杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

古資料に見る明治大正の富士登山

2013-07-27 13:31:48 | 本と雑誌

 21日(日)、山梨県富士河口湖町にある県立富士ビジターセンターの講座【古資料に見る明治大正の富士登山】を受講しました。

 以前、中日新聞の取材でビジターセンターを訪問したとき、講座の予定を知って、今回は仕事というより個人的な興味と取材リサーチを兼ねての受Photo講です。

 

 

 

 

 

 中央高速河口湖ICと、東富士五湖道路富士吉田ICに近い、富士スバルライン沿いにある富士ビジターセンター。富士山世界文化遺産登録に合わせ、1階展示フロアを大々的にリニューアルしました。以前取材に行ったときは工事中でしたが、今回はこのとおり。

 ビジターセンタDsc02955ーの敷地に、山梨県側の世界遺産センターの建設も決まっているそうで、いまだに建設地が決まっていない静岡県側から見ると、やっぱり富士山への“投資”は山梨のほうが進んでいるのかなあ・・・。

 

 

 

 それはさておき、ビジターセンターでは毎月、「富士山ふるさと再発見講座」を開催中(こちらを参照)。7月21日は、元富士山レンジャーで“富士山好事家”を自称する萱沼進さんが、ご自身がコレクションする明治大正時代の富士山ガイドブックや雑誌の記述を紹介してくれました。萱沼さんのブログ(こちら)には興味深い富士山ネタが紹介されていますので、ぜひご参照ください。

 

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 今回、メインで取り上げたのは1905年(明治38)8月15日発行のグラフ誌【富士画報】。近事画報社という出版社が発行する【戦時画報】の特別版です。

 戦時画報は、日露戦争の戦時状況を伝えるグラフ誌で、国木田独歩が編集長を務めていたそうです。1905年8月といえば、日露戦争で日本が勝ってポーツマス条約が締結された頃。富士山で特集号を組んだのは、国中が戦勝祝いで盛り上がり、富士登山者がグッと増えたから、というわけです。今で言えば、世界文化遺産登録祝の特別号って感じでしょうか。

 

 この年、7月末に実際に富士登山をした作家杉浦野外坊と写真家・挿絵画家・編集者の4人が、新橋から鉄道に乗って御殿場口から富士登山をし、富士宮経由で帰ってくるまでの、今で言えば登山体験レポートが掲載されています。

 

 

 

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 戦時中のグラフ誌ながら国木田編集長の目利きのせいか、記事も挿絵も写真も秀逸のようです。

 

 講師の萱沼さんの読み下しを聞きながらパワーポイント資料を眺めただけなので、詳しい記述はわからなかったのですが、たとえば新橋から御殿場までの汽車の道中で、ラムネの瓶が破裂した「ラムネ爆破事件」とか、二百三高地の形状に似せた“二百三高地巻き”という女性の髪型が当時流行っていて、汽車で居合わせた「二百三高地美人」にうつつをぬかしていたとか、登山者の荷物を運ぶ強力(ごうりき)には、素人の登山者を騙して高額をふっかける輩が多かったが、御殿場登山道では強力の組合組織があり、“明瞭会計”をモットーに登山客の評判を高めていたなど、当時の庶民の旅行登山の様子が垣間見える“小ネタ”が盛り沢山。

 

 

 洋服&わらじで登るのが当時のトレンドで、わらじは最低4~5足持参、寒さ対策として和紙に油を浸した油紙と着ゴザが必携だったとか、登山を甘く見ていた同行者が高山病でダウンしたり、雨中に強行登山し、浅間神社で祈祷を受けたら奇跡的に雨が止んだとか、女学生の山ガール一行を追いかけてお鉢巡りを逆走したとか、登山のノウハウを実践レポートしながらも、当時の尖がった?知識人らしい自由闊達な描写。同じ戦時中でも、太平洋戦争時にはこんな雑誌は作れなかっただろうなあと思いました。

 

 

 

