杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

直虎の国に橋を架けた白隠さん

2017-08-29 19:29:47 | 白隠禅師

 今年のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』は、過去のドラマや映画ではあまり取り上げられなかった桶狭間以降の今川家を取り上げ、ヒール役ながら寿桂尼や今川氏真が存在感をもって描かれています。8月10日には静岡音楽館AOIで、氏真を演じる尾上松也さんが司馬遼の「龍馬がゆく」を朗読された舞台を観に行きました(松也さんの本名は龍一さんで、ご両親が龍馬の舞台に出演されていたご縁で命名されたとか)。ドラマでは今川館が焼かれてしまって氏真も散々な目に遭っていますが、「撮影はまだ残っているので楽しみにしてください」とおっしゃっていました。

 

 今川家初代範国が駿河の守護職に就いたのは建武4年(1337)。もともと清和源氏の流れを汲む足利義兼の孫・吉良長氏の二男国氏が三河国幡豆郡今川庄(現・愛知県西尾市今川町)に住みついて今川姓を名乗ったのが始まりで、国氏の孫・範国が南北朝の混乱に乗じて三河から駿河へと勢力を伸ばし、遠江守護と駿河守護を兼任するようになりました。

 西尾市は現在、抹茶生産量日本一。〈宇治抹茶〉が冠につく菓子商品の大半は、実は西尾の抹茶を使っているそうです。この地には13世紀に実相寺(吉良家の菩提寺)に茶種が持ち込まれ、江戸時代に紅樹院住職の足立順道が本格的に抹茶栽培を始め、矢作川沿岸の台地に茶園を開拓し、茶の文化も醸成されたようです。茶どころ&今川つながりで静岡市と交流があってもいいような気がしますが、あまり聞いたことないな・・・。

 

 井伊家の初代共保は平安時代の西暦1010年、井伊谷にある龍潭寺門前の井戸から誕生したといわれる伝説的な人物で、大河ドラマでも初代を弁天小僧と親しく呼び掛ける井戸のシーンがたびたび登場しましたね。

 井伊家は遠江の国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を庇護するなど一大勢力を誇りましたが、徐々に今川氏の圧力を受け、支配下に。22代当主直盛が桶狭間で戦死し、23代直親も今川氏に討たれた後は、ドラマのとおり出家していた直盛の一人娘が次郎法師直虎を名乗って井伊家を切り盛りします。今川氏との徳政令を巡る攻防や家老小野政次の(ドラマでは直虎愛に殉じた)謀反で再三お家断絶の危機に遭うも、直親の遺児・虎松を三河鳳来寺にかくまい、元服後は徳川家に仕えさせ、虎松は直政となって井伊家を再興しました。

 井伊谷は“井の国の大王”が聖水祭祀をつとめた「井の国」の中心に位置し、井伊谷川、神宮寺川の清流が浜名湖に注がれ、周辺には縄文・弥生の古墳遺跡や水にまつわる伝承も数多く残されています。7月末に龍潭寺を訪ねたとき、森の木立の中にひっそりたたずんでいるとばかり思っていた弁天小僧・共保の伝説の井戸が、寺にほど近い田んぼの真ん中に堂々と整備されていたのに驚きました。

 

 

 ところでこの夏、一番頭を悩ませたのは、地下水利用団体の機関誌に3年前から年に1本ずつ依頼されている「水」についての原稿執筆でした。1本目は静岡県の酒造りについて、2本目は静岡県のわさび栽培について書かせてもらいましたが、得意分野を書き尽くしてしまって3回目はどうしようかと水に関する書籍を乱読したものの、今一つ“降りてこない”。大河ドラマで、一族の始祖が井戸から生まれたという伝説を知ってピンと来たものの、井伊家の話を延々と書いても仕方ないし、何か違う角度から考察できないかとネットサーフィンしていたら、ミツカン水の文化センターが発行している文化情報誌『水と文化』に出合いました。

 

 取り寄せたバックナンバー水の文化11号「洗うを洗う」の、宗教学者山折哲雄氏のインタビュー記事〈涙はなぜ美しいのか~風土、宗教、文明から見る水の浄化力と浄めの文化〉が目に留まりました。

