杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

聖一国師とは何者か

2019-09-17 21:11:33 | 駿河茶禅の会

 前回に引き続き、駿河茶禅の会の福岡研修予習編です。

 静岡と福岡をつなぐ架け橋の一人・聖一国師。鎌倉時代の建仁2年(1202)10月15日、駿河国藁科川上流の栃沢に生まれ、わずか5歳で久能山の久能寺に入門し、18歳で出家。全国各地で修行を重ね、34歳で中国(宋)へ留学。40歳で帰国し、九州博多を中心に禅の伝道に努め、54歳で京都東福寺開山に。中国から持ち帰った茶の種子を故郷栃沢と足久保に蒔き、これが静岡茶の発祥といわれます。

・・・と、ここまではなんとなく知っていても、国師ご自身の人となりがどうもよくわかりません。同じ禅僧でも聖一国師から500年後に活躍した白隠禅師のことは、さまざまな文献やご自身の著書等が数多く残っていて「若い頃は繊細でストイックで強情なところがあったけど、晩年は肝が据わっていて懐が深かった人らしい」ということまで理解しているのですが、その500年前の禅宗が日本に入ってきて間もない黎明期の人ゆえか、年譜に記録されたことから推察するしかないようです。

 

 今回参考書として通読した文献のうち、県茶業会議所1979年発行の『静岡茶の元祖 聖一国師』の序文には、「県茶業関係者の中にはこの偉大なる先哲恩人の業績を忘れ、国師の名さえ存知しない人が少なくない」「日本の茶祖といえば栄西禅師を思い浮かべるのが普通で、その法弟である聖一国師の茶業功績はその陰にかくされている」「静岡県の茶業関係者は幕末から飛躍的に急増した輸出茶という現実面に目を奪われ、それらの功績者の表彰を急ぐあまり、最も崇敬すべき茶祖聖一国師の遺徳を顕彰する企てを怠った」とありました。今から40年前に発行された本ですが、40年経った今も、顕彰活動を行う一部有識者を除き、お茶の業界の人々や一般市民の認識はあまり変わっていないような気もします。かくいう自分も、静岡茶の元祖といわれるわりには聖一国師が静岡茶の世界で存在感があるとは思えず、単に中国土産の珍しい植物の種を故郷に植えただけじゃない?なんて浅い認識しか持っていませんでした。

 

 私は毎朝、急須で淹れた緑茶を1煎目はご飯を食べ終わった後のお茶碗でガブ飲みし、2~3煎目は仕事部屋や外出先で飲むために水筒もしくは空のペットボトルに詰め、一日平均2リットル近く飲んでいます。もしも聖一国師がいなかったら、国師が茶を持ち帰らなかったら毎日こんなおいしいお茶を存分に飲める暮らしはできないだろう、そもそも茶が存在していなかったら静岡はどうなっていたのか・・・。今回研修の機会を得てIFの想像をあれこれしてみたら、聖一国師とはどんな人か、なぜ茶の種を故郷に持ち帰ったのか、そもそも禅の修行とお茶はどんな関係があるのか興味の深度がどんどん進んでいきました。やっぱりその人の行動原理とそのバックボーンが理解できれば、記号として暗記するだけでは終わらない、今の私たちにつらなる生きた歴史を学べるに違いないと思うわけです。

 

 『静岡茶の元祖 聖一国師』には聖一国師の祖父母や父母のことが詳細に紹介されていました。源平合戦で平氏の敗北が決定的となった頃、京の高倉ノ宮に仕えていた平家の娘・米沢は都落ちして東へ逃れ、駿河国安倍川辺りまで来て東からやってくる源氏の勢力を恐れ、藁科川を北上。栃沢の里で隠れ家を見つけて身を潜めます。そこに彼女を訪ねて平家方の青年武士がやってきて夫婦となり、坂本姫という娘をもうけます。青年武士というのはもともと彼女の恋人だったのかな?

