杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

『葬と供養』を読んで(その3)~香奠の意味

2014-09-23 09:16:59 | 仏教

 すべての宗教は人の死からはじまり、その霊魂の処遇と霊魂との交流を中心課題とし、そこから信仰も哲学も、芸術、芸能も文学も発生したものと、私は信じている。これが「文化」の起源であって、一方に衣食住や生産技術、法律、国家、政治、経済等の「文明」があって、人類は進化した。

 

 この「文明」なるものは古きを捨てて新しい文明を飽くことなく追求するのに対して、「文化」はつねに始源を顧み、原始にあこがれ、人間精神の原点をもとめて止まない。「死」はまさしく文化の原点である。 ~『葬と供養』  P672より

 

 

 私が五来重氏の1200ページにも及ぶ大著【葬と供養】に惹かれたのは、図書館の新刊コーナーで何気なく手にとって、パラパラとめくり、偶然、この一文に出くわしたからでした。

 

 私自身は昔から歴史が好きで、大学でも歴史を学び、卒業後は博物館の学芸員か歴史本を出版する仕事に就きたいと思っていたのですが、縁あって静岡のタウン誌ライターになり、バブルの恩恵にあずかってフリーとなり、企業の求人広告をはじめ、行政やベンチャー企業団体の広報業務を通して、“古きを捨てて新しき文明を飽くことなく追求する”人々をずーっと間近に見て来ました。

 

 3年前、ベンチャー企業団体の仲間で始めた「茶道に学ぶ経営哲学研究会」は、文化への邂逅が動機でした。初めの頃は20人近く集まり、次第に10人以下に定着し、最近では常連が自分の知人やパートナーを伴って来るようになり、ふたたび参加者が増え始めました。会員が入れ替わる姿を見つめながら、「文明」を追いかける人たちは、目新しいものや活動にすぐに飛びつくけど、飽きるのも早い。でも「文化」を顧みようとする人はブレないんだなあと実感しました。文化の原点が「死」というブレようのないものだから、なんですね。

 3年前、茶禅講座を始め、2年前から寺のバイトを始め、今年、こういう本に出合ったというのは、「文化」としっかり向き合いなさい=ブレない生き方をしなさい、という天命ではないか、と思い始めています。

 

 

 さて、お寺のバイトで緊張するのは、なんといっても訃報の第一報をもらうときです。大事なお身内を亡くした直後にかけてこられるお電話ですから、受け答えの文言や声のトーン等、慣れないうちは本当に気を遣いました。

 今は電話一本で済む話ですが、【葬と供養】によると、本来、お寺への告知は「寺行き」といって二人一組の使者が米を持参してうかがうものだそうです。米には死者の霊が憑いていて、どこかに浮遊しないよう、寺という聖地でいったん鎮まってもらう、という鎮魂儀礼。誰かが息を引き取ると、同時に霊がお寺に来るので、男の仏さまなら本堂で、女の仏さまなら台所で音がし、和尚さんは「寺行きが来るな」と察するんだとか。ちょっとオカルトチックな話ですが、和尚さんにはそういう感性を持ってほしい、なんて思いますね。

 

 昔は弔問客も香典として米を持参しました。香典は正しくは「香奠」と書きます。奠とは酒樽を台にのせた文字で、神さまに供物を捧げるという意味。神祭式で榊の枝を会葬者全員が棺に捧げたことから、仏教でも、米や銭を贈る以前に、香花を捧げたのではないかと五来氏。そして、香りのつよい木を捧げたのは、原始日本の風葬が起源ではないかということです。

 仏教葬では、香奠として集まった米を、死者の功徳として人々に施しました。これが「布施」本来の意味だそうです。葬式費用に当てるのではなく布施に向けるのが宗教本来のすがた、というわけです。

 

