杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

松井妙子染色画展2012のお知らせ

2012-04-30 19:19:45 | アート・文化

 毎年GW明けに開催される松井妙子先生の染色画展の案内が届きました。この時期になると、当ブログにも松井先生のお名前で検索して来てくださる方が増えるので、ああ、もう1年経つんだなあとしみじみ思います。

 

 個展を始められて35年、松坂屋静岡店での開催も17年目を迎えます。今のご時世で、創作活動1本で勝負し続ける松井先生、お人柄は大変穏やかで可愛らしい方なんですが、本当に芯のお勁い方だと思います。 

 

今年は1週遅れて16日から22日の開催のようです。いつも楽しみにされている方、今年も大いに期待してくださいね!

 

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第17回 松井妙子染色画展

 

■日時 2012年5月16日(水)~22日(火) 10時~19時(最終日は17時まで)

■場所 松坂屋静岡店本館6階美術画廊(JR静岡駅前)


「駿府から始まる江戸の町」その6~新宿・杉並

2012-04-29 18:15:51 | 歴史

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 皇居東御苑の後は、区立新宿歴史博物館に向かいました。区で歴史博物館を持っているって、さすが新宿! 静岡なんて県にも博物館がないんですよねえ・・・。

 

 

 

 それはさておき、なぜこの旅で新宿かというと、もともと新宿は、前日に訪ねた浅草阿部川町の名主さんたちが、日本橋(江戸の起点)~高井戸(甲州街道の第一宿)の区間が17㎞もあって遠くて不便だということで、新しい宿場の開発を代官に願い出たからなんですって。私は東京へ行くのに、家から比較的近い三松から乗車できる駿府ライナー静岡―新宿線という高速バスをよく使うので、新宿にはすごく馴染みがあるんですが、まさか静岡と新宿がそんなご縁でつながっていたなんて・・・目からうろこでした。

 

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 以前、NHKのブラタモリでもやっていましたが、1698年に出来た新しい宿場は、大名・内藤家の敷地の一部をあてていたので、「内藤新宿」と呼ばれていました。ちなみに内藤家は信州高遠を治めていた大名で、初代内藤清成が家康の江戸入りの先乗りを務め、その功績で江戸の西の守りを任せられ、今の新宿御苑周辺に広大な屋敷を拝領したとのことです。もともと駿府静岡にもご縁のあった人なんですね。

 

 

 内藤新宿が造られた場所は今の四谷四丁目交差点付近(四谷大木戸)から、新宿三丁目交差点付近(新宿追分)までの約1㎞区間。並行して玉川上水が流れていました。

 

 通りには旅籠や商店のほか、玉川上水沿いには桜が植えられ、遊郭、社寺もあって大変賑わったそうです。なんで浅草阿部川町の人が?と思いますが、たぶん浅草のサービス商売のノウハウを新天地で試そうと、起業家精神でこの地の開発に挑んだのでしょう。ちょくちょく火事に遭ったり風俗規制の取り締まり強化で廃止に追い込まれた時期もあったそうですが、明治初頭まで長く繁栄し、1885年に新宿駅が出来ると駅周辺に繁華街が移って、内藤新宿の“使命”は終わった・・・とのことです。

 

 

 

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この建物は今の四谷駅近くにあった江戸期の菓子店を復元したもの。防火のため、蔵を漆喰で厚く塗り固める「蔵造り」で建てられたそうです。でも1923年の関東大震災で地震に弱いことが露呈し、東京の町からは姿を消したとか。日本人は昔から災害に強い家づくり・町づくりを必死に模索していたんですね・・・。

 

 

 館内には明治~昭和の新宿の生活文化を紹介する展示がズラリ。中でも新宿は夏目漱石、坪内逍遥、小泉八雲、尾崎紅葉、島崎藤村、田山花袋、永井荷風、林芙美子などそうそうたる文学者が多く居住していたので、展示物には事欠かないようです。

 

 

 

 

 

 

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 午後は杉並区今川にある観泉寺と荻窪にある井草八幡宮を回りました。

 観泉寺は今川家の菩提寺で、曹洞宗でもかなり格式の高いお寺です。

 