 氏がイスラエルのキリスト巡礼地を訪ねたところ、イエスが洗礼を受けたヨルダン川は水がちょろちょろと流れる小川で、伝道活動も水が極端に乏しい砂漠地域。エルサレムはまるで砂漠の廃墟の上に建つ楼閣に見えたそうです。

「水が欠乏している風土、つまり砂漠に生きる人々にとって、唯一価値のある源泉は地上にはない。地上には何もない砂漠だからこそ、天上の彼方に唯一の絶対価値を求めるようになる。一神教の風土的背景はまさにここにあると思う。これは理屈ではない。行ってみたら実感として分かる」

「水の有無というのは、そこに住んでいる人間の信仰から死生観、自然観から美意識まで、何から何まで方向づけている決定的なもの。水は人類の文化や文明のもっとも根底に横たわっているものではないか」

 

 仏陀もインドとネパールの半砂漠地帯で伝道し、マホメットも砂漠地帯で預言者になりました。「今から2千年~2千5百年前は地球が急速に砂漠化した時代。人類を救済する優れた宗教はそのような厳しい風土の中から生まれた」と山折氏。それに引き換え、山川草木に恵まれ、砂漠化することもなかった日本では、天上の彼方を仰ぎみなくとも地上の至る処に命が宿り、神や仏の声を感じることができたでしょう。仏陀やイエスが生まれる前のはるか縄文時代から、一木一草に神が宿るという原始神道が存在した。それら万物の命の源が「水」なんだな、と改めて深く感じ入りました。

 

 井伊家の伝説を口切に〈人類の文化や文明の根底に横たわる水〉という途方もないテーマに突っ込んでしまいましたが、できるだけ自分自身が見聞した具体例で考察したいと思い、実際に訪ね歩いた京都の名水スポットや、駿河茶禅の会で拝見した名水点前をピックアップ。草稿を仕上げたところで、8月27日に引佐奥山方広寺の夏期講座に参加し、安永祖堂大師による白隠禅師坐禅和讃の解説で、またまたピンと来ました。

 

 

 禅宗の法事では必ず唱和する有名な『白隠禅師坐禅和讃』は、こういう一節から始まります。

 

 衆生本来仏なり 水と氷の如くして 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

 

 衆生本来仏なり(生きとし生けるものすべて、本来、己の中に仏を備えている)とは、一木一草に神が宿るという原始神道にも通じる意味だと思います。

 水は形のないもの=仏(悟り)、氷は水が器(決まった環境や条件)に入って固形化したもの=人間(煩悩)を指します。つまり人間はもともと素晴らしいのに、自分自身で囲いを作って固めてしまい、がんじがらめになる。それでも水と氷は本来同じものだから、氷(煩悩)が大きければ大きいほど融けたときには大量の水(大いなる悟り)となるんだよ、という白隠さんの深い呼びかけなんですね。

 「ほとけ」という言葉は、とける(ほどける)が語源ともいわれるそうです。氷が融けて水(ほとけ)になるんだ・・・何やら心にスーッと入ってきました。

 

 

 続く芳澤勝弘先生の白隠禅画解説で、先生が方広寺のしおりを忘れずに読んでくださいとおっしゃるので、休憩時間にしおりをもらったら、「井伊谷に新橋二つを架けた白隠禅師」という巨島泰雄氏(方広寺派宗務総長)の記事を見つけました。

 れによると、白隠禅師は寛保2年(1742)、井伊家初代共保の650年遠忌法要のため、井伊谷を訪ねています。龍潭寺そばの川は再三の大雨で橋が流され、白隠の輿は修行僧たちが肩まで水につかりながら必死に担いだ。法要の後、白隠は寺が用意した施入銭(謝金)40両全額を募金に回し、「みなが力を合わせ、日をかけて浄財を募れば必ず橋はできる」と発願。2年のうちに新橋が2本完成し、人々は昭和の太平洋戦争の頃まで「白隠橋」と呼んでいたそうです。

