杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

龍王丸の黒印状

2017-05-16 13:03:30 | 歴史

 この春から社会人向けの教養講座にいくつか通い始めています。古文書解読は以前から真剣に学びたいと思っていて、昨年度は京都の花園大学へ月1で通っていたのですが、時間や交通費がネックで途中挫折。今年度は5月から始まった島田市博物館の今川古文書講座に通い始めました。講師は島田市博物館学芸員の岡村龍男先生。静岡新聞社刊『Tabi-tabi』で「港が生まれた日」を書いたときにご指南いただいた気鋭の歴史家です。会場は机が置けないほど満員盛況ぶりでした。

 5月14日第1回の教材は、今川氏親(1471~1526/幼名・龍王丸)が島田の東光寺に充てた黒印状。内容は〈寺の(所領に関する)願望を認め、もし違反者がいたら処分するからちゃんと報告せよ〉というもので、特段、重要な機密文書というわけではないようですが、歴史ファンの中では『龍王丸の黒印状』として知られているそう。戦国大名が印を使用した文書としては日本第1号なんだそうです。差出人本人を特定する花押(サイン)入りの文書は戦国ドラマなんかにも出てきますが、サインではなくて印を使った最初の印判状(=現時点で最古の印判状)ということ。それが島田のお寺に残っているなんてヘエエー!でした。

鈴木正一著「今川氏と東光寺」より

 

 もちろん、重要な文書なら印ではなく本人の花押入りの文書(判物)で、印判状というのはあくまで事務書類的なものゆえ調査の手が進んでいないだけのことかもしれませんが、岡村先生は「この黒印状から、今川氏親が足利幕府から駿河国の差配を任されていたことがわかる。氏親は当時、今川の実権を握っていた一族の小鹿範満と家督争いをしていて、幕府のお墨付きを得たことで小鹿を討つ大義名分を得た」と読み解きます。その後、氏親は小鹿氏征伐に成功したようですから、一般的な事務書類でも歴史を紐解く深読みができるんだなあとワクワクしました。

 今川氏親は6歳の時に父義忠を亡くし、急きょ家督を継いだものの成人するまで小鹿範満が後見につき、氏親が成人した後も実権を返そうとしなかったためお家騒動に発展。母の北川殿の実兄北条早雲が加勢して小鹿を討ち、今川家第7代に就きます。東日本では最も古い分国法(自治法)といわれる「今川仮名目録」を制定し、検地を実施するなど今川家を戦国大名へと押し上げた功労者で、妻はおんな戦国大名で知られる寿桂尼。今川仮名目録も寿桂尼も、現在放送中の大河ドラマにも出てきますよね(ホントは井伊直虎より寿桂尼のほうが大河の主人公にふさわしいんでは?と岡村先生。確かに!)。

 戦国時代、大名は地域の寺社や国衆たちに権利と義務を通達する文書を多数発給しました。敵味方グチャグチャな時代ですから、とりあえず契約書を乱発して勢力保持していたんですね。江戸の泰平になると、武力に替わって文書が世の中を支配します。岡村先生によると、現存する江戸時代の古文書の数は戦国時代の1万倍だそう。年貢の計算なんかで必要書類が膨大に増え、識字率も飛躍的に向上しました。

 公文書には漢字、一般の文書には仮名やくずし文字というように、いろんな文字を使い分けていた国柄ゆえ、必要に迫られた人や向上心のある人など、さまざまなモチベーションで書に触れる機会があったでしょう。お寺の檀家制度が地域で機能し、寺子屋などで学習の機会が確保されていたこと等も大きいと思います。

 以前、このブログの『駿河の仏教宗派』という記事(こちら)にも書きましたが、家康が確立した本山松寺制度=今の檀家制度の原型は、寺が同一宗派で組織的に機能し、各末寺が地域の区役所・学校・生涯学習センター・かかりつけ医のような役割を果たしました。

 

 識字率が8割ともいわれた江戸時代の日本人は、当然のことながら書に対する意識がものすごく高かったと思います。渇望といってもいいくらいでしょうか。映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』のシナリオ制作時に調査した史料によると、朝鮮通信使は日本国内で書籍の売買や出版が盛んなことに驚きます。とくに中国や朝鮮の翻訳本が人気で、中には壬辰丁酉の乱にかかわる両国間の裏事情を暴露した本も多く出回っていました。柳成龍(ユソンヨン)の『懲毖録』を翻訳した貝原益軒は、序文に「秀吉の出兵は大義名分のない、おごりたかぶったものだ」とはっきり書いています。

