杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

ウサギを仕事をライオンの力でやれ

2011-08-30 18:41:50 | 国際・政治

 日本の新しいリーダーが決まりました。ワイドショーを見ていたら、野田さんってかなりの酒豪で日本酒好きとのこと。確かに酒が強そうな容貌です(笑)。増税推進派のようですが、われわれ左党を酒税で困らせないでくださいね!

 

 8月28日(日)朝8時30分からFM-Hiでオンエアされた『かみかわ陽子のラジオシェイク』では、上川陽子さんが1986年から2年間、ハーバード大学政治行政学大学院に日本人女性として初めて留学したときのお話をうかがいました(トークの内容はこちら)。

 

 政治学を学ぼうと世界中から結集した優秀な頭脳がひしめきあう教室で、手を上げて自分の意見を発表するのはなかなか勇気が要ったとのこと。人気のリーダーシップ論ゼミの教授が、黒澤明監督の名作『生きる』を授業で取り上げ、陽子さんに日本人の矜持や人生観等を解説する機会を作ってくれて、「マドギワってどういう席?」とか「マンネンカカリチョウってどんな役職?」な~んて質問に必死に答えるうちにディベートに慣れ、自分がリーダーになって討論に道筋を付けることができたという体験談でした。

 

 28日夜は、陽子さんが代表を務める静岡県防衛協会女性部という団体の公開セミナーに参加しました。元自衛官でヒゲの隊長でおなじみ・参議院議員の佐藤正久さんが、東日本大震災の被災地における自衛隊員の活動について、貴重なお話をしてくださいました(こちらを参照)。

 

 

 自衛隊の活躍は折に触れてテレビ等で見たり、福島いわきへ行った時も現地で見ていますので、多くの日本人がそうであったように、「災害時には一番頼りになる存在」という認識を深めていたところでした。でも佐藤さんのお話をうかがうと、自衛隊は「災害救助隊」ではないし、今回の任務は「弾丸を撃たない実戦」で、“国を守る”という鉄の信念がなければ務まらなかった任務だったと解ります。

 

 福島第一原発3号機の核燃料プールが沸騰し、白煙を上げているとき、最も放射線量の高い上空真上からヘリで放水するというミッション。私はヒトゴトのように「あんなので冷えるのかな~」とテレビ中継を観ていたんですが、考えてみると、建屋の天井が吹っ飛んでしまった原発の真上にヘリをホバリングさせるだけでも、大量被ばくを覚悟しなければならないし、注水して水蒸気爆発が誘発でもされたら一巻の終わり・・・。

 派遣されたのは中央特殊武器防護隊という専門部隊だったそうですが、さすがに上司は部下に「オマエ行け」と言い出せなかったとか。でも全員が「自分が行きます」と手を上げたそうです。災害派遣とはいえ、そこは「死」を覚悟しなければならない“戦場”だったんですね。

 

 行方不明者の捜索では、ご遺体を見つけてもタンカや毛布やブルーシートが足りず、首から上のないご遺体を直接背負って運んだ、なんてことも。溺死体というのは臭いが強烈で、自分の頭髪にその臭いがこびりついたり、ご遺体を一時保管していたトラックの荷台で食事をとらなければならず、若い隊員は食べた物をもどしてしまったとか、メディアでは報道されない過酷な現場・・・。それでも任務を遂行できたのは、とりもなおさず、自分たちがいざというとき守るべき国民が〈被災者〉となった生の姿を目の当たりにしたこと。

 

 奥様が行方不明になっても、「多くの市職員が亡くなり身内が行方不明になっているのだから」と、あえて捜索願を出さなかった陸前高田市長(奥様はその後死亡が確認)・・・。津波に襲われた病院の入院患者だったおばあちゃんが、屋上に避難した医師たちに「ありがとう」と手を振りながら流されていった・・・。子どもの遺体を抱きながら「自衛隊さんに助けてもらってよかった、大きくなったら自衛隊さんに入れてもらおうね」と語りかけていた母親・・・。そんな被災者を目の前にしたら、つらいだのしんどいだのって言えないでしょう。

 

 

