杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

富士山浅間額字を揮毫した朝鮮通信使と陰の武将(その2)

2012-09-27 21:13:17 | 朝鮮通信使

 昨日の続きです。

 『甲斐国志』に、朝鮮通信使・慎齋が「三国富士山」という額字を揮毫した記録の部分に登場する秋元但馬守。北村欽哉先生はさっそく調査に乗り出します。

 

 江戸幕府が武家の家系図を整理させた記録『寛政重修諸家譜』によると、秋元家の初代泰朝(やすとも)は、天正8年(1580)に深谷で生まれ、文禄元年(1592)、13歳のとき、江戸にやってきた徳川家康と出会います。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川軍につき、慶長7年(1607)3月11日、家康が駿府に移ると泰朝も従います。

 

 

 家康が大御所として駿府城で過ごした10年余は、2代将軍秀忠が江戸城で政権の指揮を執っていたわけですが、実際に国を動かしていたのは“駿府政権”だ、というのが北村先生の見方です。“駿府政権”の面子をみると、

 

 ○年寄衆(幹事長):本多正純ほか

 

 ○近習出頭人(若手側近):秋元泰朝、板倉重昌、松平正綱

 

 ○代官頭(法務大臣):大久保長安、伊奈忠次

 

 ○経済(経産大臣):角倉了以、茶屋四郎次郎

 

 ○外交顧問:ヤン・ヨーステン、ウィリアム・アダムス

 

 ○学問(文部大臣):林羅山

 

 という面々、( )内は私が勝手に今の内閣風にイメージしてみましたが、角倉了以、ウィリアム・アダムス(三浦按針)、林羅山なんて、教科書にちゃんとフルネームで登場しますよね。こういう実力者たちが駿府の街に住みついて、日本の政権を陰で動かしていたと思うと、駿府大御所時代のことを、もっと我々地元民がちゃんと評価しなきゃダメじゃん、と思えてきます・・・。

 

 

 それはさておき、駿府政権の実力者たちに交じって、若手側近として家康に仕えた泰朝。慶長12年(1607)に第1回朝鮮通信使一行が駿府を通過したときは、家康と一緒に間近に行列を観たに違いない、観たという証拠を探しているんです、と力説する北村先生。年表を見る限り、泰朝と朝鮮通信使の最初の接点が駿府城下である可能性は、極めて高いと思われます。彼はこのとき27歳か28歳。働き盛りの若者にとって通信使行列は強烈な印象を植え付けたに違いありません。

 

 

 泰朝は慶長19年(1614)の大坂冬の陣で、大坂城の堀をアイディア工法で短時間に埋め立てるという功を立て、2千石を加賜されます。そして元和2年(1616)4月、家康が駿府城で亡くなり、遺命によって久能山に葬られたときは、本多正純ほか選ばれた数少ない側近中の側近が霊柩に付き添いましたが、泰朝もその一員に選ばれています。翌年3月に日光山に御遷座となった際も付添い人に選ばれました。

 

 寛永11年(1634)に3代将軍家光が、家康の二十一神忌に合わせて社殿の大造営に着手したときは、泰朝がその総奉行を務めたそうです。

 

 

 ちなみに家光は、愛情をかけてもらえなかった両親(秀忠&お江)よりも祖父家康を心から敬愛していたようで、京へ上洛する途中、駿府城へ入る前に必ず清水に泊まり、久能山東照宮を参拝してから駿府へ入りました。清水御殿という家康の別邸だった屋敷に泊まったそうです。

 

 

 寛永13年(1636)、朝鮮通信使が初めて日光まで足を延ばした際は、泰朝が案内役を務めました。将軍と天皇の勅使しか通行が許されなかった日光東照宮の「神橋(しんきょう)」を通信使一行は通ったそうです。

 

 これに限らず、朝鮮通信使の通過のため、東海道の各所では川を渡るのに特別に橋を架けてすぐに壊したり、薩埵峠のようにわざわざ新しい道を造ったり、と、幕府は大変な労力をかけてインフラ整備を行いました。いつも苦労して参勤交代している諸大名にしてみると、「なぜ朝鮮人ばかりそんなに優遇するのか」と不平不満がたまっていたのも事実だそうです。しかし幕府は“優遇措置”を一貫して変えずに朝鮮通信使を篤くもてなしました。

 

 

