杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

国際白隠フォーラム2015(その4)パネルディスカッション「NO HAKUIN,NO LIFE-私と白隠」

2015-07-31 14:20:56 | 白隠禅師

 7月19日開催の国際白隠フォーラム2015、パネルディスカッション『NO HAKUIN, NO LIFE -私と白隠』のレポートです。

 パネリストは公開講座で演壇に立たれたハンス・トムセン氏(デンマーク/チューリッヒ大学教授)、竹下ルッジェリ・アンナ氏(イタリア/京都外国語大学准教授)、ブルース・R・ベイリー氏(アメリカ/日本ロレックス㈱代表取締役社長)、李建華氏(中国/翻訳家・日本文化研究家)、そしてコーディネーターに芳澤勝弘氏(花園大学国際禅学研究所元教授)。国際フォーラムと銘打つにふさわしいグローバルな講師陣です。

 

 4月ごろ、このフォーラムの企画を聞いたとき、県の担当者から「パネルディスカッションに何かインパクトのあるテーマコピーを」と相談を受け、ディスカッションのテーマを芳澤先生にうかがったところ、「パネリスト個人個人が魅力的で素晴らしいから、とくにテーマを設けず、彼らに白隠との出会いや思いを自由に語ってもらうつもりだ」とのこと。県の行事だからあまりくだけたコピーでも・・・と真面目な案をいくつか出して、ひとつだけ、私も自由にさせてもらおうと最後に付け加えたのが「NO HAKUIN, NO LIFE」でした。それが採用されるとは思いもよりませんでしたが、実際のパネルディスカッションは先生のおっしゃるとおり、パネリストお一人お一人のキャラが立ち、限られた時間なのに実に的確に、ご自身と白隠との関係性を深く掘り下げて語ってくださって、期待以上の面白さ。随所で拍手喝采が湧き起こり、私がお誘いした染色画家の先生やお茶の師匠も「こんなに内容の充実した講演会は久しぶり、来た甲斐があった」と大変喜んでくださいました。

 手持ちのICレコーダーで録音に挑戦したのですが、会場が広すぎて音をほとんど拾えなかったため、走り書きメモをもとに各先生方のご発言のポイントを多少リライトし、紹介させていただきます。正確さに欠ける部分もあろうかと思います。聴講されていた方でお気づきの点がありましたら遠慮なくご指摘ください。

 

 

(トムセン氏)私はデンマーク人ですが、生まれは京都で、宣教師の父が袋井にデンマーク牧場を作った関係で、幼い頃は静岡で過ごしました。父は宗教の研究もしており、その関係で三島の龍澤寺の中川宋淵老師や沼津出身の古美術商田中大三郎さんとも知己を得ました。若い頃は東京南青山の田中さんの店で丁稚奉公もしていたんです。その頃、白隠禅師と出会い、店に来るお客さんに田中さんが解説されているのをそばで聞いて、いろいろ勉強させてもらい、白隠の作品が出品される展覧会があれば必ず出向きました。

 私は仏教徒ではありませんが、白隠からは精神的な影響を受けていると思います。学者として見ても面白い対象で、ものすごいインスピレーションがあり、スケール感もある。書も画もどちらもすばらしいですね。好きな作品はたくさんありますが、一つ上げるとしたら、直径13センチほどの小さな小さな観音像です。

 

 

(芳澤氏)小さな観音像は、大店の女将さんが自室の仏壇にかけていたものではないかと思いますね。

 

 

(竹下氏)若い頃から東洋思想に興味を持ち、13歳くらいのころから空手道場に通い、ヴェネチアの大学で日本語を勉強しました。専攻を選ぶときにはごく自然に日本の宗教や哲学を選択し、有名な鈴木大拙の本を読んで白隠禅師のことを知りました。21歳ぐらいのころですね。白隠の公案は論理的にはまったく考えられないけど衝撃を受け、白隠の勉強をするには日本に行くしかないと、縁のあった花園大学に入学し、次いで大阪府立大学大学院で白隠の公案体系を研究しました。

 大阪の古本屋さんで床に積んであった本の一番上にあったのが遠羅天釜(おらてがま=代表的な白隠法語集)だった。偶然出合ったこの本を研究テーマに選んで、「白隠はこういうことを言おうとしていたのではないか・・・」とアタマが一杯になっていたら、ある先生から「あんたは白隠じゃない」と怒られました(笑)。今は、研究というよりもとにかく翻訳が大事だと考え、遠羅天釜のイタリア語翻訳に取り組んでいます。

 遠羅天釜には子どもの頃の母親とのエピソードが書かれています。3年前に渋谷Bunkamuraで芳澤先生と一緒に白隠展を企画された東京芸大の山下裕二先生は、白隠が描く観音像はお母さんをモデルにしているのではないかと指摘されています。つまり白隠はマザコンじゃないかと(笑)。しかし母性は女性だけが持っているものではありません。観音菩薩はインドでは男性的な象徴として描かれ、中国に入ってきてから女性的に変化しています。面白いことに、白隠さんが晩年、83歳ぐらいのときに描いた観音菩薩は、お顔にシワがよっているんですね。

 

 

(ベイリー氏)大学の先生とはうってかわって商人代表で述べさせていただきます(笑)。何を隠そう、白隠さん、ダイスキです。宗教家ではあっても宗教のカベを超えた偉大な人。夜空の星のように時代が変わっても場所が変わってもずっと輝き続けているような方です。