 五来氏が分析する香奠の目的とは、①死者に対する香花の手向け、②死者の滅罪のための布施、接待、③葬を手伝う地域、講組の人々の食料―の3つ。

 中でも重要なのは②で、地域によっては来る人一人残らず腹いっぱい食事をしてもらっていたそう。何杯も卑しくお代わりする貪欲な村人を歓迎するのも、死者の生前の罪を消す功徳と。これは、インドで阿育王が始めた「無遮大会」という大布施会が原点のようです。

 “遮ること無し”というお代わり自由の無料食事サービスで、国の経済が傾くほどの規模だったといわれ、さすがに毎年はできず、5年に1度行なわれたそうです。日本でも天皇の病気平癒祈願や忌日のたびに行なわれました。

 

 残念ながら、現代の葬儀では「香典返し」にその片鱗が少々残るぐらいで、社会福祉という本来目的はほとんど失われました。

 「こういう宗教的意味を僧侶自身が説明できなくなり、布施がゆがんだものになり、香奠の概念も不明になった」と五来氏。本来目的を顧みるならば、香奠の一部を地域福祉に寄付することを義務化するしかないのか・・・なんて思ってしまいます。 

 

 人ひとりの死は、地域社会を巻き込んで無遮の布施を行なって滅罪功徳で報いるほど大きく深く重いもの。死をそれだけ畏れ、真摯に向き合った文化を日本は育ててきました。

 葬式のあり方自体、さまざまに議論されているだけに、どうせ考えるんだったら、「文化の原点を顧みる」視点を持った上で議論したいものですね。


『葬と供養』を読んで(その2)~戒名を考える

2014-09-21 08:15:03 | 仏教

 先月の旧盆前から図書館で借りて読み出した五来重氏の大著【葬と供養】。秋のお彼岸になっても読み切らず、焦っています。

 それでも、バイト先のお寺で実際に葬儀や周忌行事の準備を手伝いながら、今までは深く考えることもなく、単に「こういうもんなんだー」と受け流していた道具や手順の一つひとつにちゃんと意味があることを、薄々感じ取るようになりました。前回のブログ記事を読んでくれた茶道仲間のU氏から「“そういうもんだ”と思考を止めていたことを反省した」と感想をもらい、あらためて、習慣化されたものの中に先人たちが築いた生活の知恵や宗教観が深く刻まれていることを、今の世代がしっかり認知する重要性をかみしめます。

 

 はからずも、【葬と供養】の508ページで五来氏がしっかり述べておられました。

 

 日本仏教が葬送にかかわる前には、原始葬にあたる風葬、水葬があったことが想定され、これが埋葬の民俗葬になっても「殯」(もがり)として継承された。この民俗葬が仏教化して仏教葬になったけれども、葬送の儀礼や葬具などは民俗葬がそのまま現在ものこっている。

 

 民俗葬では殯に花縵(はなかずら)を立てたものが、仏教葬では散華と布施の花籠となって、現在でもおこなわれているようなものである。また死者にさしかけた笠は天蓋となり、これに「迷故三界城、悟故十万空、本来無東西、何故有南北」と書くのは、仏教の迷悟の哲理によって、死者を成仏させ、生者には仏教の信仰と修行をすすめるものである。

 

 民俗葬で死者の滅罪のために立てた旗鉾は仏教葬では四本幡となり、これに書く「諸行無常、是正滅法、生滅々己、寂滅為楽」は、仏教の極致とされる「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」の三法印をあらわしたものではないか。何処の誰が葬送は仏教でないなどというのであろうか。しかもこれらの葬具は『続日本記』天平勝平八歳(756)五月十九日条の聖武太上皇の葬送に明記されているのである。

(中略)

 日本の仏教といわれる寺院や仏像や経巻、仏具・荘厳具なども、葬送と葬後供養(菩提)のために造られたものが多い。菩提寺とされるものは死者の菩提のために造られたものであるし、またそのために寄進された文化財は莫大である。われわれはその寄進者や、勧進に応じた民衆の死者哀惜をわすれて文化財を鑑賞しているが、そのほとんどが葬墓文化財であることを忘れてはならないとおもう。

