杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

2021初春禅語

2021-01-13 12:56:41 | 駿河茶禅の会

 私が主宰する駿河茶禅の会で、1月に予定していた初釜茶会がコロナの影響でお流れになりました。茶室の ”密度” を考えたらやむを得ない判断でした。

 この会を始めてから毎年1月は、駿府城公園紅葉山庭園茶室での初釜で同志とともに新年を迎えることが定例化していましたが、今年はもとより、初詣にも行かなかったため、何か、けじめのない年明けとなってしまいました。

 昨年12月も直接集合しての例会は開催できなかったため、代わりに、「来年にかける思いを禅語に託して寄せてください」と呼びかけ、年末ギリギリで "紙上例会” というかたちで配信しました。その禅語集を何度か読み返し、こういう時期だけに、よけいに心に沁みる言葉が多かったので、ここでも寄稿者名を伏せてご紹介させていただこうと思います。言葉のチカラで今一度、自分自身を奮い立たせるつもりで。

 昨年1月の初釜の初炭

 

第63回駿河茶禅の会12月紙上例会より(抜粋)


「歳月不待人」
■出展 陶淵明  
現在、自宅に『歳月不待人』という一行物(掛軸)を掛けてあります。これは禅語ではありませんが、禅僧による染筆で、禅語辞典などの書物にも載せられている馴染み深い語です。
この語の前に『及時當勉励』(ときにおよんでまさにべんれいすべし)という語があって、それに続くのですが、決して勉学に励めということを奨めているのではありません。酒を愛した詩句を多く残した陶淵明の作品のひとつで、楽しむときは、思い切り楽しもうぜ、というのが趣旨であります。当面、疫禍のもとで制約が多い環境ではありますが、拠り所としたい言葉と考えております。

 


「塗毒鼓(ズドック)」
■出典 白隠禅師
昔、芳澤勝弘先生のところで見た白隠の書です。意味や謂われよりも見た瞬間、ガツンガツンと撃たれたようなショックを覚えました。これを見つけた!と言ったときの芳澤先生の嬉しそうなお顔を今でも忘れません。
意味は読んで字のごとく、毒を塗った太鼓のこと。この太鼓の音を聞いたものは皆、死ぬという恐ろしいものですが、仏の教えが聞く者の三毒-すなわち貪欲 瞋恚 愚痴をことごとく滅尽することの例えとして使われます。
白隠関係の資料を読んでいるとき、我が家の裏の寂れたお寺に、白隠禅師が参勤交代の途中の岡山の池田候を招いて「塗毒鼓」をテーマに法会を開いていたことを知り、ビックリしました。その法会では仏法を聞くことによって仏との縁を結び、発心し、修行すれば成仏が可能で、将来必ず救うことができると説いたそうです。仏に救われる他動的存在ではなく、私たち自身が菩薩として人々を救う存在、社会変革者として位置づけているところが白隠らしいと思いました。そういう謂われを踏まえたのでしょうか、後に、碧巌録や無門関などの語録を集めた宗門の書籍に、「塗毒鼓」という書もあります。

 


「主人公(しゅじんこう)」
■出典 無門関
禅語では、「主人公」という言葉を、自分の中にいる根源的で絶対的な主体性を表します。禅の修行ではまずこの「主人公」に目覚めることが肝要であり、悟後の修行を怠らず、日常においても自己を鍛錬し、明瞭さを持続する事が求められます。

中国・浙江省の丹丘、瑞厳寺の師彦和尚は毎日自分自身に「主人公」と呼び掛けては、自ら「はい」と応じまた、語り掛けては「はい」と応え、さらに「如何なるときも人に侮られてはならんぞ」と言い聞かせては「はい、はい」と自問自答する日々を過ごしていたそうです。余計なものを脱ぎ去り自分らしく生きていることが個性であり、自分らしく生きている自分こそが「主人公」、ということでしょうか。

 