 こういう状況を通信使からの報告で知った朝鮮王朝は「朝鮮の史書および文集類はいっさい輸出禁止」の措置を取りましたが、禁止されたことで朝鮮本人気はいっそう高まります。そこへ通信使がやってくるのですから、日本人の期待感はふくらむ一方。通信使は日記に「大坂は文を求める者が諸地方に倍して劇しく、あるときは鶏鳴のときにいたっても寝られず、まさに食事を中断するありさまである」と吐露するほどです

 以前、静岡県朝鮮通信使研究会で北村欣哉先生が発表された調査によると、現在、大河ドラマの舞台で人気沸騰の引佐町井伊谷の龍潭寺の山号額「萬松山」と寺号額「龍潭寺」は、第6回朝鮮通信使(1655)の写字官・金義信の書です。扁額の裏に『明暦元乙未仲冬の日朝鮮国の官士雪峯老人、江府において寺・山の両号を書く』とあり、1655年11月に雪峯(金義信のペンネーム)が近江国彦根で書いたということが判明しています。

 龍潭寺は通信使行列が通った東海道筋からはかなり離れていますが、新しい山門を作った時、当時、文化知識人の憧れの的だった朝鮮通信使にぜひ山号寺号を書いてもらいたいと熱望。でも通信使の書や絵は大変な人気で、おいそれと頼めない。そこで、彦根の井伊の殿様に口利きをしてもらおうと、宗元という寺男が彦根まで出向いて、憧れの通信使の書を無事ゲット。ご住職や井伊谷の人々は「歴却不壊、高着眼看、至祝不尽珍重」と大いに感激したそうです。

 

 今川氏親の時代から約500年、朝鮮通信使の時代から約300年。日本で使われる言語は日本語だけではなくなったにもかかわらず、古文書講座がこんなに盛況だなんて、日本人はやっぱり書が好きな国民なんですね。ちょっと前まで日本語ブログの投稿数は英語と並んで世界一だったとか。私自身、SNS全盛時代になっても飽きもせず長文ブログを10年近くダラダラ書いていて、我ながら可笑しくなります。

 古文書の学習は一定の決まり事を頭に入れたうえで、とにかく数を読みこなすことだそうですが、漢字の楷書で書かれた公文書や高僧の墨書に比べ、私文通信はくずし文字が多くて読みにくい。でも、くずした文字に書き手の人となりや心持ちを読み解く面白さって、文字を手で書かなくなった現代人ーとりわけ作家やライターは失ってはならない皮膚感覚のような気がします。

 そのうち、AIが古文書をいとも簡単に翻訳するようになるでしょうけど、書に対する感覚って五感と同じくらい大切にしたいですね。

 

 

 

 

 


河村先生の遺産(その3)静岡吟醸一家の家長

2017-05-10 10:08:53 | しずおか地酒研究会

 ゴールデンウイークの終盤5月6日に、「しずおか地酒サロン~松崎晴雄さんと振り返る河村先生の功績」を開催しました。会場は平野斗紀子さん(たまらんプレス代表・元静岡新聞出版局)の自宅兼ゲストハウス「あくび庵」。平野さんは今年1月、料理達人の同級生と手作り惣菜屋を創業し、あくび庵で予約販売or配達を始めました。

 あくび庵の室内は江戸時代の長屋風古民家をイメージした板の間のワンフロア。ここに松崎晴雄さん、杉井均乃介さん(「杉錦」蔵元杜氏)、青島孝さん(「喜久醉」蔵元杜氏)をはじめ、地酒研発足当時からのベテラン会員さんを中心に20名の酒友が河村先生への献杯酒を持ち寄り、あくび庵のお惣菜を酒肴に、先生との思い出話に花を咲かせました。

 松崎さんは「日本酒の歴史に残る革命的技術者を挙げるとしたら、吟醸酒の父といわれる広島の三浦仙三郎(1847~1908)と河村傳兵衛しかいないと思う。三浦仙三郎が生み出した吟醸酒をさらに進化させた河村先生は、まさに昭和平成の三浦仙三郎です」と語りました。先生のことをこのように評価できる人は静岡にも全国にもいないだろうと胸が熱くなりました。

 

 杉井さんは若かりし頃、河村先生に縁談を世話してもらったことがある(残念ながら破談)というトリビアを披露。青島さんは、県沼津工業技術センターで研修を受けたとき酒袋の洗浄の重要性を叩き込まれたにもかかわらず、自蔵で先生から酒袋に臭いが残っていたことを指摘・叱責され、悔し涙を流し、今現在、酒袋をひたすら洗う蔵人たちに、酒造りで最も大事な作業を任せていると激励している最中です、としんみり語ってくれました。