 

 

 さて、お寺の仕事でいつも戸惑うのが、法事の前、お布施の金額を訊かれるとき。戒名によって違うんですね。

 では戒名によってなぜ異なるのか、そもそも戒名の違いって何なのか、今までは“思考停止”のまんま、「私じゃ分かんないので、和尚さんに聞いてくださ~い」と受け流していました。

 

 お寺の本堂の真裏にある位牌堂。戒名が書かれた位牌が段々に並んでいて、毎朝、お供えのご飯とお茶を上げるのが仕事になっているんですが、面白いことに、「霊気を感じる」といって入るのをためらうバイト仲間もいるんです。私は第六感的なものをまったく持ち合わせていない鈍感人間で、霊的現象にもトンと縁がなく、仲間の話を「へえ~」と冷やかし半分に聞くだけでした。

 

 

 【葬と供養】の戒名に関する記述を私なりに噛み砕いてみると―

 ご存知の通り、戒名は、仏教に入信するときに授戒される名前。もちろん生きている人が対象ですから、死んでしまってからでは手遅れです。

 ところが日本では、死者でも生まれ変わって、或いは生まれ清まって仏教徒になれるという日本独自の概念が加わりました。死ぬことによってすべての罪がリセットされて、霊魂として再生できる・・・これはもともと日本人が原始時代から、共同体のために生贄となって死んだ者は神として再生すると考えた民族の思想ともいうべきもの。靖国神社のA級戦犯合祀もその延長線上ではないでしょうか・・・。そして、インドにはなかった“死後成仏”という思想を実際に根付かせるには、七々日や周忌という“滅罪手続き”を必要とした、ということです。

 

 一方で、生きているうちに、出家を目的とはせず一定の修行を経て滅罪手続きをして、“一旦死んだことにして、清浄な心身に生まれ変わろう”と考える人もいました。こういう考えを「逆修(ぎゃくしゅ)」といい、ふだんの暮らしをしながら仏の教えを実践する。こういう人々は「居士」「大姉」という戒名をもらいます。代表的なのが茶の湯の千利休で、「利休」は正しくは「利休居士」なんですね。

 

 逆修によって生前に戒名をもらう人は、権力者や富裕層など一部に限られていました。逆修の法事ができるのは選ばれし高僧に限られ、その法事には莫大な費用がかかったからだそうです。そうなると、純粋に仏教に帰依するというよりも、「大金をかけて一旦死んだことにして戒名をもらったのだから、自分は清められた」「無病息災で長生きできる」という、人間の俗っぽいホンネも介在したろうと思います。

 

 鎌倉時代になって二十五三昧講、大念仏、融通念仏といった”カジュアルな逆修”が登場し、大衆に広まりました。戦国時代には「入道」という逆修戒名をもらった武将が立派な禅宗寺院を建て、禅僧を厚遇した一方で、「長生きのお墨付きをもらった」「授戒で仏弟子になったから罪穢は消えた」からと殺戮を繰り返した。・・・日本にはキリスト教やイスラム教のような目に見える宗教戦争はなかったとされますが、宗教を利用した戦争は確かに存在したわけです。

 

 

 授戒に対する考え方が時代によって変化していったことで、戒名の付け方も変わっていったようです。「なんとか院」という戒名は、よく、権力者が一院を建立したことにして院号を付けたという擬似建立説が知られていますが、五来氏は、庶民信仰である修験道の山伏たちも院号を使っていたことに着目します。修験道では厳しい入峰修行の後、即身成仏の儀礼の際に院号が与えられたそうで、最も古い「禅定」という戒名も、修験道から出たもののようです。肉体を限界まで酷使した命がけの厳しい修行の過程で、達成レベル別に戒名が与えられるというのは想像できる。逆修のほんとうの意味がそこにあるのです。

