杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

「Tabi tabi」しずおか今昔物語3~鎮守の森としての谷津山

2018-03-19 10:31:30 | 歴史

 静岡新聞社から『しずおか知的探検BOOK Tabi tabi 』の第3号が刊行されました。今回の特集は春に相応しい〈花と緑のボタニカルツアー〉。書店の平積みを見た時は、ひと足早く開花した桜のような表紙のピンクカラーのロゴがパッと目について、まさに春到来気分。今日は静岡市内の公立小学校の卒業式ですが、ライターにとって自分が関わった雑誌を初めて店頭で見つけた時は、自分の子どもがまさに卒業式で旅立つ日を迎えたような心境、です!。

 1年前の2017年春に創刊したTabi tabi。創刊号特集の〈今日は、渚へ〉では、総延長505キロという長い海岸線を持つ静岡県の海の文化と人にスポットをあて、歴史コーナーを受け持たせていただいた私は、こちらで紹介したとおり清水港の歴史について寄稿しました。

 

 2017年秋発行の第2号は〈列車で行こう、どこまでも〉。文字通り鉄道の旅がテーマです。個人的にもとても好きなタイトルチューンで、どのページも本当に読みごたえがありました。歴史コーナーでは御殿場線と丹那トンネルを取り上げ、御殿場沿線に酒蔵を建てた近江商人について書いた当ブログの過去記事(こちら)が役に立ちました。

 そして今回の花特集。敬愛する浜松フラワーパーク理事長の塚本こなみさん、富士山下山ツアーや茶市場ツアーを企画するそふと研究室の坂野真帆さん、静岡県を代表する日本茶インストラクターの松島章恵さんなど昔からの知り合いが何人も紹介されていて、頼もしく拝読しました。植物や自然に関わる仕事をしている女性は、体力があるし表情や姿勢も文句なく美しい。日の当たらない環境でモグラのように仕事する自分には眩しい存在です(笑)。

 歴史コーナーでは静岡市のど真ん中にある谷津山を、ちょっと強引でしたが〈鎮守の森〉に見立てて考察してみました。横内小学校に在校していた頃、持久走で走らされて、どうにも辛い思い出しか残っていなかった谷津山でしたが、谷津山がどういう山なのか、もう少しちゃんと勉強しておけば、もっと違う思い出を残せたかもしれないと、今回つくづく思い知らされました。

 

 今回の取材では谷津山再生協議会(こちらの石井秀和さんにお世話になり、同協議会が昨年12月、国際ソロプチミスト静岡と共催した小学生~大学生対象の植物同定講座(谷津山活用モデルエリア観察会)にも同行取材させていただきました。同定とは生物の分類上の所属や種名を決めることで、主催者側が用意した葉っぱが、実際に谷津山のどこにどんなふうに生育しているのかを探る、ちょっとしたゲーム感覚の観察ツアー。このゲーム感覚というのが大切で、子どもたちは宝物を探すかのように本当に楽しそうに葉っぱ探索をしていました。現場観察では放置竹林の被害の深刻さを目の当たりにしましたが、石井さんは「竹の伐採もゲーム化できれば面白い」とおっしゃっていました。

 竹の伐採には行政や所有者の許可が必要だし、実際の伐採にはボランティアの力が不可欠だし、伐採後の竹を有機肥料等に活用する手段は企業の知恵が必要でしょう。昨年11月に取材した静岡県ニュービジネス大賞で最終エントリーに残った浜松の㈱田中造園は、放置竹林の竹を竹チップ化し、雑草の飛来種発芽を防ぐ独自技術を開発した企業でした。詳しくは同社HP(こちら)をご参照いただくとして、こういう企業をスポンサーに、竹をハンティングするゲームのようなものが出来れば本当に面白いな、と思いました。

 最大のネックは、伐採許可のネックとなっている、方々に離散した土地所有者。谷津山に土地を所有する個人はゆうに500人はいるそうで、判明している所有者間では協定を結んでいるものの、所有者がわからない箇所も少なくない。こういう問題は、おそらく谷津山に限ることではなく、全国各地の放置竹林対策で問題になっているのでしょう。有効な解決策が見つかるまでは、石井さんたちのようなボランティア団体が地域の人々に、谷津山の今の姿を地道に訴え続けていくしかないようです。

 

 ちょうど今、別の仕事で、今話題の新素材セルロースナノファイバー(CNF)についての執筆をしているところです。静岡市清水区出身でCNF研究の世界的権威である東京大学大学院の磯貝明教授のお話を要約すると、

 植物がどうして重力に逆らって自分の体を空に向かって成長させ、なおかつ根から水を吸い上げ、葉っぱで光合成をして、自分の体を作れるのか。どうして風雨に耐え、重力に逆らい、虫や鳥にもやられずに生命を維持できるのか。元をたどると階層構造の一番下にあるのがセルロースというまっすぐな分子。

 セルロースを切って拡大すると、パイプ状の繊維の集合体になっており、パイプを11本バラバラにしたのがパルプといわれる短繊維。これをもう一度シート状にしたのが紙になる。紙の繊維は長さ1ミリから3ミリ。幅がこれくらいで、よく見るとまた繊維の集まりになっており、セルロース分子に次ぐ小さなエレメントの構造体。学術的にはセルロースミクロフィブリルといわれ、セルロース分子が6×636本、まっすぐに束ねられた幅3ナノメーターというめちゃくちゃ細いものから出来ている。

