杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

『世紀の遺書』を読んで

2020-07-31 11:47:12 | 本と雑誌

 気がつけば8月。5月のSTAY HOME時に読書に没頭したその反動か、かすみ目が進み、眼科に行ったら初期の白内障&ドライアイだと。コロナ禍の影響で外取材の仕事が減った分、資料まとめや音源書き起こしなど地味なデスクワークが続く中、空いた時間は極力眼を休ませ、近場の低山を歩いたりジムへ通うなど下半身強化に努めました。老化は『足』と『眼』から来る…!と痛感する毎日です。

 そんなこんなで、仕事に関係のない本を読む時間がほとんどなかった中、久しぶりに夢中になって読みふけ、「生きてるうちに出会ってよかった!」と思えた一冊がこれ。

 

 『世紀の遺書』。太平洋戦争で刑死となった1068人のうち、遺族会が集めた701編の遺書を一冊にまとめ、昭和28年(1953)に初版発行されたものです。復刻版が昭和59年に発行されていますが入手困難で、古書市場では高額取引されています。図書館では静岡市立蒲原図書館に1冊蔵書されていたので、蒲原までひとっ走りして借りてきました。

 

 死刑になった戦犯ときけば、巣鴨プリズンで絞首刑になったA級戦犯だけを想像しがちですが、1068人は政治的責任者(A級)、直接の暴行者(C級)とその責任長上官(B級)に分けられ、処刑は巣鴨だけでなく上海、マニラ、グアムなど50ヵ所にも及ぶ外地で執行されたそう。中には台湾出身者(24人)、朝鮮半島出身者(21人)、自決者(35人)、執行前病死者(93人)も含まれます。

 この方々が刑死の直前に、便せん、包装紙、トイレットペーパー、書物の余白などにペンや墨、あるいは血で書き残した手紙や日記や辞世の句。死を目前にした人がこれほど多数書き残した遺書集は世界にも例がないそうです。750ページにも及ぶ大著で、すべてに目を通すには時間がかかるので、今回は、この本に出会うきっかけとなった上野千里さんの手紙と遺詠を紹介したいと思います。

 

 駿河茶禅の会の7月例会で、会場をお借りした清水の禅叢寺のご住職に「このお寺には清水で唯一、戦火から焼け残って市の重要文化財に指定された白隠禅師の扁額があり、お盆やお施餓鬼の時期でもあるので、戦争やいのちについてのお説教を」とお願いしたところ、上野千里さんの詩を紹介してくださいました。

 上野千里さんは栃木県ご出身の元海軍軍医中佐。昭和24年3月31日にグアム島で刑死されました。享年43歳。『世紀の遺書』には妻の好枝さんに充てた手紙の中で、刑死に至った経緯が記されていました。

 トラック島基地に軍医として駐留していた昭和19年、米軍の空襲を受け、当時収容していた米軍捕虜5人のうち3人即死で2人重症。上野さんはこの2人を上官から「片付けよ」と命ぜられたものの、医者としての良心に従って外科手術を行って救命しようとします。手術が終了する直前に総員集合命令がかかり、上野さんが手術室を離れた隙に部下が患者2人を他の場所へ移し、処刑してしまったのです。「片付けよ」という命令が撤回されていなかったのですから部下の行動はやむを得ません。

 敗戦後の審判で、上野さんは上司に逆らって手術を断行したことを伏せ、捕虜を斬った部下の上官として自ら責任を認め、刑死の断を受けました。手紙では部下に対する思いを、

「彼らは我が子我が弟のごとくなついてくれました。未だかつて私は私の部下から唯の一度もそむかれたことがなかった。それ故に私も亦、小さき我が一つの身を以て、ひとりトラック島の部下に限らず私の部下であったすべての人々、否、私を愛してくださったすべての人々に応えるのです」