 と同時に、おそらく、仏教がさまざまな宗派に枝分かれしていくうちに、信徒獲得のため、「うちではここまでやれば、こういう戒名を与えます」といったセールストークみたいな教義が登場してきただろうとも想像できます。

 修験道についてはまったくの不勉強で、今のレベルでこれ以上無責任に書くわけにはいきませんが、五来氏が再三指摘される〈日本の庶民仏教と庶民宗教を顧みる姿勢〉が、戒名にも当てはまることに少し驚きました。日本で一番最初に位牌を作ったのは足利尊氏だと何かで読んだことがあって、戒名自体もそのくらいの歴史だと思い込んでいたのです。

 

 

 現代では、逆修の功徳を知る機会もなく、戒名をもらわずに亡くなり、和尚さんがあわてて『法名・戒名大字典』を開く・・・というケースがほとんど。実際に頭をひねりながら戒名を思案している和尚さんを見ていると、コピーライターの新商品ネーミングよりも難しそうだなあと同情してしまいます(苦笑)。

 

 戒名の種類や金額については、それこそネットで検索すれば簡単に分かりますが、自分や家族のもう一つの名前について、ネット情報をみて「そんなもんか」と思考停止のままでいいんでしょうか・・・。学問としての仏教は専門家に任せるとして、我々庶民(少なくとも死後、お寺でお世話になろうとしている者)は、庶民信仰としての仏教について関心を持つべきだろうと実感させられます。

 

 


プランクトンの未知なる世界

2014-09-12 08:05:59 | 環境問題

 1週間経ってのご報告ですが、9月4日(木)、上野の国立科学博物館日本館講堂で開かれた【生き物文化誌学会シンポジウム~プランクトンの未知なる世界】を聴講しました。パネリストはNHKスペシャルの“ダイオウイカ”ハンターとしても知られる科博のコレクションディレクター窪寺恒己氏、水中写真家の中村宏治氏、作家の荒俣宏氏、北海道大学特任教授の福地光男氏。門外漢の自分には、このメンツの凄さがすぐにはピンと来なかったのですが、お話をじっくりうかがって、百科事典をまるごと読破したような知の充実感にしみじみ浸りました。

 

 プランクトンって海の中を浮遊する微生物、程度の認識しかなく、このシンポジウムを受講したのも、地酒ライターとして“微生物”というキーワードに引っかかっただけだったんです(苦笑)が、窪寺氏がまずプランクトンのイロハを解説してくれました。

 

 

 人間の肉眼では直接見ることはできない数μmのものから、貝やクラゲやイカやタコの赤ちゃんになるものまで多種多様のプランクトン。大きく、植物プランクトンと動物プランクトンに分けられます。植物プランクトンは文字通り植物なので、太陽光をエネルギーにして光合成を経て有機物を生み出す「生産者」。対して、動物プランクトンは、植物プランクトン・他の動物プランクトン・動植物の死骸や排泄物などを餌にする「消費者」なんですね。

 

 島国の日本は豊かな海や河川や湖沼を持っています。水中には有機物を蓄えた植物プランクトンがいて、これを食べる動物プランクトンがいて、動物プランクトンを食べる魚類、髭鯨類がいて、これをまた餌にする大型の魚類、頭足類、海鳥類、鰭脚類、歯鯨類が、食うか食われるかの争いを繰り返しながら連鎖する。窪寺氏はプランクトンを「海洋においては、食う―食われるの第一歩となる基礎生産を支える重要な生き物」と定義します。ダイオウイカのハンターが定義する基礎生産の第一歩・・・すごく説得力を感じました。

 

 