 植物は自分の体を支えるために6×636本のセルロースミクロフィブリルをびっしり強固に水素結合させている。ロースミクロフィブリルというのは植物中に大量に、数えきれないくらいのナノファイバーが入っており、地球上で最大の蓄積量で年間成長量の、生物が生産するナノ素材である。しかしこれまでこれを1本1本剥がすことができなかった。化学薬品や熱を加えて強引に剥がすことが出来ても、環境に負荷がかかる方法では事業化できない。

 

ということ。磯貝先生はTEMPO触媒酸化方法という環境に優しいCNF抽出方法を開発し、緑のノーベル賞といわれるマルクス・ヴァーレンベリ賞を受賞されました。CNFは重さは鉄の5分の1、強度は鉄の5倍といわれ、応用分野の裾野の広さは計り知れないだけに、静岡県でも富士山麓のパルプ産業集積地を中心にこの事業に注力していくようです。こういう事業が自然と折り合いを付けて循環していく時代になれば、谷津山の問題もいつか淘汰され、人間が鎮守の森に寄せていた本来の「森に活かされていることへの感謝」を実感できるかもしれませんね。

 

 今回執筆した谷津山は先史時代からの歩みを大雑把に振り返ったものですが、歴史とは、単に振り返って懐かしむのではなく、今、そして未来に活かされるいのちのつなぎ方を学ぶ教科書にしたい・・・こういうテーマを手掛けると、そんなふうに思えてなりません。

 今回の記事も、まあまあ硬くてとっつきにくく、子どもたちの読書対象にはならないと思いますが、書いた内容は谷津山を走り回る我が後輩たちにぜひ知ってもらいたいなと願います。周辺の学校の先生方、ぜひよろしくお願いします!


龍王丸の黒印状

2017-05-16 13:03:30 | 歴史

 この春から社会人向けの教養講座にいくつか通い始めています。古文書解読は以前から真剣に学びたいと思っていて、昨年度は京都の花園大学へ月1で通っていたのですが、時間や交通費がネックで途中挫折。今年度は5月から始まった島田市博物館の今川古文書講座に通い始めました。講師は島田市博物館学芸員の岡村龍男先生。静岡新聞社刊『Tabi-tabi』で「港が生まれた日」を書いたときにご指南いただいた気鋭の歴史家です。会場は机が置けないほど満員盛況ぶりでした。

 5月14日第1回の教材は、今川氏親(1471~1526/幼名・龍王丸)が島田の東光寺に充てた黒印状。内容は〈寺の(所領に関する)願望を認め、もし違反者がいたら処分するからちゃんと報告せよ〉というもので、特段、重要な機密文書というわけではないようですが、歴史ファンの中では『龍王丸の黒印状』として知られているそう。戦国大名が印を使用した文書としては日本第1号なんだそうです。差出人本人を特定する花押(サイン)入りの文書は戦国ドラマなんかにも出てきますが、サインではなくて印を使った最初の印判状(=現時点で最古の印判状)ということ。それが島田のお寺に残っているなんてヘエエー!でした。

鈴木正一著「今川氏と東光寺」より

 

 もちろん、重要な文書なら印ではなく本人の花押入りの文書(判物)で、印判状というのはあくまで事務書類的なものゆえ調査の手が進んでいないだけのことかもしれませんが、岡村先生は「この黒印状から、今川氏親が足利幕府から駿河国の差配を任されていたことがわかる。氏親は当時、今川の実権を握っていた一族の小鹿範満と家督争いをしていて、幕府のお墨付きを得たことで小鹿を討つ大義名分を得た」と読み解きます。その後、氏親は小鹿氏征伐に成功したようですから、一般的な事務書類でも歴史を紐解く深読みができるんだなあとワクワクしました。

 今川氏親は6歳の時に父義忠を亡くし、急きょ家督を継いだものの成人するまで小鹿範満が後見につき、氏親が成人した後も実権を返そうとしなかったためお家騒動に発展。母の北川殿の実兄北条早雲が加勢して小鹿を討ち、今川家第7代に就きます。東日本では最も古い分国法(自治法)といわれる「今川仮名目録」を制定し、検地を実施するなど今川家を戦国大名へと押し上げた功労者で、妻はおんな戦国大名で知られる寿桂尼。今川仮名目録も寿桂尼も、現在放送中の大河ドラマにも出てきますよね(ホントは井伊直虎より寿桂尼のほうが大河の主人公にふさわしいんでは?と岡村先生。確かに!)。

 戦国時代、大名は地域の寺社や国衆たちに権利と義務を通達する文書を多数発給しました。敵味方グチャグチャな時代ですから、とりあえず契約書を乱発して勢力保持していたんですね。江戸の泰平になると、武力に替わって文書が世の中を支配します。岡村先生によると、現存する江戸時代の古文書の数は戦国時代の1万倍だそう。年貢の計算なんかで必要書類が膨大に増え、識字率も飛躍的に向上しました。

 公文書には漢字、一般の文書には仮名やくずし文字というように、いろんな文字を使い分けていた国柄ゆえ、必要に迫られた人や向上心のある人など、さまざまなモチベーションで書に触れる機会があったでしょう。お寺の檀家制度が地域で機能し、寺子屋などで学習の機会が確保されていたこと等も大きいと思います。

 以前、このブログの『駿河の仏教宗派』という記事(こちら)にも書きましたが、家康が確立した本山松寺制度=今の檀家制度の原型は、寺が同一宗派で組織的に機能し、各末寺が地域の区役所・学校・生涯学習センター・かかりつけ医のような役割を果たしました。

 