 朝鮮通信使は、豊臣秀吉によって一度は絶たれ、家康がつなぎ直した朝鮮国との“誠信”の証しです。そして朝鮮国は、徳川政権下では唯一、国書を取り交わす正規の外交相手国。幕府が国家予算をつぎ込んで迎える意味はそれなりに大きかっただろうと思います。内側から多少の批判があってもブレることはなかった。通信使一行が日本へやってきた17世紀初めから19世紀初め、日本と朝鮮半島は世界に類を見ない平和な隣国関係を、確かに保っていたわけです。

 

 

 

 話は逸れましたが、秋元泰朝は寛永10年(1633)、甲州谷村(現在の都留市)1万8千石の城主となります。そして3代喬朝(たかとも)の時代、天和2年(1682)に朝鮮通信使がやってきて、上通事・慎齋に『三国富士山』という額字を揮毫してもらったり、通信使来朝を記念して富士山大文字掛物を作ったりしました。初代泰朝が家康の側近として第1回の朝鮮通信使を迎え、その後は通信使を日光東照宮まで案内したわけですから、代々、秋元家は通信使に深い思い入れがあったと想像できますね。

 

 

 3代秋元喬朝は元禄12年(1699)には老中となり、宝永元年(1704)には川越城を賜ります。その後、秋元家は山形、舘林と移り、明治維新後は公爵となって、西園寺公望が建てた興津の『坐漁荘』を訪れたこともあるようです。舘林には旧秋元家別邸が今も残っています。

 

 

 肝心の、秋元喬朝が朝鮮通信使・慎齋に頼んで書いてもらったという『三国富士山』の額は所在不明なんだそうです。北村先生は「個人で探るのはこれが限界。ぜひ教育委員会なり博物館なり、力のある団体が働きかけて欲しい」と締め括られました。

 富士山の世界文化遺産登録を目指す静岡県と山梨県は、日韓関係が難しくなっている今、このような歴史をていねいに掘り下げ、積み上げて、未来のよりよい国際、民際交流に活かしてほしいと切に願います。

 

 あらためて、朝鮮通信使の足跡をたどるということは、過去を学ぶというよりも、今現在と未来のための学びなんだ、と実感した勉強会でした。北村先生の功績、もっともっと注目&評価されるべきです・・・!


富士山浅間額字を揮毫した朝鮮通信使と陰の武将(その1)

2012-09-26 22:36:43 | 朝鮮通信使

 25日(火)夜は静岡県朝鮮通信使研究会に参加しました。朝鮮通信使研究家で郷土史家の北村欽哉先生が、毎回とても刺激的な歴史トリビアを披露してくださるのですが、今回はとびきりのトリビアでした。タイトルにも書いたとおり、朝鮮通信使が富士吉田口浅間神社に『三国富士山』という額字を揮毫していたという新発見事実。当ブログでもとびきりアクセス件数の多い朝鮮通信使カテゴリーの読者諸氏も大いに満足されるかと思います。

 

 話は、北村先生が教職を定年退職され、フリーの郷土史家となられ、念願の朝鮮通信使扁額めぐりの旅を始められた2001年4月にさかのぼります(以下、敬語略)。

 

 

 岡崎、彦根と通信使の足跡のあるまちの寺をめぐっていたとき、事前調査ではノーマークだった滋賀県のある寺に通信使の扁額があることを知り、実際に観に行ったところ、筆者名に「朝鮮国●齋」(●は「尞」という字の小の部分をカット)とありました。

 

 先生は、●に当たる字はおそらく『春』の略字ではないかと考え、春齋という人物を朝鮮通信使一覧表で調べたそうですが、該当する人物はいません。異体辞典で再度、●の字を調べたところ、春ではなく『慎』の略字であることが判り、天和年間の1682年に来日した朝鮮通信使一行について幕府が記録した『通航一覧』の中に写字官・慎齋の名を認めました。

 

 

 慎齋なる人物については、北村先生が2005年に大垣市で開かれた朝鮮通信使縁地連絡協議会(全国の朝鮮通信使ゆかりの町の関係者が集う全国大会)に参加した際、懇親会の席で通信使研究の第一人者・李元植氏と知己を得て、氏より後日、「慎齋とは天和期の上通事(通訳)だった安慎徽である」と情報提供を受けたそうです。

 

 ・・・話は逸れますが、縁地連絡協議会は大会行事もさることながら、お酒が入る懇親会で研究家同士がざっくばらんに情報交換できる機会が本当に大事なんですね。

 残念ながら2007年に清水で開かれた縁地連大会では懇親会の時間や場所が十分に用意されていませんでした。私も、このとき脚本を担当した映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の完成披露上映会があったので、全国の研究家の方々からじっくり感想をうかがいたかったのに、縁地連有志のみなさんが清水駅前の居酒屋に自主的に集まった席で、ちょこちょこっと呑み交わしただけでした。もしふたたび静岡で縁地連大会を誘致する機会があれば、懇親会を充実させてほしいと、北村先生も申しております!

