杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

普賢象と白幽子

2015-04-28 07:56:17 | 白隠禅師

 4月25日は建仁寺両足院の『多聞会』に参加した後、お世話になっている方と木屋町界隈をはしご酒し、泊めてもらう約束をした友人の二条城近くのマンションまでふらふらナイトウォーキング。目印となる建物が多く、ほとんどの通りに名前が付いている京都の街の良さをしみじみ満喫しました。

 

 翌26日は念願だった千本えんま堂の古桜・普賢象を観に行きました。こちらで紹介したとおり、ヤエザクラ系最古の品種。古い品種と聞いて薄くて清楚な花をイメージしていたのですが、実際はご覧のとおりの華やかさ。すでに満開ピークを過ぎ、加えて真夏のような暑さの中、若々しい新緑の葉をバックに「まだ若いもんには負けないぞっ」って踏ん張って咲いていた姿が心を打ちます。今年はいろいろな桜を意識して観て来ましたが、トリを飾るにふさわしい美桜でした。

 

 

 次いで訪れたのは円町にある法輪寺。通称“だるま寺”です。境内にある起上達磨堂には、全国の信者が持ち寄ったダルマさんがズラリ。2月のだるま寺節分会は善男善女でにぎわうそうです。

 日本人なら知らない人はたぶんいないダルマさんですが、こちらで書いたとおりインドから中国へ禅を伝えるためにやってきて、遼の武帝を「無功徳」と喝破した後、少林寺に籠もって壁に向かって9年間坐り続け、手足を失い尻が腐ると噂されるほどの忍苦の苦行をし、禅の始祖となった―噂の信憑性は別として、法輪寺の由来書には、

 

「七転八起とは、倒れても自力で起き上がる力である。転んだ力の大きさで起き上がり、無抵抗の力で、苦にもめげず楽にもおごらない、一貫した忍苦の人間生活のシンボルが、起き上がり達磨の本質である」

 

 とあります。ダルマに目を入れるのって、選挙で当選した人やノルマ達成した営業マンは単なるセレモニーとして行なっているのでしょうけど、本来は仏像同様、開眼することで魂を迎え入れるということ。満願成就して両眼をいれるのは願(がん)と眼(がん)をかけているともいわれます。身近にありすぎて、本来の意味を考えることなどほとんどないけれど、この由来書の一文は忘れないで心に留めておこうと思いました。

 

 昭和のはじめごろ、法輪寺第10代住職を務めた伊山和尚は、『白隠和尚全集』を刊行し、白隠さんの名を世に知らしめた功績者のお一人。こちらで紹介したとおり、白隠さんは30代の頃、禅病に苦しみ、京都の北白川に棲む仙人白幽子から内観の秘法を授かって治療したと伝わりますが、その白幽子の墓石が明治34年に吉田神葬墓地(現・神楽岡墓地)から盗まれ、しばらく行方不明だったところ、終戦直後の昭和21年に東京で見つけて自寺に移したのも伊山和尚でした。こちらがその墓石です。

 墓石には宝永6年(1709)没とあり、白幽子が伝説の仙人ではなく実在した人物だと判明した一方で、白隠さんが宝永7年(1710年)に北白川を訪ねたときはすでに亡くなっていたわけですから、白隠さんが訪問年を勘違いしたか、白幽子本人ではなく別の人から秘法を授かったということになります。・・・う~ん。

 こちらで書いたように、明治34年に吉田神葬墓地から盗まれた後、明治36年、富岡鉄斎が私費で墓地を再建しました。現在、神楽岡墓地にあるのはこの墓石。鉄斎直筆の字だとしたら価値がありますね。墓地の入口に建っていた「南無阿弥陀仏」の石碑は、一説には白幽子直筆を刻したものとか。墓守のおじさんに訊いてみたのですが、さっぱりわからないとのこと。白隠さんのフィクション疑惑からして、いったい何が事実で何が作り話なのかわからなくなっちゃいますが、白隠さんが実際に北白川瓜生山の山中を歩いたことは事実のようです。

 

 実は25日、建仁寺両足院に行く前に少し時間があったので、北白川にあるという白幽子寓居跡を訪ねてみようと瓜生山のトレイルを途中まで歩いてみたのです。バス停北白川仕伏町からバプテスト病院裏に入り、「北白川歴史と自然の道」の看板を見つけてしばらく歩くと大山祇神社。そこまでは案内看板があったのですが、その先に延びるのはただのけものみち。仙人といわれた人の棲み処なんだから難路なのは仕方ないと、足元の濡れ落ち葉で何度も滑りそうになりながら進んだのはいいけど、何度か分かれ道に出くわし、まったく方角がわからず。気づけば小1時間、汗びっしょりでタウンシューズはドロドロ。このままでは多聞会に遅参するどころか、遭難するかも・・・と怖くなって、元来た道を戻りました。

 先日訪ねた美濃加茂の白隠坐禅石のように、ちょっと歩けばすぐに見つかると思った己の軽率さを恥じると同時に、ひと気のない山道で迷ったことで、禅病に苦しみ、救い主を求めて必死に歩いた白隠さんのお気持ちがほんの少し疑似体験できたような、不思議な錯覚を覚えました。

 バスに乗って、白幽子寓居跡を見つけたらそこで読もうと思っていた『夜船閑話』を開いて、白隠さんが山を降りるとき、白幽子が、

 