 中村氏は、高性能デジタルカメラを駆使し、ミクロの浮遊生物を見事に可視化してくれました。今回披露された写真の主な撮影地は、山口県長門市・日本海に面した青海島(おうみじま)。なんでも水面近くの中層域で、3cm四方でスキャニングしながら異物を見つけてはライトをあてて、ファインダーの中に招き入れて何百枚も撮るという根気の要る撮影だったとか。それでも「毎週、新種を10数種と発見する。40数年の水中撮影体験でこんな経験は初めて」「新しい海の入口を見つけた気分」とワクワクしたそうです。中村氏ほどの著名な水中写真家が、はるか遠くの外洋ではなく、日本のお膝元を「新しい海の入口」と定義されたことに新鮮な感動を覚えました。

 

 

 

 肉眼では塵か埃にしか思えないプランクトンも、こうして見ると、まさに絵に描いたような美しさ。プログラム表紙の上に掲載された中村氏撮影のエビに似た端脚類のプランクトンは、映画【エイリアン】のモデルになったそうです。

 荒俣氏はプランクトンの姿かたちが文化芸術に影響を与えた具体例を解説してくれました。19世紀末に初めてプランクトン研究を手掛けた博物学者のエルンスト・ヘッケルは、「エコロジー」という概念の生みの親でもありますが、彼が放散虫類(大きさ1mmほどの単細胞生物)をデッサンした図鑑「自然の美的造形」は当時の造形デザイナーに多大な影響を与え、建築デザイナーのルネ・ピネは1900年開催のパリ万博の正門デザインを放散虫のカタチにしたんだそうです。また宝石のデザインにも数多く取り入れられ、実際にヘッケルのスケッチを3D化したグラスフラワーも制作されました。荒俣氏はスイスのジュネーブ自然史博物館で常設展示されたグラスフラワーに出合い、大いに感激されたそうです。

 

 「見るテクニックが発達すれば、海の生物への理解は進む」と窪寺氏も力を込めます。確かにダイオウイカがあんなビジュアルだったなんて、映像でハッキリ観たおかげでダイオウイカという生物の輪郭が理解できましたよね。荒俣氏は「“巨大”の次は、“微小”の時代が来る」と明言し、「重力やエネルギー問題がほとんどなくなるナノ・スケールの微小世界では、生物は奇想天外なカタチや色を、ほとんど自由にとることができる。自然の真の造形美は、微小生物の細部にこそ宿る」と説きます。

 

 北大特任教授で南極観測隊隊員でもあった福地光男氏が加わってのパネルディスカッションでは、荒俣氏の「タローとジローはオキアミ(動物プランクトン)を食べて生きながらえたのでは?」との質問に、「昭和基地に残していくとき、餌はたくさん置いていったが、いっさい手をつけていなかった。後に、アザラシの脱糞を食べていたことが判った。昭和基地周辺の食物連鎖に2頭だけがうまくマッチしたのでは」と福地氏。プランクトンのおかげで生き残ったのであれば“新たな伝説”が生まれたかもしれません(笑)。

 

 

 自ら水中撮影に挑んだ経験があるという荒俣氏は「ほとんどのプランクトンは透明で、しかも宇宙生物のような姿をしていた。得体の知れない霊体のようだった。陸上でも透明体(=霊体)が存在するんじゃないか」と、らしい?発言で聴衆を沸かせました。透明ということは光を反射せず発光もせず、電磁波を吸収することもない。体の構造は実にシンプルな、究極の水晶ともいうべきものです。ヘッケルが活躍した19世紀末のドイツでは、すでに透明水晶(液晶)の研究が始まっていて、ヘッケルはのちに鉱物学者となってクリスタルの研究にも没頭したそうです。

 

 

 個人的に「おおっ!」と思ったのは、荒俣氏お気に入りのプランクトン「ノープリウス」は目が単眼で、モノのかたちや色は識別できないそうですが、やがてかれらは二つ目になり、脳機能が加わって、「ホウネンエビ」になるんだとか。藤枝の松下明弘さんの田んぼで毎年お目にかかるホウネンエビが、進化系プランクトンの代表選手だなんて、言われてみればそうか・・・とナットクですが、今回のシンポジウムでその名が登場するとはビックリでした。

 

