杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

白隠フォーラムin東京 2015 「万法帰一」と白隠

2015-01-30 16:11:21 | 白隠禅師

 昨年末、沼津市原の高嶋酒造で早朝4時から始まる上槽(搾り)を取材するため、自宅を2時30分に出発しました。駐車場のある南南西の夜空には鮮やかなオリオン座が輝き、国道1号線バイパスの興津~由比あたりを走っていたら、煌々とした月が駿河湾の黒いさざなみを照らしていました。15分ほど早く原に到着し、松蔭寺周辺をドライブしながら、白隠禅師もこうして冬の美しい夜空を眺め、いろんなことを思索されていたんだろうなあと想像しました。白隠さんは「宇宙」という概念をお持ちだったんだろうか・・・。

 写真は高嶋酒造で熟成中の「白隠正宗」のもろみ。なんとなく宇宙的でしょう?

 

 

 現代科学の知見を持たない白隠の時代、修行僧たちは星や太陽やもろもろの自然現象をどのように捉えていのか、あの早朝の漠然としたハテナに答えが見つかるのではと思い、参加したのが、1月24日(土)、新宿紀伊国屋ホールで開催された【白隠フォーラムin東京2015】でした。テーマは「私は誰か?宇宙はどこから来たのか?」。講師は宇宙物理学の第一人者・佐藤勝彦氏(自然科学研究機構長・東京大学名誉教授)、佐々木閑氏(花園大学仏教学部教授)、芳澤勝弘氏(花園大学国際禅学研究所教授)。各分野の日本最高峰の論客による深遠な内容で、とりわけ佐藤博士のインフレーション宇宙論は90分かそこらで理解しようと思っても科学初心者にはハードル高すぎでした(苦笑)。帰宅後、【別冊Newton~宇宙、無からの創生】を購入し、目下、懸命に復習中です。

 

 

 かろうじて「理解の入口に立てたかも」・・・と思いたいのが、芳澤先生の講演「万法帰一と白隠」。先生がよく取り上げられる“白隠メビウスの輪”でお馴染み、「在青州作一領布杉、重七斤」の布袋図を題材に、白隠さんの宇宙観、ともいえる教えの一端に触れることが出来ました。

 

 この布袋図は、真ん中にニコニコ顔の布袋さんと3人の童子。布袋さんは長方形で帯のように長い紙の両端を持って、ぐるっと円にして両端を頭上に掲げています。右側には紙の表面に「在青州作一領」の文字、左側には紙の裏面に「布杉、重七斤」。文字もちゃんと裏返しで書かれています。画像ナシではピンと来ないと思いますが、勝手にコピー使用するわけにもいかないので、試しに自分で作ってみました。こんな感じで、真ん中の輪っかの中に布袋&童子の顔が描かれています。

 

 

 これは実際に表面に「在青州作一領布杉、重七斤」と描いて半分を裏返しにして端っこをつないで、“メビウス”状態にした3次元のものを写真に撮っただけですが、白隠さんは2次元の紙の上に、ひねった紙を構図として描かれたわけです。な~んでこんな七面倒くさい表現方法を??と誰しも思います。

 まずは「在青州作一領布杉、重七斤」の意味を先生に解説していただきました。11世紀の宋の時代、圜悟(えんご)が書いた『碧巌録』に、「趙州万法帰一(じょうしゅうまんぽうきいち)」という有名な公案(禅問答)があります。唐の時代、趙州和尚という高僧がいて、あるとき、若い僧から「万法帰一、一帰何処(あらゆる存在は一なるものに帰着するといいますが、その一はどこに行くのですか?)」と訊かれ、件の言葉―すなわち「わしは青州におったとき、襦袢を一枚作った。重さは七斤あったんじゃ」と答えたそうです。さすが禅問答!ちんぷんかんぷんな答えです(笑)。

 

 碧巌録の著者、圜悟は「趙州和尚の答えは非論理的だが見過ごしてはいけない。自分がそのように訊かれたら、“腹が減ったら飯を食い、疲れたら寝る”と答えよう」と言ったそうです。その答えも非論理的でしょう~とツッコミたくなりますが(笑)、圜悟自身は「但参活句不参死句(参句=常識を超えた言葉の意味を考えなさい、不参句=常識的な言葉に惑わされてはいけないよ)」と禅問答集の編者らしい物言いをする人でした。

 最近の研究では、趙州和尚の出身地青州では赤ん坊の体重が七斤(約4.2kg)とされていることから、「帰一」とは、おぎゃあと産まれ落ちた生身の自己に帰るという意味だと、きわめて常識的に解釈されているそうです。でもその説が正しかったら、白隠さんなら赤ん坊の画か何かで解くはず。あえて難解なメビウスのひねりを描いたほんとうの理由=白隠流解釈は別にありそうです。

 