 初めて名前を知ったのは、日本に留学し、円覚寺の坐禅会に参加したときでした。その後、東京上野の博物館で開かれた展覧会で初めて墨蹟を観て、その展覧会のほかの展示作品はアタマからすっ飛んで、身震いするほど感動した。それが白隠さんの書「本来無一物」でした。

 私には、大学の頃から尊敬している哲学者がいます。欧米では20世紀最大の哲学者といわれるルードウィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)。白隠さんと共通点が多いのです。後半生、人を救う、助けるということを人生の目的にされた。言葉やコミュニケーションを工夫した。2人とも活動的で実践的なアプローチをしています。白隠さんは街に出て理屈やセオリーを置いて、足で稼いで布教した。一人ひとりを大切に大切にし、相手に合わせて教えやアドバイスを行ないました。ヴィトゲンシュタインも日常会話やコミュニケーションを徹底的に探求した人です。

 あなたの哲学の目的は何かと問われ、彼は「ガラスの瓶に誤って飛び込んだハエに、脱出する出口を示してやること」と答えました。何か問題が生じるときというのは、言葉の罠に陥っているのだと説いた。哲学はその間違いをほぐすことだと。面白いのは、ハエの出口を「示す」。説明ではなく、ただ「示す」のです。白隠さんもまさに絵で「示し」た。隻手の音声などは、言葉のナンセンスを示した素晴らしい公案です。そういえば最近テレビを観ていると、よく「丁寧に説明いたします」と言ってますけど、そのわりにはよく分かりません(笑)。

 白隠禅師坐禅和讃の後半に「四智圓明」という言葉が出てきます。松蔭寺の前住職だった中島玄奘さんがとてもお好きで、坐禅をする者すべてが目指す境地であるとおっしゃっていました。鑑のような眼をして物事を判断せよということ。英語でいえば「don't think, look」―考え出したらわからなくなるから、よく見なさい、人の心をよく見なさいと言うことです。

 

 

(芳澤氏)一人ひとりに合わせて、というお話がありましたが、実は白隠さんの画は誰に描いてあげたのかがわからない。浮世絵は不特定多数のために描かれたものですが、白隠禅師の絵はたった一人のために描かれたものです。ですから一番最初に誰に向けて描いたのかはとても大事です。相手が修行者か、お侍か、政治家か、商人か、町人か、それは今後の研究課題でしょう。 

 

(李氏)私は華北の出身で1972年に北京大学に入った4ヵ月後に中日国交回復しました。その後、広島大学等で学んだ後、中日友好協会の仕事をするようになり、1980年、臨黄友好交流協会第一次訪中団で山田無文老師が来られた際、芳澤先生ともお会いしました。以来、35年のつきあいで、花園大学禅文化研究所でもお世話になりました。その後、北京に戻って日本文学の翻訳を手掛ける会社を作りました。私自身は白隠研究家ではありませんが、翻訳という仕事を通して私なりの白隠感を持っています。

 白隠とは広島大学在学時に出合いました。中国ではほとんど知られていない存在でしたが、「駿河には過ぎたるものが2つあり、富士のお山と原の白隠」を中国語に翻訳し、富士山と並ぶ存在であるということを中国の人々に紹介しました。また花園大学禅文化研究所の事業として白隠禅師自筆刻本集成を揚州で制作しました。揚州は鑑真和上の生まれ故郷で知られています。揚州には木版印刷を手掛ける広陵古籍刻印社という印刷会社がありますが、木版の受注が減り、刻字の技能者がオフセット印刷に回されていた状況でした。この事業のおかげで木版彫刻の大御所陳義時さんにも存分にお力を発揮していただきました。

 芳澤先生の著書「白隠禅画の世界」も中国語で2011年に出版させていただきました。ちょうど白隠の新しい図録の中国語版が仕上がったところです。翻訳活動を通じて中国人に日本のすばらしい作家や文学を理解していただく、それが相互理解に何よりつながると信じています。古典の翻訳にあたっては漢詩や散文の形式のカベがありますが、形にこだわらず、意味をしっかりとらえようと心がけています。現在30冊ほど日本の人気作家の翻訳本を出しており、中国人が書いた物も日本語にして積極的に出していきたいと思います。

 

 

(芳澤氏)李さんは今、東京の中国大使館にいらっしゃる程永華大使と同級生で、李さんも政治の世界に居続けておられたら中国大使になっておられたかもしれない、そういう方です。

 今日、会場にいらっしゃる沼津の方は白隠さんとの出会いを子どもの頃からふつうにお持ちです。小学校や中学校の校歌に白隠さんの名前が入っているそうですね。公立の小中学校の校歌に宗教家の名前が入っているなんて例は知りません。一方、今日のパネリストの皆さん方は白隠さんと劇的な出会いをされています。つまり、白隠さんから何かを感じとる、そういう眼をもっておられた。先ほどベイリーさんがご紹介になった哲学者ヴィトゲンシュタインの「考えるな、みろ」、白隠禅師の「見性成仏」。見るとは中国語で「現る」とも表現します。向こうから現れてくる、ということもあるようです。

