杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

歴史の先入観を超えるドラマ(その1)~黒田土佐子さんの場合

2011-06-30 15:48:30 | 朝鮮通信使

 毎週楽しみに観ていたドラマ『JIN』が終わってしまいました。今年は大河ドラマをパスして、他に習慣的に視聴するドラマは朝ドラ『おひさま』ぐらい。夜、観るドラマがなくなっちゃいました~

 

 『JIN』は幕末、『おひさま』は戦中戦後と日本史の混乱期を舞台にしているけど、混乱期をことさら暗く混沌と描くのではなく、政治は混乱していても、庶民の暮らしは案外マイペースだよな~って感じるシーンが印象的でした。

 『JIN』の最終回では薩長官軍が江戸に迫ってきているのに、江戸の町民はフツウに路上で井戸端会議をしてたり物売りや飲み食いをしているし、町はとってもきれい。『おひさま』でも、もちろん切実な描写もあるけど、(戦争未経験世代が想像するよりも)どこかみんな楽観的で「しょうがない、なるようになるわ」って感じで、笑ったり冗談を言ったりしている。

 こういう描き方って、今までの(混乱期の町を薄汚く、殺伐と描く)ドラマやドキュメンタリーではあまり見られなかったというか、却ってリアリティを感じます。とくに江戸は西洋人が目を見張るほど都市機能が整った美しい町だと言われていましたから・・・。

 

 

 もし、後の世代が、平成時代の歴史を学ぶとき、「政治は不透明、経済は長期低迷、大震災や放射能事故の影響で人々の暮らしは混乱していた」なんて教えられると、ドラマや映画でも、えらく暗~く描かれるかもしれません。

 でも今現在、我々一般の日本人は、それぞれ置かれた生活環境の中で、喜怒哀楽を背負いながら、日々を淡々と生きている。後の世代に、「暗い」とか「混乱」なんてレッテルを貼られる必要はないんです。時代を象徴するような政治経済の混乱や事件・事故が回り回って個人の暮らしに影響を与えても、日本人にはどことなく“根なし草にならない勁さ”があるような気がする。『JIN』も『おひさま』もフィクションだけど、日本人のそんな勁さを実感させてくれるドラマだと思いました。

 

 

 6月28日(火)夜は、楽しみにしていた静岡県朝鮮通信使研究会の例会。知人のSさんが「『杯が乾くまで』の前回記事が面白くて僕も来た。今日のもドラマになりそうな面白い話だよね」なんて言ってくれて、早く記事にUPしなきゃ!と力が入りました。今回も長文になりそうなので、2回に分けて紹介します。

 

 今回、北村欽哉先生が解説してくださったのは、江戸時代中期の天和~宝暦年間に生きた黒田土佐子さんという大名正室の日記『言の葉草』。その中に、延享5年(1748)の第10回朝鮮通信使が江戸に到着した時の見物日記があり、短文ながら実に生き生きとリアリティたっぷりに描写されていたのです。

 

 黒田土佐子さんは4代将軍家綱の小姓組番士(=禄は高くないけど上様の側に仕え、出世のチャンスあり)の家に生まれ、母方の祖父黒田用綱の養女となります。黒田用綱は5代将軍徳川綱吉の家老。土佐子さんはさらに綱吉ごひいきの御側用人柳沢吉保の養女になって、14歳のとき、従兄にあたる28歳の黒田直邦と結婚します。直邦はその後、下館藩主→上野国沼田城主→老中にまで出世します。

 将軍綱吉は柳沢家や黒田家の江戸屋敷にしばしば“息抜き”に通っていたそうですから、土佐子さんは上様にも目をかけてもらい、身分の低い家からお姫様→藩主夫人へとステップアップしたシンデレラガールだったんですね。

 

 

 ただし、非の打ちどころのない幸運な人生、とは言いきれないところもあるようで、彼女は女の子ばかり3人もうけ、長男直亨は側室の子でした。土佐子さんの娘たちも後に産んだのは女子ばかりだったそうです。

