杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

近世農書に学ぶSDGs

2017-04-23 20:13:43 | 農業

 私が制作を担当しているJA静岡経済連発行の『S-mail(スマイル)』について、配布先の一つ・浜松市立中央図書館からA4数枚にわたって感想レターが届きました。

 最新56号のみかん特集は「さながら静岡みかんの百科事典のようだ」とお褒めをいただき、図書館利用者のために検索カードを手書きで作成されたとのこと。たとえば、みかんの輸出について調べに来た人には〈分類記号591-31-K「S-mail56号11ページ」〉と書いたカードをもとに該当ページをお見せし、利用者はコピーして持ち帰るというわけです。

 今回のみかん特集では〈みかん2017年〉〈天下糖一〉〈寿太郎みかん〉〈機能性表示食品〉〈みかんの輸出〉の計5枚の検索カードを作られたそうです。どんなキーワードで資料請求されるのか、該当書籍をじっくり読み込んで想定されるキーワードを抽出されたんですね。その5枚の手書きカードのコピーも同封されていました。

 このような検索カードの作成はスマイルの創刊時からずっと続けてこられたそうで、スマイルに限らず、あらゆる郷土資料を対象にされているそうです。官公庁や各種団体・企業等から寄贈される冊子は膨大な数でしょう。情報閲覧コーナーに置かれているのをよく見かけますが、ただポンと置いただけでなく、利用者のためにそのような情報整理に尽力されていることを初めて知って感動しました。と同時に、情報とは集めて発信したら終わり、ではなく、必要とされている人の元へ丁寧に届けてこそ初めて活かされる・・・私が情報の一次的整理屋だとしたら、この図書館スタッフさんのように二次的整理をしてくれる人がいてこそ真に活きるのだ、と実感しました。

 

 情報の発信媒体を制作する“一次的整理屋”の責任はますます重要になるなあと身が引き締まり、自然に、最寄りの静岡市立中央図書館に足が向き、新刊コーナーで見つけたのが『地産地消の歴史地理』。地域の農業情報を発信する上で外せない参考書だ!とピンと来ました。

 著者の有薗正一郎氏は愛知大学文学部教授。地理学をベースに、近世の農耕技術と近世~近代庶民の日常食の研究をライフワークにされている方です。本書は江戸時代に書かれた農書を読み解いたもので、私が禅で学んだ〈知足〉、今のトレンドでいえばSDGs〈Sustainable  Development  Goals=持続可能な開発目標〉につながる先人の教えが凝縮されていました。ここで、図書館スタッフさんのようにキーワードを抽出して二次的整理をしてみますね。

 

◆水田の冬期湛水

 前回に続いて日本史の教科書の話になりますが、現在の教科書では「畿内や西日本一帯では麦を裏作とする二毛作が普及していった」と教えています。春~秋は稲を、晩秋~早春には麦類を作り、水田を有効活用していたということで、摂津国尼崎では三毛作(稲⇒木麦⇒大小麦)まで行っていた記述が、室町時代の朝鮮通信使・宋希璟の老松堂日本行記(1420)から判明。すなわち、限られた水田を二毛作・三毛作で利活用する地域は農業が発達した賢い地域、一毛作=冬期は何も作らず田んぼを湛水状態にしておかざるをえなかった地域は、用水不備で集約化技術も劣った地域と考えられてきました。

 しかし有薗先生は遠江・駿河国の安居院庄七が書いた『報徳作大益細伝記』(1848~53)をはじめ、伊予国『清良記』、三河国『百姓伝記』、岩代国『会津農書』、安芸国『竹原東ノ村田畠諸耕作仕様帖』、常陸国『農業順次』等、全国各地の近世農書をきめ細かく読み込み、ほとんどの農書で水田では裏作を行わず冬期湛水を奨励していたことに言及。一毛作は、明治17年の農商務統計表の田地作付区別で75%、戦後、耕地利用率が最も高かった1950年でも65%を占めていたと報告しています。

 なぜ近世農書の著者たちは水田の一毛作を奨励していたのか。答えはいたってシンプル。米をちゃんと作り続けるためです。水田とはそもそも夏期に稲を作付して米を作る場所。来春の灌漑水を確保し、水田の地力を維持して一定量の米を収穫するため冬期湛水が必要で、低湿地の生態系にも適応しています。