 私がつねづね思うのは、白隠さんのことを知っているつもり、というのは知らないということなんです。つねに新しい眼で、枠にとらわれないで見て知ることが大事ですね。白隠は臨済宗中興の祖といわれますが、私はもっと巨大な存在だと思います。時間と空間を超えている。300年前の人なのに、今の私たちにも伝わり、問いかけてくるものがある。空間も超えていますね。原、沼津、日本のみならず、世界に大きく存在感を示している。そんな白隠さんを小さく閉じ込めてはいけないというのが私の考えです。このようなとんでもない方が東海道の原に生まれ、300年経って世界とつながるような精神を遺された。私たちはその意味を考え、次の世代の人たちが誇りに思い、大人になっても校歌を堂々と歌えるようでありたい。そう思っています。

 

 

 


国際白隠フォーラム2015(その3)基調講演「白隠と大衆芸能」

2015-07-30 17:10:02 | 白隠禅師

 国際白隠フォーラム2015のレポート第3弾です。7月19日13時15分から始まったプラザ・ヴェルデ開館1周年記念行事では、オープニングパフォーマンスで小田原外郎売の口上研究会の皆さんが『見性成仏丸方書・売の口上』を披露されました。

 小田原の外郎(ういろう)売りの口上・・・私は初めて拝見しましたが、歌舞伎ツウの方ならご存知のようですね。外郎売りは二代目市川團十郎が享保3年(1718)に初演した市川家歌舞伎十八番。親の敵を討つため曽我兄弟の弟・五郎が外郎売りに変装し、侵入先で「武具馬具ぶくばぐ三ぶくばぐ・・・」と早口言葉の口上を述べる。二代目團十郎が初演した1718年、白隠さんはちょうど33歳で、どうやらこの芝居をライブでご覧になっていたそうで、すっかり気に入り、禅の教えを薬売りの口上にアレンジして書いたのが「見性成仏丸方書・売の口上」でした。一部ご紹介すると、

 

 私ことは、小田原勇助と申しまして、生まれぬ先の親の代から、薬屋でござります。(略)私売り広めますところの薬は、見性成仏丸(けんしょうじょうぶつがん)と申しまして、直指人心(じきしにんじん)入りでござります。この薬をお用いなされますれば、四苦八苦の苦しみを凌ぎ、三界浮沈の苦しみも、六道輪廻の悲しみも、即座に安楽になりまする。(略)この薬の製法と申さば、先ず趙州の柏の木を宝剣斧で切り、六祖の臼ではたき、馬祖の西江水を汲み取り、大灯の八角盤で練り立て、白隠が隻手にのせ、倶胝の一指で丸め、玄沙の白紙に包みまして、その上書を、禅宗臨済郡花園屋見性成仏丸と記します。

 

 「直指人心 見性成仏」は白隠さんが達磨画の賛によくお書きになる言葉。心の根本をスパッと指し示し、「誰もが持っている仏性に目覚めなさい」という禅の大切な教えですね。これを、ガマの油売りの口上みたいに抑揚をつけ、身振り手振りを添えて聞かせるとは、確かに、お坊さんの説教よりも楽しいかも!(笑)

 ちなみに、素人なりに調べてみたんですが、「趙州の柏の木」とは、無門関第三十七則に出てくる庭前柏樹という公案(禅問答)。趙州という中国の禅僧が小僧に「達磨さんは何のためにインドから来たのですか」と質問され、「前の庭に植えてある柏の木さ」と答えたとか。「六祖の臼」の「六祖」とは、達磨から数えて6代目の禅宗の祖・慧能(えのう)のこと。見性成仏を説いた方ですね。「馬祖の西江水」とは茶席の禅語で知られる「一口吸尽西江水(いっくにきゅうじんす さいこうのみず)」のことでしょう。馬祖禅師が「悟りとは大河(揚子江)の水を一口で飲み尽すようなもの。生半可な状態で停まらず、あますことなく一切を吸収し、無となれ」と説いたもので、千利休が師の古渓和尚から教えられ、大悟したと伝わります

 「大灯の八角盤」は碧眼録に出てくる大燈国師のエピソードで、非禅宗派の守旧派僧たちと議論した際、大燈が「禅とは八角の磨盤、空裏に走る」と答えた。八角の磨盤とは八頭の牛馬に引かせる石臼or八角の空飛ぶ古代武器とも言われ、どんな堅いものでも粉砕するもの。これで守旧派を論破したそうです。「白隠の隻手」は白隠さんの有名な公案「両手でポンと打つと音が鳴る、では片手ではどんな音が鳴る?」ですね。「倶胝の一指」は唐の時代、何を尋ねられても指一本立てるだけの倶胝という禅僧がいて、あるとき指一本立てる真似をしていた小僧の指を切り落としてしまったという痛いお話。「玄沙の白紙」は唐の禅僧玄沙師備が兄弟子の雪峰に白紙の手紙を送り、受け取った雪峰は「君子千里同風」と答えた。「遠くはなれていても仏法はただ一つ。心は通ず」という意味だそうです。

 
 

 続いて芳澤勝弘先生の基調講演『白隠と大衆芸能』。今回は「鳥刺し図」「傀儡師(くぐつし)=人形遣い」「宵恵比寿」「布袋春駒」といった一見、戯画か漫画のようなユーモラスな白隠禅画を紹介してくださいました。実は7月11日に名古屋徳源寺で開かれた『中外日報宗教文化講座・禅の風にきく』で芳澤先生が「鳥刺し図」を解説してくださり、続けて拝聴したおかげで素人なりにも理解が深まったので、ここでは「鳥刺し図」について取り上げたいと思います。