 地震発生後30分以内に実働部隊が被災地へ向けて出動でき、生命のタイムリミットといわれる72時間の間、警察や消防も舌を巻くほどパワフルに動き続けられたのは、「自衛隊が災害救助ではなく国防を目的に訓練しているから」と佐藤さん。

 佐藤さんがイラクの第一次復興業務支援隊長として派遣されていたとき、イギリス軍高官から「ウサギの任務を、ライオンの力でやる」と言われたそう。つまり国防という高いレベルの訓練技術を身に着け、相応に心身を鍛え上げているから、灼熱のイラクだろうとテロに脅かされようと、今回のような甚大な災害であろうと、あわてず、冷静に、完璧な自己完結で対応できたというわけです。

 

 

 私は仕事柄、いろいろな職業人を取材していますが、共通して感じるのは、「プロとは、予期せぬ事態に力が発揮できる」ということ。決められた道をきちんと整備された車で、マニュアル通りに走るだけならアマチュアでもできますが、先の見えない道を、ポンコツカ―でもスーパーカーでも、マニュアルがなくても、どんな邪魔が入ってもちゃ~んと運転できるのがプロ。それできちんと結果を出す。「努力しました」はアマチュアの言い訳なんですね。そのために日頃からあらゆる事態を想定をし、訓練に時間とお金の自己投資をちゃんとするのがプロです。

 

 私も一応、プロのライターを名乗っていますが、本当にプロといえるのかどうか不安で、こうして長いブログを書きながら「訓練」してます。ブログを始めて書く力が向上したかどうかよくわかりませんが、どんなせっぱつまった仕事でも、テーマを整理し、構成を組みたて、実際に文字をつづっていくのにさほど時間がかからなくなったのは確かです。

 

 

 

 新政権がどんな政治手腕を発揮してくれるのか未知数ではありますが、今はとにかく、政治でも復興支援でも、どんなステージであっても、その道のプロがその力をいかんなく発揮し、正しく評価される世の中に向かって行ってほしいと願うばかりです。

 


茶農家と杜氏が共有するもの

2011-08-28 14:23:12 | 地酒

 日にちが前後しますが、8月22日(月)、県広報誌の取材で静岡本山茶の森内茶農園を訪ねました。

 生産者・森内吉男さんのお話をうかがっているうちに、まるで酒造りの杜氏さんと話をしているような気分になり、真摯にモノを育てる人の考え方というのは、お茶も日本酒も変わImgp4753らないんだなあと再確認できました。

 

 

 今回の取材のテーマは『発酵茶』。最近、静岡の茶産地でも、緑茶以外に、釜炒り茶、ウーロン茶、紅茶のように茶葉を発酵させる製法で、新しい商品開発をする動きが活発になっています。確かに今の人って『お茶』と一口に言ってもいろ~んなお茶を飲んでいますよね。ちなみに自宅の台所をチェックしてみたら、煎茶、粉末緑茶、国産紅茶、ダージリン紅茶、ほうじ茶、凍頂烏龍茶、そば茶、麦茶、ハーブブレンド茶等など、かれこれ12種類ぐらいありました。

 

 

 これだけお茶の消費品目が多様化しているのに、日本一の茶産地である静岡で、緑茶しか作らないなんてモッタイナイ話。紅茶やウーロン茶はとりあえず緑茶と同じ茶葉で作れるんだから、なんで今まで作らなかったのか不思議といえば不思議でした。

 ・・・と思っていたら、実は戦前に静岡県でも紅茶・ウーロン茶を作っていたそうです。明治~大正期、お茶は日本にとって外貨獲得のための重要な輸出産業で、欧米に輸出するんだから、当然、欧米の食生活に合わせたものを作る。その後、インドや中国との競争に負けて国内市場にシフトし、昭和に入ってからは日本人の食生活に合わせるかたちで番茶や煎茶(緑茶)へと切り替わりました。

 ただし、急須で淹れる煎茶が一般家庭で主流になったのは、高度成長期以降のこと。それ以前は、ふだん飲むお茶といったら、大きなやかんに煮だした番茶でした。私は昭和37年生まれですが、言われてみれば、小学校の給食や遠足に持って行く水筒には「番茶」が定番でした。

