前々回に、おんぼろアパートの庭に住み着いた猫のことを書いた。
彼は、庭に住み着いているだけだからペットではない。
お客様、と言ったほうが正確かもしれない。
ただ、どちらにしても動物が身近にいる生活は心に潤いを与える。
私は、28歳で結婚して実家を出るまで、何かしらの動物を飼っていた。
犬、猫、インコ、ウサギとカメ。
ただ、私は動物が好きだったが、私の家族はほとんど動物に関心を示さなかった。
母は、フルタイムで働いたせいで、動物を構っている暇がなかった。
姉は、自分以外の全てが怖い人だったから、動物を寄せ付けなかった。
父は、一流会社に勤めていたが、家に帰ってこず一銭の金も家に入れなかった。
だから、家のペットにも無関心だった。
妻と子どもとペットは、ずっと放置された。
「それなら、何でおまえは家庭を持ったんだよ」と罵ってやりたかったが、帰ってこなかったので罵れなかった。
私の怒りは、いつも不完全燃焼で終わった。
そんな不完全燃焼の私を慰めてくれたのは、動物たちだった。
「あの子たち」がいなければ、私はどうなっていたかわからない。
帰ってこない父。
夜遅くまで働く母。
世間を拒否して引きこもる姉。
私に又吉直樹氏のような文才があったなら、小説を書いていたに違いない。
家庭の中には、ネタにできる話がたくさんあったから、それだけで三部作くらいは書けそうだ。
だが、私は幼いころ文才を枯葉とともに燃やしてしまうミスを犯したので、燃えカスしか残っていなかった。
だから、今は燃えカスで文章を綴っている。
結婚して、数年間は動物から遠ざかっていたが、子どもが出来てからは、子どもにせがまれてハムスターを飼った。
ただ、ハムスターは寿命が短いので、絶えず補充しなければならなかった。
多いときで4匹飼っていたときがあった。
そのあとはカメ。
同時進行でウサギ。
そして、亀とウサギが死んでからは、モルモットを飼った。
しかし、二人の子どもは、動物は見ているだけで十分だと言って、世話をしようとしなかった。
世話は、私と同じく子どもの頃から犬猫を飼っていたヨメが交互に受け持った。
ペットを飼う醍醐味のひとつは、彼らの世話をすることなのだが、子どもたちは、どんなに誘導しても世話をやりたがらなかった。
聞いてみると、偶然にも二人は、ペットに噛み付かれて怪我をした友だちが身近にいたというのである。
だから、触るのは怖い、と言うのだ。
ウサギやモルモットは噛まないよ、と私の指先をウサギたちの口元に持っていって何度か安全をアピールしたが、彼らは頑なに「見ているだけでいい」と拒んだ。
無理強いするものではないので、あえて強く勧めたりはしなかった。
ペットはいつも彼らの身近にいたが、彼らはペットに触ることなく大人になった。
おんぼろアパートの庭に住み着いたセキトリという名の猫に対しても、私の子どもたちは「見ているだけでいい」と言う。
そして、セキトリも子どもたちには無関心だ。
そのほうが、お互い気が楽なのかもしれない。
だが、2年前にモルモットに死なれてからの私は、「ペットロス」である。
心のどこかが満たされていない自覚があった。
繰り返すが、庭のセキトリはペットではない。
彼は、一人の独立した存在である。
彼は、誰かのペットになるつもりはないだろうし、私もペットにしようとは思っていない。
もしもペット扱いしたら、信頼関係が崩れるだろう。
そこの線引きだけは、しっかりとしておきたい。
・・・・・とは思うのだが、何かの世話をしたい気持ちが最近の私は抑えきれなかった。
そんなことを思っていたら、一か月前に我が家に突然の珍客があった。
ヨメが風呂場で絶叫したのだ。
ゴキブリでも出たのかと思ったら、ヤモリだった。
「何で、ヤモリがいるのー!」と涙目のヨメ。
7センチほどの大きさのヤモリを軍手で掴んだ私は、亀の飼育用に使っていた水槽にヤモリを入れた。
「ま・・ま・・・まさか、飼うつもりじゃあ?」
いや、飼うつもりはないが、捨てるつもりもない。
「それって、飼うってことじゃないかぁ!」
非難轟々である。
「早く捨ててきてー!」
家庭が崩壊しても困るので、庭に捨てた。
そこにはセキトリがいたが、変な気を起こさないでくれよな、とお願いしたら、無関心を装ってくれた。
庭には雑草が生えていて、小さな虫が生息していたので、それをピンセットで捕獲してヤモリに餌として与えた。
喜んでいるかどうかは、顔が小さいので判断はできなかったが、食欲は満たされているようだった。
私は、ペットの「人権」には気を使うタチなので、水槽の天板は外して庭に置いておいた。
だから、ヤモリくんは、逃げようと思えば逃げられたはずだ。
しかし、なぜか、この一ヶ月間、水槽から逃げる気配がない。
住み心地がいいのかもしれない。
だが、当たり前のことかもしれないが、大学2年の娘は気味悪がって庭に近づこうとしない。
息子もヨメも「無理無理」と言って、庭には下りない。
最近、朝一番で交わす娘との会話は、百%ヤモリに関してである。
「ヤモリは逃走したか?」
娘がそう聞くと、私はいつも庭を指差しながら同じ答えを返す。
安心してください。
まだ、いますよ。
「安心できるかぁ、ボケェーーーーーーッ!」
なかなか、微笑ましい親子の風景ではないか。
ちなみに、ヤモリの名前は「ヤモちゃん」です。
娘からは、「おまえ、メガ級、ギガ級、テラ級に気持ち悪い男だな」と褒められている。
