杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

2011年の呑み納め

2011-12-28 20:09:09 | しずおか地酒研究会

 寒い寒い仕事納めです。昨日の夜は、しずおか地酒研究会にとっても“呑み納め”。10月30日に玉露の里で開催した『酒と匠の文化祭Ⅱ』の打ち上げを、年末ぎりぎりになってようやく実現。多忙の中を10人のスタッフ関係者が集まってくれました。

 

 

 会場は、文化祭でボランティア助っ人に来てくれた平井武さんがマネージャーを務めるワールドビアレストラン「グローストック」。他の店ではなかなか飲めないレアな海外ビールも頼める呑み放題コースがあって、特別に地酒の持ち込みも許していただきました。

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 初亀醸造の橋本謹嗣社長が持って来てくれた搾りたて、極上シャンパンにも負けない、みずみずしい香りと爽快な飲み口で、一同大感激でした。

 

 また篠田酒店の篠田和雄さんが開運のレアな長期熟成酒を提供してくれて、ビアレストランらしからぬ酒盛りで大いに盛り上がってしまい、2時間呑み放題コースのところ、3時間をゆうに越えてしまいました。グローストックのスタッフのみなさま、ご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでしたが、とても心地よいサービスでした。メニューの内容や価格もさることながら、「また来たい」と思わせるのは、やっぱりスタッフのみなさんのホスピタリティです。マナーに厳しいお茶の望月静雄先生も終始笑顔で楽しんでおられました。ほんとうにありがとうございました。

 

 

 ゆうべは、酒と匠の文化祭Ⅱで酒と茶文化についてご講義くださり、9月から始めた茶道研究会でもお世話になっている望月先生はじめ、静岡県ニュービジネス協議会の前専務理事・末永和代さん、ご主人の静岡伊勢丹・松村彰久社長とご一緒に玉露の里まで足を運んでくださったアートプランナー松村惠子さんも来てくださいました。

 松村さんは東京でさまざまなアートイベントを手掛けておられて(こちらを参照)、日本酒、しかも静岡の酒をコラボさせてくださっています。蔵見学もしたことのある初亀の橋本さんと、地酒談義で大いに盛り上がっていました。

 

 

 困った時にいつも助けてくれる平野斗紀子さん、ときわストアの後藤英和さん、吟醸王国しずおかのアートディレクターであるオフィストイボックスの高島さん&櫻井さんコンビ・・・文化祭だけじゃなくって、今年も本当にいろいろと支えていただきました。いろいろあった年だけど、最後にみなさんと楽しい酒宴が出来て本当によかった

 

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 二次会は、鷹匠に今月オープンしたしずおか地酒研究会会員・長沢佐千帆さんの日本酒Bar「佐千帆」へ。たっぷりの静岡の酒とほっこりした家庭料理が味わえる、女性一人でも気軽に行ける素敵なカウンターのお店です。結構酔っぱらっていたので、写真がイマイチですが、いずれきちんとご紹介しますね。

 場所は北街道の学生服やまだの裏。日・月曜定休。17時~24時。電話054-255-6767です。ぜひごひいきに!


坂の上の雲最終回によせて

2011-12-25 10:38:36 | 歴史

 

 一昨日(23日)、活き生きネットワークのクリスマス忘年会に参加した後、悪寒と熱が出て、24日は忘年会の抽選で当たった精力剤と、磯自慢の酒粕の甘酒でわびしいイブ。でもたっぷり寝だめしたおかげで今朝は熱がひき、朝8時30分からFM-Hiでオンエアの『かみかわ陽子ラジオシェイク』をチェックし、トーク内容を上川さんのHPにUPし、ホッとひといきついたところです(こちらを参照)。

 

 

 今回のトーク内容は本日(25日)限定情報が多いので、ここでも紹介したいと思います。とくに本日夜放送の『坂の上の雲』最終回について触れてあります。一部を転載します。

 

 

(鈴木)最後にエンターテイメントの話題をもう一つ。テレビ番組のことで恐縮ですが、今月は日曜夜に『坂の上の雲』が放送されていますね。ちょうど今日25日で3年がかりの放送の最終回を迎えます。陽子さんは司馬遼太郎の愛読者だとうかがっていますが、ドラマはご覧になっていますか?
 