 ご存知の通り、富士山の登山道は、富士吉田口、須走口、御殿場口、富士宮口の4つ。江戸時代、さかんだった富士講の巡礼者は主に富士吉田口を利用していました。

 

 明治16年に東海道線が開通すると、御殿場口が一番人気に躍り出ます。丹那トンネルが出来るまで、東海道線は今の御殿場線を走っていたのですね。で、駅から一番近い登山口が御殿場だったというわけです。

 萱沼さんがコレクションしている当時の絵葉書がこれ。SLをバックDsc02966にした富士山、かっけー!ですよね。

 

 

 

 

 

 【富士画報】では、東京からのお勧めルートとして①御殿場口、②富士宮口(鈴川駅から大宮まで鉄道馬車利用)、③須走口(御殿場から鉄道馬車で要3時間)、④富士吉田口(東京から最も不便)と紹介しています。

 

 富士吉田口は、現代では最も登りやすく、登山者が最も多い人気登山口ですが、当時は大月まで汽車で行き、鉄道馬車を乗り継いで登山口まで半日~1日かかってしまっていたようです。

 

 

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 こちらは、萱沼さんの古絵葉書コレクションでビビッときた「金明水」。山頂近くの湧水スポットで、御殿場の地酒「金明」の酒銘の由来となった水です。地酒「金明」についてはこちらのブログもぜひ合わせてご覧ください。

 

 

 

 

 

 萱沼さんの富士山講座第2弾は、9月8日(日)13:30~15:30から「忘れられた富士講~鳴沢村山臣講関連碑をめぐる考察~」が開催されます。受講無料。興味のある方は富士ビジターセンターへご予約ください。fuji-v.c@peach.ocn.ne.jp

 


ルドンとゴーギャン魂の対話

2013-07-23 19:58:02 | アート・文化

 20日(土)午後、静岡市美術館で開催中の『オディロン・ルドン―夢の起源、幻想のふるさとボルドーから』を観に行きました。

 

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 ルドンは高校生の頃、美術の授業で自分の好きな花の絵を選ぶ機会があり、どういうきっかけか忘れましたが、ルドンの花の絵を選んで以来、ずっと好きな芸術家の一人でした。10代のころは、なんとなく浮世離れした、幻想的でグロテスクで神秘主義的なルドンの作風にハマっていたんですね。

 

 

 

 国内で何度か展覧会を観ていますが、静岡で観るのは初めて。今回は、ルドン展にちなんだ講演会「ルドンとゴーギャン、魂の対話」があり、専門家の解説を聴講し、ルドンの人となりが判って、なんとなく大人目線で客観的に鑑賞することが出来ました。

 彼がワインで有名なボルドーの裕福な良家の出身で、お母さんとの関係が悪くて内向的な性格だったらしいけど、わりと大人しくて常識的な人・・・など等。作家自身のバックボーンを知って鑑賞するのって、ある意味、つまんないかもしれないけど・・・(苦笑)。

 

 

 

 ゴーギャンと深い関わりがあったことは、今回初めて知りました。20日14時からの講演会「ルドンとゴーギャン、魂の対話」は多摩美術大学の本江邦夫教授が講師を務めました。

 

 

 ルドンは1840年ボルドーの良家生まれ。幼い頃から絵が好きで、父の勧めで建築家を目指すも、試験に落ちて挫折。画家を目指し、当時、急速に発達した科学技術にも興味を持ち、顕微鏡で生物や植物を覗いては光と闇、生命と死について考察するオタクな人だったようです。

 

 

 

 

 一方、ゴーギャンは1848年パリ生まれでジャーナリストだった父の赴任先・中南米育ち。株式仲買人という当時の最先端ビジネスに従事していましたが、1883年、35歳で仕事をやめて画家に転身しました。