 私はこのブログのこちらこちらの記事をコピーして参加者に配り、自宅の押し入れから掘り出してきた地酒番組の録画ビデオを皆さんに鑑賞してもらいました。ビデオは1989年1月24日放送のSBS『静岡発そこが知りたい~静岡は地酒ブームの火付け役』、同年3月2日放送のNHKモーニングワイド『ハイテクが銘酒地図を変える』、1993年放送のSBS『もっと知りたい東海道(地酒編)』ほか。テープはかなり劣化し、見づらかったのですが、約30年前の40代の河村先生、現役バリバリの波瀬正吉さん(能登杜氏/開運)や大塚正市さん(志太杜氏/満寿一)の雄姿に大盛り上がりでした。

 

 すっかり忘れていたのですが、96年3月のしずおか地酒研究会発会式を取材してくれた静岡第一テレビのニュース映像も入っていました。当時の顔パンパンの私のドアップに一同大爆笑!なんだか亡き家長を偲んで大家族や親戚一同が集まって、家族ビデオを見ながらワイワイくっちゃべってるって雰囲気でした。・・・そう、河村先生は静岡吟醸一家の家長だったんだなあとしみじみ。

 

 みんなから、お宝ビデオなんだから、劣化したまま放置せずちゃんと保存しておけと言われ、そういえば昔の河村先生の講演録を書き起こした原稿も、当時使っていたワープロ感光紙の劣化でところどころ読みにくくなっていたことを思い出し、再度、書き起こしてみました。

 以下は、たぶん録音テープをお借りして書き起こしをさせていただいたものだと思いますが、いつどこでの講演か不明です。内容からして先生が母校磐田農業高校の同窓会か何かで語った講演のようです。全文はA4で9ページほどありましたので、ここではかいつまんでご紹介します。

 

  ◆

 

 私は磐田農業高校の出身ですが、高校3年生の1年間はほとんど学校に行きませんでした。なぜかと申しますと、私が在学していた昭和33年から35年頃というのは農業が曲がり角といわれた時代で、私自身も農業ではとても生活できないと思っていました。大学進学を考えていましたが、私は工学ーとくに機械科を志向していたものですから、学校での農業の勉強は放ったらかしにして家で数学にかじりついていた。出席日数が足りなかったにもかかわらず卒業できたのは担任の平野先生のおかげで、最近になってようやく恩師への感謝の気持ちをしみじみ感じるようになりました。

 たまたま同じ高校に従兄が勤めており、農学部でも工学的なことをやる農芸化学という学部があることを教わり、静岡大学農学部農芸化学科に進み、農産加工の食品色素などを研究し、大手食品会社に内定をもらいました。しかし昼夜三交替勤務でかなりハードだと聞いてキャンセルし(笑)、大学からはもう推薦状は書かないと怒られましたがこのまま大学に残ればいいと腹をくくっていたところ、県の工業試験場の製紙部門と醸造部門でそれぞれ1名欠員が出たと知らされ、どちらか選べと言われて即座に酒の方を選びました。

 このようないきさつでこの世界に入ったものですから、酒造りに最初から特に思い入れがあったわけではありません。昭和40年に試験場に入庁してから新酒鑑評会で初めて吟醸酒に出合い、世の中にこんなに香りがフルーティーで素晴らしい酒があったのか、どうしてこういう酒が出来るのだろうとビックリしました。その感動と疑問が私を酒造りにのめり込ませたのです。


 工業試験場は昭和28年に開設され、当時は現在の駒形にある県防災センターの場所にありました。醸造部門には名古屋国税局の出雲永槌先生、国税庁醸造試験所から齋上先生が赴任し、昭和35年に実験工場が出来ると7名のスタッフで酒を優先に研究していました。酒の研究が急がれていた理由は、当時の酒造業界が大きな曲がり角にあったことが挙げられます。

 県内の酒造メーカーは製品の大半を灘や伏見の大手メーカーの請負で生産し、その残りに自社銘柄を付けて売っていました。酒造従事者を今も蔵人と呼んでいますが、多くは南部(岩手)、新潟、能登あたりから呼ばれ、蔵の主人は彼らに酒を造らせ、出来た酒を大手に納めるという気楽な商売をやっておったのです。しかし大手のほうで生産技術が上がり、自社内で造るほうが安くて良い酒ができるようになり、県内メーカーが徐々に取引額を減らされていきました。自社銘柄でも思うように売れず、昭和40年代から50年代半ばまでそんな状態が続いていました。