 

 芳澤先生訳注の『白隠禅師年譜』で確認したら、こう書かれていました。

「寛保二年の秋、遠州井伊谷、万松山龍潭寺の招きに応じて出かけた。矢畠川というのが東南に流れていた。七八人の人夫が左右に分かれて籠を護りながら、この川を渡る。迎えに来た僧俗も、みな裾をからげてこれに随う。水は股半ばに達している。みな緊張して、恐る恐る渡ったのだが、『この川にはどうして板橋もないのであろうか』と思ったのである。三四日後、東隣の実相寺に行くことがあって、またこの川を越えた。駕籠かきの話では、この川はひと月に二度も三度も溢れることがあり、溺れる者がしばしあり、時には死者も出るという。そこで、重ねて思ったのである。『道路を直したり橋をかけることは、善縁徳行の最たるもの。皆で力をあわせれば、難しいことではない。少しずつであっても、歳月を累ねるならば、必ず大きな力になり落成しよう。新橋を発起するのも利済の方便となるであろう』と。そこで化縁簿を作り、今回いただいたお布施四貫文をつけ、偈を作って、大通、自耕、元海、円通の四庵主に渡した。ささやかながら、これが端緒となれば幸いである」

 

 恵みの水が時には人の命を奪うこともある・・・そんな井の国の川に、命の橋を架けた白隠さん。浄土では共保や直虎にさぞかし感謝されたことでしょう。今回の「水」の原稿執筆では、白隠さんは想定外でしたが、知ってしまった以上、書かずにはいられません。融けた氷の水の量が思いのほか多かった・・・そんな感じでしょうか。

 


亡き酒徒に伝えたかったこと

2017-08-21 13:36:33 | 本と雑誌

 腰・顎・指の三重苦に苛まれるこの夏は、ときたま外呑みに出る以外、家で大人しくしています。お盆の期間は冷房の下で読み散らかしている本を整理してみました。

 Kindleに溜めたブックリストを見ると、娯楽小説は『村上海賊の娘』のみ。ほかは、とても女子の本棚とは思えない色気のないものばかりで、どうりで自分は情緒的な文章やコピーが書けないライターだと自己嫌悪に陥ります(苦笑)。

 

 一番最近購入したのは神谷恵美子さんの『生きがいについて』。8月9日に聴講した静岡県ボランティア協会の講演会「大切な人に…あなたは誰を看取り、誰に看取られますか」で、在宅医療に取り組む講師の遠藤博之氏(たんぽぽ診療所院長)が人生の指針となる名著だと紹介されました。神谷恵美子さんは美智子皇后のカウンセラーとして知られる精神科医。タイトルからして解りやすい生き方指南本かと思いきや、とんでもなく深くて重い精神分析論で、ハンセン病患者との交わりを通し、世界の人間論・精神医学・文学を引用しながら人間にとっての生きがいとは何かを考察します。

 

 この本に触手したのは、先月末、地酒の会で時折顔を合わせていた一回り年下のJさんが自死したこともきっかけになりました。

 Jさんは趣味で酒のブログを書き、「自分も真弓さんのようなライターになりたい」と積極的に声を掛けてくれる人懐っこい青年でした。こまめに酒の会に顔を出し、熱心に試飲をしてはブログに記録をし、昨年は結婚&念願の酒蔵への転職も果たして、酒の世界でセカンドキャリアを開花させようと意気揚々だったのです。個人的なパーソナリティをよく知っていたわけではないので、彼の心の内を推し量ることは不可能ですが、40歳過ぎてのキャリアチェンジにはそれなりの苦労もあっただろうと想像しました。

 

 神谷さんのこの言葉を知っていたら彼に伝えたかったな、と思います。

『人間はべつに誰かからたのまれなくても、いわば自分の好きで、いろいろな目標を立てるが、ほんとうをいうと、その目標が到達されるかどうかは真の問題ではないのではないか。ただそういう生の構造のなかで歩いているそのことが必要なのではないか』