「友情にも季節がある」
■出典 南方熊楠
南方が孫文との交わりを表した言葉。出会いの春や、楽しい夏、物思いに耽る秋や会えない冬、でもまた、春が来ていつか会えると思って友情を育む。南方熊楠の本当の意味は、違うところにあって、私の勝手な解釈かもしれませんが、会わない友情もあると知り、もともと人付き合いが苦手な自分としては、とても救われた言葉です。でも、同時に、会うべき人には必ずまた会えると信じていて、なぜか、本当に会えるから、そのときまで、1人の冬を大切に過ごそうと思っています。

 


「看々臘月盡」
■出典 虚堂録
まだ来ぬ来年より今に賭ける(笑)。臘月は陰暦12月のこと。光陰箭の如し、みるみるうちに1年が尽きる。臘月の人生に悔いを遺さぬよう一瞬一瞬を充実して生きる。左右を見たり、後先を気にしている暇はない。今、ここの、私を完全燃焼する。

 


「看脚下」
■出典 圜悟克勤
落ち着いて、自らの立場と進む道を考えること、と解釈しました。

 



「放てば手にみてり」
■出典 道元禅師
正法眼蔵弁道話に「妙修を放下すれば、本證手の中にみてり」とあります。一度手から離して見れば、大切なものが手に入る、という意味のようですが、その奥にある意味は深く、真に理解し、実践となるとなかなか難しい。こだわりを捨てられたらと思いますが、様々な文化も、こだわりがあるからこそ生まれてくるのでは、と思ってしまいます。
あれもこれもという物の時代。手放してこそ大切なものがきっと手に入るに違いありません。100年後に思いを馳せ、八大人格の少欲、知足などを心に留め、少しずつ実践して行きたいと思っているこの頃です。

 

 

「夜静渓声近 庭寒月色深」    
 ■出典 厳維(三体詩) 
夜に入ってあたり一面が静かになると、遠くの谷川のせせらぎが間近に聞こえ、気温が下がって庭が寒気で満たされると、月の光が澄み切ってさらに深い色で輝き出す。とらわれや苦悩・怒りなど、心の中のあらゆるざわめきが消えて静かな境地が得られると、人々が本来持っている仏の本性の輝きが一層際立って、生き生きとしたはたらきがあらわれることのたとえ。    
真冬は昼間の喧騒感から、日の入りと共に活動を終えた安堵感を感じますが、今はそのような感じを持てない気がします。コロナ禍の終わりが見えない日々に、一日も早く終息を願い、新しい春を迎えたい。

 

 

「壽如南山(じゅはなんざんのごとし)」

■出典 詩経
壽は「寿命」「天寿」などの言葉がありますように、人の命を意味するそうです。私たち人間の生存は、すでに天の理(ことわり)によって定められた物としています。
南山は中国・西安の西南に聳える終南山の事だそうです。南山は「不壊」を意味し、陽気温暖の山「天寿極まりなし」という意と同時に 「壽」も「南山」もめでたさを表す縁語につながるために、正月やおめでたいことがあった時に、よく床の間に掛ける軸物の語句となっているそうです。

 


「結果自然成(けっかじねんになる)」 
■出典 少室六門集
禅宗の初祖達磨大師が、二祖慧可に与えた伝法偈の一部~ 「一華五葉を開き 結果自然に成る」からとられたもので、ひとつの花が五弁の花びらを開きやがて自ずから‘結実’するように、 われわれの心が迷いや煩悩から解放されて真実の智慧の花を咲かせれば、自ずから仏果(悟り)を得られるだろう~ という意味。   

現代の教えとしてはいろんな解釈ができるようですが、やれるだけのことを精一杯やったら、結果は自然と実を結ぶものと捉え、結果にこだわらず目の前のやるべき事に必死になって取り組むことの大切さをこころに留めようと思います。       

 


「自灯明」
■出典 釈迦

コロナ禍で混迷の状況のなか、ソーシャルディスタンスのなか、私が選んだ禅語は「自灯明」です。他に寄りかからずとも自分の力で根を張って立ち、灯りもともす。そうなりたいなと心から思った、いや実感しました。

 