 識字率が8割ともいわれた江戸時代の日本人は、当然のことながら書に対する意識がものすごく高かったと思います。渇望といってもいいくらいでしょうか。映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』のシナリオ制作時に調査した史料によると、朝鮮通信使は日本国内で書籍の売買や出版が盛んなことに驚きます。とくに中国や朝鮮の翻訳本が人気で、中には壬辰丁酉の乱にかかわる両国間の裏事情を暴露した本も多く出回っていました。柳成龍(ユソンヨン)の『懲毖録』を翻訳した貝原益軒は、序文に「秀吉の出兵は大義名分のない、おごりたかぶったものだ」とはっきり書いています。

 こういう状況を通信使からの報告で知った朝鮮王朝は「朝鮮の史書および文集類はいっさい輸出禁止」の措置を取りましたが、禁止されたことで朝鮮本人気はいっそう高まります。そこへ通信使がやってくるのですから、日本人の期待感はふくらむ一方。通信使は日記に「大坂は文を求める者が諸地方に倍して劇しく、あるときは鶏鳴のときにいたっても寝られず、まさに食事を中断するありさまである」と吐露するほどです

 以前、静岡県朝鮮通信使研究会で北村欣哉先生が発表された調査によると、現在、大河ドラマの舞台で人気沸騰の引佐町井伊谷の龍潭寺の山号額「萬松山」と寺号額「龍潭寺」は、第6回朝鮮通信使(1655)の写字官・金義信の書です。扁額の裏に『明暦元乙未仲冬の日朝鮮国の官士雪峯老人、江府において寺・山の両号を書く』とあり、1655年11月に雪峯(金義信のペンネーム)が近江国彦根で書いたということが判明しています。

 龍潭寺は通信使行列が通った東海道筋からはかなり離れていますが、新しい山門を作った時、当時、文化知識人の憧れの的だった朝鮮通信使にぜひ山号寺号を書いてもらいたいと熱望。でも通信使の書や絵は大変な人気で、おいそれと頼めない。そこで、彦根の井伊の殿様に口利きをしてもらおうと、宗元という寺男が彦根まで出向いて、憧れの通信使の書を無事ゲット。ご住職や井伊谷の人々は「歴却不壊、高着眼看、至祝不尽珍重」と大いに感激したそうです。

 

 今川氏親の時代から約500年、朝鮮通信使の時代から約300年。日本で使われる言語は日本語だけではなくなったにもかかわらず、古文書講座がこんなに盛況だなんて、日本人はやっぱり書が好きな国民なんですね。ちょっと前まで日本語ブログの投稿数は英語と並んで世界一だったとか。私自身、SNS全盛時代になっても飽きもせず長文ブログを10年近くダラダラ書いていて、我ながら可笑しくなります。

 古文書の学習は一定の決まり事を頭に入れたうえで、とにかく数を読みこなすことだそうですが、漢字の楷書で書かれた公文書や高僧の墨書に比べ、私文通信はくずし文字が多くて読みにくい。でも、くずした文字に書き手の人となりや心持ちを読み解く面白さって、文字を手で書かなくなった現代人ーとりわけ作家やライターは失ってはならない皮膚感覚のような気がします。

 そのうち、AIが古文書をいとも簡単に翻訳するようになるでしょうけど、書に対する感覚って五感と同じくらい大切にしたいですね。

 

 

 

 

 


「Tabi tabi」創刊~港が生まれた日

2017-03-20 21:09:31 | 歴史

 3月17日に静岡新聞社から新しい旅の情報誌『Tabi tabi』が創刊されました。すでにお手に取ってご覧になった方もいらっしゃると思いますが、出版不況といわれる昨今、オール広告のフリーペーパーでもなく、クーポン付きのガイド本でもなく、プロの編集者とライターとデザイナーとカメラマンががっつりスクラムを組んで制作し、営業スタッフがまっとうに広告を集め、書店に売り込んで発売にこぎつけた雑誌。地元で踏ん張るクリエイターたちが力を発揮できる媒体を…と切望していた身としては、待ちに待った創刊でした。

 創刊号のテーマは「今日は、渚へ。」海岸線が延べ500㎞もある静岡県の海辺にスポットを当てた“読ませる旅ものがたり”が凝縮されています。佐野真弓さん、永野香里さん、鈴木ソナタさん、増渕礼子さん、山口雅子さん・・・ライター陣はほぼ同世代で、それぞれに静岡のこの業界で踏ん張ってきた“同志”たち。各ライターの特性を知り尽くした編集リーダー田邊詩野さんのキャスティングが奏功し、各コーナーをキラキラ輝かせています。匿名での請負業務が多い地方のクリエイターにとっては、全頁、署名記事にしてくれた静岡新聞社の“英断”にも心から感謝です。


 さて私は、キラキラとした海辺の美観満載のメインスキームから外れた、巻末の「しずおか今昔物語」という歴史コーナーを担当させていただきました。他のページのことは完成本を見るまで知らず、書店で初めて手に取ったときは、自分のコーナーのあまりにも異質な印象にビビッてしまいました。内容が硬質だし文章もとっつきにくいのは他ページと比べても顕か。全体の足を引っ張っているんじゃないかと冷や汗をかきましたが、私の原稿にGOサインを出してくれた詩野さんの“英断”には感謝の言葉もありません。

 『杯が満ちるまで』の担当でもあった詩野さんは、当時、容赦のないダメ出しで鬼編集者ぶり(失礼!)を発揮されましたが、今回はほぼノーチェック。面倒な写真収集もほとんど一手に引き受けてくださいました。調査と執筆には半年ぐらいかけましたが、ほとんどストレスを感じることなく校了でき、待ちに待った創刊の日。仕事帰りに書店に立ち寄ってパッと開いて絶句して冷や汗かいて(笑)、それでも少し時間が経つと、こんな硬い記事にもページを割いてもらえたことにジワジワ感激がこみ上げてきました。