 

 

 

 それはさておき、慎齋の正体がわかってひと安心した北村先生でしたが、あるとき、静岡の郷土史料『駿国雑志』巻31に、

 【富士山浅間額字】 富士郡、不二山一合目、浅間社大門にあり。其銘いわく、「三国富士山」 是 天和二年、朝鮮の人、春齋の書也

 

という記述を見つけます。

 

 先生は「さては駿国雑志の編者も、慎齋を春齋と思いこんだのでは・・・」と苦笑いしつつ、富士宮周辺の浅間神社をいくつか廻ってみたのですが、該当する額は見当たりません。富士吉田まで足を延ばし、浅間神社の宝物や所蔵品に詳しい富士吉田市歴史民俗博物館の学芸員に訪ねたところ、「朝鮮通信使は東海道を通ったのだから山梨側にそんなものが残っているはずがない、吉田口富士浅間社の文物はここに書かれているものがすべてです」と、地誌『甲斐国志』のコピーをもらったそうです。

 

 専門の学芸員がそこまで言うなら望み薄だと思いつつ、帰宅して『甲斐国志』に目を通していた先生、なんと、しっかり「朝鮮」の文字を発見!

 

「大鳥居、秋元氏本願トシテ再建、・・・文字三国第一山、萬珠院宮無障金剛入道二品親王良恕書、寛永十三丙子年(1636)二月十七日 秋元但馬守寄進」

 

「富士登山門垣ノ西隅ニアリ、額字富士山、横額、天和二壬戌年(1682)八月、朝鮮人春齋書、前ニ銅鳥居アリ」

 

「富士山大文字掛物 筆斉京 秋元但馬守様奉納 裏書ニ天和二壬戌秋八月 朝鮮国昼齋来朝之時染翰」

 

 

 富士吉田の学芸員さんの名誉のためにも書いておきますが、甲斐国志、ものすごく字が小さくてびっしり書かれているので、膨大なページの膨大な文字の中から『朝鮮』の二文字を見つけられるのは、おそらく北村先生のように朝鮮通信使をトコトン研究している専門家だけだろうと思います。私も、ちゃんと解説を聞いてからコピーを読んだのに、見つけるのに数分かかりました(苦笑)。

 

 それにしても、通信使と直接接点のなさそうな山梨側の浅間神社になぜ慎齋(春齋or昼齋といった誤字で書かれてますが)の揮毫が残っているのか・・・。気になるのは、ちょこちょこ名前が出てきた秋元但馬守という人物ですね。北村先生は秋元氏についてもトコトン調べ上げ、徳川家康や駿府、久能山、日光東照宮とのつながりに辿り着きます。

 長くなりましたので続きはまた。

 

 

 


彼岸の体験

2012-09-24 13:44:30 | 日記・エッセイ・コラム

 少しブログやフェイスブックをお休みしてました。お休みの間も過去ページに多くのアクセスをいただき、心より感謝いたします。

 

 

 お休みしていたのはネットだけじゃなくて、ライター業務からも1週間余り遠ざかっていました。仕事がなかったのはフリーランサーの宿命といいますか、いいときもあればわるいときもあるというわけですが、それプラス、『吟醸王国しずおか』製作の予算面でも深刻な問題に直面しました。以前、「金に苦労するのは解っているんだから、もっと事前にちゃんと考えて準備するのが筋じゃないか」と某蔵元から叱責されたことがあり、今になって骨身に沁みてきたわけですが、とにもかくにも、自分で決めて始めたプロジェクトですから、自分自身で解決していくしかありません。

 

 

 

 アメリカ旅行は春の段階で予定を組み、飛行機代も払ってしまっていたので、旅行は旅行で愉しんだものの、帰国後すぐに開催した『酒と匠の文化祭』で多くの方から激励をいただき、改めて目が醒めた心地がしました。