 不耕起自然農法で知られる岩澤信夫氏は『究極の田んぼー耕さず肥料も農薬も使わない農業』(日本経済新聞社)の中で、冬期湛水の効用について「大量に増殖するイトミミズなどが土壌を肥やす」「厚い軟泥層ができて太陽光が水面下の土層に届きにくくなり、雑草の発芽が抑えられる」「水中の微生物が有害物質を体内に取り込み、水質を浄化する」「湛水した田は赤とんぼの卵が冬を越し、各種のカエルが卵を産む。人間から見て害虫と天敵との数の均衡がとれている場所」と記しています。稲の一毛作と冬期湛水を奨励した江戸時代の農業指導者たちも同じ環境観を持ち、その効用を体得していたんですね。

 ただし、いずれの農書も畑では多毛作を奨励しています。冬の作物を作付した畑では、必ず夏作物と組み合わせる。それは夏に高温多湿となる日本列島で、畑に雑草を繁茂させない知恵でもありました。

 

◆農民も米をしっかり食べていた

 近世は日本国民の9割が農民です。農民は、米を作りながらも自らは麦・粟・稗といった雑穀しか食べられない貧しい生活を想像しがちですが、有薗先生の調査によると、結構しっかり米を食べていたそう。ただし今の食糧庁のように全国規模で統計調査ができる組織のない時代の話で、日常食はその土地で主に収穫できるものを地産地消していました。

 多くの地域で米と麦を混ぜた麦飯が主流だったようですが、米の割合が高い地域と、麦の割合が高い地域、それ以外の主食もある地域(薩摩藩のサツマイモなど)に大別できるそう。明治以降は人口増加に対応して米の生産量も増え、明治10~11年頃(1877~78)には年平均で米が約2600万石、麦が560万石で、20世紀前半まで米8対麦2ぐらいの割合でした。農民が麦を全量消費していたと仮定すると、農民が食べていたのは米2対麦1ぐらいの麦飯だった、ということです。

 ちなみにわが駿河国は米が62%・麦が38%。米の割合が全国で唯一、ヒト桁だったのは、長崎対馬の米5対麦95でした。朝鮮通信使外交の仲介役だった対馬が、大陸との貿易に必死に活路を求めていたことが、こういう数字からも理解できます。

 

◆外国人が見た庶民の日常食

 有薗先生は16~20世紀前半に来日した外国人が記録した日本庶民の食生活について考察しています。調査した訪日外国人30人の記述の大半で「日本庶民の主食は米である」と明言しており、上記の記述を裏付けしています。スペイン人ドン・ロドリゴの1609年の記録では上総国夷隅郡岩和田村の住民の常食は「米および大根茄子等の野菜と稀には魚類なり」とあります。ロドリゴは、例の徳川家康公がスペイン国王から洋時計を贈られたきっかけの、千葉御宿沖で座礁したスペイン帆船提督。岩和田村というのは御宿のこと。予期せぬ来日だったでしょうが、当時の日本庶民の暮らしぶりを貴重な証言として残してくれていたんですね。

 1775年に来日したスウェーデン人トウンベリは「米は真っ白でおいしい。日本人にとって、それは我々のパンに当たるものであり、炊いて他のすべての食物と一緒に食べる。一般大衆は魚や葱を入れて煮た味噌汁を、食事のたびに食べる」と記録。1811年来日のロシア人ゴローニンは「米は日本人にとって必要欠くべからざる穀物である、日本は君主から下は乞食に至るまでみんな米を食べている。また米から火酒の一種を蒸留し、またサキと称する弱い飲料を作っている」。1860年来日のドイツ人マーロンは「極貧の家庭の食卓でも、毎日、魚、米、豆、大根などがのぼる。金持ちの食卓もほぼ同じである。生活必需品が豊富でべらぼうに安いから、皆腹いっぱい食べられる」。

 1878年に来日したイギリス人バードは「労働者の一日当たりの米の平均消費量は2ポンド(約900グラム=約6合=ご飯茶碗12杯分)」と記しています。びっくりの量ですが、外国人が撮った当時の日本人の写真や素描を見るとメタボな体形は皆無。ご飯12杯分のエネルギーを消費する生活だったんですね。

 

◆外国人が見た日本人の飲酒と喫煙

 私が一番反応したのは、1597年に来日したイタリア人カルレッティのこの記述です。

「この国には酒も豊富にある。それは米から造られる。あらかじめ火にかけて生温かいというよりも少し熱くして飲んだり他人にすすめたりする」「酒は米から造られる。それは蒸気で蒸され、純粋の灰が混入され、黴が生じるまでそのままに寝かせておく。これには長い時間はかからない。同じ方法で灰も加えないし黴も生じていない煮(た)いた米をそれに加える。これらすべてが樽の中で水と混ぜられ、それは2~3日中に発酵する。それからそれは漉し布で濾されるのである」「人々は夏であろうと冬であろうと、酒を常に温めて飲む。その時に彼らは酒をちびりちびりと楽しみ、しばしば酔っぱらう」。