 ちょうど主宰する駿河茶禅の会で、会員から寄せられた「MY禅語」を編集しており、自分は何にしようかと書棚を探して見つけたのが、菜根譚のこの言葉でした。


「文章做到極處、無有他奇、只是恰好」

(ぶんしょうは、きょくしょになしいたれば、ほかのきあることなく、ただこれ、かっこうのみ)

「人品做到極處、無有他異、只是本然」

(じんぴんは、きょくしょになしいたれば、ほかのいあることなく、ただこれ、ほんぜんのみ)

 文章というものは、最高の域に達すると、特別に珍しい技法があるものではなく、ただぴったり合った表現をするだけである。人格も、最高の域に達すると、特別に変わった点があるものではなく、ただ自然のままだけである。(岩波文庫「菜根譚」今井宇三郎訳注より)

 

 自分の文章が硬いだとか、他の人と比べてどうだ・・・なんてことにこだわっているうちは、良き書き手にはなれないなあと自戒の念。求められたテーマに、すんなり合う表現で、読み手にもすんなり読める・・・これを目標に、これからも頑張っていきたいと思います。

 

 

 前置きが長くなりましたが、今回取り上げたのは清水港の歴史。明治39513日、日本郵船神奈川丸が清水港に入港し、静岡茶を積載して北米に向け出港した日を「港が生まれた日」として、この日を迎えるまでの清水の人々の物語を駆け足で紹介しました。紙面の都合で、その後の清水港の変遷については割愛しましたが、せっかく調べたので少し付け足してみると―

 お茶輸出第1船が出港した翌明治40年、清水港は第二種重要港湾に指定され、同時期、静岡と清水港を結ぶ軽便鉄道が完成。馬車や大八車で細々運ばれてきた茶が鉄道輸送に切り替わりました。

 港の周辺には“殖産興業”を追い風に新しい工場が次々と誕生。巴川の河口に近い向島には「東海セメント」が創業。清水町の望月万太郎が明治20年個人で起業し、30年に天野久右衛門らが引き継いで、本格的なポルトランドセメントの製造販売を手掛けます。原料の石灰石は榛原郡萩間村女神産、粘土は不二見村南矢部の有度山中から採掘されたものだそうです。

 明治45年には「清江下駄」が創業。江尻町の三嶋屋下駄店を営む2代目井上半蔵が、北海道産の木材を小樽港から運び、日本楽器ピアノ部長河合小市が発明した機械を導入して下駄を作ったんだそうです。ピアノ製造技術を応用した当時の先端技術を駆使したいわばベンチャービジネスで、開業間もなく年間300万足、一日平均1万足と日本一の生産量を上げ、販路は朝鮮半島、台湾、樺太、満州にまで及んだそうです。

 三嶋屋はもともと明治の初め、初代半蔵が創業した下駄問屋で、下駄の生地に漆で模様や絵付けをする女性用塗下駄を日本で初めて作りました。考案者は静岡の漆職人だったそうですが、当時、引き受け手のなかったこの新製品を半ば人助けのつもりで引き受け、東京で売り出したところ大成功。2代目半蔵は安倍川上流の杉材を原料にした生地作りを静岡監獄の囚人労働でまかない、静岡から27人の塗師を転住させ、日産2500足の下駄づくりを実現させました。

 半蔵は儲けた金で男子工員を遊郭で遊ばせたり、清水の事業家とともに運送会社を設立するなど清水のビジネスリーダーとして活躍。しかし北海道材への先物取引に失敗し、大正121月、突然休業し、解散してしまったとか。それでも彼のベンチャービジネスはほかの地場産業にも大きな影響を与え、従来、手動の座ぐり機で糸を紡いでいた製糸工場には電動機械が導入され、製紙工場でも機械化が進展。港の設備が整うと、生糸、タオル、麻製品など輸出向け商品を作るメーカーが続々誕生し、他県からの移住者も増えました。

 中でも目覚ましい発展を示したのが製茶工場。輸出用の茶を大量生産するには人手で揉んでいたら間に合いません。カビを防ぐための処理も必要。記事でも触れましたが、長年清水港から直輸出できなかったのは地元に優れた製茶工場がなかったためで、清水港から茶の直輸出の道が拓かれてからは、横浜・神戸の外国商館が競って静岡へ本拠を移し、製茶工場の機械化が進みました。製茶機械の発明者で名高いのは埼玉の高林健三。茶の葉を蒸し、焙り、揉捻の3工程の機械化を実現するため12年の歳月を投じたそうです。

 

 ミカンは明治年間、ずっと茶の後塵を拝してきましたが、明治17年にアメリカへ輸出した記録があり、日露戦争後の明治3839年頃からロシア、カナダ、アメリカ向けの輸出が継続的に行われるようになります。ミカン輸出に先鞭をつけたのは興津の青木周作。町議や町長を務め、37年にアメリカに200箱ほど出荷したのを手始めに地元ミカンの輸出に尽力。しかし到着までに鎖や病虫害が発生し、荷揚げを拒否されたり輸入規制にあったりするなど苦労を強いられたようです。

 本格化したのは専門の輸出業者が参入した大正に入ってから。大正2年、清水港からの輸出品目別ランキングで2位にあがります。江尻の望月兄弟商会の兄平吉・弟正治郎はオレンジキングとしてアメリカの新聞にも紹介されました。


 ちょうど運よく、JA静岡経済連の情報誌スマイルで静岡みかんの輸出状況について取材しましたので、補足するとー

 静岡みかんは120 年以上前からカナダを中心に輸出し、クリスマスシーズンの到来を告げる“テーブルオレンジ”として親しまれてきました。もともと明治時代にカナダ西海岸のバンクーバー近郊に移住した日本人が栽培を始めたとされ、現地のオレンジよりも皮が剥きやすいこともあって人気を集め、日本からの輸出も増加したようです。

