昨日の続きです。
『甲斐国志』に、朝鮮通信使・慎齋が「三国富士山」という額字を揮毫した記録の部分に登場する秋元但馬守。北村欽哉先生はさっそく調査に乗り出します。
江戸幕府が武家の家系図を整理させた記録『寛政重修諸家譜』によると、秋元家の初代泰朝(やすとも)は、天正8年(1580)に深谷で生まれ、文禄元年(1592)、13歳のとき、江戸にやってきた徳川家康と出会います。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川軍につき、慶長7年(1607)3月11日、家康が駿府に移ると泰朝も従います。
家康が大御所として駿府城で過ごした10年余は、2代将軍秀忠が江戸城で政権の指揮を執っていたわけですが、実際に国を動かしていたのは“駿府政権”だ、というのが北村先生の見方です。“駿府政権”の面子をみると、
○年寄衆(幹事長):本多正純ほか
○近習出頭人(若手側近):秋元泰朝、板倉重昌、松平正綱
○代官頭(法務大臣):大久保長安、伊奈忠次
○経済(経産大臣):角倉了以、茶屋四郎次郎
○外交顧問:ヤン・ヨーステン、ウィリアム・アダムス
○学問(文部大臣):林羅山
という面々、( )内は私が勝手に今の内閣風にイメージしてみましたが、角倉了以、ウィリアム・アダムス(三浦按針)、林羅山なんて、教科書にちゃんとフルネームで登場しますよね。こういう実力者たちが駿府の街に住みついて、日本の政権を陰で動かしていたと思うと、駿府大御所時代のことを、もっと我々地元民がちゃんと評価しなきゃダメじゃん、と思えてきます・・・。
それはさておき、駿府政権の実力者たちに交じって、若手側近として家康に仕えた泰朝。慶長12年(1607)に第1回朝鮮通信使一行が駿府を通過したときは、家康と一緒に間近に行列を観たに違いない、観たという証拠を探しているんです、と力説する北村先生。年表を見る限り、泰朝と朝鮮通信使の最初の接点が駿府城下である可能性は、極めて高いと思われます。彼はこのとき27歳か28歳。働き盛りの若者にとって通信使行列は強烈な印象を植え付けたに違いありません。
泰朝は慶長19年(1614)の大坂冬の陣で、大坂城の堀をアイディア工法で短時間に埋め立てるという功を立て、2千石を加賜されます。そして元和2年(1616)4月、家康が駿府城で亡くなり、遺命によって久能山に葬られたときは、本多正純ほか選ばれた数少ない側近中の側近が霊柩に付き添いましたが、泰朝もその一員に選ばれています。翌年3月に日光山に御遷座となった際も付添い人に選ばれました。
寛永11年(1634)に3代将軍家光が、家康の二十一神忌に合わせて社殿の大造営に着手したときは、泰朝がその総奉行を務めたそうです。
ちなみに家光は、愛情をかけてもらえなかった両親(秀忠&お江)よりも祖父家康を心から敬愛していたようで、京へ上洛する途中、駿府城へ入る前に必ず清水に泊まり、久能山東照宮を参拝してから駿府へ入りました。清水御殿という家康の別邸だった屋敷に泊まったそうです。
寛永13年(1636)、朝鮮通信使が初めて日光まで足を延ばした際は、泰朝が案内役を務めました。将軍と天皇の勅使しか通行が許されなかった日光東照宮の「神橋(しんきょう)」を通信使一行は通ったそうです。
これに限らず、朝鮮通信使の通過のため、東海道の各所では川を渡るのに特別に橋を架けてすぐに壊したり、薩埵峠のようにわざわざ新しい道を造ったり、と、幕府は大変な労力をかけてインフラ整備を行いました。いつも苦労して参勤交代している諸大名にしてみると、「なぜ朝鮮人ばかりそんなに優遇するのか」と不平不満がたまっていたのも事実だそうです。しかし幕府は“優遇措置”を一貫して変えずに朝鮮通信使を篤くもてなしました。
朝鮮通信使は、豊臣秀吉によって一度は絶たれ、家康がつなぎ直した朝鮮国との“誠信”の証しです。そして朝鮮国は、徳川政権下では唯一、国書を取り交わす正規の外交相手国。幕府が国家予算をつぎ込んで迎える意味はそれなりに大きかっただろうと思います。内側から多少の批判があってもブレることはなかった。通信使一行が日本へやってきた17世紀初めから19世紀初め、日本と朝鮮半島は世界に類を見ない平和な隣国関係を、確かに保っていたわけです。
話は逸れましたが、秋元泰朝は寛永10年(1633)、甲州谷村(現在の都留市)1万8千石の城主となります。そして3代喬朝(たかとも)の時代、天和2年(1682)に朝鮮通信使がやってきて、上通事・慎齋に『三国富士山』という額字を揮毫してもらったり、通信使来朝を記念して富士山大文字掛物を作ったりしました。初代泰朝が家康の側近として第1回の朝鮮通信使を迎え、その後は通信使を日光東照宮まで案内したわけですから、代々、秋元家は通信使に深い思い入れがあったと想像できますね。
3代秋元喬朝は元禄12年(1699)には老中となり、宝永元年(1704)には川越城を賜ります。その後、秋元家は山形、舘林と移り、明治維新後は公爵となって、西園寺公望が建てた興津の『坐漁荘』を訪れたこともあるようです。舘林には旧秋元家別邸が今も残っています。
肝心の、秋元喬朝が朝鮮通信使・慎齋に頼んで書いてもらったという『三国富士山』の額は所在不明なんだそうです。北村先生は「個人で探るのはこれが限界。ぜひ教育委員会なり博物館なり、力のある団体が働きかけて欲しい」と締め括られました。
富士山の世界文化遺産登録を目指す静岡県と山梨県は、日韓関係が難しくなっている今、このような歴史をていねいに掘り下げ、積み上げて、未来のよりよい国際、民際交流に活かしてほしいと切に願います。
あらためて、朝鮮通信使の足跡をたどるということは、過去を学ぶというよりも、今現在と未来のための学びなんだ、と実感した勉強会でした。北村先生の功績、もっともっと注目&評価されるべきです・・・!