 2人が出会ったのは1886年の第8回印象派展。このときルドンは、明るい色彩の印象派の中で、黒一色の空想的な怪物を描いた作品を出品して周囲を驚かせます。でもゴーギャン的にはツボにはまったんでしょうね。人間嫌いで有名なゴーギャンにとって、ルドンは唯一無二の、尊敬・信頼できる先輩となったのでした。彼がパリに嫌気がさしてタヒチに移住するときも、植民地事情に詳しいルドンの妻(混血美女だったらしい)にいろいろ指南してもらったそうです。

 

 

 2人の親交の深さを物語るのが、互いに交換した作品。ゴーギャンはルドンに壷を、ルドンはゴーギャンに「聖アントニウスの誘惑」という作品を進呈しました。当時、作家同士で作品を交換することが最上の友好の証といわれていたようです。

 

 

 1890年9月、ゴーギャンがルドンに宛てたタヒチ行きの決意表明の手紙にはこんな一節があります。

 

 「私はタヒチに行きます。そして、そこで一生を終えるつもりです。おもうに、あなたが好んでくださる私の芸術はまだ胚芽にすぎません。私はそれを彼の地で、自分自身のために、プリミティブで野蛮な状態のまま育て上げたいのです。そのためには落ち着きが必要です。他人のための栄光など一体なんの意味があるのでしょう」

 

 

 また1901年8月に書かれたゴーギャンのルドン評にはこんな一節があります。

 

 「自然は無限の神秘と想像力をもっている。自然はその産物をつねに変化させつつ姿をあらわす。芸術家自身がこうした手段の一つであり、私にとってオルティン・ルドンは創造の連続性を維持すべく自然によって選ばれた者のひとりである。彼の描くすべての植物や萌芽的な存在は、本質的に人間的なものであり、私たちと共に生きてきたのである。だからこそまちがいなく、それらには、それらなりの苦しみがあるのだ」

 

 

 ところがルドンが後年、色彩を多用するようになると、タヒチで人づてにそれを聞いたゴーギャンは、痛烈に批判します。

 

 「ルドンについて言えば痛ましい限りです(もう老いぼれですよ!)。-だれかが彼に言ったのです。あなたは大変な色彩家ですと。そしてそれで十分だったのです。なにしろ彼ときたら色彩を理解することなど決してなかったのですから。それにまた(黒という)ただひとつの色調に全速力で駆り立てられた想像力が疲れ切ってしまったのかもしれませんね。

 

 ぼくがいつも言ってきたのは、画家の手になる文学的なポエジーというのは、特殊なもので、書かれたものの形を用いた図解でも翻訳でもないということでした。要するに絵画にあっては、記述よりも暗示を追求すべきであり、これは他では音楽がはたしていることです。ぼくの絵は理解しがたいとよく言われるのですが、それはまさしく、そこに説明的な側面を探そうとするからに他なりません。ぼくの絵にはそんなものはないというのに―」

 

 

 

 

 ゴーギャンは1903年、マルキーズ諸島ヒヴァオア島で心臓発作のため亡くなります。その2年前、死期を悟った彼は、自ら制作した花瓶にヒマワリを生け、その背後にルドンの黒の時代のトレードマークだった目玉の怪物を配置した絵を描き上げていました。ゴッホとルドンに敬意を表したんですね。

 

 ルドンは1916年、パリで亡くなりました。晩年はフォンフロワド修道院の図書室の壁画制作に臨みました。壁画をオーダーされるというのが、当時の画家にとって最高の名誉だったそうです。またゴーギャンの訃報に接した後は、彼を鎮魂する作品を何枚か描きました。

 

 

 

 紆余曲折があったにせよ、ルドンは76年の生涯を、わりとおだやかに、まっとうしたと思います。ゴーギャンのほうが芸術家らしい破天荒な一生だったかもしれません。そして芸術家としてのネームバリューは、あきらかにゴーギャンのほうが高い。

 