 芳澤先生は白隠禅師の漢文語録『荊叢毒蘂(けいそうどくずい)』を訓注・現代語訳され、今春刊行される予定です。白隠さんの駿河訛りの肉声がそのままテープ起こししたみたいに収録された超注目の語録とのこと。その荊叢毒蘂で白隠さんは「万法帰一、一帰何処。州曰、在青州作一領布杉、重七斤」について、「この公案は実によい。生死(=迷い)の根元をたち截り、無明のもとをくだくことのできる話頭である」と述べているそう。「この自己の鏡にむかって、この一鎚をふりあげ、朝も夜もひたすら拈提(ねんてい=公案について考える)するならば、七日たたぬうちに生死も涅槃も、煩悩も菩提も、一鎚に撃砕して全世界が木っ端みじんとなるような大歓喜を味わうであろう」と続きます。

 ちょっと複雑な表現ですが、先生は「白隠は、万法(あらゆる存在=有)と一(絶対に分けられない存在=無)は別々であるが、実は同じモノの表と裏の関係と捉えた」と解説されます。好きと嫌い、肯定と否定、煩悩と菩提・・・二項対立のように見えるものは、みな同じ。そのことを、ひねった紙の表裏で表現した。しかも、ドイツの数学者メビウスが、不可符号曲面の数学的特徴である「メビウスの環」を提唱した100年も前に。そこから発せられる白隠さんのメッセージとは「絶対矛盾をつきつめよ」と先生。

 

 

 そうはいっても、凡人が「万法も一も同じ、その矛盾を追究せよ」と言われたところで、何をどうすればよいのか、拈提の方法がわかりません。物事にオモテとウラがある、人の心にも本音と建前がある。そこまでは理解できるけど、突き詰めていったら「全世界が木っ端みじんとなるような大歓喜を味わう」ような境地になれるものでしょうか。

 

 まあ、私のような、禅学のさわりのさわりをさすっただけの素人は、理屈で理解しようとしがちで、理詰めで考えたところで答えがでないのが禅の公案。仏教徒の誓いの言葉である『四弘誓願文(しぐせいがんもん)』には、

 

 衆生無辺誓願度(いきとしいけるものを救え)  

 煩悩無尽誓願断(煩悩を絶て)  

 法門無量誓願学(法の教えを守れ)  

 仏道無上誓願成(仏道を完成させよ)

 

とあります。白隠さんは順番を少し変えて、

 

 法門無量誓願学(まず仏教以外のことも含め、一生懸命学びなさい)

 衆生無辺誓願度(それを周囲の人々に説いていきなさい)

 煩悩無尽誓願断(そうすれば煩悩が自然に無くなり、)

 仏道無上誓願成(仏道に達することができる)

 

と教えたそうです。利他の精神で日々勤行するその先に、矛盾にとらわれない澄んだ鏡のような心境に近づけるのかもしれません。自分の場合はこうして学んだことを復習し、活字にまとめて発信し続ける、ということなのかな。

 

 ところで、1154年に刊行された『祖庭事苑』という日本最古の禅語辞典に、宇宙とは「天地の四方を宇という。古往今来を宙という」とあるそうです。宇は空間を、宙は時間を意味すると考えられていたんですね。「虚空」「無始無終」「無前無後」というような表現もされていました。

 禅画によくある、大きな丸を描いただけの「円相」。白隠さんは何万点も禅画を描いているのに意外にも円相は4点ぐらいしかないそうです。あれだけ豊かな筆遣いや表現力をお持ちの白隠さんからしたら、丸を描いて終わり、なんて物足りないに違いありません。それでも数少ない円相には「十方無虚空、大地無寸土」という画賛が添えられています。「虚空もなければ大地もない。ただ清浄円明なる大円鏡の光が輝いている」という意味だそうです。・・・これは、考えようによっては、量子論を取り入れた最新の宇宙物理学によって、「宇宙の始まりは“無”だった」「宇宙が誕生する瞬間、“虚数時間”が流れた」「それによって宇宙の“卵”が大きくなり、急膨張した」「高温・高速度の火の玉状態(ビッグバン)を経て恒星や銀河が出来た」という宇宙の成り立ちを表現しているようにも思えます。

 

 白隠さんのことだから、夜空を見上げるうちに、「時間も空間もない無から宇宙が始まった」ことを観念的に理解したのではないか・・・などと妄想したくなるほど、思惟ある画賛です。三千世界を彷彿とさせる壮大な宇宙観。科学の力で観測・実証できたとしても、人間自身が認識するものである以上、宇宙イコール自己、と言えなくもない。