 

 

 荒俣氏がプログラム要旨に書かれた一説が、プランクトンの見方を指南してくれます。

「植物プランクトンのうち藍藻類のような生物が、ある日海の中へわずかに届きだした太陽光をエネルギーとして、光合成を開始したことから、地球の運命は変わる。自力で栄養を生産し、分裂、増殖する中で、酸素と水を産みだし、地球の環境を激変させる。酸素は海中の鉄分を結合させて固体に変え、酸素呼吸をすることで運動することもできるような「動物」も生みだした。いまの地球環境は、藻類が創った。そうした極小浮遊生物の「位相」をたとえて言うならば、「地球原初の生物が経験した世界」の生き残り、ということかもしれない」

 

 21世紀は「微小」に光があたる時代・・・になるのかな。

 


【杯が乾くまで】ブログお引越しのお知らせ

2014-09-06 13:57:14 | 日記・エッセイ・コラム

 【杯が乾くまで】は今回からgoo blogで発信することになりました。これまでお世話になっていたBlogzineのブログサービス終了にともなう変更です。

 これまでのURL(mayumi-s-jizake.blogzine.jp)ご覧のみなさまは自動切換えになると思いますが、「お気に入り」や「ブックマーク」にご登録の方がいらっしゃいましたら、お手数ですがURLの登録変更をお願いいたします。

 【杯が乾くまで】の新しいURLです。よろしくお願いいたします。

  http://blog.goo.ne.jp/mayumiakane1962

 

 


人口変動を考える

2014-09-02 16:03:24 | 本と雑誌

 先月の静岡県ニュービジネス協議会中部サロンで、静鉄ストアの竹田昭男社長から「食品スーパーにとって重視するのは人口減少問題」とうかがい、なるほど、と思いました。ちょうど歴史人口学者・鬼頭宏氏の『2100年、人口3分の1の日本』を読んでいたからです。

 日本の人口は、現在の1億3000万人が50年後に9000万人に、100年後には4000万人にまで減ると予想され、政治経済や労働環境、家族関係など社会全体を激変させるといわれていますが、日本では長い歴史のなかで過去何度か人口変動を経験している。その変動の波を歴史人口学者の立場で分析したユニークな学術書です。

 

 

Imgp0618  まず、2020年という近々の未来を想定した静鉄ストア竹田社長のお話。現在、1億2805万人の日本の人口は1億2410万人となり、単純計算で約3%=395万人の胃袋が減ります。しかも高齢化が進んで生産人口は780万人も減る。世帯数はというと、数字の上では増えるんですが、全世帯の3分の1が単身世帯で、その3分の1が高齢者の単身世帯となります。

 

 過日発表された、静岡県が人口減少全国ワースト2位という数字にショックを覚えた人も多いと思います。あらためて竹田社長が具体的に解説してくれましたが、平成25年データで、人口が減った都道府県は①北海道▲8154人、②静岡県▲6892人、③青森県▲6056人、④長崎県▲5892人、⑤兵庫県▲5214人とのこと。

 

 静岡県▲6892人の内訳をみると、①沼津市▲1239人、②焼津市▲858人、③静岡市▲775人、④富士市▲610人、⑤牧之原市▲515人の順。静岡市の場合、2010年時点の人口71.6万人が、2020年には68.2万人(▲3.4万人)と想定されています。2020年段階で今より人口が増えると予想されるのは、長泉町、吉田町、御殿場市、袋井市、裾野市の5市町だけだそうです。・・・静岡って気候温暖で交通至便で富士山も見えるし食材にも恵まれているし、住みやすさでは日本トップクラスと自負していたのに、単に住みやすい、なんて条件では人口増加どころか流出を食い止めることも出来ないんですね。

 

 