 しかし、そんなことは、後世の我々だから言えることで、同じ時代に生きて出会い、ときに尊敬しあい、反発しあい、切磋琢磨した者同士、どちらが上か下か、幸運か不運かなんて比べるのは意味がないこと。作品を交換したり、自分の作品に相手のシンボルを遺す・・・これは表現者同士のこの上ない絆の証明ではないかと思います。

 

 

 ルドンの後輩にあたる画家ドニの日記に、ルドンが残した印象的な言葉が残っていました。

 

 「ルドンのことば(ある若い画家に向けて)。

 《自然とともに閉じこもりなさい》。

 あらゆるものを、その素材にしたがって描くこと。ごつごつした樹木、すべすべした肌を。」

 

 

 静岡市美術館のルドン展は、8月25日まで開催中です。詳しくはこちらを。


天使の分け前

2013-07-19 20:49:14 | 映画

 今月は映画を1本も観ることができず、ストレスが溜まりに溜まっていたのですが、やっと時間がとれて、静岡のシネギャラリーで今日(19日)まで上映の『天使の分け前』を、ギリギリセーフで観てきました。2012年のカンヌ映画祭審査員賞受賞作品ですね(ちなみに今年の審査員賞は是枝監督の「そして父になる」)。

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 それにしても、小粋なタイトルですよね、天使の分け前って。お酒の用語なんですよ。

 

 私がテキストにしている『ウイスキーの教科書』(樋口孝司著)によると、熟成中のウイスキーは水分と一緒に不快な香味成分(硫黄化合物など)を樽の外へと放出します。これを専門用語で「蒸散」というのですが、蒸散の働きによって雑味や刺激臭が和らぎ、年2~3%液量が減る。これを“天使の分け前”というのです。

 

 

 

 蒸散せずに残った液体は酸化し、熟成し、樽材から溶け出した香味成分と、アルコールや脂肪酸などがエステル化して、ウイスキー独特の香りになるのです。

 

 

 というわけで、この映画、ウイスキーのウンチクがたっぷり楽しめるかと思ったら、まったく違ってました。

 喧嘩に明け暮れるグラスゴーの青年ロビーが、収監を免れる代わりに課せられた社会奉仕活動の指導者ハリーによって人生を一変させるハートフルコメディ。ロビーを親身に世話するハリーがウイスキー愛好家で、蒸留所見学やテイスティングの会に連れて行かれるうちに、ロビーは利き酒能力に目覚め、100万ポンドの樽入り超高級ウイスキーや世界的なコレクターと“対峙”することに。周囲の人間と衝突してばかりの落ちこぼれ青年が、恋人に子どもが生まれたことで己を振り返り、生まれて初めて信頼できる大人に出会って、己の知恵と度胸で一発逆転の勝負に出る・・・彼に、“天使の分け前”が与えられるのかどうか、最後までハラハラさせられます。

 

 

 

 

 期待していた酒造りの映画ではなかったけれど、彼の周りの不純なものが蒸散していく過程は、まさにウイスキーの製造工程そのもの。原料に果物は使わないのに「フルーティーだ」と表現したロビーのテイスティング能力を、プロの専門家が評価したり、ロビーが「潮の香りがする」と評したことに仲間がビックリするくだりなど随所にテイスティング用語が使われ、利き酒の経験がある人ならば思わずニンマリ。幻のシングルモルトにオークションで100万ポンド(1億3千万円)以上もの値段をつける道楽者たちに、ひと泡ふかせる大芝居が、なんとも皮肉で痛快です。

 

 最後はちょっと甘いんじゃないの~?とも思えるオチだけど、ロビーが人間として成長していくには、相応の熟成期間が必要だろうし、天使の分け前をどう活かすのかは、また別の物語になるんでしょう。

 

 

 

 

 映画に登場するウイスキーは、超幻のモルト・ミル、ラガヴーリン16年、スプリングバンク32年、クラガンモアなど。とても手が出る酒ではありませんが、せめて名前だけでも覚えておかDsc02465
ねば。