 いつ完成するかわからないプロジェクトなのに、手弁当で協力してくれる仲間がいて、叱責することもなく、腰を据えて付き合おうと言ってくれる。・・・旅行を通じて得た「その国の、その土地の固有の文化を語りつなげることの大きな意義」と、吟醸王国の仲間の存在の大きさが、自分に“カツ”を入れてくれたようです。

 

 

 

 

 とにかく今はヒマをもてあます余裕はありません。文化祭が終わった翌日からアルバイトのウェブページをいくつか検索し、働き口を探していたところ、運よく知り合いの酒屋さんが店員募集をしているのを発見!さっそく連絡してみたらすでに別の学生バイト候補がいて、「スズキさんだとこちらがやりにくいし・・・」と穏便に?断られてしまいました。

 

 学生バイトに酒の知識で負けるはずがない、しかも酒の映画作りで苦労しているのは理解してくれているはずだし、必ず雇ってくれる、と思い込んでいた私的には軽いショックでしたが、考えてみると、雇い主側にしてみたらハタ迷惑な思い込みです。過去、蔵元や酒屋や飲食店を取材して聞いた話で、“人材面で苦労するのは、知ったかぶった素人が口を出すケース”だったことを思い出し、自分が製造や販売の現場に入ったら、まさにそういうハタ迷惑な存在になるのかな・・・とちょっぴり情けなくなりました。

 

 

 

 数日後、お世話になっている人に仕事先で会って、ついつい愚痴をこぼしてしまいました。とにかく自分がお金に困っていることを誰かに知ってもらわないことには状況は変わらないと、恥をしのんでの愚痴こぼしでしたが、翌日、その人から思いがけないバイト口を紹介してもらうことに。仕事はお寺の家政婦さんでした。

 

 

 

 仕事一筋で30年近く独居生活の自分は、家事経験はほとんどないに等しいもの。「家政婦のミタ」は面白く観ていましたが、あんな仕事が自分に務まるとは到底思えません。

 それでもどこか「寺の仕事」に不思議な縁を感じ、面接に行ってみると、いつも坐禅に通う京都の興聖寺と同じ宗派。奥様は京都から嫁いでこられた方で、ご実家は興聖寺の本山筋にあたる寺で、興聖寺のご住職も知っているとのこと。日本にあまたある仏教寺院の中で、そんな偶然があるのか・・・とビックリしてしまいました。

 

 

 

 

 仕事は日勤ですが土日、お盆、お彼岸、暮れ等、寺の行事が立て込んだときに入るというシフトで、ライター業務と両立してよいという条件。掃除、洗濯、アイロンがけ、葬儀や法事の準備&片付け等など、自分的には慣れない家事仕事でしたが、朗らかで物分かりの良い奥様&先輩家政婦2人が親身に教えてくれ、先週の秋のお彼岸期間、8日間なんとか勤め上げました。

 

 

 

 掃除用具の種類の多さに驚いたり、アイロンのかけ方や洗濯物のたたみ方に戸惑ったり、本堂の床拭きで関節痛になったりと、家事経験の未熟さを露呈して自己嫌悪に陥ったりしましたが、一心に掃除をしている時間は決して苦ではありませんでした。

 

 お寺の中って毎日掃除をしているので汚れはほとんどないのですが、気を緩めたら汚れ残しが出るという緊張感は、掃除のみならず、モノづくりに向かう姿勢のすべての基本だな・・・と実感させられたのです。酒の仕込み中の現場のことを、よく「洗いに始まり、洗いに終わる」と記事に書いたものですが、本当に本当に基本なんですね。

 以前、『翁弁天』の醸造元(岡田酒造=今は廃業)で3ヶ月間、仕込み作業を手伝ったことがあり、記事では伝えきれない現場の価値を理解していたつもりでしたが、酒蔵以外の現場で同じことを実感できたのは大きかった・・・。

 

 

 

 アメリカで看護師をしている妹には、あらゆる生活動作でチェック&チェックを厳しく言われ、ウザイなあと思うこともありましたが、人命を預かる仕事をしている緊張感が彼女に点検癖を付けていたのだと、今はよく理解できます。

 

 

 

 

 ライターの仕事が減り、映画の資金も集まらず、八方ふさがりだった自分にとって、寺の掃除に没頭する時間がどんな意味を持つのか、まだよくわからないのですが、すべての出来事は必要必然、という思いで今後も精進していきたいと思います。

 無計画で無鉄砲な未熟者の悪あがきだとお笑いの方もいらっしゃると思いますが、どんな仕事をしていても、何かしら見つけて肥やしにしてやろうと思ってますので、どうぞ温かくお見守りください。苦手だった家事を身に着け、オファーがあればいつでも嫁に行ける自信も付けてやるぞ・・・と(笑)!