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 寺の在る一角は京都嵯峨野を思わせるようなたたずまい。本堂は宝暦12年3月(1763)に火事で全焼し、同年に庫裡、翌年に本堂が再建されました。ちなみに庫裡と本堂は区内最古の大型木造建築物だそうです。

 

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 墓地には今川氏真をはじめ、明治20年(1887)に亡くなった26代範叙など一族の墓が保存、供養されています。氏真は大変な教養人で灌漑事業等にも尽力した人物。桶狭間で父・義元があんな敗け方をしなかったら、いい殿様になっていたのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 次いで訪ねたのは青梅街道にある井草八幡宮。流鏑馬で知られた神社ですね。南に善福寺川の清流を望む 旧井草村の鎮守で、広さでは区内で明治神宮、大宮八幡宮に続く古大社です。

 源頼朝が奥州征伐のとき戦勝祈願をし、Dsc00271松を手植えしました。この老松は天然記念物に指定された名木でしたが、昭和48年に枯れてしまい、今はその樹根の一部が社殿の回廊に飾られています。

 

 社殿は徳川家光が造営し、歴代徳川将軍に大切にされました。氏子さんの結束も強く、訪れたときも大太鼓の練習をしていました。流鏑馬は5年に1度行われ、今年、開催年。前回(2007年)は雨で中止になったので10年ぶりの開催となるそうです。好天に恵まれるといいですね!

 

 

 

 

 

 駆け足で回った「駿府から始まる江戸」探訪ツアー、内容盛り沢山で大いに勉強になりました。自分が住んでいる静岡やよく訪ねる東京のことなのに、知らないことがありすぎて恥ずかしくなりましたが、知らないことを知るという愉しみを、また一つ肌で実感できたと思います。企画してくださったしずおか時の会のみなさま&黒澤脩先生、本当にありがとうございました。


「駿府から始まる江戸の町」その5~浅草・皇居

2012-04-28 10:58:59 | 歴史

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 21日夜は浅草にある『助六の宿・貞千代』という和風旅館に泊まりました。東京で和風旅館に泊まるのは初めてで、なんだかとても新鮮でした!

 

 

 

 

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 宿へ向かう前に、元浅草・阿部川町にある孫三稲荷に立ち寄りました。阿部川町って聞いてピンとくるかと思いますが、静岡の安倍川にちなんだ地名なんですね。まさに江戸に息づく駿府!

 

 

 黒澤脩先生の解説によると、天正年間(1573~92)、安倍川を渡るときに難儀していた徳川家康の一行を、孫三という男が救って無事渡ることが出来た。その後、家康は孫三に礼をしようと家臣に探させたが、該当する人物が見つからない。調べてみると安倍川のほとりに「孫三」という名の祠があり、稲荷の化身が家康の安倍川越えを助けてくれたものと理解した。

 天正18年(1590)、家康の関東入国の際、一緒に移住した駿府の住民が故郷の川の地名と孫三稲荷も移した。以来、家康と浅草住民は孫三稲荷神社を篤く信仰した・・・とのことです。

 

 

 

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 孫三稲荷の横にある集会所・阿部川会館は、もともと川柳の祖といわれる“柄井川柳”こと柄井八右衛門(1718~1790)が住んでいた場所だそうです。彼は元禄あたりからブームになった前句付という俳諧の点者(歌の選者)で、川柳評の前句付がのちの“川柳”になったとか。

 川柳のリズムというのは、キャッチコピーを考える時、よく参考にするので、静岡ゆかりの地名の場所で川柳が生まれた・・・と思うと感慨深いですね・・・。折しも今朝の朝刊にサラリーマン川柳の入賞作品が紹介されていました。毎度のことながら、時代を見事に反映していますねえ。

 

 

 

 

 

 

 

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 助六の宿・貞千代の宴会では、静岡市出身の講談師・宝井駿之介さんが高座の合間を縫って駆けつけてくれました。しずおか時の会の主力メンバーに駿之介さんの後援会関係者がいたご縁です。なんとぜいたくな宴会・・・!