 といっても、男子直系しか継ぐことが許されない今の天皇家とは違い、当時の大名家は側室の子や養子を跡取りにすることも容易で、黒田家では娘の三千子の夫・直純を後継者にし、側室が産んだ長男直亨は三千子・直純夫妻の養子になりました。・・・ちょっと複雑だけど、当時は珍しくなかったようです。もちろんその裏には家を守るために土佐子さんや三千子さんと側室たちのいろ~んな葛藤があって、それこそ「大奥」みたいなドラマが書けそうですが(笑)。

 

 

 さて黒田土佐子さんの日記『言の葉草』の朝鮮通信使見物の章を、北村先生が読み下しの古文で用意してくださったので、私はこれを現代語訳(ブログ風)にしてみます。

 

 

 『延享5年(1748)、朝鮮国王の使いがはるばる海を越えて5月、ついに江戸にやってきたー!。滅多に見られない外交使節団だから、身分の高いも低いも関係なく、我も我もと多くの人が桟敷まで作って見物しました♪

 

 

 

 私は正徳元年(1711)11月にやって来た時、観に行って、その次の享保4年(1719)のときはパスしたんだけど、今度は孫娘の三穂子が“おばあさま~どうしても観たいわ~連れてって~!”ってうるさいから中橋(現在の港区三田)あたりまで行ったのね。

 

 

 

 早く行かないと道が混むから、夜明け前に出掛けたんだけど、あれあれ、途中からだんだん人が増え、数え切れない群衆になっちゃった・・・。無理もないわ、将軍様の交替のときだけお祝いに来る使節だから、滅多に観れないし、ふだんのお祭りとは比較にならないほど貴重なイベントだもの。

 

 

 あちこちで人々が今か今かと盛り上がって興奮していた。そのうちに通りに柵が設けられ、柵にそって桟敷席がグルッと設置され、それがキラキラまばゆいほど輝いていたわ。

 

 

 

 午前10時を過ぎると、群衆はいよいよヒートアップし、(会場整理役の)大家や名主たちが「落ち着いてくださ~い!」「柵を超えないでくださ~い!」って注意しても、なかなか収まらない。そのうちに静かになったけど。

 

 

 

 正午頃、行列の先頭が見えてきた。(通信使案内役の)対馬藩の宗家の殿様が立派ないでたちで先頭を切り、朝鮮国の方々が一風変わった旅姿で続いた。一行が持っていた武器(偃月刀、長鎗、三枝鎗)はこの国では見たことがないし、楽器物の音も聴き慣れない不思議な音色をしていて、誰もが目を輝かせて見入っていた。

 

 

 

 直亨もお忍びで観に来ていたらしく、(三穂子の姉の)嘉代子も前から見たがっていたと知らせがあったようで、三穂子は2人を見つけることができた。私たちは2階の桟敷席でゆったり見物できたわ。

 

 

 

 馬に乗った朝鮮国の使者は、かの国の言葉で何事か言い交わしながらニコニコ笑っていた。何をしゃべっているのかわからないけど、観ているこっちも嬉しくなるわね。

 

 

 

 前回(正徳元年=1711)のときは、次に何がやってくるんだろうとソワソワして気持ちがはやって、長い行列の時間を夢中で過ごしたけど、今回は12時から14時ぐらいまで、ちょうど2時間ほど。わりとあっけなく観終わったという感じ。

 

 

 

 いずれにせよ、幕府が開かれて慶長12年(1607)に第1回使者がお越しになってから、世の中が平和で、諸外国とも友好関係にあり、海外の使者が国と国との約束をきちんと守ってこうして日本へ来られるというのは、東にあるこの国を照らす神様の恩恵が、あまりあるほど豊かだからに違いないわ。本当にありがたいことですね!』

 

 

 

 ・・・自分の言葉で書いてみると、『JIN』の主人公みたいに江戸時代にタイムスリップして、土佐子さんと一緒に通信使行列を見物した気分になります(・・・大名正室の貴重な日記をブログ風に書き換えちゃってスミマセン)。

 と同時に、祭り好きの江戸っ子を「ふだんの祭りとは比較になんねえ!」とばかりに興奮させる通信使を、将軍交代のたびにきちんと日本に迎える徳川政権の外交政策って、土佐子さんじゃないけど「家康公以来の素晴らしい政策」「ありがたや」と思えてくる。これを、後世の人間に「鎖国」の二文字で片付けられるのは、江戸の人々は片腹痛いと嗤うんじゃないかしら。(つづく)

 


米の品種とカミアカリ

2011-06-29 10:00:32 | 地酒

 6月26日(日)は、静岡市葵区のアイセル21食工房で、『第9回カミアカリドリーム勉強会』が開かれました。1年前にドンクのパン職人仁瓶さんをImgp4590講師にお招きした勉強会も大変面白くて、紹介記事も多くのアクセス数を頂戴しました。

 

 やっぱり面白い食の担い手や職人の横のネットワークって、ソソられますよね!