「人迹不倒の山路、西東分ち難し。恐くは歸客を惱せん。老夫しばらく歸程を導ん」(人も入らぬ山路で方角もわからず、お困りであろう。しばらくお送りしよう)

 

と、途中まで見送ってくれたくだりを読んだら、フッと涙が湧いてきました。このときの白隠さんはさぞかし心強かったでしょう。白幽子に直接会ったことがフィクションだとしても、このように書き残したいと思った白隠さんのお気持ちは理解できる気がします。白隠さんのように命を削って禅定に徹した人でなければ出合えない救い主かもしれないけれど、自分もこの先、こうして寄り添ってくれる人と出合えるといいな・・・。

 

 

 そんなこんなで、翌26日の法輪寺では、誰もいない静かな本堂で新緑の光に包まれた庭園を前に、30分ほど瞑想しました。瞑想といえば聴こえはいいのですが、前日の歩き疲れと呑み疲れで眠気に襲われただけ(苦笑)。本堂の縁側角に置かれた彫像の牛に嗤われているような気がしました。

  白幽子関連史跡は、京都における白隠さんの数少ない貴重な足跡のようです。確かに白隠さん本人ではなく、白隠さんの師匠の縁地しかないとしたら、ちょっと物足りないかも。

 私はいつも、京都にしかない歴史文化にふれる旅をしているのですが、京都にはないものもあるんだな、と改めて実感しました。白隠さんの足跡は京都に少ないかわりに、地方創生の種子のように全国に点在しています。ホームタウンである駿河沼津は、ますます頑張らなければいけないな、と思います。

 

 4月29日(水・祝)は原の松蔭寺と徳源寺で寺宝の虫干し見学会が開かれ、白隠画を直接観ることができます。生家跡や東海の植物園として名高い帯笑園の一般公開もあるそうです。時間は松蔭寺は9時30分から16時まで。徳源寺は10時から14時まで。帯笑園は桜草鑑賞会とお琴の演奏会が9時30分から12時まで。抹茶野点の席もあります。お時間のある方はぜひいらしてください。


一歩ひいて、琳派を知る

2015-04-27 17:23:56 | 歴史

 4月25~26日は京都に行ってきました。半年ぶりの京都は、外国人観光客の激増ぶりにビックリ。25日は建仁寺両足院で開催中の『多聞会』に参加したのですが、祇園界隈は何ヶ国語も飛び交う外国人向けテーマパークと化し、市バスには一日フリー乗車券と英語路線図持参の外国人がごっちゃり。ひところはグループ行動の修学旅行生がごっちゃりだったのが、まさに主役交替の感あり。地元住民のみなさんの心境はいかばかりでしょうか・・・。

 

 両足院の『多聞会』とは、多聞=広く多くの物事を聞き知る、という仏教語を具現化した勉強会。寺を、多分野の知識を共有し、自己研鑽できる場所にしていこうと、5年の構想を経てこの4月からスタートしたそうです。院の鎮守が毘沙門天(多聞天)というご縁もあって、『多聞会』と命名されたとのこと。以前、大徳寺龍光院の欠伸会について紹介しましたが(こちら)、こういう活動はお寺のあるべき理想だ・・・と感じ入ります。私は多聞会の運営をボランティアで支えておられる元高麗美術館学芸員の片山真理子さんからお誘いをいただき、馳せ参じました。

 多聞会初年度のテーマは「琳派」。企画したのは2013年から両足院を会場に活動中のアートムーブメント「京・焼・今・展」実行委員会のみなさん。両足院が所蔵する焼き物の名作と、現在京都で活躍する京焼の若手陶芸家たちの作品を重層させることで、焼き物のこれからについて探る、という展覧会だそうで、3年目の今年は琳派400年の節目にあたることから、琳派を焼き物その他、総合的な観点で考察する講座を6回シリーズで開催(こちら)。私が参加した25日は第2回目で、大津市歴史学物館学芸員の横谷賢一郎氏が「一歩ひいて琳派を知る」と題してお話くださいました。

 

 今年が琳派400年記念だということは、恥ずかしながら、この会の案内をもらって初めて知りました。琳派の創始者とされる書家・芸術家の本阿弥光悦が、400年前の元和元年(1615)、徳川家康公から鷹峯の地を拝領され、法華宗の門徒を引き連れ、いわば“芸術村”を創った。これを記念しているようですが、同じく琳派創始者で、建仁寺の「風神雷神図」で知られる俵屋宗達はどういう人物だったのか不明だそう。「俵屋」という絵画工房(絵屋)を経営し、紙製品全般の絵やデザインを請け負っていた、いわばグラフィックデザイナーの走り、みたいな人。芸術家とは異なるスタンスで仕事をしていたようです。

 「風神雷神図」も、もともと宇多野の妙光寺にあったもので、京都の豪商・打它公軌(うだきんのり)が妙光寺再興の記念に俵屋に製作を依頼。著名絵師の作品、というわけではなかったため、当時はまったく知られていませんでしたが、約100年後、尾形光琳が偶然発掘し、カルチャーショックを受けたとか。その後、妙光寺から建仁寺に寄贈されたそうです。

 