 同じころ、広島県や石川県を中心に吟醸酒が売れ始めました。吟醸酒は鑑評会出品用にどの蔵でも造っていましたが、蔵の主人の晩酌用か特別なお客さんに出す程度で、商品として出すものではありませんでした。昭和50年代の初めだったでしょうか、「菊姫」「天狗舞」の吟醸酒が東京市場で話題を呼び、県内メーカーもこれで生き残るしかないと、次第に吟醸酒に目を向け始めました。

 酒造りの基本を成すものは2つの微生物、すなわち麹菌と酵母菌です。酵母にはブドウ糖からアルコールを作るという大きな役割があり、吟醸酒の場合は香りを作る役目もあります。酵母が生成する吟醸酒の香りはエステルといい、酵母の種類によって香りの大小さまざまです。広島の吟醸酒は香りと味が非常に重厚で、石川を中心とした北陸の吟醸酒は香りが華やかで味が丸いタイプ。ではわれわれ静岡はどういうタイプの吟醸酒にするか。人気のある広島や石川と同じタイプを狙うのが常套手段ですが、これとは少々異なる、香りは華やかでも味が軽快な酒にしようと考えました。こうして生まれたのが有機酸生成の少ない静岡酵母です。これで早い時期に試作してもらった県内4~5社が全国新酒鑑評会で全社入賞したため、昭和60酒造年度では県内大半のメーカーに配布しました。

 その過程で痛感したのは、杜氏さんは若手でも50代でほとんどが年配の職人。彼らはこちらの話を聞いてはくれるものの、なかなか実行に移してくれないということでした。そんな中、ある蔵の40代の若い杜氏さんが、蒸した米一粒に一点くっきりと麹を生やすという神業をやってのけていました。その秘密が知りたくて早朝5時に蔵に行き、いったん職場に出勤して昼頃また見に行き、夜は夜でまた見に行った。そんなことを毎日やっていたので、蔵の主人が体を壊すから泊って行きなさいと言ってくれまして、泊りがけで作業を観察し、自分でも造ってみたのですがうまくいきません。

 優れた麹造りは麹室の作業だけでなく、酒造り全体の流れの中に秘訣があったのです。そのひとつに最初の工程である米洗いがあります。洗米した米を顕微鏡で見ると、洗い方によって表面の形状がまったく異なります。よく洗った米は六角形の構造を持ったデンプン粒が列をなしており、よく洗わない米は餡かけにしたようにドロッとしています。これを蒸すとドロッとした部分がネバネバになり、そこに麹菌を付けたとしても菌がくっきり食い込まず、ダラダラと広がってしまいます。酵母が品質に与える影響は3割くらい。後の7割は米洗いであると痛感しました。現場で杜氏さんに初めて教わったことです。教育もそうですが、良い師に指導を受けるということが非常に重要です。

 県内の比較的大手のメーカーを巡回指導したときのこと。吟醸酒の品質について聞かれ、私ははっきり「箸にも棒にもひっかかからない。こんな酒はみたことがない」と答えました。杜氏さんはブルブルと震え出し、「ならばどうやって造るのか」と詰問した。普通の巡回指導ではそれ以上のことはしないのですが、私も後に引けなくなり、彼のもとに4~5泊して麹造りを徹底指導しました。

 一点くっきりの理想的な吟醸麹は簡単にはできません。2時間おきぐらいに麹室に入り、様子を見る。私は合間を見て風呂に入り、仮眠をとりますが、杜氏さんたちは私より10歳以上年上にもかからわず、ほとんど不眠不休です。結局この蔵は全国の金賞をとるまでそれから3年ぐらいかかりました。麹造りだけ覚えてもほかにたくさん課題があるのです。私の仕事は県内メーカー全体のレベルを引き上げることですから、この蔵ばかり偏った指導をするわけにもいきません。後は現場の奮起に期待するだけです。