 日本国内では昭和30年代、米の生産調整(減反)の一環として果物への転作を促す「果樹農業振興法」が成立し、各自治体が稲作農家にみかんへの転作を指導したことで、みかん産地が全国に拡大しました。みかんの収穫量は急増し、ピーク時の昭和50年には年間360万トンと現在の4倍強にもあたる量を生産し、需給バランスが崩れて値崩れを起こします。みかんも生産調整の対象となり、丹精込めて育てたみかんを間引く摘果(てきか)をせざるを得ず、農家にとって辛い時代を迎えます。そんなとき活路となったのが、日本のみかんを長年テーブルオレンジとして親しんできたカナダへの本格的な輸出だったのです。

 国際貿易港清水を有する静岡県でも北米向けのみかん輸出が本格化し、みかん農家の窮地を救う一助となりました。収穫後、カナダの店頭に並ぶまでには約1か月かかるため、青島温州の前身で高い貯蔵性を持ち、青島よりも早い時期に収穫できる「杉山温州」「尾張温州」の2種が主体となりました。 

 カナダと並んで有力な輸出先だったアメリカは農産物の輸入規制が厳しくなり、輸出量は激減しています。一方、急増しているのはニュージーランドと東南アジア(シンガポール、マレーシア、タイ等)。「他の外国産みかんと比較し、果肉が軟らかくジューシーでとても甘味がある」「通年購入できるオレンジと違い、季節限定で希少価値の高い商品」「外見が美しく、剥きやすくて食べやすい」という評価を得ており、従来、売り場を占めていた低価格の中国産かんきつ類に取って替わる勢いを見せています。

 

 

 「港が生まれた日」があまりにも硬い記事なので、少しでも柔らかくなればと、50年前に妹と清水港で遊んだときの写真を詩野さんに見てもらったところ、光栄にも文頭に使っていただきました。撮影場所ははっきり分からないのですが、FBで紹介したら数人から「袖師海岸じゃない?」とのアンサーコメントが。50年後の清水港がこうなって、妹は海の向こうに嫁いで、私がこんな仕事をしているなんて、ホント、不思議なものです。

 


私流・藤枝道中膝栗毛

2017-02-14 20:14:15 | 歴史

 今月は東海道の宿場町に残る食文化を調査しています。江戸時代の東海道の食レポといったら、やっぱり弥次さん喜多さんの『東海道中膝栗毛』。岩波現代文庫から出ている劇作家伊馬春部さんの現代語訳を参考書代わりに通読中で、藤枝宿で御馳走詐欺に遭ったエピソードに爆笑しました。

 まず岡部~藤枝間の書き出しがこちら。

 名にしおう遠州灘は波もたいらかで、街道の並松も枝も鳴らさず、往来の旅人はたがいに道をゆずりあい、泰平の世を謳歌している。荷馬引く馬士(まご)の小室節のどかに流れ、宿場人足はその縄張りを争わない。雲助輩も駄賃を強請らずして盲目もひとりで歩き、女どうしのかよわき旅路や、お伊勢参りの子どもにいたるまで、強盗人さらいの憂き目にあわず、かかるありがたい御聖代にこそ、東西に走り南北に遊行する。漂泊のたのしみはなんとも言えぬものがある。

 

 素晴らしい書き出しですね。東海道のプロモーションビデオみたいに当時の旅人の様子が浮かび上がってきます。今の国道1号線やバイパスが何と味気のない道でしょう…。

 藤枝宿で御馳走詐欺に遭ったところを意訳すると、

○宿場の入口で風呂敷包みを肩に結んだ田舎親仁に出合い、馬が跳ねた拍子に喜多さんとぶつかって、喜多さんは水たまり(馬の小便だまり)に転ぶ。

○ブチ切れた喜多さんが親仁に田舎モンが!と罵詈雑言を浴びせ、親仁も「そこまで言われる筋合いはない」と口論になったところで弥次さんがなだめる。

○町はずれの茶屋で親仁と再会。親仁は無礼を詫び、茶屋で酒を一杯振る舞いたいと申し出る。先を急ぐからと断るが、否応なしに店の奥に通されてついつい御馳走に。

○酒の共に「たたみ鰯のせんば煮」「かぼちゃの胡麻汁」「さつまいもの和え物」「伊勢海老」「刺身」「たまごふわふわ」等々、親仁に悪いなあ~と言いつつ手当たり次第食ってしまう2人。

○親仁が便所に立った隙に、喜多さんは弥次さんに「おいらがあの親仁をいじめてやったおかげでおめえまでゴチになれたんだ、おめえの食い分はおれに払えよ」と図々しい指示。酒もありったけ吞んじまおうと茶碗に注いでグビグビ。

○親仁がなかなか便所から戻ってこない。女中に「親仁は勘定を済ませて行ったか?」と訊くと、「いいえまだです」と。「一杯くったか!」と血相変えた喜多さんが外に飛び出すが親仁は行方知れず。

○弥次さんは「てめえに意趣返ししたのだわな。うまいこと謀らみやがった」と感心し、「御馳走とおもひの外の始末にて腹もふくれた頬もふくれた」と一首詠む。

 

 ここに登場する御馳走のサンプルが、藤枝市下青島の『千貫堤・瀬戸染飯伝承館』に再現されていると知って、さっそく行ってきました。

 

  ガラス越しでの撮影で見えづらいと思いますが、今のちょっとした料亭なんかで頼んだら結構な値段になりますよね。

 

 私が注目したのは「たまごふわふわ」。これって袋井宿の名物だと思っていましたが、よくよく調べてみると卵料理の原型みたいなもので、昔は支配階級の饗応料理だったのが江戸時代には一般にも食べられていたそう。1813年頃の大阪の豪商の旅日記で、袋井宿で朝食に出てきたという記述を袋井市観光協会が見つけ、袋井の新名物にしたんですね。今ではゆるキャラまで作って地域全体で盛り上げています。

 江戸最大のベストセラー東海道中膝栗毛(1803~09年出版)にこれだけしっかり描かれていたのに藤枝市観光協会は「うちには瀬戸の染飯があるから」とスルーしちゃったのかな?