 神谷さんによると、心臓神経症に悩んでいたハンセン病患者の青年が、あるとき施設内で仕事を得て神経症の症状が消えた。その後、障害者年金制度ができて年金受給者は就労してはいけないことになったため、仕事をやめたとたん神経症が再発したという。生きがいとは何か本書では多くの解釈がされていますが、私はこの、『ただそういう生の構造のなかで歩いていることが必要』という一節が、禅の教えにも通じるようで、なんとなく腑に落ちました。結果はもちろん大事ですが、自分が望んで始めたことならば、うまくいくときもいかないときも己事究明しながら一心に取り組む・・・その過程に意味があるんですね。

 

 神谷さんはまた、自殺をふみとどませるものとして①純粋な好奇心、②憎しみや攻撃心、③自尊心を挙げています。①は生きる意欲を全く失った人でも明日の新聞に何が載るか、次の郵便で何が来るかを知るためだけでも自殺を24時間引き延ばせる。たとえ1日でも待つという心を持つことが出来ればそれはすでに前向きな姿勢ということ。③は自分という人間が存在するために、たとえばどれだけの動物がされてきたかを考えて自分も自分の分を果たせよということ。

 最も効果的なのは②で、恨みや復讐の念は、適当な方向と吐け口さえ与えられれば、足場を失って倒れた人間を再び起き上がらせるバネの役割を果たしうる―と。

 私自身、死んだら楽になるかなあと思った経験がないわけではありませんが、そのとき我を取り戻したきっかけは「怒り」だったと思います。怒りという感情を持つにはそれなりのエネルギーが必要で、心が弱っているときには怒りや恨みを掘り起こす具体的なきっかけも必要でしょう。自分の場合、何がきっかけで「こんなことで死んでたまるか」という心境になれたのかは忘れてしまいましたが、その後は①のように、めくられていないカレンダーのページに好奇心を託すことができた。・・・時間には、ストップウォッチみたいに限界を決めておくことの効能と、ただただ流れ去らせることの効能があるんだなと思いました。

 

 歴史は、自分が未来に託した好奇心の一つです。毎年、8月の原爆の日や終戦記念日の前後になると、新しい戦争歴史関連本を読むようにしており、毎年のように「知らなかった」ことの発見に、「こういうことを知らずに死ぬのはもったいない」「自分を生かしてくれたご先祖に申し訳ない」と、③のような心境に至ります。

 今年読んだのは半藤一利さんと保坂正康さんの対談集『賊軍の昭和史』。鈴木貫太郎(関宿)、石原莞爾(庄内)、米内光政(盛岡)、山本五十六(盛岡)、井上成美(仙台)等など、幕末維新で賊軍とされた藩の出身者が、昭和の戦争を終わらせたという新しい論点でつづられています。

 そこから歴史をさかのぼるように、幕末維新史(『維新革命への道』)、近世の統治機構(『逃げる農民、追う大名』)、日本唯一の“革命”だった鎌倉承久の変(『日本史のなぞ』)、新しい日本史解釈(『げんきな日本論』)と読み進め、歴史=先人の生きた証しを学び理解することは、今の自分の立脚点=自分がなぜ今、生かされているかを知ることだとしみじみ実感しています。

 

 無理に歴史好きになれというつもりはありませんが、歴史は、常識や定説にとらわれずさまざまな角度から光を当てると人間の行動心理がよくわかります。とりわけライターという職業人にとっては知識の蓄積のみならず、物事の思考の糧になり、やりがい・生きがいにもつながります。そういう話をJさんにする機会があったなら・・・と思うと残念でなりません。

 先日参加した酒宴で設けられた彼への献杯時間に、そんなことをつらつら考え、とりあえずKindleのストック消費に没頭する晩夏。今朝は久しぶりの純文学、今年の芥川賞受賞の『影裏』を読破したところです。岩手が舞台で主人公は日本酒好きで「南部美人」「田酒」が登場。明るくはないけれど、酒飲みと一緒に物語のその後が語り合いたくなるような話です。