 横谷先生の解説によって、室町~桃山期にホンモノの中国画を間近に教材に出来た画僧や、オールラウンドに優れた作品を輩出した狩野派等の御用絵師が“正統派”だとすると、正当な絵の修業はできなかったかわりに描写より構図で勝負・腕はそこそこ・コストをかけない宗達ら町衆向け絵師の立場や役割がよくわかりました。尾形光琳も裕福な呉服商出身で40歳過ぎから趣味で絵を描き始めた非正統派。狩野派の勉強もしたそうですが「宗達スタイルなら自分でも描けると思った」そうで、その光琳の作風を、さらに後年の大正時代に「琳派」と名付けた。「琳派」とは特定の集団や様式ではなく、伝統を大胆にカスタマイズし、さまざまな応用を可能にした、という意味なんですね。琳派の代表的な技法とされる「たらしこみ」も、正統派絵師の「にじみ」「ぼかし」のテクニックが持てない彼らがアバウトに水墨表現したものだそうですが、その大雑把さが意匠的面白さを醸しだしています。

 

 講座では横谷先生持参の御用絵師と琳派の絵を比較鑑賞し、「この細密な筆遣いは御用絵師タイプ」「こっちの大胆な構図は琳派」とわかりやすく解説していただきました。ホンモノの画をこんなふうに身近に観られ、写真撮影自由、なんて、なかなかない機会でした。

 

 今年は奇しくも家康公没後400年。17世紀頃の日本が戦争のない平和で経済成長していた時代で、町衆もアート観賞できる余裕が生まれたからこそ、「琳派」という現象が現れ、「風神雷神図」は今や、浮世絵と同じように外国人ウケするニッポンアートのシンボルになった・・・そう考えると、家康没400年と琳派誕生400年が重なり、記念行事が開かれる今年は非常に意義深い年ですね。


第1回駿河茶禅の会~私の好きな禅語

2015-04-24 14:31:57 | 駿河茶禅の会

 私は茶道や華道といったお稽古事の経験がまったくなく、歴史やら伝統やらを識者ぶって論じながら、和の基本的な所作や教養がまったく身に着いていないのが、ずーっとコンプレックスでした。論じるだけ、と、身に着いている、じゃぁ雲泥の差。坐禅をするようになって和尚さんから猫背をひどく注意され、初めて自分ってそんなに姿勢が悪かったんだと気づいた始末です。

 4年前、静岡県ニュービジネス協議会の研究部会として茶道に学ぶ経営哲学研究会という会をつくったところ、協議会会員(経営者や管理職)をはじめ、私の酒友やその家族友人等から思った以上に「私も和のマナーを勉強したい」「昔やってた茶道を復習したい」「作法の意味をちゃんと勉強したい」という声が集まり、3年半、充実した活動を続けることができました。そして今月からは会員有志による手弁当の勉強会『駿河茶禅の会』をスタート。22日に第1回例会を行ないました。

 

 初回のテーマは「私の好きな禅語」。いわゆるお稽古事の茶道教室で禅語を学ぶ機会はほとんどないそうですが、茶室の床の間には徳の高い僧が書いた禅語が掛け軸として飾られます。茶の湯は禅の教えをベースにした、禅の修行の一環、と考えれば、茶室に入室し、まず掛け軸に礼をする、という所作の意味がナットクできるわけですね。昨今、茶道の家元が書いたものや日本画を飾るケースが増えてきたそうですが、禅僧の墨書を掛けるのが基本中の基本。亭主がだれのどの禅語を選んで飾ったかが、その茶事の大きなテーマとなります。そんな大事なことなのに、茶道教室でなぜ禅語を勉強しないのか門外漢には不思議です・・・。

 3年半の研究会では、講師の先生からさまざまな禅語を教えていただきましたが、「駿河茶禅の会」は学習意欲のある仲間が手弁当で始めた勉強会ですから、初回は自己紹介がてら、自分のお気に入りの禅語を持ち寄っていただきました。お馴染みの熟語から初見の熟語までいろいろ集まり、なぜお気に入りなのかをうかがううちに、その人の経験や現在の心境が伝わってくる気がして、相互理解にもつながる充実した学び合いとなりました。

 以下に無記名で紹介します。参加者のみなさん、ありがとうございました!

 

 

「遊戯三昧」

■作者/無門彗開  ■出典/無門関

■「遊戯」とは、「ゆうぎ」とは読まないで「ゆけ」と読みます。意味は、悟りの境地に徹して、それを喜び楽しむこと。「三昧」は、「サマーディ」の音訳です。何か対象が決まっていて、それと自分とが全く「ひとつ」になること。勉強するなら勉強に、絵を描くなら描くことに、全く「ひとつ」になって余念がないこと。一旦こうと決めて生き始めたらからには、人から褒められようと、くさされようと、罵られようと、一向に意に介さず生きていくこと。我を忘れて無心に遊んでみないか、仕事も趣味も生活でなすことも、さらには人生の運不運も、全て遊び心で生きることがすばらしい。

■「ワークライフバランス」や「仕事とプライベートの両立」だけでは解決できないことを解決する糸口が「遊戯三昧」という言葉の中にあると思います。いまは、ちょうど就職活動の季節。面接では学生からもそれらの言葉が聞かれますが、若い人にこそ、楽しいことをするのではなく、することを楽しむことの大切さを知って欲しいと思います。

