犯罪は減っているのである。
近年、やや増加傾向にあるのは事実だが、1975年から90年頃と比べれば、その数は、はるかに少ないのが現実だ。
あの時代は、経済成長が優先された時代で、大人が子どもをかまっている余裕がなかった。
つまり、子どもの教育より金が優先された時代だ。
その隙をついて、少年の凶悪犯罪が、大きな闇を作った。
だが、社会が落ち着いてきた2000年頃からは、少年の犯罪に対する経験値を得た大人たちが、それを抑止する方法を覚えたのか、その数値は確実に減ってきた。
ただ、インターネットというモンスターが、瞬く間に情報過多の世の中を作ったのが、1980年前後と決定的に違うところだ。
その結果、なにか目立った犯罪が起きると、「けしからん」という情報が、ネット媒体で溢れることになった。
少年の凶悪犯罪がピークだった1975年から90年までは、インターネットが普及していない時代だったから、「けしからん」情報は、一部のゲスな週刊誌とテレビニュースがばらまいただけだったので、ヒステリーは、その媒体を信じる人だけにしか伝わらなかった。
しかし、今の時代は、いくつかのゲスなアプリが主役になって「けしからん」を四方八方にばらまいている。
その「けしからん」情報の多さは、昔とは質も量も違う圧倒的なスピードで、電波の中に充満している。
それが、「少年の凶悪犯罪が増えた。何とかしろ」という錯覚を生んで、勘違いの正義感を持ったヒステリックな人々が、自己の感情を満足させるために、「魔女狩りの闇」を疾走している。
少年だから赦される犯罪というのはない、と私は思っている。
罪は罪。
自らが犯した罪は、それに相応しい罰を受けるべきだ。
そのことに異論はない。
だが、インターネットは、裁判所ではない。
ましてや、顔の見えない人々が鬱憤を晴らす場所でもない。
容疑者の顔や名前を晒したところで、彼の犯した罪の何が変わるわけでもない。
容疑者の所業は憎い。
それは当然のことだが、その憎しみと、容疑者の情報を晒すという暴挙は、イコールではない。
それでは、何の解決にもならない。
ただいっときだけ、高ぶった自己の感情を「裁判官気取り」で満足させているだけだ。
そして、週刊新潮の場合は、落ち込んだ雑誌の売上を伸ばしたいという極めて短絡的で正直な動機もある。
名誉毀損で訴えられてもおかしくない「自己の顔を晒さない告発」は、ただのスタンドプレーだ。
それは、未成年犯罪の残虐さと背中合わせ、表裏一体の罪だ。
大部分の人は、冷静で社会的にも大人だが、少数の未熟な人の「けしからん」の暴力が、いつか取り返しのつかない集団ヒステリーに形を変えることもありうる。
ただ、彼らも事件からひと月も経つと「けしからん」の暴力に飽きてしまって、違うターゲットを探すだろうから、少年法改訂騒ぎは、いつものように一過性に終わる可能性もある。
ごくろうさま、というしかない。
実家が近いので、実家に顔を出したとき、子どもたちを連れて散歩をしたのだ。
穏やかに流れる川の音、そして、のどかな景色。
空には、たまにカイトが浮かぶときがあった。
よちよち歩きの子どもを、愛情あふれる顔で見守る若い夫婦の姿もあった。
だが、そんな平和な光景も、数人の残虐者に簡単に蹂躙される。
その所業は「鬼畜」以外の何ものでもない。
しかし、少年犯罪ということになると、世の中は突然ヒステリックになることが、私には理解できない現象だ。
「少年法を改訂せよ」という主張は、まだいい。
その種の議論は、密室協議ではなく、ガラス張りのものなら、何の異議もない。
しかし、それを詳細な議論にかけることなく、一方的に容疑者側の素性を晒したりするのは、感情論の度合いが強すぎて、ネットを悪用した「魔女狩り」にしか私には思えない。
それは、正義ではない。
正義感を隠れ蓑にした「鬱憤ばらし」でしかない。
青少年による凶悪犯罪が、近年増えている、という誤った情報を信じている人が、いまだにいる。
しかし、1975年から90年頃に比べると、明らかに少年の凶悪犯罪は減っているのである。
近年、やや増加傾向にあるのは事実だが、1975年から90年頃と比べれば、その数は、はるかに少ないのが現実だ。
あの時代は、経済成長が優先された時代で、大人が子どもをかまっている余裕がなかった。
つまり、子どもの教育より金が優先された時代だ。
その隙をついて、少年の凶悪犯罪が、大きな闇を作った。
だが、社会が落ち着いてきた2000年頃からは、少年の犯罪に対する経験値を得た大人たちが、それを抑止する方法を覚えたのか、その数値は確実に減ってきた。
ただ、インターネットというモンスターが、瞬く間に情報過多の世の中を作ったのが、1980年前後と決定的に違うところだ。
その結果、なにか目立った犯罪が起きると、「けしからん」という情報が、ネット媒体で溢れることになった。
少年の凶悪犯罪がピークだった1975年から90年までは、インターネットが普及していない時代だったから、「けしからん」情報は、一部のゲスな週刊誌とテレビニュースがばらまいただけだったので、ヒステリーは、その媒体を信じる人だけにしか伝わらなかった。
しかし、今の時代は、いくつかのゲスなアプリが主役になって「けしからん」を四方八方にばらまいている。
その「けしからん」情報の多さは、昔とは質も量も違う圧倒的なスピードで、電波の中に充満している。
それが、「少年の凶悪犯罪が増えた。何とかしろ」という錯覚を生んで、勘違いの正義感を持ったヒステリックな人々が、自己の感情を満足させるために、「魔女狩りの闇」を疾走している。
少年だから赦される犯罪というのはない、と私は思っている。
罪は罪。
自らが犯した罪は、それに相応しい罰を受けるべきだ。
そのことに異論はない。
だが、インターネットは、裁判所ではない。
ましてや、顔の見えない人々が鬱憤を晴らす場所でもない。
容疑者の顔や名前を晒したところで、彼の犯した罪の何が変わるわけでもない。
容疑者の所業は憎い。
それは当然のことだが、その憎しみと、容疑者の情報を晒すという暴挙は、イコールではない。
それでは、何の解決にもならない。
ただいっときだけ、高ぶった自己の感情を「裁判官気取り」で満足させているだけだ。
そして、週刊新潮の場合は、落ち込んだ雑誌の売上を伸ばしたいという極めて短絡的で正直な動機もある。
名誉毀損で訴えられてもおかしくない「自己の顔を晒さない告発」は、ただのスタンドプレーだ。
それは、未成年犯罪の残虐さと背中合わせ、表裏一体の罪だ。
大部分の人は、冷静で社会的にも大人だが、少数の未熟な人の「けしからん」の暴力が、いつか取り返しのつかない集団ヒステリーに形を変えることもありうる。
ただ、彼らも事件からひと月も経つと「けしからん」の暴力に飽きてしまって、違うターゲットを探すだろうから、少年法改訂騒ぎは、いつものように一過性に終わる可能性もある。
ごくろうさま、というしかない。