経年変化の因果律

2017-08-07 11:44:55 | 仏教

 このところ体調の変化を如実に実感しています。今までにない腰痛と片足の痺れに悩まされ、母親が通院しているペインクリニックを受診してみたら「腰部脊柱管狭窄症」と言われ、生まれて初めてお薬手帳を作りました。立て続けに歯茎が痛み出し、歯周病かと思ってデンタルクリニックを受診したら、歯や歯茎に異常はなく、「顎関節症」だと言われてマウスピースを作りました。

 同じころ、左手の親指の付け根にポキポキ違和感を感じるようになり、親指全体が硬くなって折り曲げるたびに痛みが生じ、1か月ぐらい経て本格的に痛み出し、モノが持てなくなってしまってペインクリニックで診てもらったら「ばね指」との診断。

 50半ばまで病気らしい病気をせず、お薬手帳も持ったことがない健康優良児を自認していたのですが、今まで聞いたこともない病名を3つももらって、自分もやっぱり人並みに更年期を迎え、身体は確実に経年変化しているんだと自覚しました。腰も顎も指も、なるべく安静にって言われても動かさざるをえない部位だし、効果的な治療法もない慢性疾患。年齢相応の持病持ちになったようです。

 

 それよりなにより、もっと単純に自分の加齢を実感するのは白髪の量。暑さ対策でベリーショートにしてみたら、つむじのあたりからおばけのQ太郎みたいにツンツン白髪が立つようになりました。髪をたくしあげると奥に白髪のカタマリがいくつも発生していたのにギョッ!美容師さんからヘアカラーを勧められたものの、10代の頃から時々円形脱毛症に悩まされていた私は、なんとなく毛染めに抵抗があって即答ができず、「白髪まじりでもいい感じになるようカットしてみます」と慰められ?ました。

 

 白髪ばかりはクリニックでも美容院でも治療は出来ないだろうと、原因と対策をネット検索(こちらを参照)してみたところ、根本的には成長ホルモンの減少が原因。成長ホルモンの分泌量は20歳を100%とすると、30代後半で早くも25%まで減少し、50歳ではわずか12%なんだとか。道理で身体のあちこちに不具合が出てくるわけです。

 20歳の若者の1割程度しか分泌されない成長ホルモンをなんとかキープ&できればアップさせるには、無酸素運動(加圧トレーニング、スロートレーニング、チベット体操等)で成長ホルモンの分泌を促す「乳酸」を増やすことが効果的。有酸素運動ではあまり効果がないそうです。

 よく知られる白髪原因はメラニン不足。メラニンとは白いものに黒く色を付ける絵の具のような役割をする細胞で、今の時期は日焼けの原因として悪者扱いされてますよね。皮膚に元からある細胞ではなくて、食物に含まれる分子チロシンの作用が生み出すそう。つまりチロシンを含む食物(大豆-とくに豆腐、チーズ等)を多く摂取するのがよいということになります。日焼け対策と育毛サイクルを考慮したら、夜に摂取するのがベターのようです。

 メラニンは身体に蓄積された過酸化水素に攻撃されやすいため、過酸化水素を無害水と酸素に分解するカタラーゼという酵素が“武器”として必要になります。このカタラーゼも加齢によって減少し、食物では直接摂取できないそう。また糖質がカタラーゼの活動を低下させることも。したがってなるべく糖質を控え、カタラーゼの栄養源「鉄分」を積極的に摂取せよ、ということになります。

 成長ホルモンやカタラーゼを活性化させるには「断食」も効果的だそうです。米国心臓病学会の研究によると、まる一日断食した後、成長ホルモンの平均分泌量をはかったところ 男性で2,000%、女性で1,300%も増加。ラットの実験では30%の食事制限によってカタラーゼが26%増加したそうです。カタラーゼを増やすって、イコール、ダイエット効果も期待できるわけですね。

 

 

 痛みと同居するようになったこの1か月、お寺の仕事でお盆の行事に関わったり、花園大学の歴史講座や禅学フォーラムに参加したりして、仏教に真正面から向き合う日が続きました。