 

 

 昭和46年にお茶の輸入が自由化されると、国産紅茶はなりをひそめ、市場に出回るほとんどが輸入紅茶になりました。静岡の産地も緑茶一辺倒で、しかも育てやすい品種「やぶきた」しか作らなくなった。このことが、茶栽培の技術革新を鈍化させたのだと思います。

 

 一般家庭で緑茶を急須で淹れる飲み方は、振り返ってみれば、たかだか30年ぐらいの歴史しかありません。茶が消費低迷し、ペットボトル茶にとって代わられ、必死に「急須で淹れて飲みましょう」と呼びかけたところで、いろ~んなお茶を自由に選べるようになった今、消費者の心を〈急須で淹れる煎茶〉だけに取り戻すのはなかなか難しいでしょう。

 森内さんは「茶葉を一番いい状態で蒸して、一番ピュアな味や清涼感を楽しめる煎茶の味は、日本人の味覚が劇的に変化しないかぎり、なくなることはない」としながら、お茶の趣向の移り変わりを冷静に受け止め、紅茶・ウーロン茶は1999年から、釜炒り茶も2001年から作り始めました。

 

 

 戦前に作っていた発酵茶の製法を、今の生産者はほとんど知らないことから、現在、静岡県農林技術研究所茶業研究センターでも発酵茶製法の指導に本格的に乗り出し、来年には発酵茶専用の研究ラボが完成するそうです。

 森内さんはそれに先んじる形で、10年前にはすでに本格的に指導を受け、2年間試行錯誤をしました。「せっかく新しい製法に挑むなら、まずその基本を正しく理解し、その上でここでしか出来ないものを作りたい」と考え、オーソドックス製法、CTC製法、フリースタイル製法といった茶葉の萎凋(いちょう=萎れさせること)の度合いによる製法の違いなどもトコトン追求しました。

 

 

 発酵茶のしくみをうかがったところによると、

●萎凋の段階で、かんきつ、花、蜜などいろいろな香りが出てくる。成長を阻害されると身を守ろうと匂いを出して防御しようとする植物の忌避作用。

 

●同時に遺伝子を残すために酵素を作る。早いものでは3~6時間で作ってしまう。細胞壁の外に酵素を、中に匂い成分を作り、萎れたり、虫に刺されて穴が空いたりすると、酵素が活性化し、匂いを発生する物質を作るというしくみ。

 

●萎れたり、ヒビ割れたりしても、酵素がきちんと働いていい匂いを出すには、細胞自体が健全でなければならない。弱い細胞だと、匂いもよくない。

 

●発酵という言葉を使うが、酒のように微生物を使うわけではなく、葉の持つ酸化酵素の働きをどのように活性化させるか、酵素の働きをどの段階で止めるかによって紅茶、ウーロン茶等に分かれる。

 

 とのこと。日本酒の麹や酵母の醗酵のしくみとは違いますが、植物の酵素をコントロールするという意味では相通じるものがありますよね。

 

 今年、森内さんのところへスリランカから茶の鑑定士がやってきて、森内さんが作った紅茶を絶賛したそうです。スリランカの標高の高い茶産地は日本の生産環境とよく似ており、「原種の茶のパフォーマンスを100%引き出せるのが名人だと評価されるそうです。彼らの作り手としての哲学は、日本と全く同じだと思いました」と森内さん。

 ちなみに茶の鑑定士とはスリランカの最重要輸出品目である茶の価格を決めることのできる国家資格で、スリランカ全土で16人しかいないそうです。

 

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試飲では、有力発酵茶用品種「香駿」(右)と高機能性品種としてお馴染み「べにふうき」を出してもらいました。

 口に含んだとき、さまざまな香りが次から次へとさざ波のように広がって、実にふくよかな余韻を楽しめました。私が、酒の試飲では「上立ち香」「含み香」「戻り香」をチェックするんですよと話すと、森内さんも奥様も興味を示してくれました。私の勝手な印象では、「香駿」は吟醸酒、「べにふうき」は純米酒かな。

 