 今、読んでいる武藤義一氏の『科学と仏教』に、「釈尊は宇宙の創造神を認めず、内観によって自己を知り、智的直観によって宇宙や人生の全てを成り立たせる法を悟った」とあります。「科学はwhat に答えるもので、仏教はhowに答えるもの」ともあります。となると、“絶対矛盾をつきつめよ”という教えを科学者が実践してきたからこそ、今日の宇宙物理学があるとも言える。白隠さんが現代に生まれ変わったら優れた科学者になっていたかもしれませんね。

 


駿河の仏教宗派

2015-01-22 22:51:57 | 仏教

 私は家族や親戚にお寺の関係者がいるわけでもないのに、なぜか物心着くころからお寺が好きで、このブログでも再三触れているようにお寺さんとは様々なご縁が出来ました。好きなものを好きだ好きだと言い続けていると、不思議なことに次から次へとご縁ができるみたいで、年明け早々、静岡市内の某寺院のホームページを作る仕事をいただきました。目下、酒蔵取材の合間に図書館で資料を読み漁り、今まで知らなかった“駿府の仏教宗派勢力図”みたいなのがわかってワクワクしています。

 

 静岡市内の仏教寺院でダントツに多いのが曹洞宗。次いで臨済宗。いずれも禅宗一派です。今までは漠然と、家康公のお膝元だからなあと思っていましたが、別に徳川家が禅宗オシしてたわけではないようで、大御所時代、家康は仏教全宗派のトップを駿府に集め、「各宗派で寺院や僧を統制するように」と命じたんですね。これが、本山末寺制度の始まり。信長や秀吉が比叡山の僧兵や浄土真宗の一向一揆等に苦労したのを反面教師にして、有力寺院に「大本山」のお墨付きを与え、宗門をコントロールさせた。このピラミッド方式が、今のお寺と檀家さんの関係につながっているわけです。

 

 なんで静岡で禅宗が多いんだろう? いつから禅宗のお寺が増えたんだろう?と調べてみると、面白いことがわかりました。その前に仏教の主要13宗を整理してみると、古い順に、

 

 法相宗(奈良時代) 宗祖/道昭  本山/興福寺、薬師寺  代表寺院/法隆寺

 華厳宗(奈良時代) 宗祖/良弁  本山/東大寺  代表寺院/新薬師寺

 律宗(奈良時代) 宗祖/鑑真  本山/唐招提寺  代表寺院/西大寺

 天台宗(平安時代) 宗祖/最澄  本山/延暦寺  代表寺院/輪王寺、三千院

 真言宗(平安時代) 宗祖/空海  本山/金剛峰寺  代表寺院/智積院、長谷寺

 融通念仏宗(鎌倉時代) 宗祖/良忍  本山/大念仏寺  代表寺院/来迎院

 浄土宗(鎌倉時代) 宗祖/法然  本山/知恩院  代表寺院/増上寺、光明寺

 浄土真宗(鎌倉時代) 宗祖/親鸞  本山/西本願寺、東本願寺  代表寺院/高田専修寺、仏光寺

 臨済宗(鎌倉時代) 宗祖/栄西  本山/妙心寺  代表寺院/南禅寺、相国寺

 曹洞宗(鎌倉時代) 宗祖/道元  本山/永平寺、総持寺  代表寺院/大乗寺、妙厳寺

 日蓮宗(鎌倉時代) 宗祖/日蓮  本山/久遠寺  代表寺院/本門寺

 時宗(鎌倉時代) 宗祖/一遍  本山/清浄光寺  代表寺院/無量光寺

 黄檗宗(江戸時代) 宗祖/隠元  本山/萬福寺  代表寺院/崇福寺

 

 駿河の国というのはもともと天台宗や真言宗の力が強かったようで、今の久能山東照宮の場所にあった久能寺は大小150余りの伽藍を有する天台宗の大寺院。また建穂寺(たきょうじ)は“駿河の高野山”と呼ばれるほどの真言密教の大寺院で、この2寺が駿河の宗教地図を二分していたそうです。

 駿河生まれの名僧といえば、なんといっても静岡の茶祖・聖一国師(1202~1280)。藁科川上流の栃沢出身です。聖一国師は幼い頃、久能寺で天台宗の教えを学びました。さらに井宮出身の大応国師(1235~1308)。幼い頃、建穂寺で真言宗の教えを学んだそうです。このお2人はご承知の通り、その後、臨済宗―日本の禅宗を代表する高僧となりました。江戸期以降の本山末寺制度がなかったこの頃は、いろんな宗派を自由にハシゴ修行できたんですね。

 

 お寺はもともと一つの氏族がスポンサーになり、高僧を招いて開山とし、一族の慰霊や繁栄を祈願する、というパターンで増えてきました。学問的要素の強かった奈良仏教系、現世利益を求め貴族階級に支持された密教系、そして日本独自の発展を遂げた鎌倉仏教のうち、念仏系の浄土宗派は民衆に、坐禅を旨とする禅宗派は武家階級に広まりました。