 

 鳥を捕獲する「鳥刺し」。黐竿(もちざお=モチの木の樹皮から取った粘着材を塗った竿)で野鳥を刺して(ひっかけて)捕まえる人のことで、江戸時代には、鷹匠に仕え、鷹の餌となる小鳥を捕まえていたそうです。刺した鳥は食用または観賞用にも利用され、メジロやウグイスなど声や姿が美しい小鳥は多くの愛好家が競い合って入手しました。もちろん現在の日本では鳥獣保護法で野鳥の無断捕獲は禁止されています。

 

 白隠さんが描いた「鳥刺し」はこれ。講演レジメのモノクロコピーを引用させていただいたので、見辛いと思いますが、鳥刺しの男が長~い黐竿で狙っているのは、なぜか鳥ではなく草鞋の片方。右上には「子ども、だまれ なんでもはいてくりよと思ふて」、左端には「ばかやい そりや鳥ではない、わらんじだはやい」と掛け合いトークみたいな賛が書かれています。

 

 トークを現代ふうに再現すると、左から先に「ばっかだなあ、そいつぁ鳥じゃないよ、草鞋じゃないか~」。これを受けて右が「小僧だまれ、オレは何が何でもこの草鞋を履いてやろうと狙ってるんだ」。右の台詞はこの画に描かれた鳥刺しの男。左の台詞は画には描かれていないけど、悪気がなく思ったまんまのことを言った子どもでしょう。白隠さんはなぜ台詞の主の子どもを描かなかったのでしょうか。

 芳澤先生の解釈によると、子どもをあえて描かなかったとしたら、この台詞は二次元の画を三次元で観ている我々の台詞、ということになり、白隠さんは「おまえたち、この画を見て鳥じゃなくて草鞋を狙っている鳥刺しを滑稽だと思ってるだろう?」と問いかけて、さらに、主人公の鳥刺しに「何が何でも草鞋を履こうと狙っている」と言わせた。片方の草鞋というのは、禅学をかじった人ならピンと来ると思いますが〈隻履西帰〉を意味します。

 禅の始祖・達磨が中国(当時は魏国)で亡くなって3年後、北魏の宋雲が西域から帰る途中、死んだはずの達磨が自分の草履の片方を手にして西の方に帰るのに出会ったという。その話を聞いた魏の明帝が、あらためて達磨の墓を調べさせたところ、そこには草履が片方しか残っていなかったという故事です。片方の草履とは達磨を象徴するアイコンで、それを何が何でも履きたいという鳥刺し男は、白隠さんご自身かもしれないし、そのような思いで直指人心見性成仏に努めなさいという白隠さんのメッセージかもしれない。隻履西帰の情景をそのまんま描くのではなく、江戸時代の衆生に親しみやすいモチーフで多少のヒネリを加えて描いた。当時の大衆芸能や風俗をよく観察しておられた白隠さんならではの作品ですね。

 この鳥刺し画、現在、確認されているだけで5枚あるそうです。もちろん、浮世絵みたいに量版したわけではなく、白隠さんが送る相手一人ひとりに手描きしたもの。白隠画はそのほとんどが、相手に合わせ、オーダーメイドで描いたものですから、一体誰に宛てて描いたのか、興味をそそられますが、多くは持ち主が次々と入れ替わってしまって、白隠さんが最初に誰のために描いたのかわからないそうです。

 

 先生の講演では、途中で伊東市宇佐美の阿原田神楽保存会が演じる『鳥刺し踊り』が披露されました。写真は翌20日に開かれた第19回静岡県民俗芸能フェスティバルで全幕上演された鳥刺し踊りの一部分。鳥刺し奴(やっこ)に身をやつした曽我兄弟の弟・五郎が村人と戯言を交わす場面と、兄に仇討ちの本意を疑われ、斬られそうになるシーンです。ここでも曽我兄弟の仇討ちがモチーフになっていたとはビックリ。曽我兄弟が相模~伊豆一帯でいかにメジャーな存在だったかがわかりますね。

 

  

 

 白隠さんの「鳥刺し図」。たった1枚の禅画から、実に奥深い禅の教えや豊穣な地域文化が伝わってきて、この画1枚で、何本もの映画やドラマや舞台芸能が産み出せそうです。最初に描いてもらったの、誰だろう・・・。ホント、興味が尽きません。


国際白隠フォーラム2015(その2)公開講座「白隠禅師の女性弟子」

2015-07-28 17:22:14 | 白隠禅師

 7月19日国際白隠フォーラム2015の公開講座、お2人目の講師は京都外語大学准教授の竹下ルッジェリ・アンナ氏です。1971年イタリア・シチリア州パレルモ市生まれで、身近にいた日本人の友人を通じて日本文化に興味を持ち、ヴェネツィア大学日本語学科で宗教哲学を学び、花園大学や大阪府立大学大学院を修了された方。鈴木大拙の影響から白隠禅師の研究を続けておられます。女性研究者らしく、講演のテーマは「白隠禅師の女性弟子」。白隠禅を研究しているイタリア人女性、しかも空手の名手だそう。興味をそそられると思いますが、残念ながら講演会は写真撮影NG。アンナ先生の見た感じを説明するのは難しいけど、健康的なイタリア人女性そのもの、って感じかな(笑)。

 