私的映画寸評2012夏

2012-09-13 21:52:09 | 映画

 少しヘビーな記事が続いたので、今日は好き勝手に映画の話をします。先取りネタもあるので、ネタバレ注意で読んでください。

 

 

 アメリカ旅行中、サンタフェのシネコンで公開されたばかりの『ボーン・レガシー』を観ました。

 ボーンシリーズ3作はお気に入りのシリーズで、とくに2作目・3作目のポール・グリーングラス監督作品は手持ちカメラのスピーディーかつリアル感たっぷりの映像が魅力。ヨーロッパや北アフリカが舞台なので、風景もお洒落で品がよかったですね。

 4作目のボーン・レガシーは、前3作の脚本家だったトニー・ギルロイがメガホンを取って、主人公がマット・デイモンからジェレミー・レナーに替わりました。字幕ナシで観たのでちょっと判りにくいところもありましたが、字幕ナシでも大筋解るってことは、脚本家出身の監督でプロットを丁寧に組んで構成しているということでしょうね。でもその分、映像の迫力や面白みには欠け、舞台はアメリカだし、なんとなく、他のハリウッド産スパイアクション映画と似たかよったかになった感じ。ヒロイン役、せっかくレイチェル・ワイズが演じるならキャラ造形にもうひとひねりあればなあと思いました。

 

 

 

 ちなみに今年、これまで観たスパイ映画の中では、『裏切りのサーカス』が秀逸でした(こちらで紹介)。字幕付きで観たけど、見逃したところがあったかも・・・と焦らせるほど複雑で奥深い作品(で、しっかりDVD予約しました)。これと『ボーンレガシー』を比べるのは無謀かもしれないけど、「わかりやすいけど忘れやすい映画」と「わかりにくけど心に残る映画」の違いを実感しました。

 

 

 

 

 

 アメリカから帰る飛行機は、エコノミーのど真ん中の席で、両側を白人のごっつい男性にガードされてしまったので、13時間、ほとんど身動きできず。ボーイング777型でエコノミーでも個別スクリーンが使えたので、映画を6本も続けてみるハメに(苦笑)。

 

 

 『アベンジャーズ』は現在日本でも公開中ですね。機内で観たのは字幕ナシだったけど、予定調和の内容なので、あらすじを気にせず、リラックスして観られました。ジェレミー・レナーがこっちではホークアイ役を演じていました。彼はせっかくアカデミー作品賞『ハート・ロッカー』で渋い演技を見せたのに、このままアクションスター街道を突き進むのでしょうか・・・?というか、ロバート・ダウニー・Jrも完全にアクションスター化しちゃったんですねえ・・・。

 

 

 

 日本語吹き替え版で配信されていた『ミラー・ミラー』は、ジュリア・ロバーツが白雪姫のいじわる継母役で出演のコメディ。日本では『白雪姫と鏡の女王』という邦題みたいです。白雪姫と継母が王子をめぐって恋のバトルをし、王子が薬を飲まされておかしくなって、白雪姫がそれを助けるという、原作を逆転アレンジ?した内容。7人の小人を、村人から差別される障害者という設定にしたのは、なかなか深かったですね。

 

 

 日本の作品もいくつかリストにあり、前の席の人は『テルマエ・ロマエ』を観てくすくす笑いしてました。私は見逃していた数年前のチャン・イーモウ監督・高倉健主演の『単騎、千里を走る』という中国映画をセレクト。チャン・イーモウが高倉健のために撮ったプロモーションビデオじゃないかと思うぐらい、健さんらしさ全開でした(苦笑)。

 

 中国の地方の市井の人々の素朴でリアルな描き方(とくに子役の男の子は演技とは思えない!)は、さすがチャン・イーモウ。先日、NHKプロフェショナルの高倉健特集でこの映画のロケシーンが登場し、健さんが撮影終了時、中国スタッフと別れがたくて涙を見せていたのが印象的でした。

 

 

 