とつづり、上司に対しては、

「いつかそんな日が来ましたら微笑みつつ五人の子どもたちに語ってください、"お父さんは多数の部下のために司令に利用されたおどけものとして笑って死にました”と。しかしどうか上司の名を知りましてもそれを記憶するような不必要な散財はお慎み下さい。私は好んで人身攻撃を致すのでもなく、又私一個の不幸を云い立てているのでもありません。寧ろか弱き人間としての上司の苦吏にははた眼にも同情に余りあるものを感じ続けて参りました」

とあります。

 そして、

「私は人間の理性の限界を偽り多き彼らの職業武士道の姿を目の当たりにまざまざと見せつけられて唯淋しく苦笑せねばならなかったのです。過去の日本のすべてを憎悪する人があるなら、それは全くの誤りです。しかし二度と繰り返してはならぬ過ちもたしかに少なくありませんでした。みんなは徒に他言に迷われることなくすべてをあくまで冷静に判断して下さい。斯る職業武士道の古智が生み出した巧言に乗って悲惨な戦争に迷い込まれた国民自身も潔く自らを省みる必要があるのではないでしょうか」

と締めくくってあります。刑死を目前にしても、人はここまで理性的になれるのかと胸を衝かれます。

 

 こういう上野さんが、最期に残された「遺詠」を、禅叢寺のご住職が読み上げられ、参加者は目を潤ませて聴き入りました。文面からして、残された5人のお子様方に託したメッセージのようです。受け取られたご家族のお辛さは想像だにできませんが、このような言葉を残されたお父様を、心から誇りに思われたのではないでしょうか。

 まもなく終戦75年。いのちの重みを、別の意味で考えさせられるコロナ禍の夏、何度も読み返そうと、このブログに書き写してみました。ぜひご一読ください。

 

みんなに

悲しみのつきぬところにこそ

かすかな喜びの芽生えの声がある

熱い涙のその珠にこそ

あの虹の七色は映え宿る。

 

人の世の苦しみに泣いたおかげで

人の世の楽しみにも心から笑える

打たれ踏まれて唇を噛んだおかげで

生れて来たことの尊さがしみじみわかる。

 

醜い世の中に思はず立ちあぐんでも

見てごらんほらあんなに青い空を

みんなが何も持つていないと人が嘲つても

みんな知つているもつと美しい本当に尊いものを。

 

愛とまことと太陽に時々雨さえあれば

あとはそんなにほしくない

丈夫なからだとほんの少しのパンがあれば

上機嫌でニコニコ歩きたい。

 

それから力いつぱい働こう

そうして決して不平は云わずに

何時も相手の身になつて物事を考えよう

いくらつらくても決してひるまずに。

 

どこかに不幸な人がいたら

どんなことでも力になつて上げよう

もしすつかり自分を忘れてしてあげられたら

もうそれできつと嬉しくてたまらないだろう。

 

うつ向いていればいつ迄たつても暗い空

上を向いて思ひ切つて笑つてごらん

さびしくてどうしても自分が惨めに見えたら

さあもつと不幸な無数の人々の事を考えてごらん。

 

道はどんなに遠くてもお互いにいたわりあい

みんな手をとり合つて歩いて行こう

悲しい時は共に泣き楽しい時は共に笑い

肩を組み合つて神のみ栄えをたたえよう。

 

朝お日様が昇る時は

あいさつに今日もやりますと叫びたい

夕べお日様が沈む時は

夕焼雲をじつと見つけて坐っていたい。

 

心に何時もささやかな夢を抱いて

小鳥の様にそつと眠り

ひまがあつたら古い詩集をひもといて

ひとり静かに思いにふけりたい。

 

幸せは自分の力で見出そうよ

真珠のような涙と太陽の様な笑いの中に

今日もあしたも進んで行こうよ

きつといつの日か振り返って静かに微笑めるように。

 

偽つて生きるよりは偽られて死に

偽つて得るよりは偽り得ずに失えと。

天国からじつと見守っているお父さんに

手を振つてみんな答えておくれ「おう」と。

 

何度転んでもまた起き上がればいい

なーんだこれしきのことでと笑いながら

さあ みんな朗かに元気いつぱい

さわやかな空気を胸に大きく吸いながら。

 

『世紀の遺書』復刻版(講談社) 732P~737Pより抜粋