「随所に主と作(な)れば 立処皆真なり」 
■出典 臨済義玄禅師『臨済録』示衆
何処に居ようと自分自身を見失わなければ、いつどこでもそこに真理が存在する。いつ如何なる時も、心の主は自分の精神であれ。精神が主であるなら、つまり自分自身の純粋な心を忘れることなく精一杯の行いをすれば、何処にいようと人生の真理、生きる意味が見つかる。何処にいても、どんな環境のもとでも安らかに生きることができる。
いつも精神によって欲をコントロールすることができたなら、清々しい道が見えてくるようなきがする。令和三年はそう生きたい。

 


「不急集中」
禅語でも何でもないMy熟語です。想えば、この一年で、世の中の時間と空間の概念が大分様変わりしました。「スピード効率至上主義」の価値観は相変わらず世界標準ですが、確実に人々の暮らしの色合いや温度感は変化しているように感じます。
「不急」を辞書で調べると、「急を要しないこと。今すぐでなくてもよいこと。また、そのさま。」とあります。世界で起きている「スピード」の弊害(気候変動、人口問題、食糧危機、膨大な国の負債など)を考えると、急を要しない、今すぐでなくてもよいことをしているのは人間ばかりで、他の生き物は「不急」で暮らしているように思います。ただ、「不急」でないことは、ノンベンダラリンとしていることではなくて、常に何かに集中し没頭していることなのではないかと思います。
ちなみに、私の新年のテーマは、“Design of Mindfulness”「全集中のデザイン」です。

 

「功徳海中一滴を譲るべからず 善根山上一塵も亦積むべきか」
■出典 道元禅師
世の中のたくさんの人が、ひとつずつ良いことをしたら功徳は山のように、海のようになるだろう。それなら自分は、やらなくても良いのだろうか?
否、それでも私が、一滴の水を加えよう。砂一粒でも加えよう。私がやることが大事なのだ。それが誠の功徳につながる。
・・・身に滲みる言葉です。

 

最後に私・鈴木真弓が選んだ言葉です。
「一切皆苦」
■出典 ダンマパダ278(原始経典)
一切皆苦とは文字通り、「この世のすべては苦しみである」。仏教の根本的な教えです。
現代人にとっての「苦しみ」とは、自分の思い通りにはならないということ。どんなに頑張っても結果が出ない。2020年は多くの人が一切皆苦な体験をし、思い通りが通らない暮らしを余儀なくされ、世の中、本当に思い通りにはいかないものだと実感させられました。

以前、Eテレの「こころの時代~禅の知恵に学ぶ」で美濃加茂の正眼寺山川宗玄老師が典座(台所役)の経験を話されました。托鉢ではいろんな米を頂く。古米もあれば外米もある。これらを一緒にし、ふつうに洗米浸漬した後、水を切って、釜の熱湯にぶち込んで炊くそうです。

蒸気は白から黄→青と変化するのでそのタイミングで薪を引っこ抜いて、後は余熱で置く。そうすると均等にふっくら焦げずに炊き上がるそう。科学的にどういうことなのか分かりませんが、老師曰く「熱湯という強烈な環境に置かれると古米も新米も外米も、みんなただの“米”に戻る。人間も同じだ」と。このお話がとても心に染み入り、2020年は老師の禅セミナーに美濃加茂まで2回通いました。

コロナという“熱湯”によって我欲から解かれ、多少はすっきりシンプルな米になれただろうか、「苦しみ」の本質に向き合うことが出来ただろうか、今も思案の毎日ですが、思い通りに行かずとも不必要に落ち込まず、「ダメで元々」「うまくいったら儲けもの」「一に感謝、二に感謝」の精神で前に進めたらと願う次第です。