 今川氏初代範国が駿河の守護職に就いたのは建武4年(1337)。もともと清和源氏の流れを汲む足利義兼の孫・吉良長氏の二男国氏が三河国幡豆郡今川庄に住みついて今川姓を名乗ったのが始まりで、国氏の孫・範国が南北朝の混乱に乗じて三河から駿河へと勢力を伸ばし、遠江守護と駿河守護を兼任するようになりました。その範国は清水の真珠院(一説には遠江見附の正光寺)に、二代範氏は島田の慶寿寺、三代泰範は藤枝の長慶寺と、代々個別に埋葬されました。今川氏クラスの名家ともなると、一族一寺ではなく、一代一寺の香華院(=菩提を弔う寺院)を築く力があったんですね。

 今川氏は10代、230年に亘って駿河遠江を治め、香華院は10ヶ寺。しかし大半は廃寺となってしまい、現在残っているのは七代氏親が眠る増善寺と、八代氏輝の臨済寺のみ。慈悲尾にある増善寺は法相宗の宗祖道昭が681年に開いたという名刹で、法相宗→真言宗と変遷し、氏親が曹洞宗に改宗させました。彼は幼いときに父義忠を亡くし、家督争いに敗れて焼津の法永長者に匿われた。法永が榛原に創建された曹洞宗石雲院の賢仲和尚に帰依しており、氏親は石雲院の支援を受けて家督を奪取。これがきっかけで曹洞宗が勢力を広げたようです。

 氏親の葬儀は戦国時代でも例を見ない大規模な葬儀で、「葬儀記」という記録まで残っているほど。以前、葬送の歴史について調べた内容を思い返し、戦国大名が葬祭の意味合いを大きく変えていったんだろうか…とふと思いました。

 

 臨済寺は氏輝自ら建立し、京都妙心寺から大休和尚を開山に迎えました。大休和尚は後奈良天皇と師弟関係にあったことから、「勅東海最初禅林」のお墨付きをもらい、ともに大岩にあった五代範忠が眠る宝処寺、六代義忠の長保寺、九代義元の天沢寺を吸収合併し、磐石な勢力を築きました。

 ちなみに、臨済寺の28代倉内大閑老師は昭和61年から平成3年まで臨済宗妙心寺派655世管長を、また羽鳥にある曹洞宗洞慶院の丹羽蓮芳老師は昭和60年から平成5年まで永平寺77世貫首を務められました。同時期に禅宗2大宗派のトップを輩出したなんて、聖一国師&大応国師以来、駿府静岡が脈々と繋いだ禅宗法系の底力を感じさせてくれます。

 

 イスラム国の邦人殺害予告のニュースを観るにつけ、宗教を利用する支配者、支配者が求める宗教について考えさせられます。日本でも、家康が天下泰平を築くまで、仏教宗派は戦国武将に呼応するように勢力地図を塗り替えてきました。家康が確立させた本山末寺制度というのは、今の檀家制度の基盤になったと考えると堅苦しく思えますが、寺が同一宗派で組織的に機能し、各地域の末寺が区役所や掛かりつけ医や生涯学習センターのような役割を果たしていたことを考えると、徳川時代は社会の中で宗教がうまく潤滑していた時代だったのではないでしょうか。

 維新後、明治政府は徳川時代の制度をすべてひっくり返すべく廃仏毀釈を進めた。同時に欧米からいろんな宗教や価値観が入ってきたことで、せっかく仏教によっておだやかにまとまっていた日本人の宗教観まで混乱してしまいました。今の日本人が宗教に無頓着でチャンポンだ、なんて揶揄されてしまう遠因もそこにあるような気がします。

 

 ふるさと駿河が培ってきた宗教観について、もっとちゃんと勉強していきたいと思っています。


〈自未得度先度他〉の酒蔵取材

2015-01-19 13:10:00 | 地酒

 2015年も、早や半月が経ってしまいました。完全休養できた日は正月2日の一日のみで、慌しい年明けとなりました。フリーランスにとっては幸先のよいスタートですが、19日になるというのに新年の飲み会がゼロでお誘いもなし(- -;)。こんな新年初めてかも。ちゃんと元日に酒の神様にお参りしたのに何か粗相をしたのかなあ。

・・・というのは冗談で、今冬は連日、酒蔵取材で神聖な気持ちで過ごしています。年明けには思いがけず大好きな人が作る雑誌から、大好きな蔵元の取材を依頼され、とても難しいテーマでしたが精魂込めて書かせていただきました。また静岡で開催されたIT事業者の全国規模のレセプションでは地酒ブースをお手伝いし、久しぶりに【吟醸王国しずおか】パイロット版を上映。若い男性が想像以上に地酒に関心を示してくれました。