 ちなみに私が「飲んだどー!」と自慢できるスコッチは、65歳のボウモア。ウイスキーの味や香りは、麦が育った土の環境、麦芽を完走させるときに燃料と一緒に使うピート(泥土)、酵母の種類、水の環境、樽の種類、そして熟成の時間・・・実に複雑な要素が絡み合います。これに比べたら日本酒はシンプルだけど、シンプルゆえに職人の手加減匙加減がストレートに左右する。・・・どっちもスゴイ酒だと思います。

 

 

 いつか自分も、日本酒造りの過程を人生になぞらえた物語が書けたら・・・なんて思っちゃいました。

 

 ちなみに、日本酒に“天使の分け前”に相当するものってあるのかなあ。あったら誰か教えてください。


7月後半のイベント案内

2013-07-18 14:33:43 | 地酒

 しばらく更新が滞ってしまいました。猛暑の中、バイト先のお寺が、お施餓鬼やお盆で忙しく、久しぶりにガチンコ肉体労働してました。毎晩浴びるようにビールを飲んでいたので、減量は出来ませんでしたが、運動代わりにはなったかな。施餓鬼やお盆のしきたり、お寺と檀家さんのカンケイ、お寺の後継者モンダイなど等、単なる歴史好き・寺めぐり好きでは見えてこない現代仏教の内側が垣間見えて、興味深い日々でした。

 

 

 ご案内したい情報がいくつかあるので、今日はとりあえずお知らせを。

 

 

 日刊いーしず隔週連載の地酒コラム【杯は眠らない】第12回(こちらを)で、富士高砂酒造を取り上げました。世界遺産のお膝元の酒蔵ということで、前回の金明(御殿場)に続いての紹介です。蔵というより、私の場合は「人」の紹介かな。金明の根上さんにしても、高砂の杜氏・小野さんにしても、古いつきあいなのに、今、酒造りにどのような気持ちで向き合っているのか聞く機会が減ってしまっていた。富士山の世界遺産決定が、“再会”のきっかけになり、あらためてじっくり語り合ってみると、造り手として変わらない矜持がそこにあった・・・とても嬉しい取材でした。

 

 記事でも触れましたが、7月27日(土)14時から20時まで、富士高砂酒造で夏の蔵開きが予定されています。夏祭りっぽく、富士宮グルメの屋台やよさこい音頭など等で盛り上がるようです。酒蔵の内部をフリーで見物できる貴重な機会ですので、よかったらぜひいらしてください!

 

 

 

 

 

 

 

 直近ですが、7月19日(金)から21日(日)まで、静岡市の七間町通り、旧映画館跡の「アトサキ7」で、【伊豆フェス2013】が開かれます(こちら)。伊豆半島のグルメや手ワザなど等が、静岡市のど真ん中で楽しめる地域間交流イベント。この夏、伊豆へ旅行予定の人も、予定のない人も、つかのまの伊豆気分を堪能してみてください!

 

 

 

 

 

 歴史好きの方には、こちらを。静岡県朝鮮通信使研究会の今年度第2回例会が7月31日(水)19時からアイセル21で開かれます。

 今回のテーマはずばり「朝鮮通信使と富士山」。朝鮮通信使の訪日記録『使行録』にはたびたび富士山の記述が登場し、私が脚本制作にかかわった映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』でも、冒頭に、通信使が「富士山だ!」と興奮するエピソードを入れました。

 今まであまり注目されてこなかった、歴史上の外国人から観た富士山像に迫るタイムリーな講演です。誰でも無料で聴講できますので、お時間のあるかたはぜひ!!