 日本茶も日本酒も、消費スタイルの変化にどう対応していくべきか共通の課題を抱えています。静岡には、世界レベルの品質を生み出す作り手がいるのですから、両者が有機的につながるしくみが出来ないものかと思います。業界団体同士は難しくても、志の高い個人生産者同士をつなげることなら、私にも出来るかもしれません。・・・というか、静岡で「伝える」仕事をする者の使命として、やるべき価値ある仕事のように思いました。


中日新聞掲載「富士山の世界文化遺産登録推薦書原案提出」

2011-08-27 09:21:30 | 本と雑誌

 今朝(8月27日)の中日新聞朝刊19面に、私が執筆した富士山特集第5弾「“頂上が見えてきた富士山の世界文化遺産登録」が掲載されました(記事の下に、静岡県酒造組合の広告が入っているのは、まImgp4763
ったくの偶然で、私は広告制作にはノータッチです)。

 

 

 

 このシリーズ、5月掲載の第2弾から執筆を依頼され、富士山の信仰や芸術について多角的な取材ができましたが、今回は7月末に文化庁へ登録推薦書原案が提出されたのを受けて、9月末に“本丸”ユネスコ事務局への提出というタイミングにあたり、あらためて世界遺産の登録ってどんな手順で行われるのか興味を持ち、こんな記事にしてみました。

 

 

 登録手順の説明ではつまらないので、登山シーズンが終わった後の富士山の楽しみ方として、富士山ウォッチャーで知られる地理学者の田代博先生の著作をご紹介させていただきました。

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 今年6月に祥伝社新書から発行された「富士見の謎」は、全国20都府県に点在する富士山ビューポイントをくまなく調査し、“富士山可視マップ”を創り上げた先生ならではの、超マニアックな富士見ガイド。“都内路上富士”“乗り物から見える富士”“冨嶽三十六景の謎をデジタルで読み解く”等など、地図好き・歴史好きの私にとっては至極の愉しみを与えてくれました。

 

 富士山がヴィヴィットに見えるのは、晩秋から春先までの朝か夕方といわれるので、実際に富士見が楽しめるまで少し待たなければなりませんが、世界遺産登録というゴールは、早くても2年後ですから、われわれ静岡県民も気長に楽しみながら待ちましょう。

 

 

 

 

登録推薦書原案提出〉<o:p></o:p>

 “頂上”が見えてきた富士山の世界文化遺産登録<o:p></o:p>

 

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 先月、富士山の世界文化遺産登録を目指し作成を進めてきた「富士山」推薦書原案が、山梨・静岡両県から文化庁に提出され、富士山世界文化遺産登録の実現に向けて大きく前進した。<o:p></o:p>

順調に行けば最短で2年後の登録実現となる。ようやく“頂上”が見えてきた富士山の世界文化遺産登録、今回は文化庁からユネスコへ申請された推薦書が、登録という頂上へ辿り着くまでのルートを具体的に追ってみた。<o:p></o:p>

 

 

文化庁提出までの経緯<o:p></o:p>

  富士山推薦書原案の文化庁提出を前に、2011年715日、東京で第1回二県学術委員会が開催された。ここで推薦書原案及び包括的保存管理計画案が諮られた。会議では山梨・静岡両県の取り組み状況が報告された。学術委員会の審議を経て、7月22日には富士吉田市で、両県知事の出席のもと、富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議が開催された。学術委員会の審議結果を報告した後、「富士山推薦書原案」及び「富士山包括的保存管理計画案」が了承され、7月27日、文化庁に提出された。<o:p></o:p>

 

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 ユネスコ世界遺産委員会の審査の道のり<o:p></o:p>

  ユネスコ世界遺産委員会では、毎年9月末を推薦書草案の提出期限にしている。文化庁では9月初めに世界文化遺産特別委員会を開き、今回は「富士山」と「古都鎌倉の寺院・神社ほか」の推薦可否を審議し、了承を経て9月中にユネスコへ提出となる。ちなみにユネスコ暫定リストに記載された国内候補はほかに10件あり、審査は来年以降となる。<o:p></o:p>