 ドイツ人ケンペルが1691年に書いた『日本誌ー日本の歴史と紀行』には「休み茶屋では茶のほかに酒はいつでもいくらでも飲むことができる。日本人たちは食後に酒を飲みながら歌ったり、碁や将棋をしたり、またはなぞなぞ合わせをしたりして打ち興じ、負けた者は罰として一杯飲まされる」とあり、1860年に来日したイギリス人フォーチュンは「江戸中は日没以降は酔っ払いの天下。長崎でオランダ医師のポンペ博士からも毎晩9時ごろまで、成人の半分は多かれ少なかれ酒を飲んでいると聞かされた」と記述。

 1889年に来日したドイツ人ムンチンガーの記述には「食事の間お酒も飲むが、これは米から造るアルコール飲料でシェリー酒のようなシャープな味がする。食後タバコを吸うが、これは男も女も若い娘も年取ったお婆さんも、である」とあります。喫煙はイギリス人オールコックやデンマーク人スエンソンも「日本ではほとんどの男女が喫煙する」「子どもも煙管で煙草を吸う」と記述しています。ちょっとびっくり!

 

 

 有薗先生は巻末に「外国人たちが見た日本庶民は、米を主食材にし、男女を問わず酒を飲み、仕事の合間に喫煙を楽しんでいた。19世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、他の点はどうであろうと、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった」とまとめています。 

 教科書で学ぶ近世といえば「鎖国」「飢饉」「百姓一揆」等々、社会不安をあおるキーワードが浮かびがちですが、この本を通読すると、近世の日本人は水田を多毛作で疲弊させず、生態系を循環させ、土壌保全に努めた結果、米を自らも腹一杯食べられる分、さらに酒造に回せる分までしっかり作っていたことがわかります。

 世界が戦争や革命に明け暮れていた17~19世紀、日本がかくも平和で安定していた最大の理由は、農業のSDGsを実践できていたことに尽きるでしょう。それを可能にしたのは、島国の安全保障上、一定の入国制限を行って平和を担保したから、とも言えますが、鎖国という表現はいかにも大げさですね、上記のレポートを見る限り、ヨーロッパの様々な国々から知識人が訪日していたわけで、私たちはこの国の社会の歩みを今一度、正しく見つめ直す必要があるのでは、と痛感します。

 

 こういう本に出合うと、農業の歴史についてもっと詳しく調べ、先人の環境観を今に活かす、そんな情報発信ができたら、と願わずにはいられません。・・・ああ、美味しい炊き立てご飯が食べたくなった!!

 

 

 


アカデミズムのアマチュアリズム

2017-04-17 10:02:13 | 朝鮮通信使

 私は未だに遠足の日の子どもみたいに、仕事のない日に限って早起きで、日曜は早朝からNHKラジオ第一の『マイあさラジオ』を聴くのが習慣になっています。日曜日の放送では〈サエキけんぞうの素晴らしき80'S(80年代音楽の解説)〉、〈著者からの手紙(話題本の紹介)〉が楽しみで、4月16日の放送では勢古浩爾氏の『ウソつきの国』が紹介されていました。『まれに見るバカ』は面白かったなあーと懐かしく思い返し、勢古さんの本を探しに行き、図書館で見つけたのが『アマチュア論。』。2007年ミシマ社発行の本です。文字が逆さになってますがこういう装丁です。

 

 

 2007年といえば、徳川家康が駿府城に入城した1607年から400年目、そして家康が朝鮮通信使を最初に招聘した年ということで、映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の制作にかかわったことは当ブログでも再三ご紹介してきました。

 思えば、私が朝鮮通信使の勉強を始めたのはこの年から。専門知識があって脚本を書いたのではなく、脚本を書いた後からまともに勉強し始めたのです。日朝関係史という難しいテーマにもかかわらず製作期間が3~4か月しかないというトンデモ条件に、プロの脚本家や構成作家が匙を投げ、資料リサーチャーとして臨時雇いされていた私が書く羽目になったわけで、朝鮮通信使研究家からみれば憤懣遣る方ない話だと思いますが、監修役の仲尾宏先生、金両基先生、北村欣哉先生は辛抱強く指導・監修してくださいました。

