私が主宰する駿河茶禅の会で、1月に予定していた初釜茶会がコロナの影響でお流れになりました。茶室の ”密度” を考えたらやむを得ない判断でした。
この会を始めてから毎年1月は、駿府城公園紅葉山庭園茶室での初釜で同志とともに新年を迎えることが定例化していましたが、今年はもとより、初詣にも行かなかったため、何か、けじめのない年明けとなってしまいました。
昨年12月も直接集合しての例会は開催できなかったため、代わりに、「来年にかける思いを禅語に託して寄せてください」と呼びかけ、年末ギリギリで "紙上例会” というかたちで配信しました。その禅語集を何度か読み返し、こういう時期だけに、よけいに心に沁みる言葉が多かったので、ここでも寄稿者名を伏せてご紹介させていただこうと思います。言葉のチカラで今一度、自分自身を奮い立たせるつもりで。
昨年1月の初釜の初炭
第63回駿河茶禅の会12月紙上例会より(抜粋)
「歳月不待人」
■出展 陶淵明
現在、自宅に『歳月不待人』という一行物(掛軸)を掛けてあります。これは禅語ではありませんが、禅僧による染筆で、禅語辞典などの書物にも載せられている馴染み深い語です。
この語の前に『及時當勉励』(ときにおよんでまさにべんれいすべし)という語があって、それに続くのですが、決して勉学に励めということを奨めているのではありません。酒を愛した詩句を多く残した陶淵明の作品のひとつで、楽しむときは、思い切り楽しもうぜ、というのが趣旨であります。当面、疫禍のもとで制約が多い環境ではありますが、拠り所としたい言葉と考えております。
「塗毒鼓(ズドック)」
■出典 白隠禅師
昔、芳澤勝弘先生のところで見た白隠の書です。意味や謂われよりも見た瞬間、ガツンガツンと撃たれたようなショックを覚えました。これを見つけた!と言ったときの芳澤先生の嬉しそうなお顔を今でも忘れません。
意味は読んで字のごとく、毒を塗った太鼓のこと。この太鼓の音を聞いたものは皆、死ぬという恐ろしいものですが、仏の教えが聞く者の三毒-すなわち貪欲 瞋恚 愚痴をことごとく滅尽することの例えとして使われます。
白隠関係の資料を読んでいるとき、我が家の裏の寂れたお寺に、白隠禅師が参勤交代の途中の岡山の池田候を招いて「塗毒鼓」をテーマに法会を開いていたことを知り、ビックリしました。その法会では仏法を聞くことによって仏との縁を結び、発心し、修行すれば成仏が可能で、将来必ず救うことができると説いたそうです。仏に救われる他動的存在ではなく、私たち自身が菩薩として人々を救う存在、社会変革者として位置づけているところが白隠らしいと思いました。そういう謂われを踏まえたのでしょうか、後に、碧巌録や無門関などの語録を集めた宗門の書籍に、「塗毒鼓」という書もあります。
「主人公(しゅじんこう)」
■出典 無門関
禅語では、「主人公」という言葉を、自分の中にいる根源的で絶対的な主体性を表します。禅の修行ではまずこの「主人公」に目覚めることが肝要であり、悟後の修行を怠らず、日常においても自己を鍛錬し、明瞭さを持続する事が求められます。
中国・浙江省の丹丘、瑞厳寺の師彦和尚は毎日自分自身に「主人公」と呼び掛けては、自ら「はい」と応じまた、語り掛けては「はい」と応え、さらに「如何なるときも人に侮られてはならんぞ」と言い聞かせては「はい、はい」と自問自答する日々を過ごしていたそうです。余計なものを脱ぎ去り自分らしく生きていることが個性であり、自分らしく生きている自分こそが「主人公」、ということでしょうか。
「友情にも季節がある」
■出典 南方熊楠
南方が孫文との交わりを表した言葉。出会いの春や、楽しい夏、物思いに耽る秋や会えない冬、でもまた、春が来ていつか会えると思って友情を育む。南方熊楠の本当の意味は、違うところにあって、私の勝手な解釈かもしれませんが、会わない友情もあると知り、もともと人付き合いが苦手な自分としては、とても救われた言葉です。でも、同時に、会うべき人には必ずまた会えると信じていて、なぜか、本当に会えるから、そのときまで、1人の冬を大切に過ごそうと思っています。
「看々臘月盡」
■出典 虚堂録
まだ来ぬ来年より今に賭ける(笑)。臘月は陰暦12月のこと。光陰箭の如し、みるみるうちに1年が尽きる。臘月の人生に悔いを遺さぬよう一瞬一瞬を充実して生きる。左右を見たり、後先を気にしている暇はない。今、ここの、私を完全燃焼する。
「看脚下」
■出典 圜悟克勤
落ち着いて、自らの立場と進む道を考えること、と解釈しました。
「放てば手にみてり」
■出典 道元禅師
正法眼蔵弁道話に「妙修を放下すれば、本證手の中にみてり」とあります。一度手から離して見れば、大切なものが手に入る、という意味のようですが、その奥にある意味は深く、真に理解し、実践となるとなかなか難しい。こだわりを捨てられたらと思いますが、様々な文化も、こだわりがあるからこそ生まれてくるのでは、と思ってしまいます。
あれもこれもという物の時代。手放してこそ大切なものがきっと手に入るに違いありません。100年後に思いを馳せ、八大人格の少欲、知足などを心に留め、少しずつ実践して行きたいと思っているこの頃です。
「夜静渓声近 庭寒月色深」
■出典 厳維(三体詩)
夜に入ってあたり一面が静かになると、遠くの谷川のせせらぎが間近に聞こえ、気温が下がって庭が寒気で満たされると、月の光が澄み切ってさらに深い色で輝き出す。とらわれや苦悩・怒りなど、心の中のあらゆるざわめきが消えて静かな境地が得られると、人々が本来持っている仏の本性の輝きが一層際立って、生き生きとしたはたらきがあらわれることのたとえ。