 

 今回の講師は、静岡県農業技術研究所(磐田市)で米の育種を担い、静岡県独自の早生品種「なつしずか」や酒米品種「誉富士」の産みの親である宮田祐二さん。現在は県志太榛原農林事務所にお勤めで、酒造のメッカ・志太地域ならびに「カミアカリ」生みの親である松下明弘さんの圃場にも近いとあって、お会いするたびに日焼けして嬉々とした表情が印象的です。現場主義の職人気質の人なんですね。

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 宮田さんは今回、米の品種とは何ぞや?という根本的な解説をしてくださいました。日本って稲作文化の国だけど、米の品種が文献に登場するのは江戸時代から。幕藩体制では藩の財政基盤が米の石高だったから、各藩で「量産できる品種」「気候変動に強い品種」を真剣に研究し出したわけです。

 

 

 明治の殖産時代になって初めて農業の専門研究機関が設置され、全国から優良な米の種籾を集めて生産量を上げようとしたところ、在来品種があまりにも多くて整理するのに精一杯。大正~昭和に「交雑育種=交配」の研究がようやく動き出したそうです。

 昭和初期には原子力の研究もスタートし、植物に放射線を当てる研究も始まりました。放射線を当てると“突然変異”が出やすくなるんですね。食味をよくしたかったら、味の良くなる遺伝子を増やす、病気に強い品種にしたかったら、あるいは収量が取れる品種にしたかったらその遺伝子を増やすための手段です(放射線といっても半減期が0コンマ数秒というX線やガンマ線ですからご安心を)。放射線以外に化学物質や組織培養を使った交配技術も発達しました。

 

 

 でも、「味の良くなる遺伝子」と「病気に強い遺伝子」を掛け合わせても、本当に“味が良くて病気に強い品種”と認められるには、子ども→孫→ひ孫→玄孫と、何代にも亘って連続性が保てるか、最低でも6年ぐらいは交配実験をしてみなければわからないそうです。紫外線の影響などで、遺伝子が突然働かなくなって、「背丈の高くなる遺伝子」に紫外線があたって「背が低くなる」なんてことも。・・・そんなこんなで突然変異によって“従来にない面白い種”が出来たとしても、97%は実用化できないとか。

 

 松下さんが発見した「カミアカリ」は、コシヒカリの突然変異。ホントに偶然、田んぼで作業をして片付けをして帰ろうと思ったときに、何気に気になる穂を(まるで神の啓示のごとく)見つけた、自然の突然変異。初めて見た時、宮田さんも直感的に「なんだこれ、面白い・・・!」と思ったそうです。交配育種のプロとして、真剣に向き合い、手をかけてみたくなる衝動にかられたのかも。

 同じく松下さんの山田錦を初めて酒にした青島酒造の杜氏・富山初雄さんが「他の山田錦とは違う、松下米だ」と唸った当時の気分に通じるものじゃないかな。

 

 

 「カミアカリ」は、幸運にも、宮田さんみたいな育種専門の研究家と、当時「玄米」にこだわっていた安東米店の長坂潔暁さんという2人のプロが、松下さんの身近にいたということが大きかったと思います。これは、松下さん自身が持っている幸運だったかもしれないし、米の神様が松下さんの手を通してこの地に何かを残そうとした真の啓示なのかもしれません。

 ・・・ちなみに、国の品種登録制は、従来の品種とは一線を画す区別性・均一性・連続性を条件に審査され、合格したら公報され、公に権利が生まれる特許制度みたいなもの。「カミアカリ」はあまりにも規格外の巨大な胚芽米なので、いくら審査に出しても「外」扱いされ、「カミアカリ」という名前で売ることは出来ないのだそうです。