 
 
(上川)もちろんです。司馬さんの「坂の上の雲」は、日本人としての大きな人間力、指導者が持つべき資質というものを真正面から描き切ったもので、本当にいろいろ考えさせられます。指導者が持つべき先見性、見識、きちんとした戦略に基づく冷静な行動力は、今の政治にも求められています。とくに、今年のような国難に直面したときに求められるものとしては、環境は違っていても同じだと思うんです。
 
実は、「坂の上の雲」のドラマ化にあたっては、多少のご縁があったんですよ。衆議院議員時代、総務委員会に所属していまして、NHKの番組について意見をする機会がありました。
「坂の上の雲」のドラマ化について、原作者の司馬遼太郎さんは生前、「自分が意図したものがドラマでうまく伝わるとは限らない、戦争賛美になってはいけないし、映像化は難しい」とおっしゃっていたそうです。奥さまもそのことを強く思っていらして、NHKが再三お願いしてもお断りになっていたそうです。
そういういきさつを知っていましたので、NHKには「後世に伝えるべき価値ある作品だから、ぜひ力を入れて取り組んでほしい」と、当時のNHKの海老沢会長に質問し、回答を引き出したという思い出があります。
 
 
(鈴木)・・・ということは、陽子さんは「坂の上の雲」の映像化の立役者のお1人、ということですか。いやあ、そのことを聞いた後でオンエアを見ると、またひと味違った感動があると思います。
 
(上川)そこまで国会が力を発揮したわけではありませんが、結果的に、NHKが3年がかりで丁寧に作ってくれたことを応援できたという意味ではよかったと思います。
 
(鈴木)2011年は、陽子さんにとっての「坂の上の雲」を目指して走り続けた一年だったのではありませんか?
 
(上川)この年末、後援会の広報誌にこんな一文を寄せました。
 
「政治は常に、身の回りの小さな課題への取り組みから始まる。国が直面する難問も、足場を固め、正面から挑めば、必ず道は拓ける。そうした重責に耐えうる政治家を目指し、努力をつくし、希望を持って前進していこう」。

 日露戦争当時の「坂の上の雲」と、今の時代の「坂」や「雲」は、もちろん違いますが、変わらないのは、「重責にしっかり耐えうる政治家」が求められているということだと思います。震災があった今年、そのことを一層強く認識しました。

 

 

 

 

 今月放送の『坂の上の雲』第3部は、戦闘シーンが多いせいか、ゴールデンタイムにしては視聴率がイマイチのようですが、私自身は、とくに11日放送の「二百三高地」の戦闘シーンには深く感動しました。

 

 戦闘シーンに感動するっていうのもヘンですが、WOWOWで放送された「バンド・オブ・ブラザース」や「ザ・パシフィック」等、映画並みのスケールの戦争ドラマを観ていて、ハリウッド資本が入っているからテレビドラマでもあれくらいのものができるんだろうと思っていたので、NHKでここまでやれるのか・・・と感動。カネも人手もかかる戦争のシーンをテレビ表現ギリギリながら、あれだけリアルに描き切ったことで、作品に重みが加わるって感じました。

 

 

 俳優もスタッフもしんどいに違いありません。ホンモノの戦争を経験することを思えばマシでしょうけど、疑似体験にしても、しんどさを多少なりとも経験しながら作るからこそ伝わるものってあると思うのです。

 

 

 

 

 お茶の間の視聴者は、そんな、作り手側が精魂込めた戦闘シーンを、いとも簡単に拒否しちゃう。ゆえに、(視聴率に左右されない)NHKでなければ出来なかったんでしょうね。私はおカネを払ってでも観るべき価値があると思いましたけど・・・。

 

 

 

 