 坂本姫は宮仕えの経験を持つ父母のもと、しとやかに育つものの、16歳のときに父母を同時に亡くし、天涯孤独の身に。母の形見の弁財天を朝夕拝み、墓に香を焚いて菩提を弔う日々の中、関東から逃れてきた平家の残党・上総介忠清の孫にあたる五郎親常という若者と出会い、結ばれる。2人は平家一門出身のプライドを捨て、栃沢の地で一農夫として生きる選択をする一方、当時、海外からもたらされた最先端の学問領域でもあった仏教への関心を深め、子が授かったならば僧侶にしようと心に決めます。お茶が伝わる前の栃沢は、たぶん外との交流もほとんどない静かな貧村だったことでしょう。上流階級出身の2人には諸行無常が身にしみていたことと想像します。

 そうして生まれたのが龍千丸(のちの聖一国師)。父母は龍千丸が5歳になったとき、久能寺の僧正・堯弁大徳師に預け、龍千丸は「円爾」の名を授かります。

 円爾は1を聞いて10を理解するといわれるほど智能に長け、出身地にちなんで「栃小僧」=「とんち小僧」と呼ばれていたそう。円爾13歳のとき父の親常が亡くなりますが、実家には戻らず修行に邁進し、18歳で滋賀の三井園城寺に入って剃髪。奈良東大寺戒壇院で受戒し、正規の出家となります。

 園城寺で大乗・小乗の教えをほぼ修得し、これに飽き足らなくなった円爾は、栄西禅師が伝えた禅に惹かれ、栄西の法弟として名高い栄朝がいる関東上野ノ国・長楽寺の門をたたきます。次いで久能寺に戻って真言の三密(真言宗の秘密の三業)を授かり、さらには鎌倉寿福寺の蔵経院で修行。『首楞厳経(しゅりょうごんきょう)』という経典の講義でその道の権威と言われる高僧に腑に落ちない点を質問したものの相手は答えに窮し、「日本で権威といわれる人でさえこの程度ならば、宋に留学するしかない」と実感します。

 さらに鎌倉では鶴岡八幡宮の八講会で “三井の大鏡” と尊敬されていた講師の三位僧都頼憲に詰問を繰り返し、論破してしまいます。円爾は「この鏡は鉄でなければおそらく瓦で作ったものか」と頼憲を侮蔑し、講義に参加していた僧徒たちは顔色を失う。頼憲は僧徒たちに「怪しむな。これは文殊・舎利仏の生まれ変わりの言葉であり、私の誤りを指摘されたのだ」と諭し、一同は円爾に尊敬のまなざしを向けたとか。このエピソードは聖一国師の年譜(弟子がまとめた履歴書)にあり、もちろん師匠礼賛エピになっているのですが、客観的に読めば、円爾というのは頭でっかちの礼儀知らずで、頼憲のほうが人格者だなあと思えてしまいます(苦笑)。


 円爾が念願の宋留学を果たしたのは34歳のとき。阿育王山、天童山など禅学の聖地を訪ね廻り、杭州の西北にある中国五山の一つ・径山(きんざん)萬寿寺の無準師範に師事します。

 無準師範(1177~1249)は後に鎌倉円覚寺を開いた無学祖元はじめ中国・日本の禅僧を数多く育て、日本の禅宗の父とも言われる傑僧。真の師を得た円爾は6年間みっちり修行をし、無準も彼の非凡な資質を見抜き、側に置いて直に教育し、印可(悟りの証明)を授けます。40歳で帰国した円爾は、名高い無準師範の印可を受けたことが評判を呼び、九州各地に創建された禅寺に開山として迎えられます。このとき禅道のみならず、中国から茶、陶器、織物、麺、饅頭などの製法を持ち帰ったといわれます。