 トンデモ条件の超ブラック業務の見返りとして、私は先生方との出合いを実りあるものにしようと本格的に勉強を始め、レポート提出気分でブログに書き続けました。幸いなことに、地方で朝鮮通信使について地道に研究されている郷土史家の先生方に目を留めていただき、「スズキさんのブログは励みになります」と嬉しいお声かけをいただくことも。私のような素人の付け焼刃でも役に立つとは、朝鮮通信使研究はまだまだ発展途上のジャンルなんだと痛感し、この分野が一人でも多くの人の目にとまって関心を持つ機会になれば、との思いで書き続けています。  

 

 さて、2007年には朝鮮通信使研究の第一人者で、通信使史料の世界記録遺産登録を目指す日本側学術委員会会長を務める仲尾宏先生(京都造形芸術大学客員教授)が、岩波新書から『朝鮮通信使ー江戸日本の誠信外交』を上梓されました。新書版だけにとてもわかりやすく、スラスラ読める内容です。映画完成は5月、仲尾先生の本は9月の発行でしたから、先生の本がもう少し早く出版されていれば脚本を書くのもずいぶん楽だっただろうと臍を噛む思いをしたものでした。

 同書のあとがきに、「通信使一行の遺した足跡や交流の実像が、日本各地にはまだまだ埋もれていることはまちがいない。その理由の一端は明治維新以後の日本の近代では朝鮮と朝鮮人に対する偏見と蔑視感情が高まり、学校教育においてもすぐ前の時代にあった朝鮮との豊かな交流のことが意図的にかき消されてしまったからである」とあります。朝鮮通信使研究になかなか注目が集まらないのは、歴史教科書にまともに取り上げられない、いや明治以降は意図的に取り上げてこなかったせいだろうと、私自身そう思い込んでいました。

 ところが10年経た今年の3月11日、福山市鞆の浦で開催された朝鮮通信使関係地方史研究部会(仲尾宏会長)で、北村欣哉先生が「明治以降~戦前の小学校国定教科書すべてに朝鮮通信使の記述は載っている」と発表。4月13日の静岡県朝鮮通信使研究会例会でも詳細に解説されました。要約するとー

 

◆明治11年(1878)『新編日本略史』・・・まだ教科書が自由出版・自由選択だった時代でしたが、「家康、対馬守宗義智ニ請テ曰ク・・・」と家康が朝鮮王朝との国交回復に乗り出し、江戸後期の文化8年まで計12回の通信使来聘を時系列に紹介。とくに正徳元年は新井白石の対通信使接遇と詩の交換について詳しく記述。

◆明治20年(1887)『日本小史』・・・初めての文部省検定済教科用書。「我ト汝ト、固ヨリ宿怨無シ、若シ好ミヲ修メムトセバ、コレヲ許スベシト、朝鮮喜ビテ、使臣ヲ送リ来聘ス、是ニ於テ、両国ノ事平ギ・・・」と紹介。ちょっと上から目線ではありますが家康が国交回復を望んで和平を実現したとあります。

◆明治36年(1903)~昭和18年(1943)の国定教科書にはすべて掲載。明治36年版では通信使行列図の挿絵入りで詳細に記述。挿絵の先頭には「巡視」「令」と書かれた旗が。これは王が属国を視察して廻るという意味があるため、明治43年(1911)版ではこれをカット。

◆大正10年(1921)版では「はじめ家康朝鮮と交を修めてより、将軍の代がはり毎に、朝鮮より使を我が国に送る定めなりき。然るに幕府の之をもてなすこと、勅使よりも厚き様なれば、白石は之が為にわが国の體面を損ずるを論じ、将軍にすすめて其のもてなし方を改めしめたり」。通信使の接待が我が国の天皇の勅使よりも盛大なのは問題だとして新井白石が接遇を簡素化したことを紹介しています。

◆昭和18年(1943)版ではさらに詳細に記述。ただし挿絵はカット。この年から「鎖国」という言葉が使われるようになりました。

◆昭和21年(1946)『くにのあゆみ』・・・戦後初めての小学生向け教科書では記述なし。

◆昭和27年(1952)山川出版の高校教科書には「1609年には日鮮修好条約が成立し、朝鮮の使の来朝となった」と表記。昭和35年(1960)版から挿絵入りで文字数も激増。