 

 ちなみに静岡県では寿し飯に合う品種として「関取」という米が注目されていますが、これは昔の在来種なので品種登録されず、こちらも品種名を表示して売ることはできないそうです。品種登録制というのはそもそも生産者の内々だけに通用する法律みたいなもので、流通や消費のマインドに応えるものではないようですね。なんとかならないのかなあ。

 

 そんな中でも、カミアカリは口コミペースで理解者を増やし、作り手と買い手の輪を広げようと地道に応援する仲間に支えられている。・・・国の恩恵も“縛り”にもとらわれない、ひとつの新しい食文化の形態のような気がします。


中日新聞掲載『産業廃棄物処理の最前線』

2011-06-27 09:09:15 | 東日本大震災

 

 6月25日(土)の中日新聞朝刊では「環境特集エコを考える」が組まれました。その中で静岡県産業廃棄物協会を取材した記事を掲載しましたので、中日新聞をお読みにならない方もぜひご一読を!

 

 

 

環境特集~循環型社会づくりに向けて―産業廃棄物処理の最前線<o:p></o:p>

 現代に生きる我々の生活は、限りある資源に支えられている。いずれは枯渇する資源を湯水のように使い果たし、ごみや温室効果ガスを吐き出す暮らし方を続けていれば、地球では人類が生存できない時代が来る―。

 東日本大震災という未曽有の災害を経験し、日本人にとってエネルギーやゴミ・廃棄物の問題は一層切実なものとなった。今のライフスタイルの点検・見直し―すなわち、ゴミを減らし、資源や物資を大切に使う循環型社会のしくみづくりに必要なものは何か。今回は廃棄物処理の最前線に立つ静岡県産業廃棄物協会の活動を紹介する。<o:p></o:p>

 

産業廃棄物の定義

 廃棄物は、家庭から出される一般ゴミやし尿と、会社・工場・商店など事業活動にともなって出た事業ゴミに大きく分けられる。事業ゴミのうち、がれきや廃油や汚泥など法令で定められた20種が『産業廃棄物』と定義され、事業者に処理責任が課せられている。処理の形としては、事業者自らが行うケース、処理業者に委託するケース、行政機関が公共サービスとして処理するケースがある。<o:p></o:p>

 

静岡県産業廃棄物協会―処理業者と排出業者が両立する稀有な団体

 静岡県産業廃棄物協会は、産業廃棄物(以下産廃)処理を担う事業者756社と、産廃を排出する事業者362社の計1147社が加盟する団体。昭和50年に設立、52年に公益法人化した。<o:p></o:p>

 同類団体はほとんどの都道府県に置かれ、全国を束ねる連合会組織もあるが、静岡県のように処理業者と排出業者がともに加盟する団体は珍しいという。梅原秀夫会長は「静岡県には規模の大小にかかわらず、幅広い業種の製造業者が生産拠点を置き、日本を代表するモノづくりメッカでもある。産廃を取り巻く諸問題に対し、実践的な解決を導くためには、産廃の“入口”と“出口”の協調が必要不可欠」と語る。協会には産廃処理業務に大きなウエートを占める提出書類作成を行う行政書士やコンサルタントも会員に名を連ね、さまざまなサポートを行っている。<o:p></o:p>

 

静岡県の産業廃棄物の現状と目標値―7年間で12%減

 平成20年度データによると、静岡県内で一年間に排出された産廃は、1199万トン。一般のゴミ(約145万トン)の8・3倍にあたる。産廃の種類では「汚泥」「がれき」「動物の糞尿」が上位3位で、この3品目で全体の83%を占める。<o:p></o:p>

 これらをどのように処理しているかといえば、焼却・脱水等による中間処理によって減量化させる量が55%、リサイクルが37%、埋め立て等の最終処分に回されたのが8%だった(平成20年度)。<o:p></o:p>

 産廃は、当然のことながら排出量自体を減らすことが望ましく、段階的にはリサイクルや減量化の割合を増やし、環境汚染が懸念される最終処分の量を減らす努力が求められる。県でも平成27年度までに最終処分量を20年度実績の12%減とする目標を打ち立てている。<o:p></o:p>