 

 

「日々是好日」
■作者/雲門禅師  ■出典/雲門広録
■多くの人は「今日もよい一日でありますように」と願い、無事を願う。が、現実はその願いどおりにはいかないので、様々な事象があってもこの日は二度とない一日であり、かけがえの無い一時であり、一日である。この一日を全身全霊で生きることができれば、それが日々是好日となる。それは自らの生き方を日々坐して待つのではなく、主体的に時を作り充実したよき一日一日として生きていくところにこの言葉の真意がある。以前教えていただいた「話尽山雲海月情」と似た言葉かなと思いました。

■どのような日でも毎日は新鮮で最高に良い日だという意味。「 雨の日も風の日も、その時の感情や状態を大いに味わって過ごせば、かけがえのない日になる」。

 

 

「柳緑花紅」

■作者/蘇東坡  ■出典/東坡禅喜集より「柳緑花紅真面目」

「あるがまま」をシンプルに表現した禅の言葉。柳は緑色、花は紅色をしているように、自然はいつもあるがままの美しい姿をしていることから、禅宗では、悟りの心境を表す句。あるがままのものが、あるがままに見えてくるまでには、苦しい道程を経なければならないが、悟ったからといって特別に変わったということもなく、悟らぬ前も“花は紅”であり、悟った後も“柳は緑”であると。

※一休禅師「見るほどにみなそのままの姿かな 柳は緑 花は紅」

※沢庵禅師「色即是空 空即是色 柳は緑 花は紅 水の面に 夜な夜な月は 通へども 心もとどめず 影も残さず」

 

 

「随喜功徳」

■作者/釈迦  ■出典/妙法蓮華経・随喜功徳品第十八

 人の幸せや喜びを妬むのではなく、共に喜ぶことが功徳になるという仏教語。「随喜」とは仏法を聴く事で喜びを得ること。または、人の幸せや喜びを共に共感すること。

 


「一」
 字面ではただの「一」で、禅語との定義は憚りますが、「万法帰一」(碧巌録)をはじめ、「一華開五葉」(達磨の偈)など成句として多数あります。また茶道の稽古科目として、「一二三之式」という名称の点前もありますし、「稽古とは一より習ひ十を知り、十よりかへるもとのその一」とは言わずもがなの道歌で、茶には縁の深い語であります。三十年以上も昔に、松堂老師に染筆頂いた「一」の掛軸は人生の節目節目に掲げ、肝に銘じて参りました。

 

 

「花無心招蝶 蝶無心尋花」

■作者/老子  ■出典/道徳経

良寛の詩で知りました。春になれば、蝶が花を求め飛んできます。誰に決められることもなく二つのものが自然にむすばれる大自然の法則そのものがすばらしく思え、また、きれいな漢字が使われている好きな言葉です。仏教でいう「因縁」という奥深い意味もあり、なるほどと思います。

 

 

「照見脚下」「脚下照顧」
   足元を見よ、とは、自分の本性を見なさいという教えだという。もとより私は自分を顧みて反省するようなタイプではないが、この言葉には共感できるところがある。昔から私はその日着るものを靴から決める。雨降りか否かのコンディションに加え、フォーマルかカジュアルかの違いも靴がいちばん明確だからだ。何を着て行こうと考えるといつまでも決まらないのに、靴が決まると頭のテッペンの帽子やウイグの型まで即座に決まってしまう。だから足は自分の芯だと、ずっと感じてきた。日本人の美意識の芯も白足袋にあると思う。地面と接しているもっとも汚れやすい部分に真っ白な足袋を履かせる。その徹底した清潔感こそが日本人らしさではないだろうか。しかし、このところ自分の足元が危うくて悲しい。酔っ払って転げることもしばしば。それも、年を取った自分に気付きなさいーと芯が警告してくれているということだろうか。

 

 

「随処作主」

■作者/臨済義玄   ■出典/臨済録    

自分の主体性を持って取り組むことが大切。たとえ、辛い時や理不尽なことがあっても一生懸命行動し努力していれば、道は開けるという意味です。他人や外部のせいにしないよう戒められます。

 

 

「無事」

■作者/臨済義玄   ■出典/臨済録「無事是貴人」

「主人公」

■作者/瑞巌和尚  ■出典/無門関十二則「瑞巌主人公」

自宅で年中掛けている私のお気に入りテーマ2つです。「無事」は家に帰って、中に入ると目に入る場所。友人が書いてくれた書で、心を落ち着かせてくれます。「主人公」は茶室もどき部屋の、床の間に掛け、自分を確認し、自分を見つめる場にしています。

 

 

「行雲流水」

■出典/『宋史』蘇軾伝

好きな言葉としてあげた理由は三つあります。一つめはこの言葉の語源にあります。語源は文章の書き方について中国の昔の文豪が言った言葉だそうですが、その意味に惹かれ、自分の仕事の目標にしています。書けば書くほど、不自然に凝り固まっていく自分の在りようを、「行雲流水」という言葉が和らげてくれるように思ったのです。