  ユネスコへ推薦書草案が提出されると、提出内容に不備がないかどうか、1115日までにユネスコ事務局から回答が来る。不備がある場合は、具体的な指示があるが、あくまでも書類上の不備についてである。<o:p></o:p>

  完全な登録推薦書の事務局提出期限は2月1日の現地パリ時間17時。2月1日が週末に当たる場合は直前の金曜日の17時までに書類が到着していなければならない。 タイムリミット後に到着した登録推薦書は翌年以降の審査に回されてしまう。<o:p></o:p>

 ユネスコ事務局では推薦書を精査し、3月1日までに登録推薦書に不備がなかったかどうか又、提出期限の2月1日までに到着したかどうか回答し、不備があった場合は翌年2月1日までに再提出を受け付ける。<o:p></o:p>

 

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 登録は最短で2013年6月<o:p></o:p>

  登録推薦書では以下のような点が厳しくチェックされる。<o:p></o:p>

 ○推薦する資産の範囲(境界線)を明確に示すこと。<o:p></o:p>

 

 ○地図は、陸上及び/又は海上のどの範囲が登録推薦されているのかを正確に判別できる十分詳細なものであること。できれば、当該締約国の最新の公式地形図に資産の境界線を注記したものをあわせて提出すること。明確に範囲(境界線)が示されていない登録推薦書は、「不完全」とみなされる。<o:p></o:p>

 

 資産の内容には、資産の特徴及び資産の歴史と変遷についての概要が含まれる。地図に記載されているすべての構成要素の特徴と解説を記述することが求められる。
 

○歴史と変遷には、当該資産がどのようにして現在の形に至ったのか、又、過去にどのような重大な変化を経てきたのかについて記述すること。<o:p></o:p>

 

 ○当該資産を、国内外の類似の世界遺産、その他の資産と比較した 比較分析を行うこと。比較分析では、当該資産の国内での重要性及び国際的重要性について説明すること。<o:p></o:p>

 

 ○資産の現在の保全状況に関する正確な情報(資産の物理的状況及び実施されている保全措置に関する情報等)を記載すること。また、資産へ影響を与える諸条件(脅威等)についても記述すること。<o:p></o:p>

 

 提出書類が期限までに到着し、不備がなければ、2012年3月から2013年5月の間、ユネスコ世界文化遺産の諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議)による現地調査が行われる。この間、イコモスが必要と認めた追加書類を13年3月31日までに提出し、13年6月に開かれるユネスコ世界遺産定時総会にて登録審査結果が発表される。<o:p></o:p>

 

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 現代版『富士見』を楽しもう<o:p></o:p>

  世界文化遺産の登録は最短でも2年後。この間、われわれ県民も、富士山が世界遺産に値する価値ある資産であることを広い観点で見守っていきたい。<o:p></o:p>

  夏の登山シーズンが終わり、富士山の楽しみは“登る”から“眺める”に切り替わる。<o:p></o:p>

 「静岡県が官民挙げて富士山について取り組んでおられることに敬意を表したい」と語るのは、長年、富士山の眺望を研究し、フィールドワークも豊富な田代博氏(地理学者)。今年6月に出版した『富士見の謎―一番遠くから富士山が見えるのはどこか?』によると、日本では東は銚子、西は和歌山県色川富士見峠、南は八丈島、北は福島県二本松市からも富士山が見えるという。同著では全国規模で富士山が見える場所を明らかにし、初公開の貴重な写真も数多く掲載。静岡県内の知られざるビューポイントや、北斎の冨嶽三十六景の位置をデジタルで解析するなど現代版「富士見ガイド」として読みごたえ十分だ。<o:p></o:p>

  田代氏は全国20都道府県のビューポイントをきめ細かく調査し、地図総合ソフト・カシミール3Dを活用して『富士山可視マップ』を作成、インターネットで公表している(こちらで検索)。<o:p></o:p>

 「富士山は全国区の山なので、ひょっとしたら静岡県民以上に熱烈なファンが全国にたくさんいることを静岡県の皆さんにも理解してほしい」という田代氏。「遠くからだけでなく、近くから見ても美しいといわれるように、地元の方には景観への配慮をお願いしたいと思います」とエールを寄せた。  <o:p></o:p>