 

 静岡県朝鮮通信使研究会第2回例会「朝鮮通信使と富士山」

  ◇日時 2013年7月31日(水)19時~21時

  ◇場所 アイセル21 4階44集会室 (アイセル1階の案内板は「静岡に文化の風をの会」名になっています)

  ◇講師 北村欽哉氏(朝鮮通信使研究家・郷土史家)

 

 

 


富士山~水の恵みと銘酒

2013-07-03 09:02:46 | 地酒

 富士山の世界文化遺産登録に関する記事、6月23日・24日に続いて、7月1日・2日にも中日新聞広告特集に掲載しました。

 2日の記事では、水にまつわるお話を紹介しました。6月30日のNHKスペシャル富士山で紹介された幻の地下水源探検のようなスペシャルなネタではありませんが、個人的にはなんとか地酒ネタにつなげようと頑張りました(笑)。

 この夏は、富士山を登る人も眺める人も、冷酒でスカッと乾杯してくださいね!

 

 

水の山・富士山の恵み<o:p></o:p>

(中日新聞 7月2日朝刊 祝・富士山世界文化遺産登録広告特集)

 

 

富士山は、世界遺産登録基準の文化的項目によって評価されたが、精神文化を育んだ自然の美しさや気高さにこそ価値がある。とりわけ、信仰や芸術の“源泉”となった湧水や伏流水、富士山の景観美を倍増させる湖沼や海・・・富士山ほど〈水〉と相性のよい山も珍しい。(文・写真 鈴木真弓)<o:p></o:p>

 

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湧玉池(富士宮市・富士山本宮浅間大社境内)<o:p></o:p>

 

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富士山本宮浅間大社境内にある湧玉池は、富士山麓の雨水が溶岩流の末端で湧き出したもので、富士宮市内を流れる神田川の源泉。室町時代の富士登山を描いた『絹本著色富士曼荼羅図』には、この池で登拝者が身を清める姿が認められる。彼らは六根清浄を唱えながら禊(みそぎ)を行い、霊山富士への思いを新たにした。池に連なる神田川の遊水ふれあい広場は、涼を体感する避暑スポットとして市民に愛されている。<o:p></o:p>

 

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白糸の滝(富士宮市)
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無数の白い糸を垂らしたように水が流れ落ちる『白糸の滝』。高さ2025m、幅約200mの溶岩壁から1日10万トンの水が湧き出し、水温は年間を通して15℃前後で一定している。<o:p></o:p>

 

常葉大学富士キャンパス社会環境学部の藤川格司教授は「この滝の湧水は約10万年前の古富士泥流層の溶岩と、その上に積もった約1万年前の新富士溶岩層の間から湧き出している。異なる地質から異なる年代の地下水が流出する、富士山麓特有の湧水の仕組みが分かる」と解説する。多くの和歌や絵画のモチーフになり、修験者の修行場として信仰されてきた名瀑は、地質学的価値も高かった。<o:p></o:p>

 

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猪之頭湧水群・陣馬の滝(富士宮市)<o:p></o:p>

 

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『白糸の滝』の北、芝川の上流に広がる『猪之頭湧水群』はニジマス養殖で知られ、養殖池がある一帯は、「井之頭」と表記されていた。この地で養殖業では珍しく、天然素材の餌にこだわる柿島養鱒の岩本いづみ社長は「ニジマスが川の中で長い時間をかけ、自然に育つ環境を再現したい。それには豊富な流水量が不可欠」と湧水群の保全に努める。
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 芝川の支流・五斗目木川にかかる『陣馬の滝』は、1193年に源頼朝が巻き狩りを行ったとき、陣を張った場所として知られる名勝。滝の一帯はマイナスイオンに包まれ、絶好の避暑ポイントにもなっている。

 滝の入口では毎月第2・第4火曜日に猪之頭地区の住民が東日本大震災チャリティーマーケットを行っている。(雨天中止。問合せは0544-52-0123 篠塚さんまで)。<o:p></o:p>

 

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富士山麓の酒蔵<o:p></o:p>

 

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22日、世界文化遺産登録決定の瞬間を待ちわびる富士宮市民は、昼12時から市役所で用意された祝賀イベントに集まり、市内4蔵(高砂、白糸、富士正、富士錦)が提供した日本酒で乾杯の前祝いをした。登録が決まった翌23日は、市内各所で晴れ晴れした表情で乾杯酒を酌み交わす人々の姿が見られた。<o:p></o:p>