 初心者の私にとっては、まず大きかったのが「白隠さんに女性の弟子がいた!」というインパクト。仏僧と女性のかかわりと聞けば、思い起こすのは一休さんと森女、良寛さんと貞心尼あたり。小説なんかでは老いらくの恋という描かれ方をされているので、最初、白隠さんにもそういう女性がいたのか・・・なんて妄想しちゃいましたが、一休や良寛のように風流に生きた人と違い、生まれ育ったジモトで大勢のお弟子さんを抱えていた白隠さんですから、醜聞沙汰になるような関係とは考えにくい。

 実は醜聞がなかったわけではありません。原の町家の嫁入り前の娘が妊娠してしまって苦し紛れに「相手は白隠さん」と白状し、親はカンカン。でも白隠さんは一切反論せず。後で娘がウソを付いていたと認め、親が白隠さんにヒラ謝りするも、「子に父親がみつかって本当に良かった」と笑顔で返した白隠さんに、一家は心酔した・・・という逸話があるので、白隠さんに女性信者がいれば、いまの時代のワイドショー如く、ああだこうだ言われたのかもしれないな、と想像できるけど、今回のお話を通し、清くまっとうな師弟関係だったようだと確信しました。

 

 記録によると、白隠さんには6人の女性弟子がいたようで、今回アンナ先生が紹介されたのは、阿察婆(おさつばあ)と親しまれていたお察さんと、恵昌尼という尼僧。お察さん(1714-1789)は、父と叔父が白隠さんの熱心な在家信者で、本人も14歳ぐらいから参禅。かなりの熱血信者だったようで、親が結婚を奨めたときも信仰に生きたいと抵抗したそうですが白隠さんに説得されて嫁ぎ、45歳のときに夫を亡くすと仏行にまっしぐら。白隠さんが亡くなるまでそばに仕えていたそうです。

 お察22歳ぐらいのときに写経した「法華経」の写しには白隠さんが加筆した形跡があったり、白隠さんが自ら彫刻した「おさつの老婆像」というのがあって、これが白隠さんがよく描くお多福の顔によく似ているなど、お察が白隠さんの愛弟子だったことがよくわかります。そこに恋愛感情があったかどうか、小説家なら妄想をふくらませるでしょうけど、心から尊敬できる男性、しかも後に500年に一人といわれる不世出の宗教家のそばで、お婆ちゃんになるまでつかえ、お多福モデルになったお察さんは、もう、それだけで女性として十分幸せな生涯だったんじゃないかな・・・。

 

 恵昌尼(?-1764)は清水の人で、夫に先立たれた後、出家し、興津の清見寺9世の陽春主諾(1666-1735)の弟子となり、陽春亡き後、陽春と交流のあった白隠さんに参じたようです。ちょうど修行の“同期”に、後に白隠第一の高弟といわれた東嶺円慈がいました。あるとき、修行仲間とうまくいかずに京へ逃走しようとした東嶺が愛用していた経本「普賢行願讃」を恵昌尼に与え、彼女はそれを泣きながら受け取った、というエピソードが記録に残っています。

 

 こういうお話をうかがうと、白隠も東嶺も、女性を差別することなく、人として、修行者としてまっすぐに対峙していたことがわかりますね。

 もともと原始仏教には女性差別がなく、よく言われる“五障三従”は、仏教の根本思想にはありません。「五障」とは、女性は生まれながらにして「梵天王、帝釈天王、魔王、転輪王、仏になれない障りを持っている」ということ。「三従」とは、女性は「幼い時は親に従い、結婚すれば夫に従い、老いては子に従わなければならない」・・・つまり女は男に無条件に従わなければならないという説。お釈迦様が生まれる前からインド社会にあった女性蔑視の考え方で、「五障」はヒンズー教の、「三従」は儒教の影響があるらしいとのこと。でもそれがいつの間にか仏教の真理として伝わってしまい、女性は仏教の救いから排除され差別され続けてきました。

 

 日本で出家する女性というと、身分の高い女性が寡婦になった後、庵を結んで静かに余生を過ごす、そんなイメージを持っていました。ところが、禅宗では男の僧侶と同等に修行者として扱われようと思いつめたあげく、なんと、自分で自分の顔を焼いて醜女になる尼僧が多かったそうです。男女同権、男女共同参画社会の現代では想像もつきませんが、そこまでしないと修行者として認めてもらえなかったのです・・・。

 そんな歴史背景を考えると、白隠さんが女性の弟子を大切に扱い、お察さんを愛嬌のあるお多福さんに描いたのは、男女の性差や見た目の美醜など関係なく、すべての衆生を救うのが仏道である、という強いメッセージが込められているように思います。大変進歩的な考えですね。

 

 ・・・改めて、こんな素晴らしい教えをたくさん遺しているのに、白隠さんのことが一休さんや良寛さんほど知られていないのは、なぜだろうと考えてしまいます。そもそも500年に一人の逸材と聞かされても、何がどうスゴイのか、一般の人にはピンと来ない。

 もっともっと白隠という人物をクローズアップさせる、たとえば小説家が触手したくなるような人間らしい伝説や艶話の一つでもあれば・・・とも思うけど、今の日本の宗門の方々にとって白隠さんは絶対的存在であり、どこか、それを許さない空気があるようです。

 白隠さんが救済の対象としていたのは、ありとあらゆる衆生であり、そこに、出家か在家か、男か女か、日本人か外国人か、なんて意味はない。その教えが普遍的でボーダーレスだからこそ海を越え、時代を越え、多くの外国人を惹きつけた。白隠さんのメッセージを、日本人が、静岡人が、今の時代にどう受け止め、伝えるか・・・お2人の海外研究者から大きな宿題をいただいたような気がします。