 

3R運動、電子マニフェストの推進

 リサイクルや減量化にあたっては、モノづくりのレベルでリサイクルや減量化がしやすい材料ならびに製法を用いることが肝要だ。県ではゴミを出にくくする(Reduce)、再使用(Reuse)、再生利用(Recycle)を呼び掛ける「3R」運動を、事業所にも広く呼び掛け、研修会を各地で開催している。<o:p></o:p>

 また廃棄物を適正に処理するために有効な「電子マニフェスト」の加盟登録を事業所に呼び掛け、静岡県は平成22年度までに、東京都、神奈川県に次いで全国3位の登録件数(6222件)となった。27年度までに8000件を目指す。<o:p></o:p>

 

「捨てればゴミ、活かせば資源」

 事業所に求められるこれら様々な取り組みは、静岡県産業廃棄物協会が“推進部隊”となっている。「3Rの徹底に向け、“捨てればただのゴミ、活かせば貴重な資源になる“を合言葉に一社でも多くの会員事業所の意識改革に努めたい」と梅原会長。<o:p></o:p>

 平成23年度からは、廃棄物処理法の一部が改正され、不法投棄や不適正処理への対策、最終処分場の環境汚染対策、廃棄物の循環的利用の促進等が強化された。法令遵守を徹底・指導する上でも、協会の果たす役割はますます重要となっている。<o:p></o:p>

 

産廃処理業の社会的使命―大震災を経験して

 3月11日に発生した東日本大震災では瓦礫や汚泥等の災害廃棄物が2500万トン。阪神淡路大震災の1・7倍という甚大な結果をもたらした。阪神淡路の被災地では処理に3年を有したというから、東日本でも“長期戦”を余儀なくされるだろう。梅原会長は「どんなに時間がかかっても、我々の業界がきちんと責任を持って処理しなければならない」と真摯に語る。<o:p></o:p>

 静岡県産業廃棄物協会では静岡県ならびに静岡市と『災害援助協定』を結んでおり、地震災害はもとより、近年頻発する水害等に際し、被災地の復旧・復興のため、産廃処理のノウハウを発揮している。<o:p></o:p>

 

さんぱい探偵団―環境教育プログラムの実践

 社会的使命の高まりを受け、協会では日頃から産廃処理事業への理解や啓蒙にも努めている。県内7支部ごとに、地域の小・中・高校で環境教育プログラム事業を実施中。会員事業所の視察や環境ゴミ問題についてのレクチャーを行い、児童・生徒に身近な問題として考える機会づくりに尽力している。小学生対象の見学会は「ぼくらさんぱい探偵団」と銘打ち、毎年夏休みに各支部の会員事業所見学会を行っている。いずれも協会側が学校に呼び掛けて実施している。

 協会専務理事の三島文夫さんは「子どもたちには“食べるものも着るものもゴミじゃない。再び資源になるんだという認識を持ってもらうことが大事」と環境教育の意義を強調する。<o:p></o:p>

 

社会に不可欠な事業として

 協会では大学生向けの研修視察会も開催しており、22年度には環境問題に関心のある静岡大学や富士常葉大学の学生が参加した。アンケートでは「このような事業がないと社会が成り立たないと強く実感した」という声も。産廃業界への理解は少しずつ深まっているようだ。<o:p></o:p>

 「産廃処理の技術は日進月歩。日本の処理技術は世界最先端を行く。焼却灰の中から貴金属を取りだすような特殊技術を持った業者もいる。我々の業務が社会の仕組みを変える一助となると信じています」と梅原会長。「一般県民のみなさんにも、産廃処理に対する見方や理解を一歩進めてほしい」と力を込める。 (文・鈴木真弓)<o:p></o:p>

 


中日新聞掲載『富士山百人一首』

2011-06-26 10:17:14 | アート・文化

 

624日(金)の中日新聞朝刊に掲載された富士山特集の記事。短歌や俳句って自分の仕事にもとても参考になるんですね。日本語の語彙のひびきやリズムってキャッチコピーを考えるときに大事だと実感できる。その意味で、今回の富士山百人一首はコピーワークのお宝本にもなりそうです。ぜひご一読くださいまし!