これもまた微笑ましい親子の風景ではないか。
彼は、庭に住み着いているだけだからペットではない。
お客様、と言ったほうが正確かもしれない。
ただ、どちらにしても動物が身近にいる生活は心に潤いを与える。
私は、28歳で結婚して実家を出るまで、何かしらの動物を飼っていた。
犬、猫、インコ、ウサギとカメ。
ただ、私は動物が好きだったが、私の家族はほとんど動物に関心を示さなかった。
母は、フルタイムで働いたせいで、動物を構っている暇がなかった。
姉は、自分以外の全てが怖い人だったから、動物を寄せ付けなかった。
父は、一流会社に勤めていたが、家に帰ってこず一銭の金も家に入れなかった。
だから、家のペットにも無関心だった。
妻と子どもとペットは、ずっと放置された。
「それなら、何でおまえは家庭を持ったんだよ」と罵ってやりたかったが、帰ってこなかったので罵れなかった。
私の怒りは、いつも不完全燃焼で終わった。
そんな不完全燃焼の私を慰めてくれたのは、動物たちだった。
「あの子たち」がいなければ、私はどうなっていたかわからない。
帰ってこない父。
夜遅くまで働く母。
世間を拒否して引きこもる姉。
私に又吉直樹氏のような文才があったなら、小説を書いていたに違いない。
家庭の中には、ネタにできる話がたくさんあったから、それだけで三部作くらいは書けそうだ。
だが、私は幼いころ文才を枯葉とともに燃やしてしまうミスを犯したので、燃えカスしか残っていなかった。
だから、今は燃えカスで文章を綴っている。
結婚して、数年間は動物から遠ざかっていたが、子どもが出来てからは、子どもにせがまれてハムスターを飼った。
ただ、ハムスターは寿命が短いので、絶えず補充しなければならなかった。
多いときで4匹飼っていたときがあった。
そのあとはカメ。
同時進行でウサギ。
そして、亀とウサギが死んでからは、モルモットを飼った。
しかし、二人の子どもは、動物は見ているだけで十分だと言って、世話をしようとしなかった。
世話は、私と同じく子どもの頃から犬猫を飼っていたヨメが交互に受け持った。
ペットを飼う醍醐味のひとつは、彼らの世話をすることなのだが、子どもたちは、どんなに誘導しても世話をやりたがらなかった。
聞いてみると、偶然にも二人は、ペットに噛み付かれて怪我をした友だちが身近にいたというのである。
だから、触るのは怖い、と言うのだ。
ウサギやモルモットは噛まないよ、と私の指先をウサギたちの口元に持っていって何度か安全をアピールしたが、彼らは頑なに「見ているだけでいい」と拒んだ。
無理強いするものではないので、あえて強く勧めたりはしなかった。
ペットはいつも彼らの身近にいたが、彼らはペットに触ることなく大人になった。
おんぼろアパートの庭に住み着いたセキトリという名の猫に対しても、私の子どもたちは「見ているだけでいい」と言う。
そして、セキトリも子どもたちには無関心だ。
そのほうが、お互い気が楽なのかもしれない。
だが、2年前にモルモットに死なれてからの私は、「ペットロス」である。
心のどこかが満たされていない自覚があった。
繰り返すが、庭のセキトリはペットではない。
彼は、一人の独立した存在である。
彼は、誰かのペットになるつもりはないだろうし、私もペットにしようとは思っていない。
もしもペット扱いしたら、信頼関係が崩れるだろう。
そこの線引きだけは、しっかりとしておきたい。
・・・・・とは思うのだが、何かの世話をしたい気持ちが最近の私は抑えきれなかった。
そんなことを思っていたら、一か月前に我が家に突然の珍客があった。
ヨメが風呂場で絶叫したのだ。
ゴキブリでも出たのかと思ったら、ヤモリだった。
「何で、ヤモリがいるのー!」と涙目のヨメ。
7センチほどの大きさのヤモリを軍手で掴んだ私は、亀の飼育用に使っていた水槽にヤモリを入れた。
「ま・・ま・・・まさか、飼うつもりじゃあ?」
いや、飼うつもりはないが、捨てるつもりもない。
「それって、飼うってことじゃないかぁ!」
非難轟々である。
「早く捨ててきてー!」
家庭が崩壊しても困るので、庭に捨てた。
そこにはセキトリがいたが、変な気を起こさないでくれよな、とお願いしたら、無関心を装ってくれた。
庭には雑草が生えていて、小さな虫が生息していたので、それをピンセットで捕獲してヤモリに餌として与えた。
喜んでいるかどうかは、顔が小さいので判断はできなかったが、食欲は満たされているようだった。
私は、ペットの「人権」には気を使うタチなので、水槽の天板は外して庭に置いておいた。
だから、ヤモリくんは、逃げようと思えば逃げられたはずだ。
しかし、なぜか、この一ヶ月間、水槽から逃げる気配がない。
住み心地がいいのかもしれない。
だが、当たり前のことかもしれないが、大学2年の娘は気味悪がって庭に近づこうとしない。
息子もヨメも「無理無理」と言って、庭には下りない。
最近、朝一番で交わす娘との会話は、百%ヤモリに関してである。
「ヤモリは逃走したか?」
娘がそう聞くと、私はいつも庭を指差しながら同じ答えを返す。
安心してください。
まだ、いますよ。
「安心できるかぁ、ボケェーーーーーーッ!」
なかなか、微笑ましい親子の風景ではないか。
ちなみに、ヤモリの名前は「ヤモちゃん」です。
娘からは、「おまえ、メガ級、ギガ級、テラ級に気持ち悪い男だな」と褒められている。
これもまた微笑ましい親子の風景ではないか。