 話は逸れますが、私はかつて、奈良市の林(りん)神社の例大祭(饅頭まつり)を取材したことがあります。林神社というのは貞和5年(1349)に来日し、日本で初めて餡を入れた饅頭を作った中国人・林浄因を祀る日本で唯一の饅頭神社。林浄因は龍山禅師(のちの京都建仁寺35世)が中国へ留学したとき知り合い、禅師の帰国に随従。饅頭は評判を呼び、宮中へも献上され、林家は足利義政から「日本第一本饅頭所」の看板を許されます。屋号は『塩瀬』とし、江戸時代は将軍家ご用、明治以降は宮内庁御用達の『塩瀬総本家』として発展し、毎年4月29日の例大祭には全国から菓子業者が集まって家業繁栄を祈願します。饅頭を最初に伝えたのが円爾なのか林浄因なのか、個人的には今度の福岡研修でハッキリさせたいと思っています(笑)。


 私は以前、東京の五島美術館で無準禅師が円爾に与えたとされる「茶入」という書を観て(こちらのサイトを参照)、その伸びやかで品格ある筆致にしばし時間を忘れて見入ったことがありました。

 円爾が日本に帰った翌年に萬寿寺が火事に遭い、心配した円爾が無準のもとへ材木一千本を新調して送ったその返礼状が、東京国立博物館に『与聖一国師尺牘(せきとく)』という板渡の墨跡として保管されており、板に書かれた珍しい墨跡で国宝に指定されています。

 無準はまた博多に承天寺が建つと諸堂に掲げる山額や諸碑のための文字を書いて送り「文字が小さくて寺院と釣り合いが取れなかったら書き直すから知らせておくれ」とまで書き添えたとか。円爾と無準の文物交換はこれ以外にも数多く、師弟の絆の強さを思い知らされます。5歳で父母と別れ、肉親の情愛を知らずひたすら求道に邁進してきた円爾にとって、無準は理想の師であると同時に、父性を感じる存在だったのかもしれませんね。


 ところで私が最も関心があるのは茶と禅僧の関係。栄西や円爾が学んだ中国の禅宗では、毎朝必ずご本尊に茶を供え、坐禅の最中にも喫茶タイムをもうけます。修行僧が各自の役割を言い渡される配役行茶という儀式では、参加者全員で茶菓子をいただき、意識統一を図ります。気分をすっきりさせるカフェイン効果、気分を落ち着かせるテアニン効果、体調を整えるカテキン効果等など現代科学で解明された茶の効能を、中国では唐の時代から以前このブログ記事でも紹介した『茶酒論』に著し、宋代の禅僧はその薬効性を修行に取り入れていたわけです。

 一方、後に茶礼や茶事に代表される茶の儀式は、薬効性というよりも、禅寺における修行の規律や規則遵守を目的に書かれた『禅苑清規』という教本がベースになっています。これを最初にた取り入れたのは栄西の後に入宋した道元で、その後に入宋した円爾も禅苑清規を持ち帰って東福寺の規則に取り入れました。この清規の中に喫茶喫飯儀礼が含まれていて、禅堂における共同飲食のマナーとして普及した。つまり、禅の普及に伴ってお茶が一般に浸透していったのですね。実際に戦前までは多くの禅寺が茶畑を所有し、お茶を栽培していたそうです。


 円爾は42歳のとき九条藤原道家から「聖一和尚」の名を賜り、翌年、上州長楽寺へ帰朝報告へ赴きます。帰途、故郷の栃沢に立ち寄って生母との再会を果たし、このとき栃沢と、山を隔てた隣村の足久保に茶の種子を蒔いたといわれます。藁科川上流のこの一帯は宋の径山に地形が似て茶の栽培に向いており、貧村に新たな地域資源を与えたと考えられますが、円爾には敬愛する無準師範の記憶につらなる茶の種を、生まれ故郷に植え付けたい・・・あるいは茶の普及とともに禅の教えを浸透させることで安寧の時代を拓くのだという意志を父母や祖父母に伝えたい・・・そんな思いがあったのではないでしょうか。なんだかそのほうが人間円爾らしくていいなあと想像します。

 聖一国師円爾についての予習はまだまだ途中ですが、長くなりましたので今日はこの辺で。


〈参考文献〉静岡茶の元祖聖一国師(静岡県茶業会議所編)、聖一国師年譜(石山幸喜編著)、新日本禅宗史(竹貫元勝著)、茶の文化史(村井康彦著)、栄西と日本の美(洋泉社MOOK)、しずおか聖一国師物語(自由民主党静岡市議団発行)