  白髪になるメカニズムを調べていくと、仏教で言うところの「因縁」を感じます。変化の原因は一つではなく、因と縁が織りなした因果律によって起きるということ。自分の身体に起きる変化も、単に「加齢」だと一括りで終わらせるのではなく、因と縁を丁寧に見つめ直していけば、「因縁」そのものから解き放たれることもあるかもしれない。・・・少し希望が湧いてきます。

 

 説教や講演をするお歴々を「お坊さんは白髪を気にしなくていいなあ」「でもカンカン照りの時期は頭皮が熱いだろうなあ」と下世話に眺めていましたが(笑)、よくよく観察してみると、高僧や名僧といわれる方々は厳しい修行をしながらもご長寿で晩年までエネルギッシュに活動されていた方が実に多い。88歳で亡くなった一休さんは77歳のときに盲目の女性森女(当時30歳)と出会って恋に落ち、艶歌をたくさん書き残し、末期の言葉は「死にとうない」。成長ホルモンを死ぬ間際までトコトン分泌させようとしていたんだなあと思います。

 

 今現在、ご縁をいただいている和尚さんがたも、結構な御歳にもかかわらず肌ツヤよく姿勢もよく、今風にいえば全身デトックス済みって居住まいの方が多いのです。禅の修行者は定期的に断食をし、日頃から低糖質低カロリー食、とくにカタラーゼの宝庫である大豆食品を多く摂取しています。剃髪しなければ、きっと黒くてふさふさなヘアになるかもしれませんね。もっとも体調がよく、いつまでもお達者であれば「色欲」なんかとも闘わなければならないのかな・・・。

 白隠さんの「南無地獄大菩薩」の教え=地獄と極楽の当体は表裏一体で同じもの、というように、物事には表と裏の二極性があります。日焼けの大敵であると同時に白髪を防ぐ絵の具にもなるメラニンがまさにそう。

 長い間、円形脱毛症に悩んできたことも、何かの機会に「因果」を発見するかもしれませんが、とりあえずの白髪対策としては安易に毛染めに走らず、食生活を見直し、体調を考慮しながらプチ断食にも挑戦してみようと思います。断食経験のある方はよきアドバイスをお願いします。

 

 


上川陽子さんの職責

2017-08-03 18:16:46 | 国際・政治

 上川陽子さんが本日の内閣改造で法務大臣に復帰されました。前回(2014年10月21日~2015年10月7日)は急な拝命であわただしいスタートだったと思いますが、今回は改造内閣全体でリスタートという雰囲気。実績と安定感を買われての再登板で、ご縁をいただいた端くれとしても誇らしく思います。

 私は毎月第1・第3火曜18時30分からコミュニティエフエムFM-Hi(76.9)で放送中の『かみかわ陽子ラジオシェイク』でご一緒させていただいています。前回の法務大臣在任中もいろいろなお話をうかがいましたが、この回のお話が個人的にはとても好きでした。2015年9月15日放送(2015年8月収録)です。法務大臣の職責の一端、そして陽子さんの人となりが伝われば幸いです。

 

 

再犯防止キャラバンと世界大地図展

かみかわ陽子ラジオシェイク 2015年9月15日放送より


(上川)リスナーの皆さまこんばんは、上川陽子です。


 (鈴木)コピーライターの鈴木真弓です。どうぞよろしくお願いします。今日は法務省で陽子さんが力を入れていらっしゃる再犯防止キャラバンについてうかがおうと思います。先月、東北の仙台でキャラバンに行かれたそうですが、まずは再犯防止キャラバンってどんな活動か教えていただけますか?