 

 

 

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富士山百人一首と富士山百人一句~一千年の時空を超え、詠み継がれる富士賛歌<o:p></o:p>

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<o:p> </o:p>静岡県は平成2112月議会で、2月23日を「富士山の日」に制定し、23年2月23日には『富士見の式典』を執り行った。その際、参加者に配布された『富士山百人一首』。万葉の時代から現代に至るまで、富士山を詠んだ短歌を100首選んで歌集にまとめたものだ。約2万
部を発行し、県内の小・中・高等学校等と市町立中央図書館に配架するとともに、希望者にも配布している。<o:p></o:p>

 県では詩歌を通じて富士山の魅力を掘り起こすユニークな試みに取り組んでいる。<o:p></o:p>

 

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 富士山の日制定への思い

 川勝知事は、平成23年3月発行の静岡県総合情報誌『ふじのくに』誌上で、富士山の日の制定に寄せる思いを述べている。

 

「1年の内で一番陽が短いのが12月下旬の冬至。ここから気温がグッと下がり、晴天の日が続く。この冬季にこそ、富士山は白雪を冠した神々しい姿を見せる。冬は富士見の季節である」

「冬に富士山を愛でる習慣は古くからある。『万葉集』で山部赤人が、<o:p></o:p>

 

天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は<o:p></o:p>

 

 と詠んでいる。彼には、雪で覆われる富士山が神の如く見えた。(中略)日本人の誰もがそう思ったからこそ、富士山はずっと歌い継がれてきたのだと思う」。<o:p></o:p>

 富士山の日の制定にあたっては、富士山に対する知事自身の深い見識がベースにあり、〈富士山の歌〉にも格別な思いがあったようだ。<o:p></o:p>

 

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歌枕の宝庫・静岡県と富士山<o:p></o:p>

 県では富士山の日を制定した翌平成22年、静岡市出身の歌人・田中章義氏の提案で、富士山を詠んだ古今の歌人の歌で、好きな歌・心に残る歌を一般から募った。集まった歌は約450首。応募者は静岡をはじめ、東京、神奈川、栃木、長野、愛知、岐阜、大阪、福岡の各都府県に及んだ。<o:p></o:p>

 集まった歌から100首を選び出したのは、奈良県立万葉文化館長で万葉学者として名高い中西進氏、歌人で文芸評論家の馬場あき子氏、歌人で国文学者の佐佐木幸綱氏、そして田中章義氏を合わせた計4人の選考委員。1019日、1124日の2回に分けて委員会を開催し、100首を決定した。

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 田中氏は近著『しずおか歌枕紀行』の冒頭で、「詩歌人が感性の拠り所とした土地を“歌枕“と呼ぶ。静岡県にも多くの歌枕がある。しかもそうそうたる歌人が富士山を詠んでいることに感動し、川勝知事に提案して富士山百人一首が生まれることにもなった」と述べ、平成23年5月27日にグランシップ(静岡市駿河区)で開かれた『富士山百人一首フォーラム』でも、「県民一人一人が、富士山を詠んだ歌の中から“お気に入り”を見つけてほしい」と呼び掛けた。

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 富士山百人一首は、西暦660年頃の生まれとされる万葉歌人・柿本人麻呂から、1962年生まれの俵万智氏、1970年生まれの田中章義氏まで100人の歌人の生年月日順に歌を並べ、子どもたちでも愛唱できるよう、すべての漢字にふりがなを付けた。いくつかを紹介しよう。<o:p></o:p>

 

田児の浦ゆうち出でてみれば真白にそ不二の高嶺に雪は降りける(山部赤人) 

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晴れてよし曇りてもよし富士の山もとの姿は変わりざりけり(山岡鉄舟)

遠つあふみ大河ながるる国なかば菜の花さきぬ富士をあなたに(与謝野晶子)

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香貫山いただきに来て吾子とあそび久しく居れば富士晴れにけり(若山牧水)<o:p></o:p>

 

日本の哲学であり神である大富士の山をろがむわれは(野村清 *静岡県出身)<o:p></o:p>

 