 いずれにしても、途中で妥協せず、3年かけてでも今のテレビ制作の職人魂みたいなものを投入し切った制作者と、彼らにきちんと仕事をさせた環境に拍手を送りたいと思います。上川さんもその一端に関わっていたと知って感慨深いですね。

 「映像化は難しい」とおっしゃった司馬さんが生きておられたら、どのようにご覧になったでしょうか。


茶の湯と地酒とクリスマス

2011-12-24 09:36:35 | 駿河茶禅の会

 21日(水)夜、葵区大鋸町(おおがまち)にある茶懐石&喫茶の店『御所丸』で、「茶道に学ぶ経営哲学研究会を開催し、本格的な茶懐石を体験しました。

 

 

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 『御所丸』はセレブが集うような高級料亭ではなくて、街中に近い住宅街にあるカフェで、店内はご覧の通りのテーブル&椅子席。車いすの人でもそのまま入れるユニバーサルな雰囲気です。でも予約をすれば、ちゃんと格式にのっとったホンモノの懐石料理を出してくれて、定期的に茶道のお稽古もやっているそうです。茶懐石初心者にとっては誠に心強いお店ですね。

 

 

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 茶懐石では最初にご飯と汁物と向付(生もの)が3点セットで出てきて、そのあとお酒が出てきます。ご飯は後からお代わりが出来るので、軽く箸を付けて、向付を肴にお酒をいただくんですね。

 

 

 

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 『御所丸』ではお酒は常時、『初亀』。こんな薄い酒器なので、注いでもらう量は口中を湿らす程度なんですが、亭主がその都度注いでくれるのが、もてなしの一つのカタチなんですね。今回はテーブル席で同席したのが海野さん(静岡オンライン)、平野さん(タマラプレス)、私という面子だったので、勝手にぐいぐい注ぎ合って呑んでしまいましたが(苦笑)。

 

 

 そのあと、煮物や焼き物や香の物など、ひととおりのコースが出てきて、亭主はころ合いを見て、正客から順にお酒の「お相伴」に預かります。

 正客から盃をお借りしていただき、盃は次客へ渡してお酒を注ぎ、次客から盃をいただいて「お相伴」し、また次の客へ・・・と、盃を客と亭主がジグザグに渡しながら呑むので、亭主は結局、参加者全員から「お相伴」をいただくことになります。これを、盃がジグザグに千鳥足のように移動するから、「千鳥酒」というそうな。・・・亭主はそこそこ酒に強くなければ務まりませんね。

 

 

 お食事がひととおり終わった後で、生菓子が出て、濃茶が登場します。濃茶というのは、その名の通り、ドロドロの濃~い抹茶で、ひとつのお椀で回し飲みします。ものすごい高価な抹茶を使ってくださったようですが、今まで飲んだことのない、粘土みたいなお茶で、唇を付けた程度でうまく飲めず、味がほとんど判らなかった・・・ 

 

 

 そのあと、干菓子が出て薄茶を一人一椀でいただきます。この、最後の菓子&薄茶の部分だけが、一般的な茶席で普及したんですね。

 

 

 初体験の濃茶の回し飲み。これは茶室という密室で、本当に心を許し合った者同士でしか共有できない作法だなあと実感します。16世紀後半、日本にやってきたイエズス会の宣教師たちは、キリスト教の儀式でワインを回し飲みする作法を思い起こしたに違いありません。

 

 

 

 

 

 

 

 以前、川勝知事が県広報誌「ふじのくに」で和歌山大学前学長の角山榮さんと対談したとき、こんなやりとりをされました。

 

(角山)今まで教えられた歴史というのは、西洋文明が進んでいて日本人が遅れていたというものですね。時代遅れの日本にヨーロッパが進んだ文明をもたらしたと。それは逆で、こちらのほうが文明の中心だったのですよ。16世紀には世界中の船が日本の堺にやって来た。ここが先進文明の地だったからです。堺市の歴史をひも解くと、今までのヨーロッパ中心の歴史観がまったく違っていることに気づきます。南蛮人が日本人よりも優秀だったなんていうのも間違い。その一つがお茶です。

 