 

 



千利休の師・古溪宗陳

2019-09-10 08:20:57 | 駿河茶禅の会

 私が主宰する駿河茶禅の会で、今年10月に福岡博多研修を計画しています。昨年、富士山静岡空港利活用促進事業に応募し認可された静岡空港出雲線を利用しての松江出雲研修に引き続き、今回は福岡航路を利用しての茶禅研修です。

 博多と静岡とお茶といえば、なんといっても円爾弁円=聖一国師(1202~1280)。静岡市の藁科川中流の栃沢に生まれ、久能寺、園城寺(滋賀)、長楽寺(群馬)、寿福寺(鎌倉)等で修行した後、34歳のとき宋国に渡り、40歳で帰国。大宰府崇福寺、肥前万寿寺、博多承天寺の開山となって九州を拠点に禅道布教を始め、やがて関白九条道家に請われて東福寺(京都)の開山となりました。43歳のとき、かつての修行先・上州長楽寺へ帰朝の挨拶に出向いて、その帰路に故郷栃沢に立ち寄り、宋から持ち帰った茶の種子を足窪村へ播種したと伝わります。今までは単に「静岡にお茶を伝えた偉いお坊さん」というイメージしか持っていなかったので、今回を機に禅宗史における聖一国師の存在をしっかり学べたらと思い、いろいろな文献を読み漁っているところ。研修の資料作り程度の整理が出来たらこのブログでもご報告します。

 

 今回ご紹介するのは、過去に駿河茶禅の会で訪ねた京都の大徳寺、堺の南宗寺、松江藩主松平不昧に関わり深く、博多にもその足跡が残る千利休の禅の師匠・古溪宗陳(こけいそうちん 1532~1597)です。越前の生まれで、大徳寺102世住持の江隠宗顕(こういんそうけん)、107世の笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)に師事し、42歳で大徳寺117世となります。古溪の大徳寺住持就任時には千宗易(利休)が一族を挙げて出資をし、津田宗及や油屋紹佐など堺の豪商が祝儀を寄せています。住持期間は1年でしたが、退職後も茶人や豪商からの帰依者が多く、織田信長が本能寺で斃れた後、秀吉が信長の菩提寺として創建した大徳寺総見院の開山に就きました。

 天正13年(1585)千宗易は、秀吉が正親町天皇を招いて開く禁裏茶会に参加するため、利休居士の称号を賜ります。いくら名高い茶人であっても町の納屋衆(倉庫業者)が宮中に上がることはできませんが、居士(仏徒)であれば大丈夫だからです。『利休』の名付け親は大林宗套(だいりんそうとう 大徳寺90世・南宗寺開山)と言われていますが禁裏茶会開催の17年前に入寂しており、本当の名付け親は利休の参禅の師であった古溪ではないかという説もあるとか。

 そんなこんなで茶の湯の世界で広く人徳を得ていた古溪が、天正16年(1588)に突然、秀吉から博多への配流を命ぜられます。原因は古溪とソリが合わなかった石田三成の讒言だとか。なんだか政治ドラマみたいで面白いので、以下、花園大学の竹貫元勝教授の著書『古溪宗陳ー千利休参禅の師、その生涯』を参考にまとめてみました。

 

 当時、古溪は秀吉から紫野船岡に天正寺、東山に大仏殿方広寺の造営を任されていたのですが途中で中止となり、紫野には天瑞寺という別の寺がわずか2か月で建てられました。この寺は秀吉が母大政所の病気平癒を祈願して建てたもので、開山は古溪ではなく玉仲宗琇という大徳寺僧。当時の大徳寺には「北派(大仙派)」「南派(龍源派)」「龍泉派」「大模下春作禅興派」という4つの派閥が存在し、各派閥から順番にトップ住持を輩出しており、最大派閥は南派。玉仲は古溪よりも5代前の南派出身住持でした。古溪が属する北派は住持になった者は多くはありませんが、堺の豪商・茶人がバックに付いていて、住持就任に必要な経済的支援も担っていました。これに対し、最大派閥南派は堺以外の地方の戦国大名を外護者につけていて、全国の派閥寺院から弟子を多く集め、勢力を蓄えていました。そこで、茶の湯に傾倒し古溪を偏重していた秀吉に対し、母の大政所が「最大派閥を敵に回さないように」とアドバイスをしたらしいのです。