 

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 平和で安全な国土あってこそ<o:p></o:p>

  田代氏は『富士見の謎』のあとがきで、東日本大震災が富士山可視域にも大きな影響を与えたことにふれ、「平和があってこその山岳展望、富士山眺望であり、安全な国土があってこそということを付け加えなければならない。富士山を眺めることが日本再生の象徴として、多くの人に生きる希望と喜びを与えてくれることを願っています」と結んでいる。<o:p></o:p>

  震災の今年、奥州平泉が登録され、富士山が推薦される。このことが国土再生の糧になることを願うばかりである。(文・鈴木真弓)<o:p></o:p>

 

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取材協力/静岡県世界遺産推進課、田代博氏<o:p></o:p>

参考文献/○文化庁文化遺産オンライン  ○田代博著『富士見の謎』(祥伝社新書)<o:p></o:p>

 

 


田中久重の万年時計

2011-08-25 09:30:01 | 歴史

 8月20日(土)夜は、すんぷ時の会第2回勉強会の取材。1回目は徳川家康がスペイン国王から贈られた洋時計について久能山東照宮の落合宮司に解説していただきました(こちらを参照)。

 

 その家康の洋時計のからくりが、日本の職人たちに連綿と受け継がれ、幕末に生み出されたのが、からくり儀右衛門の『万年時計』です。作者は九州久留米出身の田中久重(1799~1881)。幕末のエジソンと称される天才発明家で、東芝の創業者としても知られています。最近ではドラマ『JIN』で、彼が発明した無尽灯が効果的に使われ、仁先生に別れ際にペンライトの電球をプレゼントされて仰天するシーンがありましたね。なかなか粋な演出でした。

 

 私は幕末の本で、佐賀藩で蒸気船を作った発明家として名前が出ていたのをチョロっと覚えていた程度だったので、『万年時計』のことは知りませんでしたが、今回、家康の洋時計の勉強会で取り上げられ、歴史の面白さを改めて実感しました。からくり儀右衛門というのはお茶を運んだり弓を射るユニークなからくり人形を発明したことから名づけられた愛称のようですが、彼はのちに、万年時計の発明家としてのプライドから、“萬年目鳴鐘師”と名乗っていたそうです。

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 講師は安心堂の時計職人だった金子厚生さん。現在は時計研究家として家康の洋時計の研究にもご協力をいただいています。勉強会では、平成17年に放送されたNHK-BSハイビジョン特集『万年時計~江戸時代の天才が生んだ驚異の機械時計』を鑑賞しました。

 

 

 

 

 番組は、田中久重が48歳から51歳まで3年がかりで自らの発明の集大成として創り上げ、現在は国立科学博物館に収蔵されている『万年時計』を、現在の時計職人やハイテク技術者100人が分解・解明し、復元品を造って『愛・地球博』に展示されるまでを追ったドキュメンタリーでした。

 この『万年時計』、冬至や夏至によって文字板の表示間隔が変わるImgp4746
和時計と洋時計を同時に、しかも1年間、自動で動かせるというオドロキの万能時計。天球儀までくっついていて、京都から見た太陽と月の動きを1年間正確に表示するのです。それも、現代の技術者がコンピュータではじき出した動きとほとんど同じ。

 こういう人を単に天才と言ってしまえばお終いですが、金子さんは久重のこの言葉を強調されていました。

 

 「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、そのあとに成就がある」。

 

 

 田中久重は76歳で東京に田中製作所という機械工作メーカーを作り、それが東芝の前身となり、彼自身は82歳で亡くなるまでモノづくりに志を燃やし続けました。詳しくは東芝科学館のHPに紹介されています。

 私自身ももう少し、彼のことを詳しく知りたいと思い、今、あれこれ本を物色しているところです。


スプーン一杯の種から実った農園の夢

2011-08-23 10:49:00 | 本と雑誌

 8月20日(土)は、午後1時から『カミアカリドリーム夏合宿@さくら咲くがっこう』に参加し、松下明弘さん(稲作農家)、平野正俊さん&常代さん夫妻(キウイフルーツカントリーJAPAN)、岩本いづみさん(柿島養鱒)の“授業”を聴講しました。

