今、近所の戸田書店城北店で、フツウの書店にしては珍しく古本市をやっています。古本屋さんは時々探し物があるときに立ち寄りますが(・・・目的もなくフラッと気軽に寄れる雰囲気の古本屋さんってなかなかないんですね)、こういう場所だと、偶然、思わぬ拾い物に出くわします。
今回、出会ったのは『静岡市空襲の記録』。昭和20年(1945)、今からちょうど70年前の3月から6月にかけ、B29の爆撃を受けた静岡市民の有志が当時の経験を書き綴った文集です。最初のページに記されていた被害状況を見て、ハッとしました。戦争を知らない世代にとって、ご近所の町名がクレジットされていることに、まず愕然とさせられます。
今年の元日、母と『永遠の〇』を観に行ったとき、「なかなかよく出来たCGだ」「若い世代にも共感しやすい脚本だな」と、素人評論家ぶった目で見た自分とは対照的に、母が「ああいうことは、どこにでもあったんだよ」とポツンとつぶやいたことに胸を衝かれました。戦死した祖父や、その後、祖父の弟と再婚した祖母の写真が脳裏をよぎりました。
母の言う「ああいうこと」とは、特攻隊のようなシンボリックな存在ばかりでなく、戦地に赴いた人、見送った人、還ってこれなかった人、新しい家族を作った人・・・あの時代のすべての人々を生き様を指しているのだと思います。
この本を手にとったのは、母のそのひと言と、台本制作&MCでお手伝いしている上川陽子さんのラジオ番組『かみかわ陽子ラジオシェイク』で、以前、賤機山で毎年6月に行われる日米合同慰霊祭を取り上げたことが主たる動機でしたが、本を開いて、まず最初に町名クレジットを目にし、「そうか、今住んでるここも戦禍に遭ったんだ。あの時代は遠い映画の世界の話ではないんだ」とジワジワ実感しました。
静岡市は昭和19年(1944)12月7日に長沼地区が初空襲を受けました。以降、
○昭和20年(1945)1月27日 安倍川河原
○同2月15日 牛妻ならびに麻機山林
○2月20日 山崎新田
○3月6日 西島、千代田、春日町、伝馬町新田・・・死者4名・重傷者1名
○4月4日 古庄、国吉田、小鹿、池田、沓谷、千代田・・・死者70名・重傷者20名
○4月7日 籠上・・・死者2名・重傷者2名
○4月12日 見瀬、小鹿・・・死者1名
○4月24日 八幡本町、石田、高松・・・死者26名・重傷者3名
○5月19日 千代田、上足洗、泉町・・・死者1名・重傷者1名
○5月24日 柳町、安西5丁目、田町1丁目・・・死者37名・重傷者1名
○5月26日 安西5丁目安倍川河原
○6月11日 詳細不明
○6月18日 詳細不明
○6月19日 全市70%焼失・・・死者1669名・重傷者800名
○6月20日 市中心部で艦載機による機銃掃射
3・11の1ヵ月後、福島県いわき市の被災地に行ったとき、一つの集落で100人以上が命を落としたと聞いて、「いっぺんに100人も死んだ場所に立っているなんて・・・」と鳥肌がたったことを思い出しましたが、何のことはありません、自分が住んでいる町で70年前、2000人が亡くなっていたんですね。
4月24日の空襲では、当時、静陵女学校と校名変更させられていたわが母校・英和女学院の中学2年生三津山登志子さんが亡くなったことが詳しく紹介されていました。
一緒に下校した後輩の原田さんという方の証言によると、空襲警報が鳴る中、英和のある西草深から西平松(久能海岸近く)まで自転車で帰る途中、八幡の踏み切りあたりで自転車が故障し、近くの自転車店に立ち寄ったとき、上から爆弾が落ちてきた。原田さんは左に、三津山さんは右に逃げたが、気がついたときには当たり一面煙。三津山さんは意識はあったが、セーラー服をたしくあげると鋭利な刃物でえぐりとられたように乳房が切り取られ、鮮やかなピンクに白いぽつぽつがまざった胸が見えた。血はぜんぜん出ていなかったそうです。