 古溪は当初指示されていた天正寺造営のため、堺の豪商たちに寄進を求めていたのですが、思うように集まらず、その過程で石田三成とギクシャクし、もたついている間に天瑞寺が創建されてしまい、ライバル南派の玉仲が開山に任命されたことで自分の立場が危うくなったと実感したでしょう。石田三成との間に何があったのか具体的にはわからないようですが、「三成の讒言は秀吉を納得させるだけのものがあったと思われる」と竹貫教授。

 天正16年(1588)、57歳で博多にやってきた古溪は、彼を慕う小早川隆景や博多の豪商らの庇護のもと、茶会や散策をして心穏やかに過ごしたようです。彼は日本に最初に茶を伝えた栄西禅師が開いた日本で最初の禅寺・聖福寺を訪ね、さらに当時大宰府にあった崇福寺にも足を延ばします。前述のとおり駿河栃沢生まれの聖一国師が開創し、駿河井宮生まれの大応国師(南浦紹明)、そして大応国師の弟子で大徳寺を開いた大燈国師(宗峰妙超)が入寺した名刹で、大徳寺住持を経験した古溪にとっては感慨深かっただろうと思います。崇福寺は後に黒田長政によって博多に移されました。

 今回の我々の博多研修では、古溪が滞在した大同庵跡をはじめ、崇福寺、聖福寺にも足を延ばす予定です。

 

 

 博多配流生活は2年。天正18年(1590)に京都へ戻った古溪は、翌天正19年1月に亡くなった秀吉の弟・豊臣秀長の葬儀の導師を秀吉たっての依頼で務めます。そして秀長の菩提寺大光院(奈良)の開山にも就任し、秀吉から金襴の大衣を賜ります。手のひら返しのような厚遇ですが、博多蟄居中も秀吉から厳しく監視されていたわけではなく、竹貫教授は「秀吉には禅的精神文化への高い関心があり、古溪は秀吉の精神的欲求を満たす上で多大の貢献をした一人」「秀吉は形の上では三成の讒言を聞き入れ配流にしたが、もともと博多に関心があり、古溪は秀吉のその意を汲んで活動していたのでは」と読み解きます。

 ところが秀長葬儀直後の2月28日、千利休が秀吉の逆鱗にふれて切腹するという一大事が起こってしまいました。大徳寺の山門「金毛閣」に千利休の木像が安置されたことが直接のきっかけと言われ、秀吉は大徳寺をつぶし、僧を磔にするとまで言い放ったとか。僧の磔は大政所や秀長未亡人がなだめて却下させたものの、大徳寺には徳川家康、前田利家、前田玄以、細川忠興の4人が秀吉の使者となり「破却」を言い渡したところ、これに対峙し「貧道は先ず死有らんのみ」と死ぬ覚悟で抗議したのが古溪でした。4人から報告を受けた秀吉は、大徳寺破却を思い留まります。愛弟子利休を救えなかった古溪としては、それこそ命がけで大徳寺を守ったんですね。

 晩年の古溪は病身をおして千利休の墓がある大徳寺聚光院の住持を務めます。そして慶長2年(1597)66歳で示寂。翌慶長3年に秀吉が亡くなります。古溪が生前残した言葉をまとめた語録『蒲庵稿』は江戸時代に出版され、古渓を敬愛する大名茶人松平不昧が序文を寄せています。

 

 茶道の歴史をかじっていくと、一度は目にする古溪宗陳の名。彼を挟んで秀吉や利休の言動を追ってみると、生々しい人間関係が見え隠れし、また一つ、歴史を学ぶ面白さを実感します。博多研修が終わったら現地レポートしますね!