 二つめは、若い頃、川釣りをされる人に「川っていうのは人生のようなもんですよ。流れがあって、淀がある」というようなことを教えていただき、とても感銘を受け、私も今起きていることに逆らうのではなく、身を任せて受けいれることで、今日の日を大切に、楽しんで生きられるのではないか?と思うようになりました。その心持を言葉にすれば、やっぱり「行雲流水」なのかな、と。人生に於いても、人付き合いに於いても、去る者は追わず、来る者拒まずをモットーに、自然体でいたいと思っています。

 三つめは、富士の麓で広い空と豊かな川に恵まれて育ったため、雲を眺めることや、川辺、海辺が大好きなことです。「行雲流水」の文字を見ているだけで、私にはいろんな表情の富士川や、富士山にかかる、刻々と変わる雲が思い出されます。

 

 

 

「一期一会」

■作者/千利休

『山上宗二記』の中の「茶湯者覚悟十躰」に、利休の言葉として「路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、主ヲ敬ヒ畏(かしこま)ルベシ」という一文があります。さらに江戸時代末期、大老井伊直弼が茶道の一番の心得として、著書『茶湯一会集』巻頭に「一期一会」と表現したことにより四字熟語の形で広まったようです。私は、“過去は変えられないが、未来は自分が創れる”を信条に、過ぎたことは振り返らず、今を大事に取捨選択して行動して来ました。ただし、過去があって未来があることは理解しています。 

 

 

 最後に私が挙げたのは、このブログでも再三紹介している、白隠さんの「動中工夫勝静中百千億倍」と、大乗涅槃経にある「自未得度先度他」。「動中」は日常生活の一切の行動。日頃の動作で、静中(坐禅)のときと同じように正念相続(=正しい信念を持ち続けること)するほうが何倍も勝る。私の座右の銘です。

「自未得度先度他」は自分の得より他人の得、という利他精神を説いたものと言われますが、自分はまだ悟りに達してはいない未熟者だけど懸命に修行し続けていると、他者のためになることもある、と解釈しています。酒の会もこの会も、自分は修行中の身で、会を運営できるような立場ではありませんが、自分の修行になると思ってお声かけをしたらこんなに集まってくださった。みなさんに共鳴していただけた・・・と驚き、嬉しく、感謝しているところです。

 

 こうして並べてみると、「遊戯三昧」「一」「随所作主」「主人公」「一期一会」「動中工夫勝静中百千億倍」あたりは、変化を前にして、自分を鍛えよう、自己改革しようと意を決する人が選んだ言葉なのかなあと思えてきます。一方で「柳緑花紅」「花無心招蝶 蝶無心尋花」「行雲流水」あたりを選んだ人は、すでに何か大きな変化の中にあって己を見失わないよう心落ち着けようとしているのかなあと。

 ・・・そう考えると、茶席の亭主は、その日に招いた客の経歴や今の心境を慮って言葉を用意するわけです。これは大変奥深い、おもてなしの極致。流行語のOMOTENASHI、とは次元が違うようです。

 

 ちなみに「一期一会」は、英語で「one meeting, one chance」と直訳されることが多いそうですが、禅語の精神を正しく伝えるならは「once in a-life-time meeitng」となるそうです。英訳することで言葉の真意が顕在化することもある・・・禅語って面白いですね、ホント。

 


言葉をめぐる、気づき旅

2015-04-19 14:47:17 | 歴史

 先日、ある会合で同席した人にライターの肩書きの名刺を渡したら、「スズキさんってライターだったんですか」と驚かれました。その人が関わった行事についてこのブログに書いたことがあって、それをきっかけにブログを時々閲覧されていたよう。“朝鮮通信使や白隠禅師を少々かじった風変わりな酒飲みのブログ”と思っていたそうで、もちろんそのとおりなんですが、ライターが本職だと判り「素人にしては書き慣れているなあと思った」とお褒めいただきました(笑)。

 よくよく考えてみると、日本人が日本語で書く文章に、プロも素人もないような気がするし、慣れているか否かの違いで良し悪しが決まるものでもない。そう思う一方で、上達するにはひたすら書くしかない、第三者に読んでもらうことをきちんと意識して書かなければ修業にならないと考え、自分の文章修業を目的に始めたのがこのブログです。友人から「最近、歴史や宗教の話ばかりで難しすぎて疲れるよ」と苦言を呈されつつ、ややこしいテーマの場合はますます意欲が湧いてくる。専門性の高いテーマでも専門家ではない自分が解釈できる範囲なら、一般の人にも伝わるはずだと。「難しすぎて疲れる」という評価は、自分の伝え方が未熟だという証拠。そんな自分がプロのライターを名乗っていいのか、30年近く経った今でも迷いは消えず。そんな、行き暮れた思いにかられるときは、とりあえず誰かの意味ある言葉を探りに旅します。

 

 前回記事の大名家の起請文というユニークな文書を観に行ったその翌日、東京北の丸の国立公文書館で5月10日まで開催中の【JFK-その生涯と遺産展】と、靖国神社遊就館で開催中の【大東亜戦争七十年展最終章】を鑑賞しました。

 

 公文書館って、図書館と違って一般人が縁遠い施設だと思っていましたが、初代公文書担当大臣を務めた上川陽子さんから「国民のかけがえのない知のインフラ」と教わり、今回のJFK展もハーバード大学院ケネディスクール出身の陽子さんが尽力して開催にこぎつけたと聞いて、どんなにややこしい施設でも足を踏み入れなければ・・・!と意を決して向かいました。フタを開けてみれば、意を決する必要なんかなくて、老若男女、洋の東西問わず、実に多くの来館者で大盛況。開館史上最高の入場者数を更新中とか。さすがケネディ人気というか、アメリカの公文書館から門外不出の貴重なお宝を出展してもらうという画期的な試みが見事奏功したようです。入場無料ですしね!