 3本ぶっつづけに観終わって、さすがに疲労困憊。仮眠しようと思ったら、隣の白人のおじさんが画面をあれこれいじりながら、“最近の映画は面白くない、何も観るものがない”ってな感じだったところ、『ゴットファーザー3部作』を見つけて嬉しそうに観始めて、イヤホーンから音が漏れてくるのになんとなくつられてしまい、私は私で、字幕ナシでも十分観られる大好きな『ロード・オブ・ザ・リング3部作』を観ることに。自宅にDVDもあるけど、3本続けて観るってなかなかできないし、年末には待望の『ホビット』シリーズが公開されるし、復習のつもりで楽しみました。改めて、これぞ私的に「わかりやすく、心にも残る傑作だ~」です。

 

 

 

 

 帰宅してから留守録してあった作品をチェックして、今、どっぷりハマっているのがNHKBSプレミアムで放送されたBBC制作のドラマ『シャーロック』。1話90分の3回シリーズで、1話1話が映画なみのスケールです。日本のテレビではヒットした刑事ものを、少しカネをかけて映画化したりしますが、まさにそれ以上のクオリティをテレビでちゃんと作ってる。さすがBBCが自国の伝説的ヒーローをドラマ化するとなれば、これだけのものを作ってくるんだなと思いました。

 

 最初、ワトソン役のマーティン・フリーマンが、『ホビット』シリーズの主人公ビルボを演じるからという理由で昨年のシーズン1から観ていたのですが、録画したシーズン2をよくよく観ると、シャーロック役のベネディクト・カンバーバッチが、『裏切りのサーカス』で二重スパイを探るシャープな調査員役で出ていたのに気づき、あまりのキャラの違い&シャーロックのハマリ役っぷりにビックリ。「この人、『裏切りの~』ではたしか低音の渋~い美声だったよなあ」と思い出して原語モードで観たら、よけいに観入ってしまいました。・・・これで英語を勉強しようかなと一瞬思いましたが、シャーロックの台詞のほとんどが機関銃のように早口で、あっけなく挫折(苦笑)。

 

 

 作品はコナン・ドイルが描いた世界をそのまんま現代に持ってきて、スマホやGPSなんかをうまく使いながらも、ホームズシリーズの細かな設定をきちんと踏襲しているそう。製作者コンビがシャーロックオタクで脚本も担当(うち1人はマイクロフト役で出演)しているからで、原作ファンもナットクだそうです。

 

 有名な原作を大胆にアレンジしながら、原作ファンもナットクさせる脚本に仕上げるってやりがいがある仕事だろうなあと、半ば羨望の思いで観ているうちに、どうしても原作を確認したくなって、小学6年生ぐらいのとき読んだっきりで記憶の遥か彼方にあったホームズシリーズを、今、ちょこちょこ読み返しています。今の推理小説やサスペンスドラマの作者が、ほとんど“聖典”にしたんだろうなあと思えるほど色褪せない作品群・・・。19世紀末に書いていたなんて、ホントすごい。

 

 今のところ、読み終わったのはドラマにもなった『緋色の研究』『バスカヴィル家の犬』『シャーロックホームズの思い出』。・・・詳しい方、他におススメがあったら教えてください。

 

 


日本初の更生保護施設~静岡県勧善会

2012-09-12 14:51:10 | 社会・経済

 静岡市の金座町にある『金座ボタニカ』。昭和の古い社員寮をシェア1
オフィスに改装したユニークな施設として、過去ブログでも紹介し(こちらを参照)、しずおか地酒研究会でも地酒サロン(こちらを参照)を開催させてもらったことがあります。

 

 

 そのボタニカの下山晶子さんから「静岡大学の小二田誠二教授と『誰も知らないほとんど知らない静岡研究会』という会を始めたとご案内をいただき、9月9日(日)14時から開かれた『誰も知らない殆ど知らない静岡研究会・社会文化セッション~静岡刑務所と更生保護施設の人々』に行ってきました。曲金にある更生保護施設・静岡勧善会の施設長で保護司の近藤浩之さんが、一般に知られていない受刑者更生施設とそこで自立訓練を受ける人々について貴重なお話をしてくださいました。

 

 静岡勧善会という保護施設の存在、恥ずかしながら今まで知らず、近藤さんから施設の成り立ちについて伺い、ああ、これは静岡市民が知らなきゃ恥ずかしいなあと痛感しました。

 

 

 