 私が書いた記事や撮った映像やイベントブースで紹介できる銘柄はごく僅かで、日本酒の魅力を知るきっかけがないばかりに呑まずにいる(だけの)若い世代に、伝えられることは本当に小さい。そのことをあらためて痛感しましたが、たとえ小さな力でも、キャッチしてくれる人の力を信じ、ていねいに伝え続けていかねば、と思います。それは小規模な仕込みでも手を抜かず、妥協せず、誠心誠意造りに臨む蔵元・杜氏・蔵人さんたちからいただく大切な教え。禅の本で見つけた「自未得度先度他」=自分は未熟でも真摯に努力し続ければ他者のためになることもある、という言葉が胸に迫ってきます。 

 以下は当ブログを訪問してくださった地酒愛飲者の方々へのお年玉フォト集です。絶賛仕込み中の静岡美酒にどうぞご期待ください!

 

 志太泉酒造(藤枝市宮原)です。瀬戸川のほとりに洗濯物の干し場があって、蔵人さんを追いかけていったら、干し場の足元に水仙が揺れていました。冬の水仙は私が一番好きな花です。志太泉の仕込み蔵には、新選組の池田屋事件の舞台みたいなものすごい急勾配の階段があります。2階にある麹室まで駆け足で蒸し米を運ぶ作業はまるで討ち入り(笑)。

 

  私が心惹かれるのは、作業の前後の掃除風景。清潔を保つというのは、必要だからというよりも、酒造りに向かう姿勢を自ら律する意味があるように思えます。「姿勢をつくる大切さ」というのは、武道でも芸道でも坐禅でも同じだな、と。志太泉では杜氏の西原さん自ら、麹室の床掃除をしています。

 搾り機ヤブタの掃除をしているのは森岡さん。地元藤枝の茶農家の奥様で、なんと、多田信男さん(現・磯自慢杜氏)が志太泉の杜氏だった昭和58年から勤めています。今では一番のベテラン蔵人で、若い西原杜氏も全面的に信頼しています。大阪出身の西原さんは、志太泉の杜氏になってから家族ともども藤枝に移り住み、正社員にはならず、冬は杜氏、夏は茶師という生き方を選択しました。この2人、志太杜氏がその昔、冬は酒造り、春~夏は茶師として地域産業の欠かせぬ担い手だった伝統をしっかり継承しているんですね。

 

 

 島田の大村屋酒造場へは、若竹PREMIUM純米大吟醸(誉富士40%精米)の洗米作業をどうしても見たくてうかがいました。売り出し中の静岡県産米「誉富士」を40%まで精米して大吟醸にしているのはここだけ(理由はこちらを参照してください)。高精白した米は浸漬での吸水状況をシビアにチェックします。杜氏の日比野さんの真剣な眼差しを見ればお解かりでしょう。

 理想の蒸し米にするための吸水を経て水を切った米は、南部(岩手)出身の蔵人加藤さんが麻布に丁寧にくるみます。加藤さんは、日比野さんの師匠である前任の南部杜氏・菅原さん、菅原さんの師匠である南部杜氏板垣馬太郎さんと、3代の杜氏に仕える熟練の蔵人。ここでも若い杜氏を、蔵を知り尽くしたベテラン職人がしっかり支えています。無駄口を叩かず、杜氏の手元をしっかり見据え、次なる作業にキビキビと移る蔵人さんは、酒蔵の宝だ・・・と実感しました。

 

 萩錦酒造(静岡市駿河区)と富士錦酒造(富士宮市)の2蔵で杜氏を務める南部杜氏小田島健次さん。萩錦で小田島さんの補佐をするのは萩原郁子さん。蔵元の奥様です。蔵元夫人が現場で主力となって働いている酒蔵、女性として心から応援したくなります!!。

 

 そして青島酒造(藤枝市上青島)の蔵元杜氏青島孝さん。喜久醉松下米の浸漬です。大村屋の日比野さんと同じ眼差しでした。二人とも眼鏡をかけているので、白衣を着たら化学者みたいですね。もっとも青島さんは、蔵入りとは出家したようなものだというのが口癖で、私の禅の修学にも付き合ってくれる“変人”です。彼のことだから、ひょっとしたらいつかホンモノの禅僧になるかも(笑)。

 

 小田島さんと青島さんは、引退した喜久醉の前杜氏で南部杜氏富山初雄さんの直弟子という共通項があります。富山さんは、複数の蔵を掛け持ちする小田島さんには、変化する環境に即応できるプロのスキルを、蔵元の経営者兼杜氏という立場の青島さんには〈守・破・離〉の精神を伝えました。私には、〈酒を伝えるとは、人を伝えることだ〉と教えてくださったように思います。

 

 

 