 私は冬、朝3時ごろに起きてまず風呂に入ります。風呂と言ってもわが家は古い借家で、風呂釜の火は外で点けます。タイルの風呂の湯はなかなか沸かず、湯船に浸かっていても1時間もたてば水のようになってしまいます。ぬるい湯に長く浸かっているとついつい寝込んでしまいますが、風呂の中ではあの蔵のもろみの状態はどうか、というふうに、その日一日の指導予定を立てます。静岡市を中心に、大井川から富士川の間を毎日、今日は東、明日は西というようにメーカーを指導して廻ります。朝、メーカーに着くのは5時。各蔵を廻って杜氏さんたちの動きをじっくり見ます。酒造りの秘密は非常に厳しく守られていますが、腕の良い杜氏さんがどんなふうにやっているのか、技術的なことをいろいろ学び、それを他のメーカーの杜氏に教える、というのが私の役割です。

 1社2社だけ良い酒ができても、地場産業としての発展にはつながりません。現在、不況産業といわれる業種がありますが、その中でも左団扇といわれる企業が1社2社はあるはずです。われわれがやることは、そういう成熟産業の掘り起こしです。昭和61年に県内の蔵が大量入賞し、一躍静岡の酒が脚光を浴びたことが、これをよく物語っています。

 現在、注目を集めているバイオテクノロジーの歴史を見ますと、古来より連綿と続いているのは酒造業ただ一つです。バイオの基本は日本の酒から来ていると言ってもよいでしょう。私が就職に醸造を選んだのは、学生時代にアミノ酸発酵の研究がかなり進んだためです。アミノ酸発酵は微生物の働きによるもので、日本独自の技術です。従来はグルタミン酸ソーダにしても小麦から抽出分離したものが主体ですが、アミノ酸発酵の研究は酒造技術を移転して進められ、微生物は何でも頼めばやってくれるということを学びました。

 われわれがやっている酵母改良技術も、自然界の中で選びだした微生物の方が優れたものが多い。香りの高い酵母の改良をいろいろやってみましたが、酒の酵母というのはバランスをとるのが難しく、化学方程式の上ではこの微生物とあの微生物の相性がいいからと合わせてみても、人間の口には合わない酒になることもあります。食品の場合、すべてをバイオ技術で解決できるわけではないのです。

 昭和61年、静岡県が酵母の改良をして全国新酒鑑評会で大量入賞したのを機に、全国各地で酵母の開発がさかんになり、非常に香りの高い酒を造り始めました。鼻の高いクレオパトラは美人の代名詞ですが、酒の世界ではタブーです。静岡には良水があり、美人顔を作ると喜ばれていますが、酒飲みには淡麗な酒が好まれます。

 県内では中部地区のメーカーがとくに熱心に酒造りに取り組んでおられるようですが、他県のように他者と競い合うということは少ないですね。静岡県というのは紳士の集まりと申しますか、他と争い合うことを嫌うようです。しかし県の鑑評会で順位をつけることによって、よい意味で競争し、技術向上に努めるようになりました。東海4県では今までどの県も、県の鑑評会で順位付けするのは嫌がってやりませんでした。このエリアでは岐阜県が酒どころとして名を馳せており、静岡県は昭和40年代から全国に50社出品して1社入賞できるかどうかという状況が続いていましたが、現在は逆転しています。

 その意味でも競い合うということは必要です。それも価格競争ではなく品質競争。これで成功したのが新潟の「越乃寒梅」です。戦後の米のない時代、越乃寒梅(新潟)、若竹(静岡)、浦霞(宮城)の3社が醸造試験所のある研究室で同じ釜の飯を食べていました。その時、研究室長が「これからは品質の時代だ、米を磨け」と言って、精米技術が15~20%程度だった当時、70%磨けと指導され、これを実行したのが越乃寒梅の石本酒造でした。酒蔵にとって米のない時代に7割も磨いてしまうのは大変な決断だったと思いますが、苦労して品質を高めたことが後々の名声につながったといえましょう。私は酒の世界では、一度名声を得ると50年は続き、一度失敗すると一夜にして酒の価値が下がると考えています。現実に、一度の失敗がタンク全体に影響し、一年間その蔵の酒を悪くし、翌年からすっかり売れなくなったメーカーがありました。

 したがって、県内メーカーに指導しているのは、とにかく品質を上げることです。県内産の吟醸酒の品質が非常に良いと評価されるのは、市販される酒が鑑評会用の酒と同じ造りをしているからです。酒の世界はタブーが多くてなかなか表立っていえないのですが、現在市販されている「平成5年度金賞受賞酒」の中には鑑評会会場にあった酒と雲泥の差のものもありました。鑑評会用に出品する酒はほんの数本で、他の酒とは別の造り方をしているのです。

