23日(水)~24日(木)は京都で歴史学講座を受講しました。テーマは、23日は「日本歴史における光と影~秀吉政権と文禄・慶長の役」、24日は「庭園の美~枯山水庭園の精神性“成り立ちと美の構造”」です。
学生時代は出席表を下宿仲間に頼んでサボることばかり考えていましたが、この年齢になって初めて勉強する楽しさや意味をかみしめるようになりました。そういう人、少なくないでしょう。私の周りにも、仕事を辞めて大学に入り直す人もいたり、子どもと一緒に語学留学する人がいます。アメリカにいる妹は、結婚後、30歳を過ぎてから向こうの州立大学に入って看護師になり、就職した病院では夜間ICU勤務をこなし、病院側の推薦で大学院へ進み、麻酔看護師の資格も取りました。彼女の頑張りを見ていると、生涯学習という言葉が、時間やお金のあるシニアの余暇活動ではなく、現役世代の自らの可能性を広げる生き方の一つだと実感します。
それに比べると、私の京都通いは仕事の合間の余暇活動に過ぎませんが、今、通っている佛教大学四条センター(四条烏丸)の社会人講座は、1回1000円で誰でもいつでも受講でき、しかも申し込みは当日会場。。四条烏丸の交差点角という街のど真ん中にあり、ほぼ毎日、2~3講座を常時開催しています。200人はゆうに入る広い講堂で、飛び込み参加も問題なしです。
私のようなフリーランサーだと、取材や撮影の予定がキャンセルになったとか、午前中で打ち合わせが終わるとか、夜しか取材がない、なんて時がたびたびあるので、思いついたときに、パッと飛んで行けるのです。
1000円払えばだれでも当日受講できるという手軽さは、静岡ではなかなかありません。自治体の教育文化政策などを取材しても、ハコものを作ったり、有名芸術家や劇団を呼んで派手な公演を打つことはあっても、住民が日常、気軽に参加できるような学習や体験の機会はホントに少ない。民間カルチャー教室や公民館の講座は、定員も限られ、事前申し込みやら会員登録やらで手続きが煩雑です。大学や美術館・博物館・図書館あたりにもう少し頑張ってもらいたいと思うのですが・・・。
佛教大学四条センターの講座を知ったのは、昨年、高麗美術館との提携講座で開催していた「朝鮮通信使」シリーズ講座がきっかけでした。
今回の「秀吉政権と文禄・慶長の役」は、朝鮮通信使とは逆の視点で考える興味深いテーマ。映像作品『朝鮮通信使』の脚本執筆時には、朝鮮半島を荒らした秀吉軍の蛮行を強調したような表現をしましたが、歴史は複眼・両眼で見るべしとの鉄則で行けば、秀吉側の事情ももう少し考える必要があります。彼の野心が招いた愚かな侵略戦争の一言で片づけてしまうのは、朝鮮通信使を単に友好使節団の一言で片づけるのと同じように、歴史の見方として浅いような気がするのです。
今回の講師・笠谷和比古教授(国際日本文化研究センター)は、軍事的に見た秀吉軍の実情とその後の関ヶ原への経緯について、人間行動学に基づいたきわめて合理的な解説をしてくれました。かいつまんで紹介すると、
●秀吉が全国統一を成し得た要因の一つは、秀吉軍の補給力(logistic)。支配下に置いた領土で太閤検地を行い、太閤検地蔵入地(直轄地)を必ず設け、さらにその先を攻め落とす際、補給地(ベースキャンプ)として活用。この手法で登山ルートを広げるように領土拡大を成した。補給を重視したのは、野戦型の信長や家康にはなかった発想。この戦術で、文禄の役(1592年)では陸上戦で明軍を圧倒した。
●明軍は大砲中心の部隊。秀吉軍の小回りの利く鉄砲と、大陸にはない日本刀の切れ味の凄さに明軍・朝鮮軍は恐れおののいた。
●陸上戦では優位に立ったが、命綱である海上の補給路を、李朝提督・李舜臣に断たれ、制海権を失い、戦線膠着。いったん講和を結ぶことに。
●講和が決裂し、慶長の役(1596年)ではまず巨済島沖の海戦で朝鮮水軍を撃破し全羅道を制圧。李舜臣は前回の活躍が同僚のねたみを買って戦線離脱していた。
●朝鮮軍はあわてて李舜臣を呼び戻す。漢城を目指して進撃していた秀吉軍は、李舜臣復帰の知らせに躊躇し、酷冬の到来を前に防衛重視に転じる。