素晴らしき柱(メンター)たち

2021-01-09 13:59:40 | 日記・エッセイ・コラム

 昨年末以来ご報告したいことが山ほどありすぎて、まとめる時間がないうちに年が改まってしまい、正月、公私ともにお世話になっていた恩人の訃報を受け、喪に服す気持ちで松の内を過ごしていました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 昨年12月16日から22日まで、西武池袋本店『静岡ごちそうマルシェ』の地酒コーナーのコンサル&販売業務を担当させていただきました。食の催事は時節柄、出店者数を絞り、試飲試食は不可、大々的にコマーシャルも出来ず、例年とは違う様相でしたが、こういう時だから出来ること、気づくことの多かった貴重な7日間。仕込み繁忙期をおして杉錦の蔵元杉井均乃介さん、英君蔵元の望月裕祐さん、また日本酒ライターの大先輩である松崎晴雄さんと藤田千恵子さん、同志のフォトグラファー多々良栄里さん、書道家岩科蓮花さん、藤枝から稲作農家松下明弘さんが駆けつけてくれて、本当に心強かったです。ありがとうございました。

 

 最終日にはヴィノスやまざきの種本祐子社長が、慰労のディナーをご馳走してくれました。酒類をめぐる環境が激変する中で、つねに一歩も二歩も先を見据えて思い切った判断をされる祐子さんの行動力、こういう時期だからこそ一層頼もしく思います。今年2021年は、1996年発足のしずおか地酒研究会25周年の節目にあたるため、東京でも何か仕掛けられたら、とワクワクするお話ができました。

 

 12月28日には上川陽子さんの新刊『難問から、逃げない。』が静岡新聞社から発売となりました。ご一緒しているコミュニティFMの番組〈かみかわ陽子ラジオシェイク〉の2014年から2020年までの放送内容をベースに、3度目となる法務大臣就任にあたっての所感や憲法改正議論等、硬派な内容もしっかり組み込んでまとめたものです。ラジオトークの書き起こしや編集作業を請け負ったのが、ちょうど昨年4月から5月にかけての緊急事態宣言下で、秋口の発行を目指して準備をしてきました。急転直下の入閣で慌ただしくなり、時間切れ寸前でしたが、それでも国会議員になって20年という節目の2020年に出版したいというご本人の熱意が結実したのでした。

 『難問から、逃げない。』でも取り上げたのが、再犯防止に向けての更生保護活動。再犯防止は法務省の大きな活動テーマであり、陽子さんが誘致に尽力し、1年延期の労を経て今年4月に開催される国連犯罪防止刑事司法会議・京都コングレスのメインテーマにもなっています。私もラジオシェイクを通してこの分野で長年地道に尽力されている保護司や協力雇用主の方々の存在を知りました。

 静岡にも静岡県就労支援事業者機構(こちらという保護司・協力雇用主の団体があります。偶然、この機構の後藤清雄理事長と酒縁のあった私は、12月初旬に開催された機構総会での記念講演会を拝聴する機会に恵まれました。講師は三宅晶子さん。三宅さんが立ち上げた㈱ヒューマンコメディ(こちらは、全国の協力雇用主の情報をまとめた受刑者向けの就職情報誌CHANCE!!の出版で知られ、昨年はNHKの『逆転人生』『ハートフルTV』等でも紹介されました。

 HPに公開されている三宅さんのプロフィールを再掲すると、

1971年生まれ。新潟市出身。中学時代から非行を繰り返し、高校を1年で退学。地元のお好み焼き屋に就職していた時に大学進学を志す。早稲田大学第二文学部卒業。貿易事務、中国・カナダ留学を経て、2004年商社に入社。2014年退職後、人材育成の道に進むことを決め、生きづらさを抱える人を知るため受刑者支援の団体等でボランティアをおこなう。その活動中、非行歴や犯罪歴のある人の社会復帰が困難な現状を知る。
2015年7月、(株)ヒューマン・コメディ設立。受刑者等の採用支援・教育支援をおこなう。2018年3月、日本初の受刑者等専用求人誌『Chance!!(チャンス)』創刊。アンガーマネジメントファシリテーター。依存症予防教育アドバイザー。

 起業のきっかけは、少年院から届いた一通の手紙。ある施設で親しくなった17歳の女の子で、両親が健在ながら15年以上施設で過ごし、腕にはリストカットの跡がいくつもある。彼女からの手紙を読んで、身元引受人になって一緒に生活することに。そして自ら少年院・刑務所等を出た方を支援する事業を起そうと決意。2015年7月、彼女の誕生日に会社を登記しました。毎年、会社の記念日に「生まれてきてくれて、ありがとう」と伝えたかったため、だそうです。