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 (川勝)イギリスにはお茶よりも先に、オスマントルコからコーヒーが入ってきました。首都イスタンブールにはたくさんのコーヒーハウスがあり、イスラムの国なので男性だけが出入りしていた。そこにヴェニスやジェノバの商人がやってきて、コーヒーの飲み方を会得したのです。当時のヨーロッパ人はモーツァルトやベートーベンが『トルコ行進曲』を作ったように、中東のエキゾチックな文化に憧れをもっていましたからね。

 

 そしてヴェニスやジェノバなど地中海周辺都市の文化に憧れていたのがイギリスだった。

 

 トルコのコーヒー文化はあっという間にヨーロッパに広まり、コーヒーハウスに集まるため、男性が家庭から消えてしまい、怒った女性たちが「コーヒーか私か、どっちを取るの!?」と責め立てたほどです。女性たちはコーヒーに対抗するものとして、トルコよりもさらに東から入ってきたお茶に目を付けた、というわけです。

 

 ヨーロッパでは文明は東方からもたらされるとされ、アジア全体が憧憬の地でした。たとえば陶磁器。肉料理を食べるヨーロッパ人は、フォークやナイフを使っても傷が付かない中国の陶磁器をチャイナといって珍重した。肉料理に使う臭み除けの香辛料も、インドや東南アジアからもたらされた。アジアには木綿も絹もお茶もある。ヨーロッパの商人は取引したくても、ヨーロッパ産で売れるものがなく、アメリカ大陸から略奪してきた金や銀を交換材料にした。

 そんな彼らが憧れるアジアのもっとも東にある国が日本であり、日本の茶の湯だったのです。

 

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(角山)ヨーロッパ人と日本人では茶の湯に対する見方は違います。初めて茶の湯の世界を見たイエズス会の宣教師たちは、なぜ一杯の茶を飲むのに隅っこにある狭い入口から入り、煮えたぎった湯と変な形の細々とした道具を使うのか、しかもその器はイエズス会の年間活動予算より高価だと聞いて大変不思議がる。日本人というのは正月から節分、雛祭り、節句と1年を通してしょっちゅう宴会をやっている。肉食の国の民族からしたら、四季折々で酒や肴を味わい、締めくくりに茶をいただくという宴会スタイルが物珍しかったと思います。

 

17世紀初めに来日して約30年滞在し、『日本教会史』を著した宣教師ロドリゲスが詳しく考察しています。

 

 応仁の乱以降、戦乱の時代になって、四六時中宴会を開くゆとりがなくなってからも、堺の町は比較的平和だったため、宴会の最後の茶事だけが、宴会のエッセンスを伝え残すものとして伝承されました。

 

堺で確立された茶の湯の文化とは、人間関係を構築する文化です。つまり、茶室のにじり口が狭いのは、武器(刀)を持っては入れないという意味で、茶室は完全に安全な空間として設計されました。湯のみを、全員の前で回し飲みするのは、茶に毒が入っていない証拠です。宴会のもてなしの論理やエッセンスが凝縮されている茶室という空間に、彼は大いに感動しました。

 

ヨーロッパ人は、何かあれば教会で神と対話することで収拾しようとしますが、アジアは神の代わりに近所づきあいや人間関係を大事にした。これは儒教の教えも影響していたと思われますが、ロドリゲスは「自分たちとは哲学が違う」と実感したようです。

 

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(川勝)よく、『CHA』のCはコミュニケーション、Hはホスピタリティ、Aはアソシエーションの頭文字だと言いますね。1543年に鉄砲が伝来し、1549年にフランシスコ・ザビエルが布教のためにやってきた。イエズス会というのは当時の最高のエリート知識集団です。そんな彼らが、室町~安土桃山~江戸時代の日本の生活文化を見続けました。

 

 それ以前をさかのぼると、奈良時代、日本は中国から仏教を取り入れ、唐王朝の都市計画を真似てきた。平安時代に国風化の兆しが芽生えたものの、鎌倉期に入ると中国の南宋王朝から朱子学、儒学、禅の文化がもたらされ、日本は再び中国から学び始めた。室町期にも遣明船がさかんに渡っていました。