 少なくとも『男女同権の先駆者』であることは間違いないのだから、現在、女性差別問題に取り組んでいる人たちにも、白隠さんの功績を知っていただきたい!ですね。

 

 

  


国際白隠フォーラム2015(その1)公開講座「青い目から見た白隠さんの言葉と意味」

2015-07-24 17:34:57 | 白隠禅師

 久々の更新です。かねてよりご案内のプラザ・ヴェルデ開館1周年記念事業が7月19~20日に開催され、【国際白隠フォーラム2015】は7月19日午後から600名余を集め、盛大に開催されました。19日は午前中からフォーラムパネリストの海外研究者が公開講座として研究発表されました。講座&フォーラムについて何回かに分けてご報告します。

 

 

 

 公開講座最初の演題は「青い目から見た白隠さんの言葉と意味」。講師はスイス・チューリッヒ大学のハンス・トムセン教授です。トムセン教授はデンマーク人。宣教師のお父様が京都に赴任されていた関係で京都で生まれ、子どもの頃は、なんと、袋井のデンマーク牧場で過ごされたそうです。デンマーク牧場を開設したのが、教授のお父様ハリー・トムセン牧師。袋井の土地を取得し、牧場と農学校を設置して、不登校児の自立支援を目指して牧場仕事をしながら学ぶフリースクールを始められたのでした。

 私、20年ぐらい前にデンマーク牧場の支援団体日本福音ルーテル協会の関係者の紹介で取材したことがあり、はじめのころ「トムセン牧場」と呼ばれていたと聞いてました。一昨年も、社会福祉法人として介護施設や精神科療養施設を拡充した様子を視察したばかり。その息子さんに、禅宗の白隠さんについて講義してもらうことになろうとは・・・。

 

 そんなこんなで、日本で生まれ育ち、静岡県にも大変ゆかりのあるトムセン教授は、もちろん日本語ペラペラで、浮世絵や伊藤若冲といった日本美術に造詣が深く、沼津市出身の古美術商・田中大三郎氏の薫陶を受け、白隠禅画を研究されています。今講座では、西洋で禅画を発掘したパイオニアたちを紹介してくださいました。

 

 浮世絵、若冲、白隠禅画・・・いずれも19世紀末から20世紀にかけ、ヨーロッパにおける美術品としての評価が日本に“逆輸入”されたものですね。いたしかたありません。日本にはそれまで「美術」という概念がなく、明治6年(1873)に日本政府として初めて参加したウィーン万国博覧会をきっかけに作られた言葉だったのです。仏像を彫刻、書画を絵画として扱うようになったんですね。

 ちなみに、万博開催の先駆けとなったイギリスでは、1851年、1862年、1871(~1874)年にロンドン万博が開催され、フランス・パリでもこれと競い合うように万博が企画されました。幕末・明治だけで1855年、1867年、1878年、1889年、1900年と開かれ、日本は1867年以降の4回のパリ博全部に参加。1878年のパリ万博では、フランス大統領から古物(アンティーク)の出品を要請する国書が明治天皇に発出されました。これがヨーロッパにおける日本美術ブームに拍車をかけます。1873年ウィーン万博参加以降、日本は官民ともに明治時代だけで40近い博覧会に参加しました。現在、ミラノ万博が開催中で、日本の和食が大変な人気を集めているようですね。140年前は美術、今はグルメかぁ~。

 

 それはさておき、幕末~明治は日本にも多くの外国人がやってきました。大半は横浜10km圏内の外国人居留地に住んでいたので、よく目にしたのが鎌倉大仏。ヨーロッパの街では広場や公園など屋外にブロンズ彫刻が置かれているので、同じように屋外の自然の中に安置された大仏さまを、公園でよく見かけるような身近な彫刻芸術ととらえた、とトムセン教授。奈良東大寺のように大仏殿の中にあったら、また違っていたかもしれませんね。

 1884年、フェノロサと岡倉天心が奈良法隆寺の救世観音像を発見し、「超一級のギリシャ彫刻のようだ」と絶賛。ドイツの東アジア美術史家でケルン東洋美術館を創設したフリーダ・フィッシャー女史(1874~1945)は、延べ10年におよぶ日本での滞在日記「明治日本美術紀行」の中で、“日本人は美術館に展示された仏像を、寺と同じように拝んでいた”とし、日本における美術とは、宗教的意味と芸術的意味の2つあることを指摘しました。しかし当時、日本の美術館にも〈禅画〉はありませんでした。

 

 白隠禅画を初めてヨーロッパで紹介したのは、ドイツの美術研究家クルト・ブラッシュ(1907~1974)。父は大阪の第三高等学校ドイツ語教師で浮世絵研究家。母は日本人。1928年に同志社高等商業学校を卒業し、京城ドイツ領事館に務めた後、ドイツに帰国し、戦後の1948年に再来日。貿易商を営むかたわら、仏教美術や日本文学を専門に研究し、その過程で出会った白隠禅画に魅了され、1957年に美術解説本『白隠と禅画』を出版しました。そして1959年から1960年にかけ、ヨーロッパで初めて大々的に禅画の展覧会を開催したのです。