●1597年12月暮れ、釜山から北東50キロの蔚山に築城。加藤清正が城主となるが、城の竣工日に明・朝鮮連合軍5万7千に攻め込まれ、清正は兵2千で籠城。2日分の兵糧しかなく飢餓状態となったが、年明け3日に2万の援軍が到着。明の史書によるとこの戦いで明軍2万が討ち死にし敗走。ただし秀吉軍の現地武将らは追撃せず。好戦派だった清正も、過酷な籠城体験を機に講和派へ転身、蔚山城放棄に同意。
●現地武将の宇喜多秀家、毛利秀元、蜂須賀家政、黒田長政ら13名が、本国の石田三成らに送った秀吉への書状には「これ以上追撃せず。戦線縮小を現地の決定として通告する」とあった。秀吉に対し、要請ではなく決定を通告した(できた)のはなぜか。現地に裁量権が与えられていたのか? 研究は未だ進んでいない。
●三成は秀吉に現地武将の勝手なふるまいを訴え、蜂須賀、黒田の2名を首謀者とし、両名の領地を没収。秀吉は1598年5月から病床に伏し、8月18日に亡くなる。蔚山城放棄の処分問題はうやむやに。これも未だに研究は進んでいない。
●豊臣家重鎮の前田利家が亡くなったのを機に、99年3月、加藤清正、蜂須賀家政、黒田長政ら有力7将が三成襲撃クーデターを起こす。三成は家康のもとに逃げ込んだとされるが、実際は伏見城の自分の曲輪屋敷に逃げて難を逃れた。伏見城に手が出せない7将は城外に布陣。家康が仲裁に入り、三成に引退勧告。息子結城秀康に三成を佐和山まで護送させる。ここで7将の軍事クーデターを容認したら後に支障が出るとの政治的判断だった。蜂須賀、黒田の領地は戻され、名誉は回復。この7将は関ヶ原で東軍についた。
なお、家康が朝鮮に出陣しなかったのは、彼の深謀遠慮だとの見方もあり、私もその論点で脚本を書いたのですが、笠谷教授によると、朝鮮へは九州、西国、四国と朝鮮半島に近い者から優先的に出兵させられ、家康が出兵しなかったのは単に遠かったから。逆に小田原攻めのときは最も近い家康が先陣を務めた。それが当時の軍事上の常識だった、とのこと。言われてみれば道理かもしれませんね。
秀吉が大陸へ野心を向けた背景には、信長のアジア統一思想があったとされています。スペインやポルトガルといったヨーロッパ勢の世界侵略の勢いを感じた信長が、アジア一丸となってこれに対抗すべしと考えた。16世紀の日本人としてみたら、やはりスケールの違う異能の戦略家です。秀吉はそれをどうやって実現するかを現場で考える実務・戦術家なんでしょう。
一方で、朝鮮に出陣した武将たちは、よかれあしかれ当時の常識人レベル。「朝鮮や明とは商売でうまくつきあって行きたいのに…」と思う商人上がりの小西行長や対馬の宗義智をはじめ、豊臣家に名を売りたい、功績を認めてもらいたい、領地を広げたい等、本音の部分で様々な思惑がうごめき、モチベーションもばらばら。いくら陸上戦で優位に立っても、慣れない異国での戦いで、「うわさじゃ明軍30万が攻めてくるらしい」「李舜臣が出てくるなら無理したくないなぁ」なんて弱気になるのも無理ありません。
トップのあまりにも突出した思想に現場がついていけない、現場のモチベーションがそろわず事業が膠着するという例は、現代の企業経営などでも時々聞く話ですよね。
今回、秀吉の朝鮮侵攻は、歴史学の上でも華やかな太閤伝の暗部として避けられ、冷静な分析や研究が進んでいないということを知りました。蔚山城放棄と処分問題に関する記述は、朝鮮から被虜として連れてこられた朱子学者の姜沆が『看羊録』に残しています。関ヶ原の勢力図にかかわる重要な出来事が客観的な立場で書かれているにもかかわらず、この史書を重視する日本史学者や歴史ファンがどれくらいいるでしょうか?
歴史を読み解くときは、さまざまな立場の者が残した史料をできるだけ丹念に調べ、その記述に人間行動学的な判断を加える必要があります。歴史人物の人間行動学的分析は、年齢やキャリアを重ねた者には実感として伝わり、若い人には教科書の記述とは違う面白さを感じさせてくれるでしょう。
私も、もしチャンスがあったら、秀吉の朝鮮侵攻と徳川政権の成り立ち、そして朝鮮通信使の存在意義を、もう少し人間的な面白さや実感を伴った読み物にしてみたいと思っています。