 ヒューマン・コメディという社名には、「人生は、いくらでも変えられる。誰かを笑顔にして、最後は自分も笑って死ねるように生きる。許された人は許す人になる。そうしてやさしい社会をつくる」という思いが込められています。

 総会の後、後藤理事長が三宅さんと会食する席を用意してくれました。新潟ご出身の三宅さんは日本酒もお好きとのことで、地酒ネタですっかり盛り上がってしまいました。

 以前このブログ記事(こちら)で紹介させていただいた静岡勧善会の近藤理事長とも相席が叶い、まったく異なるチャンネルをつなげてくれた地酒の縁に心から手を合わせたくなりました。

 

 静岡ごちそうマルシェ会期中、滞在していた池袋のホテルの隣がグランドシネマサンシャインという新しいシネコンで、日本屈指のIMAXスクリーンがあるということで、話題の『鬼滅の刃』をレイトショー鑑賞しました。

 漫画やアニメは未見で、10月下旬、京都の亀甲屋さんで偶然出会った静岡出身の大手雑誌編集者に、『杯が満ちるまで』を進呈した返礼に『鬼滅の刃』の特集号を送ってもらい、市松模様の羽織の主人公と金髪ギョロ目の剣士の名前を取り違えていた事を知ったレベル。そんな浅い初心者でも、スクリーンの迫力と相まって全身&目頭が熱くなり、栄養ドリンク1週間分飲んだぐらいの元気をもらい、西武の催事を乗り切った観がありました。

 お正月の三が日は、多くの初心者ファン同様、漫画全巻を電子版で読破し、今はNetflixでアニメ版を順に観ています。日本古来の民俗伝承や禅の調息法、ロード・オブ・ザ・リングにも似た圧倒的巨悪に対峙する小さき仲間と柱の勇者たちとのフェローシップ等々、自分が好んできた世界との親和性も高く、久々に、誰かが創った〈物語〉に夢中になれた自分にホッとしています。魘夢役とレゴラス役の声優さんが同一人物と知って驚愕しましたが(笑)。

 柱である煉獄さんが炭治郎たちに示した姿勢のように、今、心から信頼できるメンターの存在が求められているのだろうと思います。煉獄さんはアニメの世界の理想に過ぎない存在かもしれませんが、現実に向き合い、課題を克服しようとするとき、どこかに「こうあらねばならぬ」という至高の願いがある人とない人では、周囲に与える影響力が格段に違ってきます。

 上川さんが日本という国を背負って政治に向き合う姿勢、種本さんや三宅さんが取引先や社員や要支援者に向き合う姿勢には、現実を冷静に分析しながらも、そこに安易な妥協や緩みを感じません。責務を担った者の潔い生き方は心から美しいと思う。煉獄さんにそういう思いを感じた観客が、日本の映画の動員記録を塗り替え、現実に、苦境に在った出版業界やコラボ商品を企画した各企業に利益をもたらしたのですから、理想が現実を救うというのは確かなんですね。

 実は昨年12月、三宅さんにお会いする前日の夜、静岡市女性会館が企画したメンターカフェのゲストに呼ばれ、自分の経験や生き方についてお話しする機会がありました。自分が取材した分野の話ではなく、自分自身のことを人前で話すというのは初めての経験で、自己肯定力の弱い自分がメンターと呼ばれることに戸惑いもあったので、ここでは自分の好きな『我唯知足』『自未得度先度他』『動中工夫勝静中』という禅語を、自分の生き方の理想として伝えました。口でしゃべっただけなので、まさにこれから、煉獄さんのように己の姿勢で示さなければなりません。

 そんなこんなで、更新頻度はゆっくりになってしまうかもしれませんが、理想の実現を求めつつ、今年も『杯が乾くまで』をどうぞよろしくお願いいたします。