 

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 3名ともこれまで再三、取材等でお世話になった元気のよい生産者。松下さんと岩本さんは当ブログでも何度か紹介しており、平野さんは一度、カミアカリドリーム勉強会で講師を務め、松下さんと対談していますが(こちらを参照)、ご本人を詳しく紹介したことがないので、今回は私が平成10年(98年)に書いた記事を再掲したいと思います。古い記事でスミマセン。

 

 

 

スプーン一杯の種から実った農園の夢~キウイフルーツカントリーJAPAN 平野正俊さん・常代さん

<静岡県文化財団刊「静岡の文化54号」(1998年10月発行)掲載>

 

 

 キウイフルーツは外観がニュージーランドの国鳥『キーウイ』に似ていることからその名が付けられ、主産地もニュージーランドだが、原産地は中国の揚子江沿岸。マタタビ科の食用果実である。ニュージーランドには1900年ごろ渡って改良され、キウイフルーツの名で全世界に広まった。

 日本に輸入されたのは1964年(昭和39年)。当時は“ベジタブルフルーツ”としてアメリカから入ってきた。69年(昭和44)には導入した苗や実生苗から初めて結実した。

 それから5年後の1974年(昭和49)、一人の農業青年がアメリカの農場に立った。2年間の農業研修の後、彼はティースプーン1杯分のキウイの種を持ち帰り、日本で初めて、本格的なキウイ栽培に着手した。キウイフルーツカントリーJAPANの平野正俊さんである。

 

日本にないキウイなら独自の考えでやれる

 東名掛川ICから車で5分、掛川市上内田にあるキウイフルーツカントリーJAPANは5万平方メートルの広大な敷地でキウイのもぎとりやミカン狩り、柿狩り、山菜採り、自然探検等が楽しめる体験学習農園。キウイ農園としては日本一の規模を誇る。

 この地で従来、ミカンやお茶を栽培する農家に生まれた平野さんは、アメリカの研修で農業という職業を自ら選び、誇りと主体性を持って取り組む人々と出会い、農業観が一新したと言う。「日本では農家の長男に生まれた者が継いで守る。しかしアメリカは教職にあった人やジャーナリスト等の知識人、または大リーグで活躍した一流のプロ野球選手が、人生の選択として農業に入っていく。農業とは何かを改めてじっくり考えました」。

 この研修中にキウイフルーツと出会った平野さんは、日本ではまだ馴染みのないこの果実ならば、独自の考えで自由にやれると思い、在米中から準備を始めた。ところが帰国直前、植物免疫法でキウイの苗木を持ち帰ることができないと判り、気落ちする平野さんに、ホスト農家の人々が種を寄付してくれた。それがスプーン一杯のキウイの種だった。

 実家に戻った平野さんは、キウイ栽培に猛反対した父の留守中、ミカンの木40本を切ってしまうという強行に出た。父はしぶしぶその土地を有償で貸すことにした。平野さんは賃貸料をアルバイトで英会話教室の講師をやりながら稼いだ。このとき生徒だった常代さんと結婚することになる。

 福祉施設で働いていた常代さんは、「農家に未来はない」という兼業農家の生まれ。農業に意欲的で英会話のできる平野さんを不思議な人だと思ったそうだ。この人と一緒なら面白い人生を送れそうだとも。

 周囲の白い目をよそに、2人は「言いたいことを言い、やりたいことをやり」、種をまいてから通算8年がかりで成木、結実へとこぎつけた。

 

自分が雄花になった気持ちで。

 キウイは日当たりよく風当たりが少なく、水はけのよい土地でよく育つ。比較的寒さに強いので、ミカンや柿が育つ場所なら十分だ。

 5~6月、花が咲くこの時期、平野さんたちは最も気が抜けない。実は雌花に雄花の花粉が授粉され、結実するわけだが、ミツバチ等の虫媒で行い場合はその日のコンディションに左右される。とくに日本では入梅時期になるので気象条件に振り回されることが多く、確実に授粉を行うには人間がやるしかない。やるからには花粉を最良の条件とタイミングで交配させなければならない。