◆昭和47年(1972)東京書籍の中学教科書に42文字で登場。昭和62年には挿絵が加わりました。

◆昭和52年(1986)大阪書籍の小学生向け教科書に「朝鮮との国交もひらかれました」と紹介。東京書籍版には琉球王朝は登場するも朝鮮通信使の記述はなし。

◆平成以降は小学生、中学生、高校生向け教科書に記述が増えています。

 

 

 北村先生はもともと高校で日本史の教鞭をとっておられたので、朝鮮通信使の研究は、学校教科書でどのように書かれたかを調べることからスタートされたそうです。2001年2月、清水の興津・清見寺に、日本の朝鮮通信使研究の先駆者である辛基秀氏をお招きし、高校の同僚の中川浩一先生を交えて3人で興津駅前の居酒屋で酒を酌み交わしたとき、辛氏が「学校教科書には朝鮮通信使のことは一切載っていない」、中川先生は「いや自分が使っていた教科書には載っていた」と大激論になったとか。

 

 辛氏は著書『朝鮮通信使』(1999)でも「明治の教育は、この善隣友好の時代を黙殺し無視し、日本帝国主義による朝鮮支配を正当化するため、秀吉の朝鮮侵略は日本の国威を海外に宣揚したものであると強化し、秀吉を国民的英雄として美化し、虚偽の歴史を教えることを目的とした」と断言するほど戦前の教科書を批判し、金両基先生も「朝鮮王朝は江戸幕府が国書を交わして交流した唯一の国であるという歴史的事実が、長い間閉じ込められていた。かくしきれないほどのこの大きな歴史的事実が1910年の日韓併合条約以降消されていった」(日韓の比較文化研究2005年)と述べています。仲尾宏先生もこの論調に準じられたようです。

 中川先生は北村先生に「教科書からかき消されていたという誤解を、必ず正してくれ」と言い残して亡くなり、北村先生はその意を継ぐかのように丁寧に綿密に調査され、第一人者といわれる研究家の説を覆したのでした。

 先入観のない立場から見ると、第一人者の先生方は、戦前の教科書が朝鮮通信使をどう扱っていたのか、ちゃんと調べればわかるのに、なぜ“裏取り”をしなかったんだろうと不思議に思えます。江戸時代の日本と朝鮮半島の善隣友好の歴史を、江戸徳川時代を否定することから始まった近代日本が肯定するはずがない、その後日本が朝鮮半島にしてきたことを見れば自明だ・・・そんな思い込みがあったのでしょうか。

 

 4月15日には静岡駅前サールナートホールで開催された京都学講座を受講し、花園大学文化遺産学科の福島恒徳教授から文化財の真贋について興味深いお話をうかがいました。専門家が文化財指定のお墨付きを与えた後で、偽物コピーだったと判明する事件が時々起きる。偽物コピーだと薄々わかっていても骨董市場で平然と流通されるのは、最初にお墨付きを与えたのが第一人者といわれる高名な大学教授だったりするから・・・というきわどいお話。「〇〇先生の鑑定に異論を唱えることはできない」―そんな空気に支配されるのは、アカデミズムに限ったことではないかもしれませんが、真実を究明する精神を曇らせた歴史家はプロといえるのでしょうか。

 

 そんな、奥歯にものが挟まったような心境で巡り合った『アマチュア論。』。勢古氏は轡田隆史氏の『考える力をつける本』の一節を引用しています。

「考える力とは、実は、ものごとの細部にわたって、積極的に意識して行動する力なのだろう。僭越にもつけ加えるなら、考える力とは、結局は、一個の人間として恥ずかしくない生き方を、どう選んだらいいのかという問題にゆきつくものであるらしい」。

 この、「ものごとの細部にわたって、積極的に意識して行動する力」を、北村先生は発揮されたのだろうと腑に落ちました。

 

 勢古氏のアマチュア論は26の格言に集約されています。いくつか紹介するとー

「一流のプロフェショナルはかならず見事なアマチュア精神を持っている」

「お題目ばかり立派で実体の不明な「プロ」を目指すより、人間としてのより良き「アマチュア」を目指す方がいい」

「目前のことに反射的に反応する前に、一拍おいて目前の意味を考えること」

「世間の言葉に従って安心を手に入れるよりも、自分で考えて間違うほうがいい」

 

 歴史研究においては、アマチュアのさらに下の「素人」同然の自分が、モノカキとしては「プロ」を自認する矛盾と葛藤にどう向き合うべきか、そもそもこうやって一銭にもならないブログ書きに時間を費やす自分はプロのライターなんだろうか、良きアマチュアとはどうあるべきか・・・途方もなく大きな宿題を突き付けられた気分です。