 

 中国から大陸文化をひと通り受容し終わった安土桃山~江戸時代になって、ようやく日本独自のものが生まれてきました。数寄屋造り、いけばな、会席料理、能や狂言といったものです。これらは武家の教養として尊ばれます。その、日本的なものの集大成が、茶の湯です。

 

 ロドリゲスの記録には、日本人の行儀作法が驚嘆や憧れをもって事細かく紹介されています。ガラクタに見える茶道具に一千両をつぎ込むこの国の人は、ヨーロッパ人がアメリカ新大陸から持ち込むしかない金や銀も持っている。まさに黄金の国ジパングを見る思いだったでしょう。その日本の文明を吸収しようと、多くの外国船が日本にやってきた。窓口になったのが堺です。

 

 

 

 

 

 今日はクリスマスイブ。キリスト教と茶の湯が不思議にもシンクロしあいながら、安心と安全が担保された空間で、人々が時間を共有できる価値を伝えてきた意味を、少しは噛み締めてみたいと思います。

 

 


今冬初の磯自慢訪問

2011-12-21 08:36:32 | しずおか地酒研究会

 昨日(20日)は『吟醸王国しずおか』のカメラマン成岡さんご紹介のVIPを磯自慢酒造にご案内しました。名前は内緒ですが、この人が日本酒ファンなんだ~って知って嬉しくなりました。

 

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 『吟醸王国しずおか』の新戦力、映像作家・脇田敏晴さんにも現場を見てもらいました。この方(左)が脇田さんです。ビジュアル的にも迫力あるクリエイターでしょ!? でも搾りたてを試飲したら、無茶苦茶デレってました(笑)。

 

 お酒が心底好きな方で、パイロット版で観た現場のナマの様子や杜氏さんたちのたたずまいに、いちいち感動していました。こういう人に戦力になってもらえるって幸せだなあ~と思います。

 

 

 

 

 新酒搾りたてが発売になり、蔵併設の販売コーナーにはひっきりなしにお客さんがやってきます。酒粕は、搾った側から売れてしまうので、いつものような「酒粕あります」の看板が出せないそう。私も予約をして後日買いにうかがう羽目になりました・・・ 

 

  先日、富士錦酒造にうかがったときも、平日なのに遠方からお客さんが次々にやってきて、酒粕を次から次へとまとめ買いしていました。いやはや酒粕ブーム、尋常じゃないみたいですねえ・・。

 

 

 

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 ちなみに、こちらの本に、磯自慢酒造の奥さま・寺岡真理子さんのレシピも紹介されています。よかったら書店でお求めくださいまし!

 

 

 

 

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 こちらはLED照明に切り替えたという仕込み蔵。タンクの周りに氷を巻き付けていたのですが(写真右下)、氷を当てているのが部分部分だったので、寺岡社長に「ウォータージャケットのようにタンク全周を冷やさなくていいのですか?」とうかがったら、「部分的に冷やすのは、もろみが中で“踊っている”から。人間の体でも、暑い時、血管が太い首筋とか足の付け根部分を冷やすと効果的に涼しくなるのと同じですよ」とのこと。なるほどね~。

 

 

 

 この蔵に初めて来てから23年になりますが、まだまだ発見すること、教えられることがいっぱいです。ああ現場は楽しい~ ・・・なんて現場で一人でご満悦してても、ちっとも映画は完成しないか

 どこで“カッティングエッジ”を付けるか、蔵を訪ねるたびに迷ってしまいます。


清水から仁川へ里帰りした石像

2011-12-19 10:42:15 | 朝鮮通信使

 またまた遅めの報告で恐縮ですが、12月13日(火)に静岡県朝鮮通信使研究会が開かれました。今回は、清水の料亭にあった朝鮮王朝の墓守の石像を、旧清水青年会議所と韓国仁川(インチョン)青年会議所の交流によって母国にお返ししたというお話です。

 