真冬は昼間の喧騒感から、日の入りと共に活動を終えた安堵感を感じますが、今はそのような感じを持てない気がします。コロナ禍の終わりが見えない日々に、一日も早く終息を願い、新しい春を迎えたい。
「壽如南山(じゅはなんざんのごとし)」
■出典 詩経
壽は「寿命」「天寿」などの言葉がありますように、人の命を意味するそうです。私たち人間の生存は、すでに天の理(ことわり)によって定められた物としています。
南山は中国・西安の西南に聳える終南山の事だそうです。南山は「不壊」を意味し、陽気温暖の山「天寿極まりなし」という意と同時に 「壽」も「南山」もめでたさを表す縁語につながるために、正月やおめでたいことがあった時に、よく床の間に掛ける軸物の語句となっているそうです。
「結果自然成(けっかじねんになる)」
■出典 少室六門集
禅宗の初祖達磨大師が、二祖慧可に与えた伝法偈の一部~ 「一華五葉を開き 結果自然に成る」からとられたもので、ひとつの花が五弁の花びらを開きやがて自ずから‘結実’するように、 われわれの心が迷いや煩悩から解放されて真実の智慧の花を咲かせれば、自ずから仏果(悟り)を得られるだろう~ という意味。
現代の教えとしてはいろんな解釈ができるようですが、やれるだけのことを精一杯やったら、結果は自然と実を結ぶものと捉え、結果にこだわらず目の前のやるべき事に必死になって取り組むことの大切さをこころに留めようと思います。
「自灯明」
■出典 釈迦
コロナ禍で混迷の状況のなか、ソーシャルディスタンスのなか、私が選んだ禅語は「自灯明」です。他に寄りかからずとも自分の力で根を張って立ち、灯りもともす。そうなりたいなと心から思った、いや実感しました。
「随所に主と作(な)れば 立処皆真なり」
■出典 臨済義玄禅師『臨済録』示衆
何処に居ようと自分自身を見失わなければ、いつどこでもそこに真理が存在する。いつ如何なる時も、心の主は自分の精神であれ。精神が主であるなら、つまり自分自身の純粋な心を忘れることなく精一杯の行いをすれば、何処にいようと人生の真理、生きる意味が見つかる。何処にいても、どんな環境のもとでも安らかに生きることができる。
いつも精神によって欲をコントロールすることができたなら、清々しい道が見えてくるようなきがする。令和三年はそう生きたい。
「不急集中」
禅語でも何でもないMy熟語です。想えば、この一年で、世の中の時間と空間の概念が大分様変わりしました。「スピード効率至上主義」の価値観は相変わらず世界標準ですが、確実に人々の暮らしの色合いや温度感は変化しているように感じます。
「不急」を辞書で調べると、「急を要しないこと。今すぐでなくてもよいこと。また、そのさま。」とあります。世界で起きている「スピード」の弊害(気候変動、人口問題、食糧危機、膨大な国の負債など)を考えると、急を要しない、今すぐでなくてもよいことをしているのは人間ばかりで、他の生き物は「不急」で暮らしているように思います。ただ、「不急」でないことは、ノンベンダラリンとしていることではなくて、常に何かに集中し没頭していることなのではないかと思います。
ちなみに、私の新年のテーマは、“Design of Mindfulness”「全集中のデザイン」です。
「功徳海中一滴を譲るべからず 善根山上一塵も亦積むべきか」
■出典 道元禅師
世の中のたくさんの人が、ひとつずつ良いことをしたら功徳は山のように、海のようになるだろう。それなら自分は、やらなくても良いのだろうか?
否、それでも私が、一滴の水を加えよう。砂一粒でも加えよう。私がやることが大事なのだ。それが誠の功徳につながる。
・・・身に滲みる言葉です。
最後に私・鈴木真弓が選んだ言葉です。
「一切皆苦」
■出典 ダンマパダ278(原始経典)
一切皆苦とは文字通り、「この世のすべては苦しみである」。仏教の根本的な教えです。
現代人にとっての「苦しみ」とは、自分の思い通りにはならないということ。どんなに頑張っても結果が出ない。2020年は多くの人が一切皆苦な体験をし、思い通りが通らない暮らしを余儀なくされ、世の中、本当に思い通りにはいかないものだと実感させられました。
以前、Eテレの「こころの時代~禅の知恵に学ぶ」で美濃加茂の正眼寺山川宗玄老師が典座(台所役)の経験を話されました。托鉢ではいろんな米を頂く。古米もあれば外米もある。これらを一緒にし、ふつうに洗米浸漬した後、水を切って、釜の熱湯にぶち込んで炊くそうです。
蒸気は白から黄→青と変化するのでそのタイミングで薪を引っこ抜いて、後は余熱で置く。そうすると均等にふっくら焦げずに炊き上がるそう。科学的にどういうことなのか分かりませんが、老師曰く「熱湯という強烈な環境に置かれると古米も新米も外米も、みんなただの“米”に戻る。人間も同じだ」と。このお話がとても心に染み入り、2020年は老師の禅セミナーに美濃加茂まで2回通いました。
コロナという“熱湯”によって我欲から解かれ、多少はすっきりシンプルな米になれただろうか、「苦しみ」の本質に向き合うことが出来ただろうか、今も思案の毎日ですが、思い通りに行かずとも不必要に落ち込まず、「ダメで元々」「うまくいったら儲けもの」「一に感謝、二に感謝」の精神で前に進めたらと願う次第です。