原田さんの自転車は目茶目茶に壊れたが、三津山さんの自転車は無事だったため、三津山さんの自転車を借りて迎えに来た家族と一緒に帰宅し、まもなく、三津山さんの訃報を知り、一人だけ助かった自分を責めたと。
6月19日の大空襲を綴った記述では、水落町の佐藤ちよさんの「残った肉片と髪の毛」に衝撃を受けました。佐藤さんは夜23時頃の空襲で、避難した防空壕に爆弾が直撃。重傷を負い、表の警戒から戻ってきたご主人に助けられて、城東町にあった練兵場に逃げ込み、一命をとりとめたそうです。一部を転載させていただきます。
「親類の者が手伝って壕を掘りおこした。父は胸と手に血がにじんている。次女(18)は頭がない。マネキン人形の首をとったよう。わずかに、ふさふさとした毛髪のついた肉片がちょっぴり。それをだいじに拾った。
末娘は顔がやられている。鼻の真下を水平にえぐりとられ、あごと鼻がくっついてしまっていた。(中略)親戚の方が棺おけを用意してくださったので、それぞれ棺に納めた。必勝を信じて数珠を首にかけていた父の姿が痛々しい。次女は学校で集金した物を大事そうにかかえていた。
(中略)火葬場もいっぱいで焼いてくれないので、特別に許可をもらって土葬にすることにした。リヤカーに3つの棺をのせて墓地に行った。途中いただいたアジサイの3~4本と、山道でキツネのちょうちんと千草の花を折り、墓地にそなえた。
(中略)私たちはその後母の実家へ身を寄せた。母は夕方暗くなるまで働いてくる。70歳にもなっていたが食糧を集めるため一心に働いてくれた」
淡々と事実だけをつづった文章でしたが、行間から佐藤さんの慟哭が聞こえてくるような気がしました。
このほか、呉服町通りが炎上し、本通りに出た人々がお祭りの雑踏のように安倍川方面に避難した様子、最も被害が大きかった番町界隈の様子、静岡駅や郵便局が炎上した様子、日赤を守り抜いた人々、一人の脱獄者も出なかった静岡刑務所の様子など、映画さながらに映像が浮かんでくるようなリアルな記述満載です。
この記録集は昭和49年(1974)、大学教授、歴史家、商店主、公務員、医師、弁護士、学校教諭等の有志で結成された「静岡市空襲を記録する会」が刊行したものです。こういう記録や証言を集め、編集するには、29年という歳月が必要だったのかもしれません。
情報化時代の今、3・11の記憶は、スピード感をもってさまざまなカタチで記録されています。それでも、愛する人の不条理な死に直面したときの慟哭は、70年前と同じではないでしょうか。慟哭の深さは同じなのに、世の中のスピードが速くなりすぎて、本当は30年ぐらいかけ、かろうじて振り返ることが出来る辛い記憶を、どんどん“消化”しなければならないとしたら、人の心はちゃんと適応できるのでしょうか・・・。
皮肉なことに、今、私はアルバイトで檀家が何百人もいる大きな寺院で雑務をしており、法事や墓参りのお世話もするのですが、普通にお葬式が出来て、お墓参りが出来るって幸せだなってふと思います。位牌が何百本と並ぶ位牌堂を掃除するときも、同僚は「なんとなく背筋が寒くなる」と言いますが、私は「この人たちは、自分が生きた証拠をちゃんと遺せている。誰かにちゃんと、認めてもらえてる」と気持ちが明るくなるのです。
この『静岡市空襲の記録』に書かれた多くの死者も、家族にとっては辛い記憶ですが、家族が生きた証拠になったという意味では非常に価値があると思います。時間がかかっても事実に誠実に向き合い、丁寧に記し遺すことが大事だな、と。
死を意識するとき、生きるということに真剣に向き合える。・・・どこかできいたような台詞ですが、ライターという職業の自分にとっては、いろいろな意味で真に迫ってきます。