 

 

 静岡県朝鮮通信使研究会では、三島の佐野美術館にある朝鮮王朝の王陵の石像を韓国にお返しできないか、いろいろと模索しているところです(こちらの記事を)。そんな中、15年前に清水で同じようなことがあって、地元JCのみなさんの努力で実現できたということで、当時の関係者のお一人である渡邊芳一さん(渡邊工務店)に経緯をうかがったのです。

 

 

 里帰りした石像というのは、清水の老舗料亭・玉川楼にあったもので、6代目主人・府川荘四郎さんの父が戦後間もなく知人から譲り受け、半世紀にわたって客室の庭に安置されていたもの。御影石製で高さ約2メートル、幅65センチ、重さ2トンの堂々とした像です。府川さんは今後の日韓友好のためにも、生まれ故郷に帰してあげたいと強く願っていました。

 

 府川さんがかつて所属していた清水JCは、韓国仁川JCと1967年から姉妹提携しており、毎年のように交流事業を行っていたため、清水JCに相談したのが事の発端でした。1993年頃のことです。

 

 

 渡邊さんたちは手を尽くして方策を考えましたが、2トンもの石像を韓国へ送る費用や、当時の韓国の対日感情等、さまざまな壁に直面し、すぐには進捗せず。やがて、1997年の清水‐仁川の友好JC30周年記念事業としてJCを挙げて取り組むことになり、96年から本格的に「石像里帰り大作戦」が始まりました。

 

 

 まず、当時、静岡県立大学教授だった金両基先生と、京都高麗美術館の研究員・金巴望さんに、石像の調査を依頼。朝鮮王朝(1390~1910)中期頃造られた王族か雄志(貴族)の墓守で、服装の特徴から文人と思われますが、本来は文人と武人の2体で一対をなすものだそう。日本の神社にある狛犬のような存在ですね。いずれにしても文化財としても高い価値があると判りました。

 

 このような石像は、実は日本にかなり持ち込まれていたそうで、佐野美術館にあるものも同様です。そのあたりの事情を考えると複雑な気持ちになりますね・・・。渡邊さんたちが「韓国へお返ししたい」と話したとき、高麗美術館の金さんは「戦後半世紀以上経って、日本で大事に保存されているのだから、そのままでいいんじゃないですか?」とやんわりおっしゃられたそうです。その真意がよくわからないと渡邊さんは言葉を詰まらせていましたが、金さんはおそらく、辛い歴史を思い返される韓国の人々の心情を想像されたのではないでしょうか・・・。

 

 

 清水JCには、2トンの石像を運び出せる建設関係や通関業務に慣れている商社関係など、その道のプロがそろっているので、返還にあたっての実務にはさほどの苦労は要しませんでした。費用もすべてJC会員の無償ボランティア。船で清水から横浜経由で2週間かけて仁川へ届けました。

 入国時に、日本から入ってくるものは、たとえ韓国で造られたものでもすべて美術品扱い=高額関税をかけられそうになり、横浜の韓国総領事館と仁川JCが奔走してくれて、両国で覚書を交わしてなんとか入国できたそうです。

 

 

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 仁川市立博物館に無事、ひきとられた石像(右写真・渡邊さん提供)は、1997年5月31日の清水・仁川JC姉妹締結30周年式典でお披露目され、地元市民に歓迎されました。渡邊さんは「それもこれも、(JCを通して長年交流と重ね)、仁川に友人ができたおかげです」としみじみ振り返っておられました。

 

 

 

 1967年に清水JCと友好提携を結んだ当時の仁川は、清水と同じ規模の地方の港町だったそうですが、国際空港の建設をきっかけに、あれよあれよと発展し、渡邊さんが「うちとはつり合いがとれない、日本でいえば横浜クラス」と苦笑するほどの国際都市になりました。

 

 

 今また、慰安婦問題が取り沙汰されて、日韓関係が揺れています。こういうニュースが、地道に重ねてきたほかのすべての日韓友好関係事業に“上書き”されてしまうのが、少し哀しく思います。