 アメリカには国立公文書館記録管理院という組織のもと、13の大統領図書館・博物館があります。歴代大統領ごとに公文書や関連資料をきちんと保管展示しているんですね。今回出展協力したジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館はボストンのコロンビアポイントにあり、ケネディに関する文書840万点、写真40万点、音声記録9000時間、映像フィルム230万メートル、ビデオ1200時間等を所蔵。主な資料はデジタル化されHPで公開されています。

 そういえばワシントンのアメリカ国立公文書館にはペリー提督の航海日誌が保管され、吉田松陰が密航を企てたときの記述が記されています。

 

『この事件は、厳しい国法を犯し、知識を増やすために生命まで賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、興味深いことであった。日本人は確かに探求好きな国民で、道徳的・知的能力を増大させる機会は、これを進んで迎えたものである。この不幸な二人の行動は、同国人に特有のものと信じられる。また激しい好奇心をこれほど良く示すものは他にあり得ない。・・・・日本人のこの気質を考えると、その興味ある国の将来には、なんと夢にあふれた広野が、さらに付言すれば、なんと希望に満ちた期待が開けている事か!』

 

 またイェール大学図書館には吉田松陰密航時にペリーに宛てた手紙の原本が残っています。ペリーの通訳で、晩年同大学教授を務めたサミュエル・ウイリアムズの私文書の中にあったものを、密航150年の節目となった2003年、日本の研究者が発見したのです。「外国に行くことは禁じられているが、私たちは世界を見たい。(密航が)知られれば殺される。慈愛の心で乗船させて欲しい」という切なる訴え。それに応えられなかったペリーが後に記した日記・・・。こういうものがちゃんと残っていたことで、歴史が遠い過去の物語ではなく、同じ人間同士の行動記録なんだって実感できるのです。

 

 話は逸れましたが、ケネディ大統領関連の公文書・・・カチッと英文タイプされたお堅いペーパーだろうなと想像していたら、タイプ文字の行間に走り書きがいくつも。たとえば平和の戦略を説いた演説原稿では「・・・not merely peace for Americans but peace for all men」という原文に、手書きで「and women」と付け加えてありました。

 ケネディは第二次大戦中の1943年、魚雷艇PT-109に艇長として乗船し、南太平洋で日本の駆逐艦「天霧」に衝突されて遭難。ヤシの実に「11 ALIVE NEED SMALL BOAT(11人生存。小さなボートが必要)」と刻んで現地人に託しました。このヤシの実はのちにペーパーウエイトに加工し、大統領執務机に置かれたとか。国外持ち出しは今回初めてだそうです。また後年、天霧の乗務員を探し出して「昨日の敵は今日の友」と書き添えたポートレートを送っています。戦争史やケネディ伝記に詳しい人には常識エピソードかと思われますが、私にとっては「へええ!」の連発でした。

 

 一番グッと来た展示は、大統領就任式の映像が流れる横で、展示されていた就任演説の原稿。

 

「・・・同胞であるアメリカ市民の皆さん、国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか。また同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、人類の自由のために共に何ができるかを考えようではありませんか」

 

 ああ、あの演説だなあと最初は一目して通り過ぎようとしたら、横の映像画面から本人の声が流れてきて、アッと足を止めました。今までいろんな展覧会でいろんな歴史資料を閲覧してきましたが、原文を見ながら、書いた本人の肉声を聴くのは初めてです。肉声や映像が残るのは、もちろん近代の史料に限られたことですが、なにやら無性にゾクゾク。この文章は美しい・・・!と素直に感じ入りました。

 ケネディ至宝の言葉として語り継がれるあの名言。それはきちんと用意されたタイプ原稿であり、タイプ文字の裏側からは、おそらく信頼できる周囲の人間から知恵を借り、助言を乞い、推敲を重ね、最後は独りで決断した孤高の背中が見えてくる・・・。この文章で行こうと決断した迷いのなさが声の力強さとなって、聴く者に感動を与えたのです。この一連の展示を見て、いい文章とは「声に出して伝わるかどうか」が基準になることを、ひとつ、確信しました。

 

 靖国神社は、実は初めての参拝です。母方の祖父が中国の重慶で戦死しているので、いつかはお参りしなきゃ・・・と思いつつ、今まで機会がありませんでした。本当は日本橋の美術館へ行くつもりだったのですが、国立公文書館のある地下鉄竹橋駅の構内で、ひと駅西の九段下が最寄だと気づいて、日本橋とは逆方向に飛び乗っちゃいました。ソメイヨシノは盛りを過ぎたものの、穏やかな春の日曜、門前では骨董市も開かれていて、多くの参拝客で賑わっていました。

 

 遊就館はクラシックな外観からして東京国立博物館本館のような重厚な施設をイメージしていたところ、内部は最近の新しい博物館によくある、“見せる展示”を意識したモダンなフロア。順路がややこしくて途中で迷っちゃいましたが、明治以降の戦争の歴史を時代ごとにわかりやすいビジュアルで紹介しています。