 

 

 

 同館は藤枝市指定史跡・千貫堤を活用し、江戸時代の名物・瀬戸の染飯を伝える目的で平成21年に開館。千貫堤とは再三氾濫した大井川の防波堤として、寛永12年(1635)に田中藩主水野忠善によって築かれた堤防で、一千貫(約1億円)の経費がかかったため、その名が付けられたそうな。

 染飯は瀬戸村の名物で、強飯をクチナシの実で黄色く染めてすり潰し、小判形に薄く延ばして乾かしたもの。クチナシの実には消炎・解熱・鎮痛・利尿等の薬効があって旅の携帯食としても人気だったそう。今はどうかといえば、袋井のたまごふわふわは地域の食堂や居酒屋で地元B級グルメとして積極的にアピールしているのに比べ、藤枝で染飯を定番メニューにしている店はとんと見かけません。伝承館と銘打つぐらいだから買って帰れるのかと思いきや、ウォーキングイベントのときにたま~に作るぐらいだとか。館員さんに思わず、「ここに食堂を併設するとか持ち帰り用に売るとか、もっとアピールしてくださいよー」と言わずにいられませんでした。

 

 

 同館には上青島~下青島を貫く旧東海道の歴史が写真展示で紹介されていました。千貫堤は、①瀬戸山~八幡山を結ぶ全長270m、②藤五郎山と本宮山を結ぶ全長150m、③本宮山と八幡山を結ぶ全長110mで構成されていましたが、明治以降、東海道線の敷設や田畑開墾、戦後の宅地化で大部分が消滅し、伝承館が立つ約65m幅30mの部分のみ残っています。瀬戸山と藤五郎山はすっぽり削られ、東名高速道路の建設現場で主にのり面に使われたそうです。

 千貫堤・瀬戸染飯伝承館パンフレットより

 

 弥次喜多さんは左端の「瀬戸の立場」と記された繁華街で御馳走詐欺に遭ったようです。さらに西へ進むと青島酒造があって、蔵が立つT字路を右に折れ、国道1号線をまたぐと「岩田神社」に突き当たります。

 岩田神社は西暦646年の創建。藤原鎌足が蘇我入鹿を誅抜した大化の改新の際、諸国平定鎮護のため、伊勢神宮の御分霊を勧請して建てられた神社です。江戸時代には3代将軍家光から3石5斗と竹山林を社領とする朱印状が与えられ、14代家茂の代まで続いたそう。伊勢参りの人々が大井川の川留めに遭った際、この神社に代参し帰郷したといわれ、無事、伊勢参宮を果たした人は、この神社にもお詣りしなければ「片参り」と言われたそうな。弥次喜多さんはお参りしなかったのかなあ・・・。

 青島酒造はちょうど岩田神社の参道に位置し、今でも初詣では青島酒造の酒粕の甘酒が振る舞われます。家系図や創業時の史料を預けてあった菩提寺が焼失の憂き目に遭い、昔のことはほとんどわからないそうですが、おそらく元禄期の創業のよう。岩田神社の門前蔵として地域に欠かせない存在だったと思います。

 元日も休まず酒造りを行う青島さんたちは、日中、時間を見て初詣に行かれます。こちらは以前、元日酒造に密着したときの写真です。

 

 

 青島酒造からさらに西へ進むと、一里塚跡があります。千貫堤・瀬戸染飯伝承館には昭和32年頃の一里塚付近の写真が展示してありました。こんな街道の一角に青島酒造があったんだと思うと、300年近く酒造の灯を守り続けている青島家の存在意義は途方もなく尊い、と実感します。

 

 さらに同館には「新幹線誕生の町」という興味深い写真が。

  1959年(昭和34年)7月31日16時07分30秒、瀬戸踏切付近で特急こだまが時速163㎞という当時の世界最高速度を記録しました。東海道新幹線の開業を前に、大井川鉄橋~藤枝駅区間で高速度試験を行っていたのです。志太平野がほぼフラットな土地で、東海道線も、ある程度の距離をほぼ直線で敷設できたからのようです。これはこれで、日本の鉄道史に遺る偉業ですよね。

 

 弥次喜多さんの時代には遊行や漂泊の愉しみを謳歌できた東海道。道の主役が人から鉄道、モータリゼーション、新幹線へと移り変わり、〈時短〉の替わりに得たものが本当の豊かさと言えるのか、東海道中膝栗毛を改めて読み返してみて、ちょっぴり考えちゃいました。「この町は、新幹線開通に多大な功績を残しても、新幹線が素通りしてしまって、宿場町の伝統や資産を活かす機会を失ってしまったのでは…」と。

 

