毎週楽しみに観ていたドラマ『JIN』が終わってしまいました。今年は大河ドラマをパスして、他に習慣的に視聴するドラマは朝ドラ『おひさま』ぐらい。夜、観るドラマがなくなっちゃいました~
『JIN』は幕末、『おひさま』は戦中戦後と日本史の混乱期を舞台にしているけど、混乱期をことさら暗く混沌と描くのではなく、政治は混乱していても、庶民の暮らしは案外マイペースだよな~って感じるシーンが印象的でした。
『JIN』の最終回では薩長官軍が江戸に迫ってきているのに、江戸の町民はフツウに路上で井戸端会議をしてたり物売りや飲み食いをしているし、町はとってもきれい。『おひさま』でも、もちろん切実な描写もあるけど、(戦争未経験世代が想像するよりも)どこかみんな楽観的で「しょうがない、なるようになるわ」って感じで、笑ったり冗談を言ったりしている。
こういう描き方って、今までの(混乱期の町を薄汚く、殺伐と描く)ドラマやドキュメンタリーではあまり見られなかったというか、却ってリアリティを感じます。とくに江戸は西洋人が目を見張るほど都市機能が整った美しい町だと言われていましたから・・・。
もし、後の世代が、平成時代の歴史を学ぶとき、「政治は不透明、経済は長期低迷、大震災や放射能事故の影響で人々の暮らしは混乱していた」なんて教えられると、ドラマや映画でも、えらく暗~く描かれるかもしれません。
でも今現在、我々一般の日本人は、それぞれ置かれた生活環境の中で、喜怒哀楽を背負いながら、日々を淡々と生きている。後の世代に、「暗い」とか「混乱」なんてレッテルを貼られる必要はないんです。時代を象徴するような政治経済の混乱や事件・事故が回り回って個人の暮らしに影響を与えても、日本人にはどことなく“根なし草にならない勁さ”があるような気がする。『JIN』も『おひさま』もフィクションだけど、日本人のそんな勁さを実感させてくれるドラマだと思いました。
6月28日(火)夜は、楽しみにしていた静岡県朝鮮通信使研究会の例会。知人のSさんが「『杯が乾くまで』の前回記事が面白くて僕も来た。今日のもドラマになりそうな面白い話だよね」なんて言ってくれて、早く記事にUPしなきゃ!と力が入りました。今回も長文になりそうなので、2回に分けて紹介します。
今回、北村欽哉先生が解説してくださったのは、江戸時代中期の天和~宝暦年間に生きた黒田土佐子さんという大名正室の日記『言の葉草』。その中に、延享5年(1748)の第10回朝鮮通信使が江戸に到着した時の見物日記があり、短文ながら実に生き生きとリアリティたっぷりに描写されていたのです。
黒田土佐子さんは4代将軍家綱の小姓組番士(=禄は高くないけど上様の側に仕え、出世のチャンスあり)の家に生まれ、母方の祖父黒田用綱の養女となります。黒田用綱は5代将軍徳川綱吉の家老。土佐子さんはさらに綱吉ごひいきの御側用人柳沢吉保の養女になって、14歳のとき、従兄にあたる28歳の黒田直邦と結婚します。直邦はその後、下館藩主→上野国沼田城主→老中にまで出世します。
将軍綱吉は柳沢家や黒田家の江戸屋敷にしばしば“息抜き”に通っていたそうですから、土佐子さんは上様にも目をかけてもらい、身分の低い家からお姫様→藩主夫人へとステップアップしたシンデレラガールだったんですね。
ただし、非の打ちどころのない幸運な人生、とは言いきれないところもあるようで、彼女は女の子ばかり3人もうけ、長男直亨は側室の子でした。土佐子さんの娘たちも後に産んだのは女子ばかりだったそうです。
といっても、男子直系しか継ぐことが許されない今の天皇家とは違い、当時の大名家は側室の子や養子を跡取りにすることも容易で、黒田家では娘の三千子の夫・直純を後継者にし、側室が産んだ長男直亨は三千子・直純夫妻の養子になりました。・・・ちょっと複雑だけど、当時は珍しくなかったようです。もちろんその裏には家を守るために土佐子さんや三千子さんと側室たちのいろ~んな葛藤があって、それこそ「大奥」みたいなドラマが書けそうですが(笑)。