和歌のリズムを子どもたちに取り戻したい<o:p></o:p>

 川勝知事は富士山百人一首の制作意図の一つとして「七五調や五七調といった日本の歌の独特のリズム感を子どもたちに取り戻したい」と述べている。また田中氏も「世界最古の詩集とも言われる『万葉集』の時代から、人々が自然を愛で、家族や四季折々の大地の表情を三十一文字にあらわし続けている。千年規模での国民的な詩歌の文化遺産を持つ日本は、世界的にもとても珍しい国」と、和歌の価値を強調する(「しずおか歌枕紀行」より。)<o:p></o:p>

 

今年度は『富士山百人一句』募集<o:p></o:p>

 第2弾企画として、県は現在、俳人によって詠まれた富士山の俳句を募集している。年度末には『富士山百人一句』としてまとめる予定である。昨今、身近な暮らしや自然をテーマにした詩歌や川柳づくりがちょっとしたブームにもなっており、ゆくゆくは富士山を謳った一般からのオリジナル短歌の募集も期待できるところだ。<o:p></o:p>

 奈良・万葉の時代から1300年を経て今なお、富士山は日本人にとって何物にも代え難い“歌枕”であるに相違ない。(文・鈴木真弓)<o:p></o:p> 

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■「富士山百人一句」募集要項<o:p></o:p>

世界最短の詩と呼ばれる『俳句』の中から、現代までに俳人によって詠まれた富士山の俳句を募集し、『富士山百人一句』を選定する。これまで耳にした富士山の俳句で、好きな句、心に残る句を募集。<o:p></o:p>

 

○応募資格 なし<o:p></o:p>

○募集締切 平成23年8月31日(水)消印有効

○応募先 〒420-8601 静岡市葵区追手町9―6 静岡県文化・観光部総務企画課(富士山総合調整担当)<o:p></o:p>

 電話054-221-3776<o:p></o:p>

 FAX 054-221-2980<o:p></o:p>

 bunkakankou-kikaku@pref.shizuoka.lg.jp

○応募方法 はがき・FAX・メールにて一人3句まで。それぞれの句ごとに作者、出典、出自(句集・句誌名)を明記の上、住所、氏名、年齢を添えて。*「蝦夷富士」や「薩摩富士」などの見立て富士を歌ったものは除く。 

○選考委員 有馬朗人(静岡文化芸術大学理事長・俳人)、芳賀徹(静岡県立美術館長・俳句研究者)、冨士眞奈美(女優・随筆家・俳人)、須藤常央(俳人・第45回角川俳句賞受賞) 

○応募者には平成24年3月発行予定の『富士山百人一句』を進呈。<o:p></o:p>


齋藤章雄さんの店「六本木三丁目・しち十二候」

2011-06-24 12:37:20 | 地酒

 22日(水)は渋谷の試飲会の後、六本木3丁目に4月にオープンしたP1000007齋藤章雄さんのお店『しち十二候』へ行ってきました。場所は地下鉄南北線「六本木1丁目」駅から近いんですが、住宅街にあってお上りさんの私には迷路・・・でした。しかもこのあたりって坂が多くて・・・着いたとたん「生ビールください」でした(苦笑)。

 

 

 ライターを生業にしているくせに日本語を知らなくて(恥)、まずは『しち十二候』ってどんな意味?って聞いてしまいました。

 

 七十二候は植物の成長や動物の行動、気象の変化などによって季節の移ろいを表した農事暦のこと。家に帰って広辞苑を開いたら「旧暦で5日を1候とし、3候を1気とし、6候(2気)を1ヶ月とし、24気すなわち1年間を七十二分して時候の変化を表す。“季候”の語は四季七十二候から出た。旧暦の持っている太陽暦の要素である」とありました。

 

 「しちじゅうにこう」と読むのですが、漢字でそのまま書いたら「ななじゅうにこう」と誤読する人もいるので、「七」だけ「しち」と平仮名にしたそうです。

 

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 そんな店名を付けただけあって、メニューも5日を目処に旬の献立を入れ替えて、季節感をたっぷり味わえる内容。食養料理(マクロビオティック)コースもあります。HPを拝見したら、食材の仕入れ先も吟味されていて、齋藤さんがこれまで培ってきた食のネットワークの豊かさ・確かさをとくと実感できます。P1000017