 私は指導する立場として、県産酒の市場における品質の安定を第一に考え、滝野川(国税庁醸造試験所のある場所)に出す酒も、市場に出す酒も、同じ造りをしてくださいと言い続けています。静岡市内ではメーカーの努力のみならず、やまざき酒店のような小売店や、入船鮨ターミナル店の竹島さんのように、県産酒を真剣に応援してくださる人々に支えられ、安定した品質を保つことが出来ています。

 静岡の酒の特徴をもうひとつ加えさせていただけるなら、酒は一般に1年間流通させるため出荷前の酒は寝かせておくものですが、熟成が進むうちに品質が低下するという難点がありました。吟醸酒の香りも老ねた香りになってしまうんですね。そこで静岡では熟成の貯蔵を低温化させるという、全国の大手メーカーでもやらないことを進めています。酒の先進県と言われる広島や石川と同じようなことをやっていても、いつまでたってもかないません。

 さらにわれわれの県の特徴としては、メーカー全体がまとまり、団結して進んでいるということ。お隣愛知県ではメーカー同士がバラバラで市場も混乱しています。これでは業界は発展しにくい。その点、静岡県は一致協力していますので、安心しています。

(河村傳兵衛氏講演録 タイトル・日時・場所は不明)

 

  ◆

 

 文中に平成5年度という年号が出て来たので、1993年頃の講演録かと思われます。もし内容に記憶のある方がいらっしゃったら、いつどこの講演だったか教えていただけるとありがたいです。また劣化テープの適正な保存法を教えてくださる方がいらっしゃったらお願いします。

 

 


八十八夜の活かし方

2017-05-01 10:23:38 | 農業

 52日は八十八夜。立春から数えて88日目ということで、茶どころ静岡では新茶シーズン到来のシンボリックな日とされていますが、本来は、お茶だけでなく農作業全般にとって大事な季節の節目。

 「米」という漢字を分解すると八十八になる。88歳のことも米寿と言いますね。そんなことから、農業に携わるすべての人にとって重要な日とされてきました。


  お茶摘み唄に「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る~♪」と歌われるように、春から夏に移る時期にあたり、八十八夜を迎えたら夏の準備を始めます。昔は八十八夜を目安に種まきなどをしていたそうで、今でも農家では、霜よけのよしずを取り払ったり、苗代の籾巻きを始めるというような慣しを行っているところが多いよう


 ・・・というような話を、5月2日18時30分からオンエアのかみかわ陽子ラジオシェイク(こちらのネットラジオで聴けます)で話そうと下調べしていたら、幸運にも、前回ブログで紹介した『地産地消の歴史地理』の著者有薗正一郎先生から、近世農書が記述する水稲耕作暦のコピーが届きました。同書に、全国43の近世農書を元に先生ご自身で制作された暦を希望者に送る、と書かれてあったので、試しに希望の手紙を差し出したらすぐに送ってくださったのです。


 

 有薗先生作・水稲耕作暦の「播種日」の一覧を見たら、ありますあります、「八十八夜」の記述が。ほかに「春土用」「3月中旬」「4月初め」等々。遠江の農書〈報徳作大益細伝記〉では「寒明70日目頃」とあります。寒明けが立春だとすると、今の暦で言えば4月下旬に種まきしたわけです。

 田植えは播種日から約40日ぐらい後。有薗先生の暦では「小満」「夏至」「半夏生」の記述が並びます。二十四節気の言葉ってやっぱり当時の生活用語だったんだなあと改めて感心しました。



 八十八夜は農業のみならず、瀬戸内海では豊漁の続く時期としての「漁の目安」とされたり、沖縄地方の島では「とびうお漁」の開始の時期ともされたそうです。漁業にとっても大切な節目の日だったんですね。

  静岡で、八十八夜の日を何かの記念日にしている漁港があるのかなとネットで検索してみたんですが、ヒットゼロ。やっぱりお茶の八十八夜のイメージが強すぎるんでしょうかね・・・。でも静岡県ほど八十八夜という日が県民に認知されている県はほかにないだろうと思えますので、これを活かし、漁業と茶業の関係者がコラボして、この日にとれた魚と新茶を、それこそ米寿のお祝いにする、なんて仕掛けを考えたらどうでしょうか。


 田んぼでも、田植えや稲刈りはわりと絵になる作業ですが、播種ってあまり絵にならないせいか注目されませんね。でも種をまいて苗を育てる作業ってとても大事だと思います。八十八夜という日を、農作業一つ一つの価値を見直し、季節の暦の意味を再認識する、そんな学習の機会にできたらいいなと思います。