 (上川)この番組でも何度かお話していることですが、一人でも多くの皆さんにぜひともご理解いただきたいので、改めてお話させてください。

 犯罪や非行が繰り返されないようにするためには犯罪や非行をした本人が過ちを悔い改め、更生の努力をし、国がそのための指導監督を行なうことと同時に、地域社会においても立ち直ろうとする者を受け入れ、その立ち直りに手を差し伸べることが肝要です。それができなければ彼らは孤立し、犯罪や非行を繰り返すという悪循環に陥ってしまいます。

 とくに仕事と住まいを得るための施策が重要だということで、関係閣僚会議の中で明確なメッセージを作りました。犯罪や非行をした本人が「犯罪に戻らない・戻さない」。これを活動テーマにして、地域の保護司や協力雇用主を始めとする多くの民間協力者の方々に取り組んでいただいています。私たちも地域の方々の現場の声を参考にしようと、法務大臣・副大臣・大臣政務官を隊長とする「再犯防止キャラバン」隊を編成し、全国各地を訪問しています。


 (鈴木)今年は第1回再犯防止キャラバンが3月中旬に葉梨法務副大臣を隊長に、福岡県で行なわれ、先月8月、法務大臣である陽子さんご自身が第2回キャラバン隊長として宮城県を訪問されたということですね。


 (上川)キャラバン隊は89日・10日に被災地でもある宮城県を訪問し、再犯や非行の防止、立ち直りの支援等に取り組まれている方々から直接お話を伺いました。併せて宮城県内の復興状況や現状についてうかがってきました。10日は国会会期中のため、事務次官に行ってもらったのですが、私が参加した9日には仙台市における登記所備付地図作成現場を視察し、保護司や協力雇用主等の更生保護に取り組まれている皆様との意見交換をしました。


 (鈴木)登記所備付地図作成現場とは?


 (上川)視察をした現場は山際の集落でした。山を切り開いて宅地化したところ、地震によって地すべりが発生し、家がなだれのように滑り落ちてしまったのです。復興となると、自然現象によって壊された土地に元のとおり線引きをしなければなりません。非常に難しい作業ですが、今回は法務省の登記に関わる測量の専門家に集中的に回っていただいた400世帯ほどの事前・事後の登記現場を見せていただきました。日本の土地の区画を示した地図とは、隣地との物理的な境界を示した地図と同時に、法的な地図でもあるというわけです。


 (鈴木)なるほど。被災地の復興にとっては基本中の基本というわけですね。地元で更生保護に努めておられる皆さんからは、どんな声が聞かれましたか?


 (上川)とくに被災地においては保護司の方も被災者であり、お亡くなりになった方もいらっしゃいました。今はかなり落ちつかれ、全力で保護司の仕事を務めておられて、頭の下がる思いでした。今はご自宅に招きいれて、というよりも、地域の中にあるサポートセンターをお借りして、出所者の方と面談をしているようです。ただ公的施設を利用するにあたっては経費等も問題もあります。国でなんとか支援していただけないかと、切実な声をいただきました。


 (鈴木)被災地での更生保護というのは、経験のないご苦労ではなかったかと思います。


 (上川)地域の絆が災害によって分断されてしまったとき、どうやって取り戻すか。復興の中で更生保護の活動を続けられるというのは強い意志が必要だろうと思います。事務次官が仙台市長、石巻市長と面談した際は、国、自治体、民間ボランティアがひとつの共同体としてしっかり役割を明確にし、果たしていこうということで一定の成果を得たと思います。


 (鈴木)再犯防止キャラバンというあまり日の目を見ない活動に、大臣自ら参加されたということで、インパクトがあったのではないかと思いますが。


 (上川)中央にいて全体を数字で見るだけでなく、実際に動いている現場を見て、実態を知った上で物事を進めていく。これは非常に重要だと思います。何が大事か、直接うかがうことは得がたい経験でした。


 (鈴木)キャラバンは今後、他の地域にも行かれるんですよね。


 (上川)そうです。これからの活動にもぜひ注目していただきたいと思います。


 

       

鈴木)さて、後半は陽子さんも私も大好きな歴史のお話をしたいと思います。先月まで東京駒込の東洋文庫ミュージアムで開かれていた「世界大地図展」をご覧になったそうですね。


(上川)大変面白い展覧会でした。東洋文庫ミュージアムってご存知でしたか?


(鈴木)大学で東洋史を専攻していましたので、東洋文庫の本はたくさん読んでいますが、ミュージアムがあるというのは知りませんでした。


(上川)実は世界5大東洋学研究施設の一つに挙げられているんですよ。もともと1924年、三菱財閥の3代当主岩崎久彌によって設立されました。国宝5点、重要文化財7点をはじめ、100万冊の重要書籍を所蔵しています。目玉はモリソンの東洋関係の蔵書です。


(鈴木)モリソンってどういう人ですか?