 更生保護施設というのは刑務所を出所した人の社会復帰のため、明治21年(1888)、民間でスタートした施設。全国に101カ所あるそうですが、明治21年に日本で初めて出来たのが静岡県出獄人保護会社。設立したのは旧中津藩士(大分県)の川村嬌一郎。スポンサードしたのは天竜川治水や北海道開拓で知られる金原明善です。

 

 

 川村嬌一郎は西南戦争にかかわった政治犯として、同志だった旧土佐藩士・岡本健三郎とともに静岡刑務所(=明治3年に井宮に「未決囚獄舎」として設立)に収監されました。

 

 明治13年(1880)に出所後、自ら刑務所員となって所内で説法活動をするなど、入所者の更生に尽力し、その功績が認められ同刑務所長に就任します。静岡刑務所は、今は初犯受刑者用ですが、当時は初犯も再犯も一緒くた。なんとか再犯を防ごうと、受刑者一人ひとりに親のように親身になって世話をしたそうです。刑場まで付き添う教誨師の制度も彼が始めたものでした。

 

 ある受刑者が15年の刑期を終えて遠州の故郷に戻ったのですが、実家には居場所がなく、警察に相談に行っても相手にされず、将来を悲観して入水自殺を図り、川村のもとに遺書が届きます。出獄人(出所者)が社会復帰するための更生保護の必要性を痛感した彼は、静岡県出獄人保護会社を設立することに。このとき出資したのが、明治政府で大蔵省役人になっていた岡本健三郎と天竜川治水事業の予算交渉をしていた金原明善だったということです。

 

 

 

 静岡県出獄人保護会社は日本で最初に形余者の保護事業を担い、現在の保護司制度の原点ともなった施設。これが、現在の「静岡県勧善会」の前身です。同様の施設は国内でいっとき、200以上も誕生しました。アメリカではロックフェラーやアイゼンハワーのような巨大財団のスポンサードによって運営される更生保護施設ですが、日本ではスポンサーどころか地域での理解を得るのも困難。今では101カ所に減ってしまったようです。

 

 

 Dsc_0005

 祖父、父と3代にわたって保護司の職を担い、静岡県勧善会の施設長を務める近藤さん(写真左)。現在は23人の入所者と生活をともにしながら、彼らの社会的自立をサポートしています。入所者の多くが、家庭の暖か味を知らない不幸な生い立ちを持つため、ご自身の家族も含め、家族的な雰囲気で接することを心掛けておられるそうです。

 「オレオレ詐欺を働く若者のほとんどが、身近におじいちゃんおばあちゃんがいない家庭環境だった。お年寄りをだますことが悪い、という自覚が持てない彼らも不幸です」と近藤さんは言います。

 

 

 

 23人は、早朝、施設周辺の道路清掃をした後、土木作業員や工場作業員等の仕事に出掛けます。静岡県は中小の製造業企業が多く、事情を知った上で雇用してくれる面倒見の良い“協力雇用主”も多いそう。彼らを、元受刑者という色眼鏡で見るのか、人として同じ目線で接してくれるのか、彼らは敏感に感じます。近藤さんは「彼らを立ち直させるのは、環境に他ならない。環境次第でいくらでも更生できます」と力を込めます。

 

 

 

 近藤さんのような民間更生施設の努力にもかかわらず、全国的に見ると、刑期を終えても5人中3人が職に就けず、再犯を繰り返しているとのこと。出所後に行き場のない人のため、国が処遇困難者用の宿泊施設を京都、福岡、福島に設置しようとしたところ、京都と福岡は地元住民の反対に遭い、結局、設置できたのは福島1カ所のみだったそうです。

 

 

 一方で、全国には民間運営の刑務所が4カ所出来て、向こう10~15年分の予算も付いているそう。モデルケースになるため問題が起きてはいけないということなのか、この4つの刑務所には、全国の刑務所の中から“優良な受刑者”が選抜され、集められたんだとか。・・・いろいろな改革を始めるうえで、そうすることもやむをないのでしょうが、つくづく、明治時代から地域で地道に尽力してきた民間の更生保護施設の人たちが気の毒だ、と思います。

 

 

 

 とにもかくにも、静岡市にそういう施設があって、日本の更生保護史のトップランナーだったということ、市民のハシクレとして心に留めておかねばと実感しました。

 素晴らしい講座を企画されたボタニカさんと小二田先生に感謝いたします。