 

 

 

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 講談のあとに味わった料理は、江戸町衆料理。鬼平犯科帳に出てくる「人参・大根・クラゲ・鮭の酢の物」「菜めし」「白玉みぞれ和え」なんてメニューも出てきました。鬼平さんはテレビドラマでしか知らないんですが、当時は武士よりも町人や職人のほうが食べることでは贅沢をしていたらしく、鬼平さんもお忍びで町人の暮らしに溶け込んでグルメを楽しんでいたんだなあと微笑ましくなりました。

 

 

 

 

 

 

 江戸情緒をたっぷり楽しんだ翌朝は、江戸のど真ん中・旧江戸城跡である皇居東御苑を散策しました。恥ずかしながら、私、皇居に入るのも近寄るのも初めてで、なんだか妙に高揚してしまいました。

 

 

 

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大手門から入ったのですが、第一印象は、駿府城公園東御門&巽櫓に雰囲気が似ているということ。もちろんスケールはこっちのほうがデカいけど、やっぱり駿府城というモデルがあって江戸城が存在したのかなあと実感できました。

 

 

 

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 お濠の石垣の組み方、ゴロゴロしたまんまの石を無造作に積み上げているようにみえる部分と、きれいに切り出した石を幾何学的に積み上げた部分の対比が面白かった。これは工事を請け負った藩によって工法が異なるためで、強度の点から言ったら、ゴロゴロのほうが優れているんだそうです。以前、建築を学ぶ学生たちが築城実験をやった番組を見たことがあるけど、確かにそういう結果だったと記憶しています。

 

 

 

 

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 それにしても、東京のど真ん中とは思えないこの自然・・・。昭和天皇が都市近郊で失われていく雑木林を復元しようとご尽力されたそうで、今上陛下にもその意が継がれ、拡張されたとか。

 

 

 

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 本丸跡、大奥跡は美しい芝生広場になっていて、周辺にはヒガンザクラ、カンヒザクラ、ギョイコウ、シャガ、マボケ、コブシ、シャクナゲ等など季節の花々が彩りを添えていました。

 

 

 

 

 

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 今月は風邪をこじらせ、ろくにお花見ができなかったんですが、このタイミングでここでこ~んな素敵なお花見ができたなんて・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 ここは赤穂事件で名高い「松の大廊下跡」。地方のテーマパークなら、ここに廊下をしつらえて、蝋人形かなんかで刃傷事件のシーンを再現するんでしょうけど、さすが皇居内。小さなサインがポンと置かれているだけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 天守台は、今は見晴らしの良いビューポイントになっていました。江戸城天守閣は3度建て替えられたそうですが、明暦(1657)の大火で焼失した後は天守台石垣が築き直されただけ。時代劇で出てくる江戸城天守閣、ほとんどがうそっぱちなんだあ・・・がっかり。

 

 

 

 

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 まさに都心のオアシス・皇居東御苑、これからの季節、の~んびり散策するのに最適です。しかも入場無料。花の見ごろや野鳥ウォッチングの情報はこちらを参考に。


「駿府から始まる江戸の町」その4~田中久重の万年時計

2012-04-27 10:20:09 | 歴史

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 セイコーミュージアムの後は東京スカイツリーを横目に、ワタシ的には今視察のクライマックス、上野の国立科学博物館にある田中久重の万年時計の実物見学です。

 

 

 

 

 しずおか時の会でも、安心堂の時計技師・金子厚生さんにNHKの特集番組を見ながら解説していただいたことがありますが(こちらを参照)、今回は金子さんのご尽力で、国立科学博物館の名誉研究員・佐々木勝浩さんに実物を見ながら詳しく解説していただきました。こんな貴重な機会、なかなか得られません。つくづく人脈の大切さを感じます・・・。

 

 

 この万年時計、1851年に完成したものです。セイコーミュージアムでいろんな時代の時計を見てきた後だったので、これが和時計の最高峰か・・・と感慨深く鑑賞しました。

 最初の印象は、時計というよりも芸術品。ものすごい機能を持った江戸のハイテクメカという先入観を持っていたのですが、スタイリッシュかつコンパクトにデザインされた七宝・蒔絵・螺鈿細工・透かし彫り装飾・・・工芸技術の最高峰でもあるんだなと思いました。Dsc00204

