21日(水)夜、葵区大鋸町(おおがまち)にある茶懐石&喫茶の店『御所丸』で、「茶道に学ぶ経営哲学研究会を開催し、本格的な茶懐石を体験しました。
『御所丸』はセレブが集うような高級料亭ではなくて、街中に近い住宅街にあるカフェで、店内はご覧の通りのテーブル&椅子席。車いすの人でもそのまま入れるユニバーサルな雰囲気です。でも予約をすれば、ちゃんと格式にのっとったホンモノの懐石料理を出してくれて、定期的に茶道のお稽古もやっているそうです。茶懐石初心者にとっては誠に心強いお店ですね。
茶懐石では最初にご飯と汁物と向付(生もの)が3点セットで出てきて、そのあとお酒が出てきます。ご飯は後からお代わりが出来るので、軽く箸を付けて、向付を肴にお酒をいただくんですね。
『御所丸』ではお酒は常時、『初亀』。こんな薄い酒器なので、注いでもらう量は口中を湿らす程度なんですが、亭主がその都度注いでくれるのが、もてなしの一つのカタチなんですね。今回はテーブル席で同席したのが海野さん(静岡オンライン)、平野さん(タマラプレス)、私という面子だったので、勝手にぐいぐい注ぎ合って呑んでしまいましたが(苦笑)。
そのあと、煮物や焼き物や香の物など、ひととおりのコースが出てきて、亭主はころ合いを見て、正客から順にお酒の「お相伴」に預かります。
正客から盃をお借りしていただき、盃は次客へ渡してお酒を注ぎ、次客から盃をいただいて「お相伴」し、また次の客へ・・・と、盃を客と亭主がジグザグに渡しながら呑むので、亭主は結局、参加者全員から「お相伴」をいただくことになります。これを、盃がジグザグに千鳥足のように移動するから、「千鳥酒」というそうな。・・・亭主はそこそこ酒に強くなければ務まりませんね。
お食事がひととおり終わった後で、生菓子が出て、濃茶が登場します。濃茶というのは、その名の通り、ドロドロの濃~い抹茶で、ひとつのお椀で回し飲みします。ものすごい高価な抹茶を使ってくださったようですが、今まで飲んだことのない、粘土みたいなお茶で、唇を付けた程度でうまく飲めず、味がほとんど判らなかった・・・
そのあと、干菓子が出て薄茶を一人一椀でいただきます。この、最後の菓子&薄茶の部分だけが、一般的な茶席で普及したんですね。
初体験の濃茶の回し飲み。これは茶室という密室で、本当に心を許し合った者同士でしか共有できない作法だなあと実感します。16世紀後半、日本にやってきたイエズス会の宣教師たちは、キリスト教の儀式でワインを回し飲みする作法を思い起こしたに違いありません。
以前、川勝知事が県広報誌「ふじのくに」で和歌山大学前学長の角山榮さんと対談したとき、こんなやりとりをされました。
(角山)今まで教えられた歴史というのは、西洋文明が進んでいて日本人が遅れていたというものですね。時代遅れの日本にヨーロッパが進んだ文明をもたらしたと。それは逆で、こちらのほうが文明の中心だったのですよ。16世紀には世界中の船が日本の堺にやって来た。ここが先進文明の地だったからです。堺市の歴史をひも解くと、今までのヨーロッパ中心の歴史観がまったく違っていることに気づきます。南蛮人が日本人よりも優秀だったなんていうのも間違い。その一つがお茶です。
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(川勝)イギリスにはお茶よりも先に、オスマントルコからコーヒーが入ってきました。首都イスタンブールにはたくさんのコーヒーハウスがあり、イスラムの国なので男性だけが出入りしていた。そこにヴェニスやジェノバの商人がやってきて、コーヒーの飲み方を会得したのです。当時のヨーロッパ人はモーツァルトやベートーベンが『トルコ行進曲』を作ったように、中東のエキゾチックな文化に憧れをもっていましたからね。
そしてヴェニスやジェノバなど地中海周辺都市の文化に憧れていたのがイギリスだった。
トルコのコーヒー文化はあっという間にヨーロッパに広まり、コーヒーハウスに集まるため、男性が家庭から消えてしまい、怒った女性たちが「コーヒーか私か、どっちを取るの!?」と責め立てたほどです。女性たちはコーヒーに対抗するものとして、トルコよりもさらに東から入ってきたお茶に目を付けた、というわけです。