 「明日咲くだろうと思われる雄花を選んで夕方ごろ採集し、つぼみの中にある葯(ヤク・・・花粉が入っている袋)を取り出し、開葯する。このときの温度や湿度が大切で、摂氏1℃でも違ったら花粉の受精能力は落ちる。いい状態で開葯できれば、1年でも2年でも保ちます」。

 ちなみに1gの花粉を採るのに100の花が要る。平野さんの農園では毎年500gを使うので、5万もの雄花を「明日咲くだろう」というタイミングで見極めて採集しなければならない。失敗したらその1年は棒にふる羽目になる。

 「開葯の時期に大雨が降って湿気が増え、収穫量が3分の1になってしまったこともありました。失敗を糧に自分なりに基礎知識を応用し、最後は自分が雄花の木や雄花になったつもりでやっています」。

 

ニュージーランドからも視察が来る

 平野さんが育てるキウイフルーツの種類は、最もポピュラーなヘイワード(甘みと酸味のバランスが良い)以外に、アップルキウイ(りんごの形で香りもりんご風味。クリーム色の果肉でとろける甘さ)、ブルーノ(ソーセージのような形)、ゴールデンイエロー(鮮やかな黄色の果肉)、香緑(香りよく濃い緑色の果肉)など合計80系統にも及ぶ。

 キウイは樹の上では成熟しにくいので、一度に収穫して追熟のため貯蔵させるのが一般的だが、平野さんは樹上完熟の「ファーストエンペラー」という品種にも取り組んでいる。外皮に毛がなく、中がゼリー状で、スプーンですくって食べるタイプ。酸味が少なく、デザート感覚で味わえる。こういうキウイがある農園なら、もぎとってその場で食べる楽しみも満喫できるだろう。

 「品種が増えたことで収穫時期が延び、冷蔵保存で周年出荷ができるようになりました。ヘイワードだけではなく、いろいろな種類のキウイを食べる機会を増やして、キウイの美味しさのバリエーションを伝えたい」という平野さん。その背景には自身で確立した栽培技術への自信がある。

 キウイフルーツは樹の発育が旺盛で、負け枝性(親枝から分かれた枝のほうが勢力が強い)特性を持つので、夏でも剪定が欠かせない。枝葉が茂り過ぎると棚下が暗くなり、翌年の実なりが悪くなるのだ。

 開花は体力を消耗するので、摘蕾(てきらい)といって1本の枝につぼみ2個程度に減らす。多収穫は望めないが、結果的にひとつひとつが1年間貯蔵しても味が落ちない健康的な果実になる。このように多品種・高品質のキウイ栽培に取り組む平野さんのもとには、本場ニュージーランドからも視察団が来るそうだ。

 

■『伝えよう自然の雄大さ・農業の大切さ・本物の味。共に学ぼう人生の豊かさ』

 農業とは何か。平野さんがアメリカ研修で自ら課したテーマは、今、新たな展開を見せている。農業の本質と自然の持つ豊かさを正しく伝えるため、体験学習農園に切り替え、多くの人々に開放した。フルーツ狩りのほか、木登りやターザンごっこが楽しめる『冒険の森』、自然教室、農業教室、料理教室など400メニューにもおよぶ『体験学習』、キウイやミカンを栽培管理から収穫まで楽しめるオーナー制度等・・・。自身が主宰する「体験学習農園を育てる会」では6年前から“自然と農業の芸術祭”を開催し、自然と農業を題材にした写生・創作を国内外から募集し、入賞作品は全国各地で巡回展示している。

 農業を取り巻く環境は厳しい。しかし平野さんのように、農家にまれた事を宿命ではなく「与えられたチャンス」であり、「自ら選んだ道」と考えられる人材が増えれば、常代さんの直感のように「面白い」世の中になるかもしれない。

(文・イラスト 鈴木真弓)

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 なお、この記事は1998年当時の取材ですので、最新の情報はキウイフルーツカントリーJAPANのHPをご確認ください。