 

 

 万年時計の本体は、6つの面を持っていて、①江戸期の不定時法時刻、②現代と同じ西洋時刻、③二十四節気、④時打数設定、⑤十干十二支、⑥月位相と日付を同時に表示します。てっぺんには天象儀(=京都から見た太陽と月の地平線における出没の状況を示す)を備えた天文カレンダー時計まで付いています。

 

 これを、手作りの歯車を用いて二重ゼンマイ2組計4個のゼンマイが動かします。ゼンマイは1回巻くだけで1年近く連動稼働できたそうです。・・・ぜ~んぶ手作りなんて、素人目で見てもトンデモナイ技術ですね。

 

 

 万年時計は国立科学博物館で何度か分解調査されていて、2004年には復元・複製プロジェクトが立ち上がりました。複製品は2005年の『愛・地球博』へ出品され、話題となり、2006年には実物の万年時計が国重要文化財に指定されました。

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 佐々木さんの解説を聴いていると、個々の技術はそれなりの技能があれば可能であるけれど、太陽と月の動きとか、日本と西洋の異なる時間のカウントを、一つのパッケージに収める久重のプロダクト能力の高さを実感します。

 

 

 

 

 彼は、からくり技術を極めようと、時計作りに没頭し、48歳で戸田久左衛門通元に天文・数学を学び、天文・陰陽道で朝廷に仕えていた土御門家にも入門し、51歳で蘭学者広瀬元恭に弟子入りして西洋科学を学びます。そして1年かけて万年時計を完成させます(52歳)。万年時計は京都の自分の店『機巧堂』の店頭に飾り、欲しいという藩もあったそうですが値段が折り合わず、そのまま手元に置かれました。

 

 

 

 久重自身はその後、佐賀藩に招かれて火薬の研究や蒸気船・蒸気機関車の雛型製作を手掛け、明治5年に東京へ移住して店舗兼工場を作ってモールス電話機等を製造。83歳で亡くなるまで“日本最後のからくり師・からくり儀右衛門”の生きざまを貫きました。その後、弟子の田中大吉が2代目久重を継承し、芝浦に田中製作所を作ります。これが東芝の前身というわけですね。

 

 

 

 

 

 しずおか時の会で用意してくれた予習用資料の中に、2004~05年の複製プロジェクトにかかわった鈴木一義さん(国立科学博物館)と土屋榮夫さん(㈱精工舎・セイコープレシジョン㈱OB)のインタビュー記事があり、こんなコメントを見つけました。

 

「現代にはより良い機構や材料があるからそれを用いたが、モータを使うなど当時の発想を超えるようなことはしてはいけない。あくまでも当時の発想・制約の中で久重が作りたかった万年時計を完成させた」

 

 

技術は加工方法などの条件によって変わってくる。設計も目的によって変わる。つまり技術に答えは複数ある。久重は、自分の持つ技術の中で最高のものを作った。そこには昔のもの、新しいものという考えはない」

 

「万年時計の意義とは、自然のリズムを機械の中に閉じ込めようとした発想と機構を創り上げた点にある。時計の技術自体は西洋から輸入されたものだけど、それを日本の実生活に合わせた仕様に作り変えた。これは日本だけの、日本でしか作れなかったもの。普遍的なものよりローカルなものを作るという考え方は、日本独自の技術を確立するという意味で現代にも表れている。独自のものづくりに回帰している流れの中で、この万年時計は非常に重要な意味を持つと思う」

 

 

 

 日本製の携帯電話や家電製品がグローバルスタンダードから遅れていると批判されている昨今、この言葉はとても考えさせられるものがあります。私がライフワークにしている静岡の地酒にも共通するものがあります。普遍的なものよりローカルかつ独自のもので勝負する造り手たちの矜持を、ローカルライターである私もしっかり見て伝えて行かねば・・・と思いました。

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 それにしても国立科学博物館、じっくり観るのは初めてなんですが、こんなに見やすく面白くなっていたとは・・・。日本館の中央ホールって昭和5年に建てられたもので、当時の科学技術の象徴でもある飛行機型のデザインだとか。『時を知る』というコーナーでは、万年時計のほか、面白い和時計がたくさん観られます。