 人口が減って、高齢者の単身世帯が増えるという変化に、静鉄ストアのような食品スーパーは敏感にならざるを得ません。我が家から最も近い静鉄ストア千代田店は、弁当・惣菜コーナーを増設し、イートインコーナーまで併設しました。生鮮品も小分けパックがずいぶん増えています。売り場面積で計算したらずいぶん効率が悪いだろうなあと思いつつ、静鉄ストアは、売り場の論理ではなく「客が欲しいと思うもの」を「客が買いやすいスタイルで売る」ことに徹しようと舵を切ったのでしょう。

 

 人口減少に手をこまねいているわけではなく、家庭で料理を楽しむ人を育てようと、お弁当作りのチラシを作ったり、料理教室を開催したりと食育活動も展開中です。

 

 「今後、人口増加が見込まれる長泉、御殿場、裾野等、県東部地区への出店が有望」という竹田社長。さらに東の神奈川県は全国でも人口増加が期待される地域だけに、静鉄ストア県外出店!もまんざら夢ではないと思いますが、店名は変えたほうがいいかもしれませんね。

 

 

 

 

 『2100年、日本の人口3分の1』によると、日本は過去何度か人口減少の時代を経験していますが、その理由は戦争、気候変動、災害といった外因というよりも、文明が成熟した必然的な結果のようです。

 

 弥生時代には大陸・半島から稲作文化がもたらされ、人口移動もあった。7世紀まで存在した倭人は東シナ海や黄海を拠点にしていたし、9世紀までは遣隋使・遣唐使といった外交使節や仏教僧たちの交流も活発でした。この時代の日本は“人口増加時代”だったのです。

 

 転じて遣唐使を廃止(894年)した平安時代から元寇のあった鎌倉時代までは人口減退期。日明貿易が活発化した室町~安土桃山~江戸時代初期は増加に転じ、東南アジアへも進出した。江戸時代は狭い耕地から多くの収穫高をあげるため中国から新種稲を導入したり、溜池・灌漑用水路の整備、肥料や農機具の改良、家族単位の労働集約的農業の進展等、有機エネルギーをベースにした高度な農業社会が確立し、当時の日本列島が持つ限界(3000万人)まで人口が増大したようです。

 

 江戸後期、度重なる飢饉によって少子化現象が起き、周辺諸国との交流も薄かったことから人口減少に転じ、幕末明治~欧米諸国との技術交流や貿易が活発になると、人口はふたたび増加し、西南戦争後の1880年から2000年までの約120年間で人口は3・4倍、GDPは70倍に膨れ上がったそうです。

 

 鬼頭氏によると、日本が諸外国に対して閉塞的な環境下では政治や芸術、文学、生活様式に日本的な独自性が確立したが、経済的には総じて低成長。外延的な成長が困難な状況が、人口減退期を導いた。つまり、わかりやすくいえば、経済発展する時代は人口が増え、低迷すれば減る。その代わりに文化は発展する。人口変動は、産業文明の宿命ということです。

 

 

 人口が減ることは、事前に予測できます。戦後初めて1959年に発表された『人口白書』では、1985年頃の1億486万人をピークに以降は減少に転じ、2015年には8986万人まで減少すると推測されています。59年当時、まだ本格的な高度経済成長は起きていませんでしたが、ベビーブーマー世代が数年後に労働市場にデビューしたとき、労働力過剰になるのを恐れ、ときの政府はなんと「子どもは2人が限度。人口ゼロ成長を目指せ」と“増子化対策”を打ち出したのです。1974年に発表された戦後2回目の『人口白書』でも政府は出生抑制を強化し、メディアがこぞって「出生率を下げよう」と大宣伝し、結果として翌75年から合計特殊出生率2・0を下回り、以降、低下の一途をたどったのでした。鬼頭氏は「日本の少子化は政府主導で始まった」と明言しています。

 

 

 少子化対策、女性活用、地方創生・・・安倍改造内閣の目玉政策とされていますが、政治家の先生方は目先の経済指標にとらわれ、時代を読み間違えないよう、広く深い歴史観を持ってもらいたいものです。