 つい最近まで再放送されていた『坂の上の雲』や、クリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』の印象も手伝って、秋山真之や栗林忠道の遺品にはついつい見入ってしまいました。上川陽子さんが総務副大臣を務めていたときの“上司”新藤総務大臣が栗林忠道中将のお孫さんだとうかがっていたので、勝手に親近感を持っていたのです。閣僚の靖国参拝は何かと物議を呼びますが、新藤さんにとってはこの世で会えなかった祖父に会いに行く、ということ。私にとっても同じことで、この世で会えなかった祖父に、今日こうして会いに来たんだ・・・と胸に迫る思いがありました。戦史に残る名将と一兵卒の祖父を同等にしちゃ申し訳ないのですが。

 

 太平洋戦争で戦死した英霊の写真群と遺書の展示には、やはり重苦しい気持ちにさせられました。祖父の写真や遺品がここにないのは承知していましたが、一覧名簿のバインダーを思わずめくって祖父の名前を探してしまい、ここに展示されていない圧倒的数の戦死者の声なき声と見えない顔を想像しました。太平洋戦争ばかりではなく、日本が、今の日本になるまでに経験した戦争には、記録されていない圧倒的数の屍があり、不都合な資料は隠される。・・・戦争資料を扱う博物館は、展示されたものだけを観て終わりではなく、展示されないものがあることを学習する場だ、と実感しました。

 

 ライターに素人とプロの差があるとしたら、目に見える分かりやすい事象だけを扱って、誰もが「そうそう」「いいね」とレスするものを書いて満足するのが素人。目に見えないもの、人が気づかないもの、常識と思い込んでいるものに斬り込んで、気づきを与えるものを書けるのがプロフェショナルだな・・・。遊就館を見終わった後、なぜかそんな思いにかられます。

 中国の大陸奥地で亡くなった祖父のことは、母の実家にある20代の写真でしか知らず、まあまあのイケメン。この20代イケメンが自分のおじいちゃんだという実感がなかなか持てずにいましたが、ライターとして曲がり角にある自分をここに導いて、プロの矜持に気づかせてくれたのは、おじいちゃんの魂かもしれません。今の生活の中で、戦争で命を落とした人たちのことをそんなふうに意識し、感謝することが、今、自分に出来うる精一杯の慰霊なのかな。

 

 

 靖国神社を参拝した後、国立公文書館で購入した所蔵資料ポストカードセットと、前日訪れた永青文庫で購入した平成20年度夏季展カタログ【白隠とその弟子たち】をパラパラめくっていたら、この2資料が眼に留まりました。

 国立公文書館の出入り口近くに展示されていた【大東亜戦争終結ニ関スル勅書】。玉音放送でよく知られる「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」のあの御言葉の原文です。これが展示され、ポストカードになっていたなんて、やっぱり公文書館ってスゴイ施設だ・・・としみじみ。

 

 こちらは白隠さんの「死」の文字。「死の字を究めない者は、いざというとき臆病な振る舞いをする」と白隠さんはおっしゃっていたそうです。「死の字を究めようとするならば、自己が本来もっている本性を明らかに見抜かねばならない」と。

 思い返すと、遊就館に展示されていた遺書には、迷いのない言葉選びや筆遣いのものがいくつかありました。どちらも日本人の死生観を学ぶ貴重な資料であり、白隠だけ、靖国だけ、では気づかないものがあると思う。それが何かを書き説くことができたら、ライターとして少しは自信が持てるかもしれません。


細川家起請文の世界

2015-04-13 11:35:50 | 駿河茶禅の会

 2011年から(一社)静岡県ニュービジネス協議会の研究部会として活動していた【茶道に学ぶ経営哲学研究会】。2015年3月を以って(協議会の助成を受けての)部会としての活動を終了し、この4月から有志による【駿河茶禅の会(仮称)】としてリニューアルすることになりました。引き続き、裏千家インターナショナル・アソシエーション運営理事の望月静雄先生を中心に、禅の教えをベースとした茶の湯精神を学び、茶どころ静岡人として然るべき和の文化を身に着けようという教養講座です。私自身、歴史や禅を学びたい意志が強いことに加え、先生からも「茶道教室数あれど、茶史や禅学を学ぶ機会は皆無。こういう会はぜひ続けてほしい」と太鼓判をいただき、参加者の賛同を得ての再スタートです。

 第1回は4月22日(水)18時30分から。静岡市内の会員さんの企業オフィスをお借りし、参加者の自己紹介や近況報告をかねて「私の好きな禅語」を発表し合い、みんなでディスカッションする予定です。参加無料。興味のある方はぜひご一報ください。msj@quartz.ocn.ne.jp

 

  駿河茶禅の会のスタート準備、というわけではありませんが、利休七哲の一人・細川三斎にまつわる興味深い展覧会が東京の永青文庫で開催中とのことで、11日に行ってきました。

 

 ご承知のとおり、細川家2代当主・細川忠興(三斎)は、明智光秀の娘・玉子(細川ガラシャ)を妻にし、本能寺の変で明智方からの誘いを断り、妻とも離縁しなかった偉丈夫。師匠の千利休が切腹を言い渡された後、彼と古田織部だけが(秀吉の眼を怖れず)利休を見舞ったと言われ、男気がある!と好感を持っていたのですが、今回の展覧会『細川家起請文の世界』(こちらを)を観ると、隠居して三斎と名乗った後は内内でかなりやっかいな存在だったようです。