 

 

 

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 こちらは線香時計。お線香1本が燃え尽きる時間をカウントするんですね。花街で使われていたそうで、お目当ての女性を線香○本分とオーダーするんです。粋ですねえ・・・。

 

 

 

 

 

 夢中になって観ていたら、閉館時間になってしまって、強制退去せざるを得ませんでした。改めてじっくり観に来ようと思います。・・・というか、何かに行き詰ったら、いつでもこうして万年時計を観に来よう、と思いました。


「駿府から始まる江戸の町」その3~セイコーミュージアム

2012-04-26 09:41:36 | 歴史

 人形町の次は向島にあるセイコーミュージアムを訪ねました。開業間近の東京スカイツリーの近く。この4月にリニューアルオープンしたDsc00187
ばかりです。

 

 世界のセイコーですから、最新型の時計はもちろん、時計の歴史を学ぶには格好の教材がズラリ。要予約ですが入場無料で、スタッフがつきっきりで丁寧に解説してくれます。私たちグループは和時計コレクションコーナーから案内してもらいました。

 

 

 

 以下はいただいた資料を抜粋してみました。

 

■機械時計の伝来

○日本には室町時代の末期からキリスト教とともに、欧州の機械時計とその技術が伝来した。

 

○最も古い記録は天文20年(1551)、スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルが周防の国(山口)の大名大内義隆にキリスト教布教の許可を願い出た時、贈った品々の中に自鳴鐘(機械時計)があったといわれる。

 

日本に現存する最古の時計は、静岡市の久能山東照宮に宝物として保存されているもので、慶長17年(1612)、当時スペイン領であったメキシコの総督から徳川家康に贈られたゼンマイ動力の置時計

 

 

■日本での機械時計の製作

○キリスト教宣教師たちは九州や京都に教会付属の職業学校を設け、印刷技術やオルガン、天文機器等とともに時計の製作技術を教えた。ここで日本の鍛冶たちが指導を受けながら時計を製作したのが日本の機械時計製作の始まり。

 

■江戸時代の時刻制度

○一日を昼と夜に分け、等分に分割する不定時法を採っていた。

 

○時の基準を夜明け(明け六ツ)と日暮れ(暮れ六ツ)とし、これを境に一日を昼と夜に分け、それぞれを6等分した。

 

○分割した単位時間(一刻)の長さは、昼と夜で、さらに季節によって変わるという複雑な時刻制度だった。

 

○時の呼び方は、12の刻に十二支をあて、子の刻、丑の刻等と呼んだ。

 

○これとは別に、子の刻(24時)と午の刻(0時)を九ツとし、八ツ→七ツ→六ツ・・・と数で呼ぶ方法もあった。これだと一日に同じ数が2回あるので、夜の九ツ、昼の九ツ、明け六ツ、暮れ六ツというように昼夜&明暮の区別が必要だった。

 

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 こ~んな複雑な時刻を調整する機械時計を作った日本の職人って、改めてスゴイ!ですね。外来の学識技術に創意工夫を加えて日本流に仕立てて行く日本のモノづくりの伝統って、時計作りから来ているんじゃないかと実感します。事実、江戸時代の職人にとって、時計を作るということが最高難度の技への挑戦だったようで、田中久重が万年時計に挑んだことがその象徴だとされています。

 

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 こちらは1500年頃、ヨーロッパで作られた鉄枠塔時計。重錘式の冠型脱進機、棒テンプ、時打ちといった1300年代に発明された機械式塔時計の仕組みを備えていて、一日の誤差は30分程度だそうです。

 

 

 

 そしてこちらはセイコーが誇る競泳用のタッチ板時計。Dsc00199
ミュージアム出口で、陸上100メートルのボルトの世界記録(9.58秒)と同じタイムでパネルをタッチできるかアトラクション体験できるのです。黒澤先生がチャレンジし、おしくも9.50でした!

 

 

 時計を題材に、モノづくりの歴史と、人が時間というものにどのように向き合ってきたのか、文明史的な考察もできるセイコーミュージアム。大人も子どもも楽しめるおススメ産業観光スポットです!