ヨーロッパでは文明は東方からもたらされるとされ、アジア全体が憧憬の地でした。たとえば陶磁器。肉料理を食べるヨーロッパ人は、フォークやナイフを使っても傷が付かない中国の陶磁器をチャイナといって珍重した。肉料理に使う臭み除けの香辛料も、インドや東南アジアからもたらされた。アジアには木綿も絹もお茶もある。ヨーロッパの商人は取引したくても、ヨーロッパ産で売れるものがなく、アメリカ大陸から略奪してきた金や銀を交換材料にした。
そんな彼らが憧れるアジアのもっとも東にある国が日本であり、日本の茶の湯だったのです。
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(角山)ヨーロッパ人と日本人では茶の湯に対する見方は違います。初めて茶の湯の世界を見たイエズス会の宣教師たちは、なぜ一杯の茶を飲むのに隅っこにある狭い入口から入り、煮えたぎった湯と変な形の細々とした道具を使うのか、しかもその器はイエズス会の年間活動予算より高価だと聞いて大変不思議がる。日本人というのは正月から節分、雛祭り、節句と1年を通してしょっちゅう宴会をやっている。肉食の国の民族からしたら、四季折々で酒や肴を味わい、締めくくりに茶をいただくという宴会スタイルが物珍しかったと思います。
17世紀初めに来日して約30年滞在し、『日本教会史』を著した宣教師ロドリゲスが詳しく考察しています。
応仁の乱以降、戦乱の時代になって、四六時中宴会を開くゆとりがなくなってからも、堺の町は比較的平和だったため、宴会の最後の茶事だけが、宴会のエッセンスを伝え残すものとして伝承されました。
堺で確立された茶の湯の文化とは、人間関係を構築する文化です。つまり、茶室のにじり口が狭いのは、武器(刀)を持っては入れないという意味で、茶室は完全に安全な空間として設計されました。湯のみを、全員の前で回し飲みするのは、茶に毒が入っていない証拠です。宴会のもてなしの論理やエッセンスが凝縮されている茶室という空間に、彼は大いに感動しました。
ヨーロッパ人は、何かあれば教会で神と対話することで収拾しようとしますが、アジアは神の代わりに近所づきあいや人間関係を大事にした。これは儒教の教えも影響していたと思われますが、ロドリゲスは「自分たちとは哲学が違う」と実感したようです。
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(川勝)よく、『CHA』のCはコミュニケーション、Hはホスピタリティ、Aはアソシエーションの頭文字だと言いますね。1543年に鉄砲が伝来し、1549年にフランシスコ・ザビエルが布教のためにやってきた。イエズス会というのは当時の最高のエリート知識集団です。そんな彼らが、室町~安土桃山~江戸時代の日本の生活文化を見続けました。
それ以前をさかのぼると、奈良時代、日本は中国から仏教を取り入れ、唐王朝の都市計画を真似てきた。平安時代に国風化の兆しが芽生えたものの、鎌倉期に入ると中国の南宋王朝から朱子学、儒学、禅の文化がもたらされ、日本は再び中国から学び始めた。室町期にも遣明船がさかんに渡っていました。
中国から大陸文化をひと通り受容し終わった安土桃山~江戸時代になって、ようやく日本独自のものが生まれてきました。数寄屋造り、いけばな、会席料理、能や狂言といったものです。これらは武家の教養として尊ばれます。その、日本的なものの集大成が、茶の湯です。
ロドリゲスの記録には、日本人の行儀作法が驚嘆や憧れをもって事細かく紹介されています。ガラクタに見える茶道具に一千両をつぎ込むこの国の人は、ヨーロッパ人がアメリカ新大陸から持ち込むしかない金や銀も持っている。まさに黄金の国ジパングを見る思いだったでしょう。その日本の文明を吸収しようと、多くの外国船が日本にやってきた。窓口になったのが堺です。
今日はクリスマスイブ。キリスト教と茶の湯が不思議にもシンクロしあいながら、安心と安全が担保された空間で、人々が時間を共有できる価値を伝えてきた意味を、少しは噛み締めてみたいと思います。