 そして1月15日、グランディエールブケトーカイの4階大宴会場シンフォニーで開催されたJANOG25 Meeting in Shizuoka 懇親会でのひとコマ。これだけのスクリーンで【吟醸王国しずおか】を流していただけたのは大変光栄でした。もっとも観ている人はほとんどいなかったけど(苦笑)、居酒屋「のっち」の福島夫妻が用意した静岡銘酒18升が2時間でカラになりました。酒の試飲会でもないのに、ブースの行列が途絶えず、「隣で呑んでた人に勧められて来た」「静岡の地酒がこんなにうまいなんて」「今夜に限って他のアルコールは要らない」とあちこちから嬉しい声。IT関係者の集まりで、20~40代がほとんどでしたから、この世代に訴求できたのは大ヒットでした。

 

 「自未得度先度他」の他者の役に立っているという手応えが、回りまわって自分の成長につながるんじゃないか・・・厳冬の酒蔵で汗を流す職人さんたち、また地酒ブースで眼を輝かせていた若者たちを目の前にして、ほんの少し、確信が持てたこの半月。この先も、追々、酒蔵写真をUPしますので、スズキマユミの成長ぶり?を汲み取っていただけたら幸いです。

 


駿河白隠塾第1回フォーラムのお知らせ

2015-01-10 20:55:28 | 白隠禅師

 昨年末、こちらの記事でご紹介したとおり、駿河白隠塾の第1回フォーラムが2月27日(金)に開催されます。今日(10日)、事務局よりパンフレットが届きました。

 

 

 このパンフレットに使われた『地獄極楽変相図』、白隠画としては一般的にあまりなじみがないかもしれません。沼津市原の清梵寺が所蔵しており、毎年7月20日前後の地蔵盆縁日のとき、一般公開されるそうです。2014年11月の白隠フォーラムIN沼津でもフランソワ・ラショー先生が取り上げてくださり、白隠さんの深いメッセージ性と構図の面白さに魅了されました。こちらの記事であらましは紹介したものの、実物の画がないと読者のみなさんにはピンと来ないだろうなあと思っていましたが、こうしてパンフレットに使われて目にする機会が増えてよかった!

 

駿河白隠塾 第1回白隠塾フォーラム「白隠を語る」

□日時 2015年2月27日(金) 18時~20時30分 (開場17時)

□会場 プラザヴェルデ3階コンベンションホールB (JR沼津駅北口より徒歩3分・こちらを参照)

□料金 一般2000円 会員無料 

□講師 

玄侑宗久氏/作家・福島県三春町「福聚寺」住職。2001年「中陰の花」で芥川賞、2007年「般若心経いのちの対話」で文芸春秋読者賞。2009年より花園大学、2011年より新潟薬科大学客員教授。公式サイトはこちら

芳澤勝弘氏/花園大学国際禅学研究所教授・副所長。白隠研究の第一人者であり、花園大学国際禅学研究所主催の白隠フォーラムを国内外で開催し、講演も多数行なう。駿河白隠塾塾長。花園大学国際禅学研究所公式サイトはこちら

 

□申込 電話かメールで駿河白隠塾事務局へ。TEL 055-925-0512  hakuinjuku@hakuin.jp

*定員(会員枠300名、一般枠100名)になり次第終了。なお入会は随時受付。年会費(3000円)にて年2回の白隠塾フォーラムに無料参加できます。上記事務局へお問合せください。

 

 

 以下は蛇足です。

 偶然ですが本日(10日)付けの中日新聞朝刊にて、地酒ライターとして【白隠正宗】の蔵元・高嶋酒造を取材中の私を紹介していただきました。「発信クールしずおか」という正月企画で地域を元気付ける応援活動をしている人々を取り上げるシリーズの7回目(最終回)。昨年末に依頼を受け、取材を受けるなら酒蔵がいいだろうと考え、直近で12月18日に朝4時から高嶋酒造で上槽(搾り作業)の取材予定があったことから、担当の女性記者に「朝4時からだけど来る?」と訊いたら、わざわざ沼津に前泊して来てくれました。

 その日は夕方からこの駿河白隠塾の理事・運営委員の会合があり、私はこの写真の格好のまんま参加し、「第1回白隠塾フォーラムが無事成功したら、白隠正宗で乾杯しましょう」と息巻いて、他のお歴々から白い眼で見られた(笑)と思います。

 

 

 

 高嶋酒造はじめ、原の旧家には貴重な白隠画がたくさん残っており、多くは一般の眼にふれる機会は少ないようです。白隠画は古美術品として異様に高値が付くらしいこと、禅の伝道として真摯に扱って欲しいと願う寺院が少なくないことも漏れ聞いています。私のような酒飲み部外者が軽々しく書いたり語ったりしてはいけない世界なのかもしれませんが、白隠さんのことを少しずつ勉強していくと、白隠さんが伝えてくれたものを今の時代に活かすために、いろんな人がいろんな手法で挑戦することを、白隠さんご自身は理解してくださるのではないか・・・と思えてくるんです。「駿河に過ぎたるものあり、富士のお山と原の白隠」と謳われたほんとうの意味を、寺院や美術関係者しか知らないとしたら、富士山のネームバリューに比べて小さすぎ!と思いませんか?