 実は私がこの地域にこだわる理由は、お酒がらみでもう一つあります。

 白隠禅師のお弟子さんで、白き後、松蔭寺の住職を継いだ遂翁元慮和尚。この方、お酒が大好きで、松蔭寺を継ぐとき、本当は自分の号を「酔翁」にしたかったそうですが、大本山妙心寺から「やめとけ」と言われたとか(笑)。白隠さんのもとで修行していた頃は、坐禅もしなければお経も読まず、葦原の西青島というところに庵を構え、夜中にこっそり参禅していたという風変わりな和尚さんだったそうです。

 この葦原の西青島というのが、どうやら藤枝市上青島のことらしく、「(青島酒造のある)藤枝から(高嶋酒造のある)沼津の原まで歩いて通ってたのか!」とビックリしちゃいました。白隠さんが自分の後継者と認めた非凡な人物だったわけで、上青島のどの辺に庵があったのか、なぜ上青島に庵を結んだのか、探求してみたいと思っています。遂翁の名は白隠さんのお弟子さんたちのエピソードをまとめた『荊刺叢談』という古書にしか残っていないようですが、原も上青島も古い宿場町ですから古いお宅に何かしら残っていないかな。こういう調査をネチネチやるのがローカルライターの矜持かな、なんて思ったりして。

 

 伝承館の館員さんから、来る3月19日にこの一帯を廻るウォーキングイベントのお誘いをいただきました。まずはしっかりよく歩いてみて、道の魅力とは何かを体感しようと思います。興味のある方は是非ご一緒しませんか。(以下へお申込み下さい)。

 

 

 


清澤の大公孫樹~尾崎伊兵衛伝を読んで

2016-09-14 10:21:36 | 歴史

 静岡の近代偉人伝のつづきです。

 今回紹介するのは尾崎伊兵衛さん(4代目・1847~1929)。静岡市商業会議所会頭や静岡三十五銀行(現・静岡銀行)頭取を務め、静岡茶業組合の設立者として茶業の発展に尽くした功労者です。尾崎家三代の偉業を記した郷土史家齋藤幸男氏の著書『清澤の大公孫樹~尾崎伊兵衛伝』をつまみ読みしながら、主に近代静岡茶の歴史を振り返ってみたいと思います。

 

 県指定天然記念物「黒俣の大イチョウ」として今も親しまれる清澤の大公孫樹。尾崎家の祖はここ安倍郡清沢村黒俣小沢戸の豪農助兵衛の弟・伊兵衛。文化元年(1804)に分家して駿府府中の安西に居を構え、出身地名にちなんで茶商「小沢戸屋」を興しました。3代目尾崎伊兵衛(1820~1890)は駿府土太夫町の佐野屋忠左衛門の二男で、2代目伊兵衛の長女むらの婿となり、伊兵衛を襲名しました。

 

 この3代目伊兵衛の時代に、前回記事で触れた萩原四郎兵衛(鶴夫)が中心となって再興した駿府国茶問屋に加わりました。茶問屋側は、山元(生産者)で茶の直売をされると営業妨害になるため、山元直売禁止願を奉行所に提出。一方、黒俣の本家助兵衛は安倍郡足久保村外62カ村の生産者代表として問屋側と真っ向から対立し、訴訟を起こす。入り婿である伊兵衛は難しい立場にあったと思われますが、茶問屋小沢戸屋の利を優先し、禁止願に名を連ねたのでした。

 安政5年(1858)、日米修好通商条約の調印によって横浜港が開港されると、駿河国茶問屋は外国商館への直売をもくろみ、横浜に出店します。伊兵衛は、のちに日本を代表する茶貿易商となった岡野屋利兵衛に横浜での直売を託したものの、短期間で終わり、地元で製茶に専念し、より高品質な茶を馴染みの直売店へ供給するほうを優先します。似たような「選択」が、今、日本酒の世界で見られる現象ゆえ、とても興味深いですね。

 横浜に出店した茶問屋は、和紙、竹細工、漆器といった駿府の特産品も店に並べ、外国の貿易商にアピールしました。安倍川や藁科川流域はミツマタやコウゾ等、和紙の原料となる植物の産地で、鎌倉時代から良紙ブランド「駿河半紙」として浸透していたんですね。伊兵衛も黒俣特産の和田半紙を茶に添えて横浜に送っています。

 

 4代目尾崎伊兵衛は、3代目の二男に生まれ、幼いころから父の茶業を手伝い、横浜にも徒歩で再三往来し、海外事情をよく学びます。根っからの明るい元気者で、茶問屋仲間から「善吉(伊兵衛の幼名)がいるといないとでは気分が違うな」と慕われたそう。21歳の時に明治維新を迎えます。

 製茶の質を磨くという父の信念を継いだ伊兵衛のもと、明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会に出品された尾崎家の茶は花紋褒章を、明治14年の第2回では有効三等賞、明治23年の第3回では有効二等賞を授与されました。

 静岡の製茶技術は江戸後期の天保~弘化年間、志太郡伊久美村が宇治の茶師を、榛原郡上川根が信楽の茶師を招き、茶揉みと乾燥のテクニックを学びました。安倍郡清沢村では慶応2年(1866)に滋賀の朝富から茶師鉄五郎を招いて製茶講習会を開催。明治初年には小笠郡尾美山に達人前島平九郎が招かれ、彼の技術を習得した赤堀玉吉が駿府の小鹿、聖一色、内牧等へ指導に出向くなどして静岡茶の品質向上に努めました。

 伊兵衛は明治7年(1874)に小鹿村の出島団四郎の協力を得て「宇治茶伝習所」を設立し、ここで学んだ養成員を千葉と鹿児島へ派遣し、日本茶全体の品質向上と国内販路拡充に努めます。また明治10年には中国人茶師を招いて「紅茶伝習所」を設立。明治12年には安西の尾崎家の敷地内にも紅茶伝習所を作って自ら紅茶会社を設立します。これも、茶生産者の収益を少しでも上げる方策でした。