さて黒田土佐子さんの日記『言の葉草』の朝鮮通信使見物の章を、北村先生が読み下しの古文で用意してくださったので、私はこれを現代語訳(ブログ風)にしてみます。
『延享5年(1748)、朝鮮国王の使いがはるばる海を越えて5月、ついに江戸にやってきたー!。滅多に見られない外交使節団だから、身分の高いも低いも関係なく、我も我もと多くの人が桟敷まで作って見物しました♪
私は正徳元年(1711)11月にやって来た時、観に行って、その次の享保4年(1719)のときはパスしたんだけど、今度は孫娘の三穂子が“おばあさま~どうしても観たいわ~連れてって~!”ってうるさいから中橋(現在の港区三田)あたりまで行ったのね。
早く行かないと道が混むから、夜明け前に出掛けたんだけど、あれあれ、途中からだんだん人が増え、数え切れない群衆になっちゃった・・・。無理もないわ、将軍様の交替のときだけお祝いに来る使節だから、滅多に観れないし、ふだんのお祭りとは比較にならないほど貴重なイベントだもの。
あちこちで人々が今か今かと盛り上がって興奮していた。そのうちに通りに柵が設けられ、柵にそって桟敷席がグルッと設置され、それがキラキラまばゆいほど輝いていたわ。
午前10時を過ぎると、群衆はいよいよヒートアップし、(会場整理役の)大家や名主たちが「落ち着いてくださ~い!」「柵を超えないでくださ~い!」って注意しても、なかなか収まらない。そのうちに静かになったけど。
正午頃、行列の先頭が見えてきた。(通信使案内役の)対馬藩の宗家の殿様が立派ないでたちで先頭を切り、朝鮮国の方々が一風変わった旅姿で続いた。一行が持っていた武器(偃月刀、長鎗、三枝鎗)はこの国では見たことがないし、楽器物の音も聴き慣れない不思議な音色をしていて、誰もが目を輝かせて見入っていた。
直亨もお忍びで観に来ていたらしく、(三穂子の姉の)嘉代子も前から見たがっていたと知らせがあったようで、三穂子は2人を見つけることができた。私たちは2階の桟敷席でゆったり見物できたわ。
馬に乗った朝鮮国の使者は、かの国の言葉で何事か言い交わしながらニコニコ笑っていた。何をしゃべっているのかわからないけど、観ているこっちも嬉しくなるわね。
前回(正徳元年=1711)のときは、次に何がやってくるんだろうとソワソワして気持ちがはやって、長い行列の時間を夢中で過ごしたけど、今回は12時から14時ぐらいまで、ちょうど2時間ほど。わりとあっけなく観終わったという感じ。
いずれにせよ、幕府が開かれて慶長12年(1607)に第1回使者がお越しになってから、世の中が平和で、諸外国とも友好関係にあり、海外の使者が国と国との約束をきちんと守ってこうして日本へ来られるというのは、東にあるこの国を照らす神様の恩恵が、あまりあるほど豊かだからに違いないわ。本当にありがたいことですね!』
・・・自分の言葉で書いてみると、『JIN』の主人公みたいに江戸時代にタイムスリップして、土佐子さんと一緒に通信使行列を見物した気分になります(・・・大名正室の貴重な日記をブログ風に書き換えちゃってスミマセン)。
と同時に、祭り好きの江戸っ子を「ふだんの祭りとは比較になんねえ!」とばかりに興奮させる通信使を、将軍交代のたびにきちんと日本に迎える徳川政権の外交政策って、土佐子さんじゃないけど「家康公以来の素晴らしい政策」「ありがたや」と思えてくる。これを、後世の人間に「鎖国」の二文字で片付けられるのは、江戸の人々は片腹痛いと嗤うんじゃないかしら。(つづく)