 

 第1回白隠塾フォーラム、平日夜ですが、ぜひともご参加ください。そして終了後はぜひとも沼津で「白隠正宗」を呑んでお帰りくださいな!

 


奈良の初詣巡礼

2015-01-04 20:08:49 | 仏教

 2015年あけましておめでとうございます。今年も【杯が乾くまで】をよろしくお願いいたします。

 

 大晦日から元日にかけ、友人と奈良へ初詣ドライブに行ってきました。急に思い立って計画したので、行き当たりバッタリの珍道中。新年早々ヘビーな体験の連続でした。

 ギリギリまで原稿書きに追われた大晦日、15時ころ、磐田市に家族の菩提寺がある友人を「ららぽーと磐田」でピックアップして、4時間ちょっとで桜井駅前の素泊まりの安宿に。周辺に食堂らしきものはなく、コンビニできつねどん兵衛と緑のたぬきを買い、持参した【國香】と、ららぽーとで買った乾きモノで、紅白を見ながら2014年最後の晩餐。23時過ぎに宿を出発して、JRで一駅の三輪へ。2015年は大神神社で年越しです。

 

 大神神社。祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は国造りの神様として、農業、工業、商業すべての産業開発、 方除(ほうよけ)、治病、造酒、製薬、禁厭(まじない)、交通、航海、縁結びなど世の幸福を導く人間生活の守護神です。 地酒ファンにとっては酒蔵の軒下に吊り下がる酒林(杉玉)発祥の神としてもお馴染みですね。杜氏の高橋活日命(たかはしのいくひのみこと)が祭神の神助(しんじょ)として美酒を醸したことから、医薬の神様や酒造りの神様として広く信仰を集めています。

 私は奈良に来るたびに時間があればお参りしていますが、初詣は初めて。しかも1月1日午前1時から、日本で一番早いお祭り=繞道祭(にょうどうさい)が執り行われるとあって、今年はこれでスタートしよう!とはるばるやってきたわけです。

 繞道祭はご神火を小松明に点し、2人の神職が拝殿内を走り出て、拝殿前の斎庭で待つ3本の大松明に火が継がれ、先入道・後入道と称する2本の大松明(長さ約3メートル)と、少し小さめの神饌松明の計3本を氏子の若者がかつぎ、神職と共に山麓に鎮座する摂末社19社を巡拝するという火祭り。します。ちなみに繞(にょう)とは、「めぐる」という意味だそう(・・・まだまだ知らない漢字があるなあ。反省反省)。松明の炎を見ていると、意味もなく高揚してきちゃいました。

 

 酒林(杉玉)は、大神神社のご神木である杉に霊威が宿ると信じられ、酒屋の看板代わりに杉葉を束ねて店先に吊るす風習が生まれました。杉には滅菌効果があるので醗酵を司る作業場に適していたともいえます。

 元禄期、英一蝶が大徳寺門前の又六という酒屋の前で酩酊している一休さんを描いた「一休禅師酔臥図」という画があり、ここに酒林らしき杉葉の束が描かれています。一休さんが謳った「極楽を いづくのほどと 思ひしに 杉葉立てたる 又六が門」(極楽がどこらあたりだろうかと思っていたが、杉の葉をしるしに立てた、酒屋の又六の門であった)という歌がベースになっているそう。・・・ったく禅の坊さんってしょうがないなあと微笑ましくなってしまいます。大神神社では酒林は売っていませんが、毎月1日にはお清めをうけた杉の葉をばら売りしてくれるので、今冬取材でお世話になる蔵元さんへの手土産にゲットしました。

 

 

 元旦の未明までは思ったほど寒くなく、月や星まで見えて「お天気良くなるじゃん」と友人と喜んでいたのもつかの間、陽が昇ってからは寒気がドッと押し寄せてきました。朝9時ごろ宿を出て、午前中向かったのは大安寺。かつて東大寺や興福寺と並んで南都七大寺の一つに数えられた古刹で、今は厄除け・ガン封じの祈祷寺として知られています。ガン闘病中の友人に勧め、ご祈祷を受けることに。大般若経の転読に私も立会い、功徳のおこぼれに預かることができました。

 

 

 古典芸能に親しむ友人の希望で、次に訪ねたのは當麻寺。ちょうど13時から護摩祈祷が始まるというので、不動尊が祀られる中之坊護摩堂に入れてもらい、般若心経と不動明王慈救呪を読経しました。願い事を書いた護摩木が不動尊の炎に投じられる約1時間、ひたすら繰り返しの読経。般若心経は何度も読んだことがありますが、慈救呪は初めて。「ノーマクサーマンダーバザラダン センダンマカロシャダ ソワタヤ ウンタラターカンマン」というやつです。