(上川)ジョージ・アーネスト・モリソンはオーストラリア生まれのイギリス人旅行家・歴史家です。TIMESの特派員を務め、中国の滞在が長く、いろいろな書籍を収集したようです。それを1917年に岩崎久彌が買い取り、後に東洋文庫ミュージアムの核としたわけです。


(鈴木)そうだったんですか。今回、陽子さんがご覧になった「大地図展~フィルメールも描いたブラウの世界地図」というのはどういう展示会ですか?


(上川)モリソンも冒険家ですが、冒険家というのは地図のない世界に踊り出て、自分で地図を作るという人ですね。では世界地図というのは誰が作ったのか。実は17世紀にオランダの東インド会社なんです。東インド会社が専門の地図作家に作らせた世界地図が、同社の交易を成功させ、巨万の富を与えたと言われます。その地図は単なる地理情報というよりも、豊かな色彩と豪華な装飾で描かれた芸術作品で、フェルメールのような芸術家にも影響を与えた。これを東洋文庫が所蔵しているんですね。初めての北極圏の地図もあって絵葉書でもいいから買って帰りたいと思ったくらいです。


(鈴木)すごい、17世紀に北極圏まで踏破したんですね。その原動力がビジネスのためというのは、なんともナットクさせられます(笑)。ヨーロッパでは領土を巡る戦争がずーっと続いていましたから、地図というのは支配者にとっても重要でしょうね。


(上川)力の誇示、支配の正統性、土地の収益力の算定などを目的に権力者は地図を作ることに血道を上げ、地図の持ち出しを禁制とする時代が続いたんですね。
 17世紀、ポルトガルやスペインに替わって海の帝国を作ったオランダが東インド会社を設立し、貿易だけでなく外交や軍事、植民地政策など国家に代わって独占権をもつ勅許会社としてビジネスを行います。ビジネスには精度の高い地図が必要ということで、ウィレム・ブラウ(1571-1638)とその息子ヨアン・ブラウ(1596-1673)が雇われました。ブラウ一家は天文・測量機器の販売を家業とし、当時のスタンダードなメルカトルの地図の原版を買い取ることに成功してから昇り竜の勢いで栄えたそうで、600点の地図を収録した「ブラウ大地図帳」を完成させました。これがフランス語、ドイツ語などにも翻訳され、ヨーロッパ各地に伝わりました。


(鈴木)以前、『逆さ地図』というのを陽子さんに教えていただきましたが、地図って見方を変えるとガラッと変わりますよね。


(上川)北極圏の地図でいうと、カナダから見るのと、アイスランドから見るのでは、まったく違って見えます。地図を制するものが権力を制するといいますか、私たちもあの日本地図にどっぷり浸かっていますので、ちょっと見方を変えてみると新しい発見があるでしょう。   

     

(鈴木)歴史といえば、法務省の史料展示室にも興味深い歴史資料が展示されています。展示室で発行している「歴史の壺」という会報誌、HP(こちら)でも読めるので興味深く拝見していますよ。


(上川)ありがとうございます。歴史の壺という会報誌では、法務図書館で所蔵する史料を紹介しています。明治政府が外国人を雇用するときの契約書とか、板垣退助が暴漢に襲われ「板垣死すとも自由は死なず」と有名な言葉を残したときの取調べ報告書とか、明治初めの頃の不動産登記簿など、日本の近代史を知る上で貴重な史料を紹介しています。赤レンガ棟にありますので、ぜひお越しいただきたいと思います。


(鈴木)日本史の授業では十分に取り上げられない近現代史ですが、興味を持って探せばアクセスできる学びの機会がたくさんあるんだなと実感します。


(上川)ICTを活用し、どこにいてもホームページで観られる時代になりました。機会があればホンモノを観に来ていただきたいと思いますね。*法務省HPはこちら