 そのスケジュールがまたすごくて、1959年1~2月にウイーン、4月にケルン、6~7月にベルン、9月にコペンハーゲン、10~11月にベルリン、12月ミラノ、翌1月ローマ。「作品にとってはよくないが、影響力は絶大だった」とトムソン教授。白隠の弟子東嶺や、後世の禅僧・仙義凡の作品が中心だったようですが、初めて禅画に触れたヨーロッパ人は、当時注目されていたモダンアートに近い新鮮な驚きと高い関心を示し、ZENブームのさきがけとなりました。ちなみに展覧会のために作られた図録には、日本大使館後援のクレジットがあり、浮世絵を扱う古美術商の広告もちゃっかり入っていたそうです。

 この展覧会の反響が、日本にも伝わってきて、日本の美術館や博物館でもようやく禅画が扱われるようになりました。トムソン教授は「日本人にとって禅画は日常の中にあり、かえってその価値観に気づかなかったと言える。西洋のパイオニアたちの中には日本語が読めない人も多かったが、幕末の浮世絵と同じように、新しい見方や考え方で禅美術への認識を日本へ逆輸入した」と説きます。

 アメリカではギッター・イエレンやピーター・ドラッカーといった有名コレクターの収集品が展覧会で続々と紹介されました。スティーブン・アリウスという研究家が研究発表のために訪れたカンザスシティで、たまたま町の床屋さんに立ち寄ったら、店主から「禅画の話をしに来たのか、HAKUINはどう思う?」と訊かれ、ビックリしたとか。スゴイですね、いま、沼津の床屋さんで、そんな質問のできる人、何人いるんだろ・・・。

 

 ちょうど1年前のプラザ・ヴェルデ開館記念講演会で初めてまともに白隠禅画のことを学び、まったく初心者の域から脱っしていない私ですが、かつてフィッシャー女史が指摘した、〈仏像を芸術作品とみるか、あくまでも信仰の対象とするのか〉、この二項対立構造は、素人目にみても、いま現在、白隠さんを取り巻く状況にそのまま当てはまっているように感じます。

 トムソン教授は「いまや、白隠に対する認識や歴史、知名度は、日本だけでなく、世界中のものとなっている。白隠は沼津だけでなく、世界のHAKUIN。白隠についての西洋視点と、日本人の心にある価値観を互いの言葉で大いに議論しよう。外国人も日本人もひとつになって、沼津の一禅僧が発信した素晴らしいビジョンを享受しよう」と締めくくられました。「議論しよう」というメッセージを、公開講座に出席した一部の市民しか聞いていないというのは、なんとももったいない話だと、つくづく思います。

 

 

 


青磁のいま、酒器のイロハ

2015-07-06 20:09:58 | アート・文化

 先日、静岡市美術館で開催中の『青磁のいま~受け継がれた技と美 南宋から現代まで』を観に行き、展覧会を監修された東京国立近代美術館の唐澤昌宏先生の講演会を聴講しました。

 

 

 青磁は中国が発祥のやきもの。窯の中で灰がガラス化して灰釉になったものが起源だといわれ、近代では作家たちが、素地となる土に磁土(陶石を粉砕し粘土状にした土)を使ったものを「青磁」、陶土を使ったものを「青瓷」と区別することもあります。

 あの、独特の青緑色は、釉薬(うわぐすり)に含まれる微量の酸化第二鉄が還元焔焼成=窯の中で酸素不足になることで発色したもの。逆に酸素が残った状態=酸化焔焼成では黄色味を帯びてきます。これを、米を炒ったときの色に似ていることから「米色」と呼ぶそうです。

 薪で焼くと、どうしても不安定な焼成になるので、部分的に青っぽかったり緑っぽかったり米色になったりと、一つの器でいろいろな色合いが見て取れるもの(=窯変)もあります。逆に、目が醒めるような青緑で美しく均等に焼かれたものもあります。中国の皇帝は最高の青磁を「雨過天青」の色だと表現したそう。雨上がりの青空の、ちょっぴり霞がかったひかえめな青緑・・・ということでしょうか。

 釉薬を何度もたっぷりかけるので、焼成の間に気泡や貫入(ひび)が入りやすいのも青磁の特徴です。まだ熱い時に窯出しして色液(金属の酸化剤)の中で急冷させると、割れたひびに色がつきます。窯出したまま自然に冷せば色の付かない貫入になります。今回の展覧会では、南宋時代の古青磁から時代を追って、現代作家の作品までさまざまな作品が楽しめましたが、現代作家には、古青磁を忠実にうつし、伝統技法をマスターしてこそ一人前と考える人や、伝統にとらわれず、斬新な発想で自由に作陶する人などいろいろ。貫入ひとつとってみても、デザイン的に計算し尽したものもあり、窯の中で自然に生じる「ひび」をどうやってコントロールするのか興味は尽きません。

 唐澤先生は「現代の陶芸家は、基礎的な研究をベースにしてそれぞれに独自の考えに基づくアレンジを加えながら、思いっきり青磁という技術・技法を楽しみ、自身の想いのすべてを作品に注ぎ込んでいる」と解説。個人的に印象に残ったのは、中国へ渡って作陶したという小森忍(1889-1962)、加藤唐九郎の長男にして窯変の魔術師・岡部嶺男(1919-1990)、小石原焼ちがいわ窯の出身で地元の土にこだわった福島善三(1959- )。機会があったらぜひ窯元を訪ねてみたいと思います。