 問屋業で儲けるばかりではなく、品質を磨く努力を惜しまず、茶業界全体の共存共栄を見据えていたという点に、この人物の高潔さを感じますね。

 

 さて、明治4~5年にかけて茶の輸出量は急激に増加します。当時、静岡の茶は牛車や荷車で清水港に運ばれ、昼夜問わず和船で横浜に届けられ、外国船に積み替えられていました。しかし和船では急増する需要がまかなえず、他産地に商機を奪われるリスクが生じたため、明治8年(1875)、伊兵衛は廻船問屋の天野久右衛門(清水)、石橋孝助(横浜)等と共同出資で汽船会社「静隆社」を設立。イギリスから150トンの蒸気船を購入し「清水丸」と命名し、清水―横浜間を約18時間で航行させ、荷主を喜ばせました。明治15年の静隆社汽船搭載貨物一覧を見ると、清水から横浜へは茶、和紙、塗物が圧倒的に多く、横浜から清水へは石油や砂糖など。旅客も扱い、清水横浜間は大人一人1円35銭(現在の価格で約5万円)だったそうです。

 明治22年(1889)に東海道鉄道本線が開通すると、船便に頼っていた茶荷物は鉄道便に切り替えられましたが、伊兵衛たち茶商、そして天野久右衛門や鈴木与平ら清水の廻船業者は、輸出茶を横浜を通さず、清水港から直接海外に輸出できるよう熱心に働きかけ、明治32年(1899)、清水港は開港外貿易港の指定を得ます。明治41年には横浜港を、42年には四日市を抜いて日本一の茶貿易港になりました。

 伊兵衛はその間、小沢戸屋を「合名尾崎国産会社」に組織改変。黒俣の本家助兵衛らも加わり、黒俣特産の和田半紙や干し椎茸も扱うようになりました。明治18年(1885)にはアメリカ向け直輸出茶を専門に扱う静岡製茶直輸出会社を新設(のちに静岡県製茶直輸出会社に改変)。明治21年には合資会社富士商会を設立し、横浜で扱う貿易茶全般を扱いました。

 前年の明治17年には静岡、安倍、有度の一町二郡で「静岡茶業組合」が結成され、初代組合長に推されて就任。同年に発足した静岡県茶業組合会議所の常議員を明治23年から14年間務め、明治37年(1904)には会議所議長に就任します。

 

 明治22年、それまで紺屋町の代官屋敷で暮らしていた徳川慶喜が西草深に移ると、旧代官屋敷の土地と家屋を徳川家から譲渡してもらうため、保徳合資会社という組織が創られました。伊兵衛はこの代表も務め、旧代官屋敷跡を会社でいったん保有管理し、伊兵衛の妻かつの生家だった辻治左衛門が借り受けて割烹料理店を始めました。これが現在の浮月楼。治左衛門には後継者がいなかったため、伊兵衛の娘はなが茶町の北村彦五郎を迎えて辻家を継ぎます。明治25年の大火で全焼してしまいますが、呉服町の文明堂杉本徹道の協力で再建。保徳合資会社は杉本徹道に浮月の運営をまかせ、徹道の子宗三に売り渡して会社は解散したということです。

 

 伊兵衛は明治22年に初めて行われた静岡市会議員選挙に立候補し、当選します。議員活動のかたわら、静岡生糸会社(明治26年)の特別発起人、株式会社静岡米穀株式取引所(同年)の理事長、日本製茶株式会社(明治27年)の取締役、静岡電灯会社(明治30年)の取締役、東陽製茶貿易株式会社(明治31年)の発起人、日本楽器製造会社(明治30年)の監査役など数多くの役職を歴任しました。

 明治30年には普通銀行として発足した株式会社三十五銀行の監査役に迎えられました。もとは国立三十五銀行だったものが「国立」の看板を外され、折からの金融恐慌で厳しい経営が続いたため、伊兵衛は県知事の亀井栄三郎から頭取を託されます。

 頭取就任直後に日露戦争が始まり、長男元次郎を満州の戦場に送るなど、自らも戦地に赴く気概で取り組んだ銀行経営でしたが、艱難辛苦の末に立て直しに成功。三十五銀行はその後、旧国立三十五銀行出身の小林年保が野崎銀行(野崎彦左衛門ら静岡市民有志が設立した民間銀行)と合併して作った静岡銀行と統合し、「静岡三十五銀行」になり、昭和18年に遠州銀行と合併して現在の「静岡銀行」になります。

 

 伊兵衛は明治38年(1905)、静岡商業会議所の第4代会頭にも選ばれ、昭和4年(1929)まで24年間勤め上げました。

 

 こうしてみると、明治大正の激動期に静岡の政治経済を支え、静岡茶を日本代表の輸出品に育て上げようと努力し続けた生涯ですね。ふつうなら家業の継続に手一杯のところ、同業者、取引先の生産者や貿易業者、地域経済全般に目を配り、手を差し伸べ、組織の役員や調整役も厭わず引き受ける。これだけ懐の深い人物なら、自分の会社を大きくして大企業の大社長になることも、政治の道に進んで大臣になることも出来たでしょう。でも彼はひたすら、地域のために働いた。

 静岡はお人よしが多く、有能な政治家やカリスマ経営者は輩出できないと揶揄されることもありますが、今、静岡がそこそこ豊かで暮らしやすいと思えるのは、地域のために地道に働いたこういう先人たちのおかげ。私自身も身の丈に合ったフィールドで、自分を育ててくれたふるさと静岡のために働きたい・・・そんなふうにしみじみ思います。