 

 起請文とはいわば武士の誓約書。誰が敵か味方か判らない戦国時代は、神仏にかけて嘘偽りなく約束を果すと誓いの言葉を文言にし、血判を押します。・・・と、ここまでは戦国ドラマでもよく見る光景ですね。今回展示されていたのは元和6年(1620)に3男忠利に家督を譲って隠居し、三斎を名乗ってからの時代のもの。誰が誰に、どういう誓約をしたかというと、細川家の家臣が、3代当主となった細川忠利とその息子光尚に「私は三斎派ではありません!」と。・・・そう、隠居した三斎が家督を譲ったはずの3男やその孫と対立し、お家騒動が勃発していたのです。

 三斎は隠居後に与えられた八代の領地に、自分のいいなりになる4男5男の領地を勝手に加えて熊本藩から“独立”しようとしていました。なにせ戦国時代を生き抜いたカリスマ性たっぷりの偉丈夫。長年仕え、心酔しきっている家臣も少なくない。老いてもなお血気盛ん、というわけです。

 一方家督を継いだ忠利は、「戦国の世は終わった。これからの藩の運営には、新しい時代にふさわしい官僚組織が必要だ」と考えた。まあそれも道理ですよね。カリスマリーダーがトップダウンで組織を率いた実力主義の時代が終わり、2代目3代目になれば、組織を個人の資質ではなく“しくみ”として機能させる必要がある・・・現代に置き代えてみれば、戦後の混乱期から高度経済成長までを牽引したカリスマ経営者の手法は、経済安定→成熟期には通じないってことです。新社長は、いつまでも口出ししようとする先代や先代一派を、いつかは一掃しなければなりません。

 そんなわけで忠利は、やっかいな先代一派に対処する担当部署を設けるのですが、担当役になった小笠原長貞が他の家臣から「あいつ、三斎側と通じてるんじゃないか?」と疑いをかけられ、神仏にかけて否定した起請文をしたためます。また忠興時代に重用され、途中で無役となり、三斎時代になって再び重用されようとした沢村大学が「もう二度と三斎には奉公しません。なぜならこんなひどい目にあったからです」と、忠興時代に受けた嫌がらせや女性をめぐって忠興と対立したことなど私生活のあれやこれやを起請文に書き連ねています。

 

 さらに同情しちゃうのは、三斎末子で家老職に就いた松井寄之が病気でたびたび出仕しなかったことで「やっぱり親父に通じてるんじゃないか?」と疑われて、「ホントに病気なんです!」と必死に否定し、医師からウツ病の診断書まで書いてもらったという起請文。・・・肥後熊本藩細川家といえば700年続く名門中の名門で、現当主は総理大臣まで務めたという、ひょっとしたら日本史上一番の勝ち組名家ってイメージを持っていましたが、初期のころ、藩の組織が磐石になるまでは、本当にいろいろあったんですね。ギャラリートークで学芸員が「戦国世代(前時代)と官僚世代(新時代)の主導権争い」と的確に解説してくれましたが、茶人としても名高い三斎が、案外生臭い人だったとわかってちょっとガッカリ(苦笑)・・・というか、最近の大塚家具騒動をみても、経営を引き継ぐとき、というのが組織にとって最大のリスクなんだってしみじみ実感します。

 

 ほか、

○忠利が急死した後、家臣たちが新当主光尚に対し「御国家を大事とし、私的利害を排して職務に専念します」と約束。この当時の「国家」とはお家(組織)とお国(領地)を合わせた概念。

○三斎自身が忠利に対し「沢村吉重に増領したそうだが、あいつには昔、借米があり、利子を計算したら今なら3万石ぐらいになるぞ。その分しっかり差っぴけ」と宛てた書状

○茶道役10人が「茶道具を大切にします。もし破損させたら隠さず報告します」と約束。解説の学芸員さんは「彼らはいわば元祖学芸員。僕たちの大先輩です」と(笑)。

○お毒見役が「お殿様の御膳に関わるすべての者(料理人や配膳役など)本人に直接毒見をさせます」と約束。

○「天草島原の乱で功績のあった者には、自分の部隊所属の者であってもえこひいきせず、査定が完了するまで決して秘密は漏らさない」って約束。

 

 などなど、面白い(っていっちゃ失礼ですが)起請文や書状がズラリ。戦国の世が終わり、平和になったとはいえ、こういう起請文が必要なぐらい“息苦しい”時代だったよう。・・・そういう息苦しさは、昔も今も変わらないかもしれませんが。

 

 

 永青文庫の春季展【細川家起請文の世界】は6月28日まで開催中。【大名細川家の茶席と加賀九谷焼展・加賀の九谷焼現代作家作品展】を同時開催しています。なんで九谷焼?と思いましたが、三斎の長男で関ヶ原で豊臣側に与した疑いで廃嫡となった細川忠隆が加賀・前田利家の娘千世を正室に迎えており、さらに九谷焼が今年開窯360年の節目&北陸新幹線開通祝いとのこと。茶懐石に使う名品が展示されていますので、茶の湯に興味のある方はぜひ!