 

 思い起こせば、酒の取材を始めた平成元年頃、静岡酵母の河村傳兵衛先生から「静岡吟醸を呑む盃は限りなく薄く、唇の反りにぴったり合うように広がる形が良い」と教えられたことがあります。清水焼や有田焼の窯元や器ショップを訪ね、貧乏ライターが小遣いで買える精一杯の範囲で先生の理想の酒器を探し歩き、作家モノは高価で手が出なかったけど、陶器まつりやノミの市で掘り出し物を探す愉しさを知りました。しずおか地酒研究会でも、会員さんにMY酒器持参で自慢してもらうサロンを開催したりして、掌サイズの器の世界に魅了されました。日本酒が、冷やしても温めても味わえるってことも、器選びの幅を、ホント、ふくらませてくれるですよね・・・。

 ちょうど酒の取材を始めてしばらく経った頃、掛川駅これっしか処の広報の仕事で地元陶芸家を何人か取材し、ふだん自分では買えない作家モノに直接触れる機会を得ました。中でも魅了されたのが青磁や白磁。静岡吟醸の繊細な味と香りには、クールな磁器の美しさがピッタリだと思いました。当時、愛読していた立原正秋の随筆『冬の花』『やきものの美を求めて』等をガイドに、大阪市立東洋陶磁美術館にもよく通いました。

 

 憧れの台湾故宮博物院を訪ねたのは、富士山静岡空港開港記念チャーター便に運よく乗れた2009年6月でしたが、青磁の最高峰といわれる故宮博の汝窯コレクションは素人目にも違いが解りました。汝窯とは、北宋時代の汝州にちなんで名づけられた窯で、宋代五大名窯(汝窯・官窯・哥窯・定窯・鈞窯)の一つ。汝窯青磁の伝世品は世界で74点しかなくて、うち台北故宮博物院に21点、北京故宮博物院には15点が所蔵されているそうです。

 ちょうど1年前、別のブログにも書いたんですが、2014年7月に東京国立博物館で開催された台湾国立故宮博物院展で、故宮の名品に再会しました。中でも印象的だったのが、中国大陸で今から3000年以上前、殷~西周の時代に作られた『亜醜方尊(あしゅうほうそん)』。
 『尊』とは酒を盛る容器のことで、古代の祭礼に使われていた器物でした。専門家の解説によると、殷の青銅器は神人共棲(しんじんきょうせい=人間が神に近づこうとした)の社会を表現するもので、しかも殷時代の青銅器のほとんどは酒器だったそうです。
 時代が進み、前漢時代に作られたのが『龍文玉角盃』。玉を細長く動物の牙に見立て、龍や雲の文様をほどこしたもので、神や仙人が住まう雲海の彼方を憧憬した当時の人々の思念を象徴しているのでしょう。

*亜醜方尊 http://www.npm.gov.tw/ja/Article.aspx?sNo=04001148
*龍文玉角盃 http://www.npm.gov.tw/ja/Article.aspx?sNo=04001072

 

 美しさに感動したのは、中国陶磁器が芸術として華開いた北宋時代(11~12世紀)の『青磁輪花碗』。北宋時代の傑作で、2009年には気づかなかったのですが、この花碗は酒器を温めるための碗だったのです。

*青磁輪花碗 http://www.npm.gov.tw/ja/Article.aspx?sNo=04001032

 

 こうしてみると、つくづくお酒とは、人が神と向き合うときに必要不可欠な存在で、酒のうつわも聖なる存在だったと解ります。単なる生活容器ではなく、文明や民族の成り立ちや国家の威信といったドラスティックなステージで象徴となり得たんですね。
 日本陶磁史研究家・荒川正明氏の著書『やきものの見方』(角川選書)の序文に、印象的な一文を見つけました。

「やきものをつくること、それは人類が初めて化学変化を応用して達成したもの。土や泥や石のような見栄えのしない原料が、炎の働きによって、人工の宝石ともいうべき、輝くばかりの光を放つ美しいうつわに生まれ変わるのである」

 

 日本酒も同じかもしれません。もちろん、原料の米はけっして“見栄えのしない”シロモノではありませんが、日本人は米を有効活用する手段として、微生物醗酵の働きによってアルコールを生み出したのです。酒とうつわとが、ともに神と人間の仲介役を担い続けてきた“同志”だと考えれば、酒造家と陶芸家はもっと近しい関係であってほしい。「基礎的な研究をベースにしてそれぞれに独自の考えに基づくアレンジを加えながら、思いっきり技術・技法を楽しみ、自身の想いのすべてを作品に注ぎ込んでいる」のは、酒造家も同じではないでしょうか。

 

 先月には、岐阜県美濃加茂市の正眼短期大学で開かれた芳澤勝弘先生の白隠講座を聴講し、ついでに土岐市と多治見市をグルッとドライブ。多治見市では市ノ倉さかづき美術館、開窯200年の幸兵衛窯を見学し、ミシュランガイドにも紹介されたという陶の里の魅力を満喫しました。窯元には、蔵元と同じような魅力があって、ついつい訪ねてみたくなります。

 日本に数ある蔵元と窯元すべてを訪ねるのは不可能だとしても、酒と器のマリアージュが楽しめる場所があったら・・・としみじみ思います。河村先生に教えられた静岡吟醸を呑む最高の酒盃も、どこかにきっと、あるはず・・・!