 

 

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 富士宮市内の4蔵は、冬~早春の酒造期、共同で蔵巡りイベントを開くなど、富士山麓の名水に育まれた地酒の価値をアピールしている。世界文化遺産登録が叶った今年の酒造期は、さらに多くの地酒ファンで賑わいを見せることだろう。
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名水が必要不可欠である酒造業。近年、酒質の高さが評価されている静岡県の吟醸酒は、洗米から始まる仕込み工程で大量の水を使う。仕込み水を道具洗いにもふんだんに使えることに、県外出身の杜氏や蔵人が感心する。「原料米や職人は外から調達することもできるが、水だけは持って来られない。この地で酒造業を続けられるのは、この水あってこそ」と富士山周辺の蔵元は口々に語る。

富士宮市猪之頭の南西、芝川町柚野地区にある富士錦酒造の清信一社長は「水を扱う事業者として、毎年2回欠かさず水質検査を行っていますが、まったく変化がない。富士山のろ過機能というのは凄い」と言う。<o:p></o:p>

 

 

 

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一方、御殿場には、富士山頂の浅間神社に湧く霊水・金明水にちなんだ地酒『金明』がある。醸造元は御殿場市保土沢にある根上酒造店。『富嶽泉』『富士自慢』など富士山にちなんだブランドもそろえる。<o:p></o:p>

 

 

蔵の敷地には、富士山の雪解け水が勢いよく湧き上がる自噴井戸がある。水温は年間を通して1213℃と安定し、水質はやわらかな軟水タイプ。平地で湧く川の伏流水とは若干異なり、火山質の土壌をくぐりぬけ、ほどよく含んだミネラル分が酒の発酵を活発にする。自ら杜氏を務める根上陽一社長は「この水と相性がよく、富士山麓の土にあう酒米を育て、水も米も杜氏もオール富士山育ち、という酒を醸していきたい」と意欲的だ。

*金明については、こちらの記事もご参照ください。

 

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忍野八海(山梨県忍野村)<o:p></o:p>

 

富士山の伏流水が溜まった8つの湧水池・忍野八海。いにしえの巡礼者が8つの竜王を祀り、富士講信者が富士登山の前に身を清めた聖地でもある。<o:p></o:p>

 

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『湧池』は
忍野八海のなかで一番賑やかな通りに面しており、観光みやげ物店や蕎麦粉をひく水車小屋等が整備されている。伝説によると富士山の噴火のとき、天から木花開耶姫命の救いの声が響き、その直後、溶岩の間から水が湧き出し、池となったとされる。現在でも住民の飲用や灌漑用水の供給源として利用されている。

 

 

 

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隣接する『濁池』は実際に濁っているわけではなく、池底から少量ながら湧水が確認されている。伝説によると、ある日、みすぼらしい行者がやってきて一杯の飲み水を求めたところ、地主の老婆がただの乞食と思って無愛想に断った途端、池は急に濁ってしまったという。水は器に汲み取ると、不思議なことに澄んだ水に変わったそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

柿田川湧水(静岡県清水町)<o:p></o:p>

 

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 富士山の湧水地として名高い柿田川は、最後まで世界文化遺産の構成資産候補入りが検討されていた。残念ながら〈信仰と芸術の源泉〉という条件には適わないとの判断をされたが、構成資産候補になったことで注目され、国天然記念物の指定を受け、保全整備が進んだ。

 県世界遺産推進課の小野聡班長は「長年、地元の人々が手弁当で保全に努めていた活動が功を奏した。世界遺産に登録されなくても、地域が率先して富士山の恵みを守り伝えた経緯を、貴重な事例にしたい」と語る。

 

 

湧水や川の保全を考えるということは、その流域全体の暮らしや産業の在り方に向き合うことだ。世界文化遺産と共生することになる富士山麓の人々にとって、避けて通れないテーマになりそうだ。