 狭い護摩堂の中に我々を含めて10人ほど。1時間強の正座と読経はちとキツく、堂内は次第に炎の熱と煙に覆われ、息苦しくなってきます。煙が天に届くと、天がそれを食し、代わりに人に福を与えるというバラモン教由来の教えなんだとか。お香の渋~いスモーキーフレーバーが全身に染み付いてきます。ご祈祷がひと段落したあと、ビリビリ状態の足を引きずりながら護摩壇の残り火を拝んだら、テレビでしか見たことのない密教系の護摩行を体感した驚きと、痺れるような充足感を感じました。

 

 中之坊には片桐石州が改修した池泉回遊式庭園と石州が建てた茶室「丸窓席」があります。當麻寺といえば曼荼羅で有名な中将姫の印象しかなかったのですが、数多くの文化財を有し、今ではお抹茶体験、曼荼羅の写仏体験、尺八体験なんていうのも出来るそうです。あらためてじっくり訪ねようと思いました。

 

 

 次いで、昨年10月の茶道研究会京都研修で飛び込み参加してくれた奈良在住の同級生にお礼がてら、法隆寺へ。彼女の嫁ぎ先の実家が法隆寺のすぐそばにあり、「元日はさすがに嫁らしいことをしないと」と時間のない彼女にわざわざ法隆寺門前の茶店まで出て来てもらい、年始がわりに磯自慢の新酒を贈りました。

 法隆寺を訪ねるのは20年ぶりぐらい。拝観料が1500円になっていてビックリ!!でしたが、百済観音や夢違観音や玉虫厨子が間近に見られる大宝蔵院には大満足でした。百済観音のお顔、こんなに人間的で慈悲深くお美しかったのかとしみじみ。1500円払う価値は十分です。

 久しぶりに仰ぐ夢殿も、こんなに美しい建造物だったのか・・・と認識を新たにしました。八角円堂という建築スタイル、中国の八方位陰陽説がベースになっているようで、八角をつなげると限りなく円に近づく。円の中心には聖徳太子の化身と言われる秘仏救世観音像。この配置、つくづく宇宙的ですね。

 

 

 16時過ぎ。法隆寺門前の茶店を出て帰路に付こうと思ったら、雪が降り始めていました。名阪国道を東に進むにつれ、次第に雪が激しくなり、伊賀サービスエリアでトイレ休憩をとったはいいけど、サービスエリア出口から数珠繋ぎ状態。2時間動けず、雪はずんずん積もってきます。

 

 友人は過去に伊勢参りのドライブで雪に遭い、ノーマルタイヤで何度もスリップ事故を起こしそうになったそうでトラウマになっていました。彼女を落ち着かせようと「大丈夫、こんなノロノロ運転なら事故ることないって」「あれだけ火の神様を拝んできたんだから安心して」って言いつつ、フロントガラスが凍りつき始め、視界が悪くなって、内心やばいやばいと冷や汗。ハンドルを握り締めたまま硬直してしまったとき、タイミングよく彼女が除湿ボタンを押してくれて一気に視界が開け、「はぁ~一人じゃなくてよかったぁ」と安堵しました。

 道路サイドには立ち往生した車がゾロゾロ。走行をあきらめて雪被り放題の乗用車もありました。前を走るのが軽自動車だと、車体ヨロヨロ、タイヤもズルズルで「もらい事故したくないよぉ」と車2台分ぐらい車間距離を空け、伊賀から亀山までは時速20キロ以下、ほとんどエンジンブレーキだけの牛歩前進でした。伊勢湾岸道路に出たのは23時過ぎ。刈谷サービスエリアで夕食をとったのは午前0時を回っていました。交通情報で名神や新名神は通行止め、名阪国道も下り大阪方面は通行止めと知り、「やっぱり火の神様に守られたんだ」としみじみ…。新東名に入ってから「横風注意」の警告サインを見て、友人と「静岡ってつくづく平和だねえ~」と笑ってしまいました。

 

 睡魔と激闘しつつ、午前3時に無事帰宅しました。下界へ戻るのに11時間・・・それだけ神仏の世界は遥か遠く、貴かったんです(笑)。というか伊賀越えってホントにキツいんだなあと実感。本能寺の変のときの家康公の災難を想起します。

 せっかくありがたいご祈祷を受けたのにシンドイ思いをさせてしまった友人と、難路を乗り切ってくれた愛車アクアに感謝。スモーキーフレーバーがいまだ染み付いたままのダウンコートにも頼れる防寒具として感謝感謝です。

 友人からは「運がよかったと思っちゃダメだよ」と釘を刺されました。ホント、今冬のお天気はつくづく油断できません。スタッドレスやチェーン装備のない人、絶対に無理しないでくださいね!