 

 

 この皮つき野菜の炊き合わせなんて、料理自体はシンプルだと思いますが、野菜本来の味がしっかりわかる。それでいて素人料理みたいな土っぽさがなくて、“炊き方が違う”って実感できます。

 

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 齋藤さん(右)が切り分けているのはHPで紹介されていた絶品カツオ。カツオは(大好物なんで)正直言って焼津や静岡でとびきりの美味しさを知っていたつもりですが、この日いただいたのは、トロンとまろやかでつややかで、初カツオと戻りカツオのいいとこどりをミックスさせたような味わい。「今が一番美味しいと思います」と太鼓判を押してくれました。

 

 

 

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 こちらは福光屋さんの赤酢を使った酢飯に炊いた貝と静岡わさびを乗せて有明のりで巻いていただいたんですが、中でも有明のりの美味しさといったら・・・!のりを褒めるなんて失礼かなと思ったんですが、カウンターで相席になった男性も「のりが美味いな~」と唸っていたのでホッとしました(笑)。

 

 

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 失礼ついでに感動したのはお味噌汁。出汁の風味と味噌のまろやかさが見事に調和されていました。さぞかし有名な高級味噌かしらと思ったら、「静岡市の諸国みそさんでブレンドしてもらってるんですよ」と意外なお返事。諸国みそのように吟味した味噌を店頭で量り売りしている店は東京でもあまりないのだそう。しかも「どこの味噌でもいいんじゃなくて、店主が全国の味噌をしっかり吟味して並べ、こちらの求めに応じてブレンドしてくれる」店が貴重なんだそうです。

・・・諸国みそがある静岡市の茶町一帯は、茶問屋が集積していて、目利きのブレンダーさんが育つエリア。そんな立地条件が奏功しているのかも、と思いました。

 

 

 

 日本酒は以前、どんなラインナップにしようか相談を受けたことがあって「料理屋さんで扱うとしたら、純米系を中心に、メニューにはわかれば米P1000009の品種も書いたほうがいい」「銘柄はこだわり始めたらキリがないから、齋藤さんがご縁のあった酒、思い入れのある酒でいいと思う」・・・なんて適当なことを答えてしまいましたが、忠実に守ってくださったみたいで、「縁がある蔵の酒をそろえ出したら、とんでもない数になっちゃった」と笑っておられました。

 とにかく日本酒のメニューが大変充実しております。静岡では磯自慢、喜久醉、開運、正雪が揃っています。

 

 

 店内は、カウンター10席、2名個室、4名個室P1000008_2、4名座敷、8名座敷、28席テーブルと、いろんな用途に使えるレイアウトになっていて、内装もいたってシンプル。

 28席の宴会テーブルでは料理教室や酒の会もできて、すでに某蔵
元さんが試飲会を開かれたとか。・・・いいですよね~こんなシチュエーションで「しずおか地酒研究会六本木出張サロン」なんて出来たら!

 

 

 京都「柿傳」で修業し、ホテルセンチュリー静岡、グランドハイアット東京、コンラッド東京の各料理長を歴任された齋藤さん。今まで厨房の奥でお仕事をされていたので、カウンターごしに直接、料理やお酒のお話ができるのは、なんだかとっても新鮮でした!

 

 何より、72にも分類される日本の季節の食の豊かさ、それら食材の持ち味を高いレベルで引き出す職人技、そして料理との相乗効果を高める日本酒の真髄を、都会のど真ん中の隠れ家的な場所で満喫できるわけです。魚は港町で、野菜は田園で、酒は酒蔵でいただくのが理想なんでしょうけど、ここ六本木で地産地消に匹敵する味を再現させる力というのは、たんに腕がいいとか、財力のある料理人にはないスキルのような気がします。齋藤さんが長年、注力してきた地域活性化のための食文化・日本料理文化の普及活動が結実したのだと思います。

 

 

 そんな齋藤さんのお店にかけた思い、店内の雰囲気、メニュー等はHPでお確かめください。また現在発売中の『グルメジャーナル』『東京カレンダー』に紹介されていますので、ぜひチェックを。